♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■誇りをもって生きる / 関根弘興

2020年01月31日 | Weblog

2019/11/22放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス様は「<B>税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。</B>」(マタイ22章17節 新改訳第三版)」と問われた時、「<B>カイザルのものはカイザルに</B>・・・<B>神のものは神に返しなさい。</B>」(マタイ 22章21節、マルコ 12章17節、ルカ 20章25節 新改訳第三版)と言われました。それは私たちがそれぞれ社会の一員としての義務を果たし生きることの大切さがまず教えられているわけです。そしてイエス様は「<B>神のものは神に返しなさい</B>」と言われました。

 前回、聖書の神様だけに捧げられる礼拝こそが「神のものは神に返す」ということだということをお話ししました。賛美を、感謝を、祈りを、信仰の告白を捧げていくことです。そしてまた、あなた自身が神様のものであり、あなた自身の人生を大切に生きて行くことも「神のものを神に返す」というそのような生き方なんですよ、と語らせいただきました。

 そして今日は、「神のものは神に返す」生き方、それは自分に誇りを持って生きることだということをお話ししたいと思っているんです。

 新約聖書のエペソ人への手紙1章13節には、
  「<B>このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。</B>」
 と記されています。

 当時ローマ政府が発行した銀貨にはカイザルの肖像と銘が刻まれていました。しかし何と私たち一人一人にはですねえ、神様の銘が刻まれ、キリストを信じる一人一人には神なる聖霊の証印が押されている、と聖書は書いているんですね。物の価値というのは誰の銘が刻まれているかによって変わりますよね。何と聖書には、私たち一人一人には天地万物の創造者なる神様の銘が刻まれていると言うんです。ですから一人一人は、どれほど価値高いことでしょう。ですから私たちは神様に造られたものとしての自分に誇りを持ったら良いんです。どんなに歳をとっても、肉体は衰えたとしても、できなくなることが増えたとしても、神様の銘が刻まれていることに変わりはありません。

 そしてイザヤ書49章16節には、「 <B>見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。</B>」と記されています。何と、神様ご自身が自らの手のひらにあなたを刻んでくださっている、と書いてあるんですねえ。それはあなたを決して忘れずあなたを大切にしてくださっている、ということの証しです。自分がそのように大切な存在であることをあなたはご存知ですか?

     (PBA制作「世の光」2019.11.22放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■ルカの福音書3 -あなたに分かって欲しい / 大嶋重徳

2020年01月30日 | Weblog

2019/11/21放送

<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 ルカ福音書がテオフィロという個人宛に書かれていることを学んできました。このテオフィロという人について分ることがあります。「すでに教えを受けられたことがら」とありますように、テオフィロはある基本的な初歩的な教えを聞いたことがある人です。聖書の教えを一通りは聞いたことがある人です。洗礼を受けるには今一歩まだ足りないと思っている。もう一歩踏み出せない。確信を持てない。もしくは洗礼を受けたけれども、少しぐらついている。このルカ福音書の記された目的は、この求道者テオフィロが聞いている事柄が確実なものであるということを知って欲しいと願って記されているのです。洗礼を受けることを迷っている人に、「あなたの信じていることは確かなことですよ。」と伝えたい思いで記されたのです。

 1章の4節にある「教えが確かで」というのは「確かな根拠を」という意味があります。つまり私たちはどんな立派なお話を聞いても、美しいお話を聞いても、確かな根拠がないとそう簡単に信じるわけにはいきません。えー?、そんなふうに生活にできたらいいけど、自分は到底できないなと思うなら、その人が信じる確かの根拠とはなりません。ましてや洗礼を受けなど、そんな訳にはいきません。信仰を持つには自分の生活の確かさとなり、自分の家や自分の家族の人生の根底から支えてくれる確かさがないと、幾ら感動的な話を聞いたとしても頼りない訳です。おそらくテオフィロはそのようなぐらつきを見せたのではないかと思います。

 そして今日私たちもまたこのテオフィロのぐらつきをよく理解できます。なぜなら私もまた絶えずぐらつくからです。朝にはとても信仰に満ち溢れた思いで始まる。しかし夕方帰ってくるともうぐらついている。そんな繰り返しの連続です。もしクリスチャンになったとしても、私たちは信仰がぐらつくということがあります。そして私のようなぐらつくクリスチャンはいつも福音のことばを聞かなければなりません。クリスチャンとは永遠に求道者であるべきです。キリスト教信仰は信じたからそれですべてがわかったのかというと、そうではありません。絶えず初心に帰って、一番大切なものを受け取らない限り、私たちはいとも簡単に信仰から遠ざかっていこととなります。ルカ福音書はあなたに語ります。ぐらついて良いのだ、と。ぐらついてしまうからこそルカ福音書が書かれたのです。分らないことがあってよいのです。そのためにルカ福音書が書かれたのです。このルカ福音書をはじめとした聖書は、それでもあなたに分ってもらいたいことがある、とその一心で記されたのです。だからこそ私たちは今日も聖書を読み続けていきたいと思います。

