♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■神のわざが現れるため 5 / 大嶋重徳

2014年09月30日 | Weblog
2014/9/30放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。ヨハネの福音書9章には生まれつき目の見えない青年がイエス様と出会い、「神のわざがあなたに現れるためだ」と言われたことばをしっかりと握ってシロアムの池に行き、目を洗った時に、目が見えるようになったという出来事が記されています。

 しかしイエス様によって目が見えるようになった彼に、律法学者・パリサイ人たちからは、「イエスという男は悪魔から出ているのだ」と非難の嵐が彼を取り囲みました。しかもそのうち、目が見えるようになった自分のことまで、「ほんまは最初から見てたんとちゃうか? イエスと約束して、『唾のついた泥を目に塗ったら見える!とか言って立ち上がりなさい』そうやって前もって話していたんだろう。」と彼のことを疑い始めた訳です。そして、「こいつの親呼べ! 親!」となって彼の親が呼ばれました。すると自分の親は20節から、「もう彼も大人なんで、彼のことは彼に聞いてください。」 親はパリサイ人たちを恐れ、息子を見捨てました。

 目が見えるようになった彼の目に映ったのは、やじうま根性で集まった群集とイエスを目の仇のようにしているパリサイ人と自分を見捨てた親だったのです。どこにも自分の目が見えるようになった事を喜んでくれる人なんかいなかったのです。目が見えるようになったことが神のわざであるならば、目にしたくないような現実ばかりが彼の目に飛び込んできたのです。彼はどれだけ目が見える日を楽しみに想像していたことでしょうか。しかし残酷な人間の現実が目に入ってきました。

 聖書は、神様を信じて生きることは良いことばかりではない、とさらりと記します。もし私たちがイエス様に出会いイエス様を信じて救われたとしても、喜んでくれる人ばかりではありません。しかし、誰が自分を捨てたとしても、誰が自分の人生を否定したとしても、神のわざが自分に現れると言ってくださる神様は、私たちの目ら入って来る残酷な現実を超えて私たちの人生を見捨てることをなさいません。この神様を信じるとき私達は人を恐れる人生を止めて神様のわざの中に生きることができるようになるのです。それは目が見えるようになることを超えた大きな大きな祝福なのです。

  ( PBA制作「世の光」2014.9.30放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■祈りは答えられる? / 関根弘興

2014年09月29日 | Weblog
2014/9/29放送

   世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。世の光を聞いてくださっている方から質問のお便りをいただきました。それは、「神様にお祈りをすれば神様は助けてくださるのでしょうか」という質問なんですねえ。そこで今日は、聖書が教える祈りということについてお話ししたいと思います。

 聖書が教える祈りの内容は少なくても六つあるんですね。一つは感謝がそこにあるということです。神様に心からの感謝をささげるんですね。生かされていることの感謝、新しい朝を迎えることができたことの感謝。祈りは神様への感謝がそこにあります。

 二番目は告白です。告白というのは自分の心を正直に打ち明けながら聖書に書かれている神様の約束を思い出し、「神様。あなたの約束のことばを信じ、歩んでいきます。」と、そういうふうにあなた自身の告白を神様に捧げるのです。

 三番目、それはあなたの願いを素直に神様に聞いていただくということです。病の時、辛い時、たくさんの問題に出あった時、そこから解決の道を祈り願い求めることはとても自然なことです。自由にあなたの願いを神様に聞いていただけたらいいと思うんですねえ。

 そして四番目は、執り成しということ。祈りは自分のことだけ祈るのではなく、他の人の最善を願い、祝福のために祈ることができるということです。

 そして(五番目に)賛美です。祈りの中に、「神様。あなたを心から誉めたたえます。賛美します。」と賛美が祈りの中にはあるんです。

 そして最後、六番目は沈黙です。これはことばを必要としません。神様の御前に静まり、心を静かにして聖書の約束を静かに黙想すること。これも大切なことなんですね。

 そして大切なのは、イエス様がこのように約束してくださったことです。「わたしはあなたがたがわたしの名によって求めることは何でもそれをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたがわたしの名によって何かを私に求めるなら、わたしはそれをしましょう。」と書かれています。ですから私たちは祈りの最後に、「イエス様のお名前によってお祈りします。」と、ことばを付け加えるんです。天においても地においても一切の権威が与えられているイエス様の名前によって祈ることができるというのはすばらしい事ですね。

 そして祈りの後にアーメンと言いますね。「それは本当です。その通りです。」という意味があるんです。祈った祈りはその通りです、真実です、ということですね。ですから私たちは天の神様に向かって自由にイエス様の御名を通して祈ることができるんです。あなたも祈って行きませんか?

 (PBA制作「世の光」2014.9.29放送でのお話しより)

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■望みはただ主に / 羽鳥頼和

2014年09月27日 | Weblog
2014/9/27放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は新約聖書のヘブル人への手紙2章に書かれている神の素晴らしい救いについてお話しします。

 神はまず御使いを通して旧約聖書の律法を与えられました。律法は私たちに罪を教えるものです。そして私たちがそのままでは死んでしまうものであり、救いが必要であることを教えてくれるのです。

 それから神様の救いはイエス・キリストによって語られました。そして神と聖霊によってその事が本当であると証しされたのです。その事が新約聖書に書かれています。

 神は私たちを救うためにイエス・キリストを御使いよりも低いものとされました。御使いよりも偉いイエス・キリストが御使いよりも低い人間となったのです。神は人となったイエス・キリストの苦しみを通して私たちを救うことを計画されました。

 ヘブル人への手紙には、イエス・キリストが救いの創始者である、と語られています。イエス・キリストによって神の救いが実現したのです。イエス・キリストはご自分から私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたのです。

 そしてキリストの十字架の死は死の力をもっている悪魔を無力にしました。そして生涯、死の恐怖に繋がれて奴隷のようになっていた私たちを解放してくれたのです。人はいつか死ななければなりません。この死の恐怖に私たちは支配されています。誰も自分の力で自分を死から解放することはできないのです。しかしキリストの十字架だけが私たちを死から解放して自由を与えてくれるのです。

 そしてイエス・キリストは私たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでくださるのです。神の子イエス・キリストと兄弟になるのですから、私たちは神の子として生きることになるのです。イエス・キリストは多くの苦しまれを受けられたので苦しみの中にある私たちを助けることができます。

 そして神様は死なれたイエス様をよみがえらされました。イエス・キリストを信じる者は同じようによみがえることができる永遠のいのちを与えられているのです。ここに私たちの救いの望みがあります。何という素晴らしい救いでしょう。この救いはただイエス・キリストにあるのです。

 明日は日曜日です。救い主イエス・キリストを知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.9.27放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■加賀における右近の嘆きの祈り / 岩井基雄

2014年09月26日 | Weblog
2014/9/26放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。先月は長崎の二十六聖人の一人・パウロ三木の信仰について学びました。今日はその殉教者の名簿に一度は載りながらも、石田三成(みつなり)の知恵によって殉教を免れ、加賀藩、今の石川県で26年間を過ごした高山右近(うこん)の祈りについて学んでみましょう。

 12才の時に洗礼を受け、幼な馴染みの和田 惟長(これなが)親子から生命を狙われるという危機からも脱出できた右近は、神への信仰を深め、どのような弾圧にも屈することはありませんでした。彼は豊臣秀吉が天正16年に発令したバテレン追放令でも改宗しなかったので、領地を召し上げられた後、キリシタン大名の小西行長(ゆきなが)などの助けで小豆島や肥後などに隠れ、最終的には前田利家により加賀藩に引き取られ、マニラに流されるまで26年間をそこで過ごしました。

 右近は加賀で前田利家、利長、利常と三代の藩主に仕えます。特に二代利長は彼を大変重んじたとされています。右近は加賀藩内でかなりの優遇を受け、キリスト教の布教活動も認められていたようです。

 先日、私は石川(県)での集会の時に、七尾市の本行寺(ほんぎょうじ)というお寺に行く機会がありました。そこには今も高山右近が建設したセミナリオ--神学校--の跡地や、彼がキリストの十字架を仰ぎ見ながら日本で迫害に苦しむキリスト者たちや当時の日本のために涙の祈りを下げたと考えられている右近の嘆きの階段という階段があります。

 右近を始めとする多くのキリシタンの涙の祈りによって、激しい迫害の中にあっても福音は宣べ伝えられていったのですね。

 その祈りの背後には救い主イエス・キリストのすべての人々への祈りがあります。イエス・キリストはご自身を通して神に近づく者を完全に救うことがお出来になります。それはキリストが私たちの罪の裁きを身代わりに受け、ご自身のいのちを懸けて救いの道を開かれたからです。そして今は、神のもとにあって、あなたのために祈っていてくださるのです。