   ( PBA制作「世の光」2019.11.21放送でのお話しより )

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<p>さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。</p>
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このサイトは URL名として<FONT SIZE="4"><B>  http://yonohikari.biblica.info </b> が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。</font></p>

 


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■主は大いなる方 / 福井 誠

2020年01月29日 | Weblog

2019/11/20放送

<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇35篇27節から「主は大いなる方」と題してメッセージをお伝えいたします。

 <b> 私の義を喜びとする者たちが 喜びの声をあげ 楽しむようにしてください。
    彼らがいつも こう言うようにしてください。
   「主は大いなるかな。 ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は」と。</b> 

 この詩篇は「呪いの詩篇」と呼ばれているものの一つです。それは呪いをかける詩篇というのではなくて、ある意味で呪われたと思う心境の中にあって心の毒を吐き出すことを助ける詩篇ですね。恐らくこの詩篇は、ダビデがサウル王にいのちを狙われ、追跡を受け、彼の殺意と憎しみに振り回されていた時に書かれたのではないか、と考えられています。しかもこの詩篇は、前の34篇の続編だったのではないか、とも考えられていますね。つまり前の34篇でもダビデは、サウル王にいのちを狙われ追い詰められた心境の毒を吐いていますが、そこでは神の助けがある確信を得て最後には神を称えています。ところがこの35篇で消え去ったはずの心の暗闇にとらわれて再び毒を吐いているわけです。

 確かに考えてみれば、神に信頼することはそれほど単純なものではありませんねえ。世の中には理屈通りにいかないことは多いですし、解決したと思ったことが解決もせずにだらだら引きずっているということはあるものです。祈ってすっきり、もう大丈夫、なんてことはそうそうないものですね。神は助けてくださると信仰を持っていっても悩みは尽きないし、深まることすらあります。そして何度も毒づいている自分に気づかされたりすることがあるものですねえ。けれども、そのように心が荒(すさ)んでしまうときには、この詩篇を読みながらそれを受けとめてくれる神に心を吐き出していきたいものです。不幸に浸りきったり、人に毒を吐いていても解決にはなりません。神様は私たちの毒を受けとめ、さらに私たちの願うところ、思うところを超えて、正しいことを成し遂げてくださるお方だからです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.11.20放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として<FONT SIZE="4"><B> 
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が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。</font>

 


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■妨害と反対の中で / 板倉邦雄

2020年01月28日 | Weblog

2019/11/19放送

<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「妨害と反対の中で」という題でお話ししましょう。

 イエス様を信じているだけでどうして妨害や反対を受けるのでしょうか。使徒の働き13章から14章に入ります。

 さて、ピシデヤ地方のアンティオキアの町では町中あげてパウロとバルナバが語る神のことばを聞きに集まってきました。その人気ぶりを妬ましく思ったユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちをそそのかし、パウロとバルナバを迫害した挙げ句、とうとう町から追い出してしまいました。二人はこの町と縁を切るしるしに、足のちりを払い落とし、隣の町イコニオムに向かったのです。


 一方、主イエス様を信じた人々は聖霊に満たされ、喜びに溢れていました。二人はイコニオムの町でも同じようにユダヤ人の会堂に行き、力強く主イエス様のことを語りました。その結果、ユダヤ人やギリシャ人が大勢イエス様を信じました。所が、ここでも神のことばを信じ受け入れなかったユダヤ人たちは、根も葉もないことで二人を中傷し、人々の不信を掻き立てたのです。

 それにもかかわらず二人は長い間イコニオムの町に滞在し、大胆に神のことばを説教し続けました。主イエスは彼ら二人の手によって素晴らしい奇跡を行わせ、二人のことばが真実であることを証明なさったのです。

 そこで町の人々が二派に分かれ、ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒であるパウロとバルナバの側についてしまうまでになってしまいました。ユダヤ人側の人たちは町の役人たちとグルになって反対運動を起こし、二人を襲って石打ちで殺害しようと計画したのです。