 聖書のことば

 「キリストは永遠に存在されるのであって、・・・ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル 7章24-25 節より抜粋)

 (PBA制作「世の光」2014.9.26放送でのお話しより)

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■イエスに対する信仰を持ち続ける / 福井 誠

2014年09月25日 | Weblog
2014/9/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「イエスに対する信仰を持ち続ける」です。では黙示録14章12節から読んでみましょう
 「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。

 14章には子羊と共にいる14万4,000人の人たちについて書かれています。しかも「その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」(黙示録 14章1 節)という人たちです。これは象徴的な言い方で、どうやら神様を信じて天に迎えられた人たちのようですねえ。この人たちは神の御座の前で歌を歌っています。

 そして「彼らは女によって汚されたことのない人々である。」(黙示録 14章4節)と言われています。それは性的に禁欲しているとか結婚していないということではありません。旧約聖書ではよく偶像礼拝の罪が不品行とか姦淫に喩えられているように、偶像崇拝者ではないことを意味しています。実際彼らの口には偽りがなかったとあるように、神に認められた品性を兼ね備えていたようですねえ。

 更に「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」(黙示録 14章4節)、つまり救い主に忠実に従う人々でした。

 ヨハネが描き出す天の御国に集められた人々の条件に、何か真面目で立派な人だけが天国に行くのかなあと思う人もいるかもしれませんね。しかし大切なことは、当時の読者がどう読んだかという聖書の読み方が基本です。

 当時の読者と私たちではやはり時代背景が違います。私たちは今平和で豊かな物質主義の時代に生きていますが、ヨハネの黙示録が書かれた時代の読者たちは迫害と死に直面する恐怖の中で生きていました。彼らは戦いの中に生きていました。忍耐を強いられ、犠牲の日々を忍んで生きていました。ですからその身を削るような苦しみの先に勝利があり、天の御国への凱旋があり、祝福があることを語る必要があったのです。神の戒めを守りイエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐には報いがある、と大きな慰めと励ましをかける必要があったのですね。

 今の時代は確かに平和な時代ですが、個々の人間を見ていった場合、必ずしもそうではないこともあるでしょう。神様は苦しさの中でも神を信頼して生きる人々には祝福があると言ってくださっています。神様の約束のことばを信じて神様に従って歩ませていただきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2014.9.25放送でのお話より )

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■新しい時代 / 板倉邦雄

2014年09月24日 | Weblog
2014/9/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「新しい世代」という題でお話ししましょう。

 家族を連れてヤコブがエジプトへ行ってから約350年が経っていました。家族は11人の息子とその家族総勢70名でしたね。ヤコブの息子たちの名前はルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルでした。ヨセフは兄弟たちより先にエジプトにいました。

 やがてヨセフも兄弟たちも死に、新しい世代になりました。新しい世代は子宝に恵まれ、人口は増える一方です。余りの急激な増加に、住んでいたエジプトのゴシェンの地はイスラエル人で溢れました。一つの国といっても良いほどの勢力に膨れ上がったのです。

 どれくらいの人口だったのでしょうか。モーセがこれから生まれて来るのですが、エジプト脱出がモーセ80才の時ですから単純計算を許していただければ350年+80年で430年になります。この時20歳以上の男子が60万人と記されています。それに女性や子どもたち、老人たちを加えますから、エジプト脱出時の人口は200万人を越えていたでしょう。一つの小さな国と言えるでしょうね。

 新しい世代となりましたが、この出エジプト記は創世記の続きであることが分ります。創世記は私たち人間の堕落した姿を作者のモーセは記してきました。アダムとエバに始まり、ノアやアブラハム、イサクとヤコブの試練の中における信仰とまた失敗についても記していきました。そしてこの出エジプト記において同じ作者のモーセは私たち人間の罪の奴隷状態からの救出と解放を急がれる神様を記しているのです。

 アフリカの探検家であり宣教師でもありましたリビングストーンは晩年、創世記と出エジプト記をこよなく愛読したと伝えられています。特に出エジプト記の指導者となるモーセは気に入っていたようですね。それも暗黒大陸アフリカ探検の際、様々な危険に遭いながら神様への信仰によって勇気が与えられていった自分と重なったからでした。

 (PBA制作「世の光」2014.9.24放送でのお話より )