 その情報が耳に入り、二人は急いで町を出ました。そしてリステラへ逃れたのです。

 さて、神のことばが語られるところに必ず、信じる者たちとそれに反発して信じない者たちとに二分されるということが起こります。それはイエス・キリストがこの世に来られた時から顕著になったのではないでしょうか。今までは、まあまあ主義だった人々の間に、信じる者と信じない者との区別が生じてくるのです。そのことを覚悟して私たちは信仰を持ち、伝道に励む必要があるのです。

  (PBA制作「世の光」2019.11.19放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■いのちの主権を持つキリスト / 岩井基雄

2020年01月27日 | Weblog

2019/11/18放送

<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日の今日は、キリストが行われた愛のわざから、いのちの主権を持つキリストの愛を一緒に考えてみましょう。

 どんなに健康で強靭な人も病を経験することがありますねえ。当たり前と思っていた健康が失われるとき、私たちは生きていること自体を感謝できるように導かれます。病や不自由さを通ることは決して悲しみだけでは終わらないのです。

 口がきけない悪しき霊に憑かれた少年が、癒やしを求めてイエスの弟子たちの所に連れてこられました。キリストと側近の弟子たちが不在でしたので、残っている弟子たちによってその悪しき霊の追い出しが試みられましたが失敗します。面目を失った弟子たちは失望を深めつつ律法学者と論じ合っていました。弟子たちはキリストからすでに悪しき霊を追い出す権威を授かり、実際にも行っていたはずでした。しかしこの時、彼らにはそれができなかったです。その失敗の原因は彼らの不信仰に関係している、とキリストは後で語ります。すべてのことが自動的に行われるのではなく、一つ一つの事柄や出来事の中で私たちの心の状態や神への信頼の深さが問われていくのですね。キリストは彼らと議論していた律法学者たちの頑なな心を非難され、弟子たちを含めた不信仰な世をも非難し、こう語りました。

 「<b>ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。</b>」
         新約聖書マルコの福音書9章19節

 そしてキリストのもとに連れてこられた彼に癒しと救いを与えられました。キリスト御自身こそ全てのいのちの権威と主権を持っていらっしゃることが明らかにされ、周りの人々の神への信頼とキリストの信仰を呼び覚ましてくださったのです。

 主イエスこそがすべての主権を持ち、すべての問題を解決してくださる方なのです。主権者であるキリストに信頼を置き従う歩みは豊かな祝福に満たされていくのです。

 キリストはあなたにも語りかけます。「あなたの問題をわたしのところに持ってきなさい。」と。あなたはどのようにお答えになりますか? キリストはあなたの問題を通してあなたを整え、あなたを導くのです。

 (PBA制作「世の光」 2019.11.18放送でのお話より )
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■賛美歌ものがたり (担当:飛田紀代美アナウンサー)

2020年01月25日 | Weblog

2019/11/16放送

<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。飛田紀代美です。土曜日はスペシャルバージョン。賛美歌の生まれた背景を御紹介する賛美歌物語、今日はクリスマスの賛美歌『きよしこの夜』を御紹介します。

 この曲の作詞をしたのは1792年、ザルツブルグに生まれたヨゼフ・モール。彼が20代の半ば、オーストリアのチロル地方オーベルンドルフという村の教会で司祭として勤めていた時のことです。クリスマス直前に教会のオルガンが壊れ、ヨゼフが作った歌詞に教会のオルガニストをしていてたフランツ・グルーバーが急いで曲をつけてギター伴奏で歌ったのが『きよしこの夜』でした。春になって村にやってきたオルガン修理人がたった一枚残っていたこの曲の楽譜を持ち帰ったのがきっかけで、少しずつチロル地方に広まっていったのです。長い間、作詞作曲不明のチロル地方の民謡またはミヒャエル・ハイドンの作ではないかと思われていました。時は流れ、1854年、ザルツブルグの教会でこの曲の楽譜を探すように命じられた青年が何と作曲者フランツ・グルーバーの息子だったのです。この曲が作られて36年が経っていました。初めて作者が明らかにされたのです。作曲者のグルーバーは存命でしたが、作者のヨゼフ・モールはこの6年前に56歳で世を去っていました。世界300ヶ国のことばに訳された賛美歌は他に例がありません。ヨゼフ・モールが働いていた教会は、「きよしこの夜教会」と名前を変えて、今もオーベルンドルフの村に立ち、毎年クリスマスイブには世界中から大勢の観光客が訪れ、この小さな教会で幼子イエス・キリストの誕生を祝うのです。

 神様があなたに贈られた救い主誕生の特別な知らせをお聴きください。讃美歌109番『きよしこの夜』 二期会合唱団です。
 きよしこの夜 星は光り 救いの御子は 馬槽(まぶね)の中に 眠りたもう、いとやすく。