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■神のわざが現れるため 4 / 大嶋重徳

2014年09月23日 | Weblog
2014/9/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書9章には、生まれつき目の見えない青年にイエス様が泥を塗り、シロアムの池でその泥を洗うと目が見えるようになった、という出来事が記されています。ああ良かったねえとなりますが、しかし聖書はここから人間の現実に踏み込んできます。

 8節以降、目が見えるようになった彼は地元に帰っていきます。すると近所の人たちが「ええーっ?! 目が見えなかったあの息子か。」と、好奇心で集まってきました。彼は「イエスという人が泥を塗ってシロアムの池で洗うと見えるようになりました」と自分に起こったことを話したのです。すると群集はハッとして急に彼をパリサイ人・律法学者の所に連れて行きます。

 どうしてなのかは説明が必要ですが、この当時パリサイ人・律法学者という人たちは、律法を守って良い行ないをしているから自分たちは神様にこれだけ取得されている、と考えてました。律法主義と因果応報というのは良く似た裏表の関係です。しかしイエス様は、行いによって神様の祝福が決まるのでない、ただただ信仰によって神様の恵みだけなのだ、と言うわけです。このイエス様の主張は律法学者やパリサイ人たちからすると、「なあんや、イエスという男は俺らのこと否定してんのか。あいつは危険人物やなあ。」と周りに伝えていましたから、群衆たちはピンと来て、とりあえずパリサイ人の先生んとこ行こう、となったのです。

 信仰を持つと言うことも、ともすると律法主義的な罠に陥ることがあります。自分はこれだけの良い行いをしているから神様は祝福してくれている、と自分の宗教的な行いの報いを欲しくなっていくのです。あるいは、自分の信仰に自信が無いときは良い行いによって自分の信仰を正当化しようとしてしまうわけです。そこから生まれて来るのは良い行いをしようとしない人への批判です。また自分の良い行いを認めてくれない人をさばいてしまうことになります。

 しかし神様を信じると言うことは本来そういうことではありません。人を裁くようになるのではなく、自分を誇るようになるのでもないのです。神様が自分にしてくださった恵みをただただ感謝して謙遜に生きることへと繋がっていくんです。このような生き方を皆さんもぜひ始めてみてはいかがでしょうか。

  ( PBA制作「世の光」2014.9.23放送でのお話しより )

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■聖書の証し / 関根弘興

2014年09月22日 | Weblog
2014/9/22放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストは十字架につけられ、三日めに復活なさいました。復活されたイエス様は弟子たちに現れ、ペテロにこう言われました。「あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハネ 21章15、16、17 節)と。そしてイエス様は「わたしの羊を牧しなさい。」(ヨハネ 21章15、16、17 節)とペテロに言われたのです。そしてイエス様はペテロに、「あなたは殉教の死を遂げるだろう。」と予告なさいました。ペテロはイエス様の弟子の一人であったヨハネを見て、「イエス様、イエス様、この人はどうなのですか?」と尋ねたのです。するとイエス様は「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ 21章22節) こういう風に言われたのです。

 実はイエス様が語られたことばが時間が経つと、いつの間にか誤解され、ヨハネは死なない、というとんでもない噂となって広がっていったようでした。でもそうした噂は早く正さなければいけませんよね。もしその噂が正されないうちにヨハネが死んでしまったら、「なあんだ、イエス様がヨハネは死なないと言ったのは嘘だったのか。じゃあ他のイエス様のことばも信じられないぞ。」ということになりかねませんからね。ですからヨハネは、ここでイエス様の言われたことばをきちんと記し、ヨハネは死なないというわさが間違ったことであるということを説明した訳です(ヨハネ 21章23節参照)。

 伝言ゲームというのがありますが、口で伝えることは間違って伝えられることがとても多いですね。噂はいつの間にかゆがめられて広がり、あたかもそれが真実であるかのように独り歩きしていことがあるからです。ですから正確に伝えるためにはきちんとした文書として書き記す必要があるんです。私たちが手にしている聖書、そこにはイエス様のことばやみわざを実際に見聞きした証言者たちが文書として残していった訳ですねえ。ですからとても信頼することができるんです。

 そしてヨハネの福音書の21章24節にはこう書かれています。
 「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
 この福音書に記されてることはイエス様と共に生活しイエス様の復活の目撃者である弟子が書いたのだから記されていることは真実なんですよ、と太鼓判が押されている訳ですね。ですから私たちは今聖書を通してイエス様の大きな愛と恵みを味わい、イエス様を信頼し歩んで行くことができるのです。