 新約聖書ルカの福音書2章11節
 「</b>今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。</b>」

 (PBA制作「世の光」 2019.11.16放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■ゆだねて生きる / 関根弘興

2020年01月24日 | Weblog

2019/11/15放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様は「税金をカイザル(※ローマ皇帝)に納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか」と問われた時、「<B>カイザルのものはカイザルに</B>・・・<B>神のものは神に返しなさい。</B>」(マルコ 12章17節 新改訳聖書第三版)と言われました。それは、私たちがそれぞれ社会の一員としての義務を果たし生きることの大切さをまず教えられたわけですねえ。そしてイエス様は、「神のものは神に返しなさい」と言われました。前回、それは礼拝 ---神様だけに捧げられるもの---だ、だから「神のものを神に返すとは、礼拝すべきお方をしっかりと心に据え、賛美を感謝を祈りを、信仰の告白を、神様に捧げていくのだ、ということを語らせていただきました。

 そして「神のものは神に返す」ということは、自分自身を神様に捧げるということでもあるんです。
 旧約聖書のイザヤ章43章1節にこういうことばが出てきます。
 「<B>恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。
  わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。</B>」
 このように書いてあるんです。つまり私たち自身は神様によっていのちが与えられて、私たち一人一人は神様ご自身のものだ、と聖書は教えているんですね。あなたは今でそのように自分自身を考えたことありますか? 自分の人生は自分のものだ。自分のものなのだから何をしてもいいじゃないか。どうなったって構わないじゃないか、と考えてしまうことがあったかもしれませんねえ。でもそれは神のものを神に返していない生き方なんだよと教えるんです。

 このことは別のことばに言い換えるならば、神様に託されたいのちをあなた自身が大切に生きるということでもあるんです。神様は私たちを形造り、いのちを与え、そして御自分にとって大切な存在としてあなたを生かしてくださっています。私たちは神様のものなんですね。

 同じイザヤ書の43章の4節には、「<B>わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。</B>」と語ってくださる神様がいてくださいます。神様は、一人一人にいのちを与え、あなたにあなたの人生を託し、神のものとされ神様に愛されていることを味わい知りながら神様に人生を委ね生きていきなさいと励ましてくださるお方なんです。

 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返す、その人生こそ私たちの基本的な生き方なんですね。
     (PBA制作「世の光」2019.11.15放送でのお話しより)

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■ルカの福音書2 -あなたに分かって欲しい / 大嶋重徳

2020年01月23日 | Weblog
2019/11/14放送
<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。


 ルカ福音書はテオフィロというたった一人の個人に向かって、「あなたに分っていただきたい」(1章4節参照)ということばで始まる情熱が込められた福音書です。私はこのラジオのメッセージの原稿を書く準備において皆さんお一人お一人の事を祈りながらメッセージを書きます。神様が今日の放送でラジオの前の皆さんを呼び出された理由を考えるのです。マイクの前に座り語る時も、世の光の集いでお会いしたことのある皆さんお一人お一人の顔を思い起こしながら語ります。するとメッセージに応えて真剣に聴いてくださる皆さんの姿が思い浮かんできます。ああ今日も神様からのことばを受け取っておられる、そう思うと胸が一杯になってきます。今、この聖書のことばが一人の人を生かしている、と実感するんです。


 ある時、「大島先生、メッセージの準備はどうやってされているんですか?」という質問をされました。私の本棚にはたくさんの聖書のことばを学ぶことのできる本があります。ギリシャ語ではもともとこういう意味のことばだと本を読むと、新しい発見があったり勉強になる事もあります。しかしメッセージに於いて一番大切な事は、神様がメッセンジャーである自分に語られていることを受け留めることです。今の今日のこの自分に語りかけようとされていることをまず受け取らない限り、メッセージにおける感動などありません。神様が今日も不信仰な自分に向かって愛をもって語ろうとされていることがある。自分の中の罪深い現実に神様が悔い改めるように促しておられる。誰よりも早くそのラジオの前の椅子に座って、私もまた神様からのメッセージを聴くのです。ルカのそばにいるのではない。テオフィロという一人の人と同じ側に私もまたいるのです。そこで神様の情熱のほとばしることばを聴きます。メッセージに情熱を込めてお話をしてしまうのは、この神の愛の情熱に捉えられているからです。本を読んでそこから分ったものを説明しているだけのようなことにならないのです。


 今日皆さんはどんな思いでラジオを聴いておられるでしょうか。キッチンで家族のために朝ご飯やお弁当を作っているでしょうか。もう朝早く畑に出て、携帯のラジオでこのメッセージを聴いておられるでしょうか。あるいはベッドの上でもう随分と長い間病気が続く中でこのラジオのメッセージを聴いておられるでしょうか。今日のメッセージもあなたのために語られています。あなた一人のために神が語っておられるのです。あなたはそこで一人ではない。あなたを愛する神の愛がすぐそばであなたを支えているのです。この愛をぜひ受け取っていただきたい。分っていただきたいと思います。
 
   ( PBA制作「世の光」2019.11.14放送でのお話しより )


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<p>さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。</p>
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■ 私は歌をもって主に感謝しよう / 福井 誠

2020年01月22日 | Weblog
2019/11/13放送
<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇28篇7節から「私は歌をもって主に感謝しよう」と題してメッセージをお伝えいたします。

 <b> 【主】は私の力 私の盾。私の心は主に拠り頼み 私は助けられた。
    私の心は喜び躍り 私は歌をもって主に感謝しよう。</b>」 

 この詩篇には「ダビデによる」と表題がつけられていますが、実際にはダビデがいつこれを作詞したのかはよくわかっていません。しかしダビデが悪者の手に陥った危機的状況にあったとき、例えば、アブシャロムの謀反の時ではないかと考えられています。そのような危機的状況の中でも祈りと答えに対する感謝を言い表すものとなっていますね。

 まずダビデは、「<b>【主】よ 私はあなたを呼び求めます。 わが岩よ どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が 穴に下る者どもと同じにされないように。</b>」(1節)と、神に助けを求めて叫んでいます。実際に神が正しい者と悪者を区別されること、そして神が悪に報復してくださることを求めています。「神にそっぽを向かれたら私は死ぬしかない。何の望みもない。」 実に率直な訴えです。ダビデの必死な思いが伝わってきますね。

 それが6節から調子はがらっと変化します。ダビデの心には感謝と喜びが溢れているのです。神は彼の祈りに何らかの形で応じたのでしょう。それが祈りの最中に起こったことなのか、或いは祈った後で6節の続きは後の付け加えなのかは分りません。いずれにせよ、この詩篇はいついかなる時も諦めず、あるがまま事実を神に訴え、助けを叫び求めることを励ましています。子供が親に願うことが当たり前のように、私たちも神にためらわず声を上げたいものです。

 またこの祈りは個人的な祈りで終わらず、一国の王の祈りとして終わっていることにも注目しましょう。自分と同じ苦難や境遇にある者への労わりのある祈りに教えられます。苦しい時は自分だけが苦しいと思い易いものですが、そうではないのです。隣人のためにも深く祈りたいものです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.11.13放送でのお話より )


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■ 永遠の命 / 板倉邦雄

2020年01月21日 | Weblog
2019/11/12放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は聖書が語る「永遠の命」について考えたいと思っています。

 永遠の命とはいつまでも終わることのない命です。しかし私たち人間は限りある命ですね。しかしそれは身体の命です。聖書が語るのは私たちの魂と霊の命のことです。使徒の働き13章の続きです。
 さて、次の安息日には殆どアンテオケ全市を挙げて神の言葉を聞きに集まってきました。するとあるユダヤ人たちはその群集を見て妬ましく思い、パウロの語ることに口汚く罵り、反対したのです。それに対して言いました。「神のことばはまずユダヤ人であるあなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかしあなたがたは神のことばを退け、自分自身を永遠の命にふさわしくないものにしてしまったのだ。さあ私たちはこれから方向を変え、異邦人たちの方へ行くのだ。」

 ここに永遠の生命は神のことばを私たちが受け入れることから得られることがわかります。神のことばを退けるなら、神の命・永遠の命は私たちのものとはなりません。イエス・キリストの語ったことばは霊であり命だったからです。「人はパンだけでで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものである。」とイエス様は言われましたね。

 パウロ先生のことばを聞いていた異邦人たちは喜び、主なる神のことばを誉めたたえました。そして永遠の命に与るように定められた者は皆イエス様を信じたのです。

 永遠の命は自分から得るものではなく永遠の命に与るように神によって定められた人たちが、信じることによって得られるものなのです。イエス様も弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」 弟子たちがイエス様を選んで信じ従ったようですが、実のところはイエス様が先手を打って弟子たちを選び定めてくださったのです。ですから弟子たちは時が来てイエス様を信じて従うことができたのです。

 聖書のことばです
 「<b>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。</b>」
        ヨハネの福音書 3章16節
 
  (PBA制作「世の光」2019.11.12放送でのお話より )


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