 (PBA制作「世の光」2014.9.22放送でのお話しより)

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■神を見たイザヤ / 羽鳥頼和

2014年09月20日 | Weblog
2014/9/20放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。私は幼稚園の頃、神様を見ることができたら僕は神様を信じることができるんだけどなあ、と言ったそうです。神様を見ることができれば信じられる、と思ったのでしょう。旧約聖書のイザヤ書の6章に、神様を見た人のことが語られています。その人はイザヤという人です。神様はイザヤを神の預言者とするために幻の中でご自分の姿をイザヤに見せました。神様を見たイザヤは、
 「ああ、私はもうだめだ。まことの王である神様をこの目で見たのだから。」(イザヤ書 6章5節 参照)と言って震えあがりました。もう死んでしまう、と思ったのです。そして「自分の唇は汚れている」(イザヤ書 6章5節 参照)と言って、自分が神様のことばを伝える預言者には全くふさわしくない者であると思い知らされたのです。

 この出来事から神様を見ることについて二つのことが分ります。第一に、人が神様を見ることができるかどうかは神様次第である、ということです。人は自分の興味で神様を見ることはできないのです。第二に、もし私たちが神様を見るならばわたしたちは自分が汚れていることに気づかされ死んでしまうかもしれない、という恐ろしい思いをするだろうということです。

 さてイザヤが「自分は汚れている」と言った時、神様の身もとから御使いがイザヤの所にやってきました。御使いは祭壇から取った燃える炭火をイザヤの唇につけました。そして言いました。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ書 6章7節)
 神様はイザヤの罪を贖って、きよい者としてくださったのです。イザヤはこうして神の預言者となって神様のために働く事となりました。神様を信じて救われるためには神を見ることが大切なのではありません。自分が罪人であることを認めることが大切なのです。

 最後に、イエス様のことばを紹介します。イエス様は神様のことを「わたしの父」と呼んでいました。そしてこう言われたのです。

 「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14章9節)

 イエス様を見るということは神様を見ることです。そしてイエス様を信じることは神様を信じることなのです。

 明日は日曜日です。神であり救い主であるイエス様を知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。


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■「クリスチャン」とは / 岩井基雄

2014年09月19日 | Weblog
2014/9/19放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日は「キリシタン」と「クリスチャン」という表現について考えましょう。

 キリシタンというのは日本の戦国時代から明治の初め頃まで使えていたことばで、もともとはポルトガル語ですね。そしてキリスト教徒という意味を持ちます。そして同じことばが英語ではクリスチャンとなるのですね。実はキリシタンもクリスチャンも同じ意味をもっています。しかし、もともとのギリシャ語はクリスティアノスということばです。聖書の中にはこう記されています。

 「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」新約聖書 使徒の働き11章26節

 この「キリスト者」と訳されたクリスティアノスということばは実は異邦人の中でも恐れることをせず、真理を語り続ける使徒たちの姿を揶揄して表現されたことばでした。宗教改革の時も同じでした。(宗教改革の立場を指す)「プロテスタント」ということばは「抵抗」という意味を持ちますが、オランダのプロテスタントのカルヴァン派は「貧乏」という意味のゴイセンと呼ばれましたし、イギリスのプロテスタントであるピューリタンということばは「馬鹿正直」というような意味を持ちます。どちらもやはり軽蔑的な意味が含まれているのですね。日本でも明治期のクリスチャンたちが耶蘇(やそ)という蔑称で呼ばれましたが、この耶蘇は中国語で「イェスー」と発音し、イエスの当て字でありますが、この耶蘇の蘇という字はよみがえり、すなわち復活を表わす希望の意味が含まれているのですね。どんな状況でも希望を告白し、人を恐れることをせず真理を語り、貧しくてもバカ正直と言われても神様の前に真実に生きてきたのがキリスト者・クリスチャンたちなのですね。クリスチャンとは人から嘲れたり、恥ずかしめられたりすることがあったとしても、神様から与えられる祝福や恵みに心を留めて、いつでも真実に誠実に生きる力と喜びを持っているのですね。

 聖書のことば
 「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」 新約聖書 使徒の働き 5章41節、42節

 キリスト者として歩むとき、どんな困難や苦しみの中でも希望があるのです。


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