♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して67年の
「世の光」を文字で 

■ 私は歌をもって主に感謝しよう / 福井 誠

2020年01月22日 | Weblog
2019/11/13放送
<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇28篇7節から「私は歌をもって主に感謝しよう」と題してメッセージをお伝えいたします。

 <b> 【主】は私の力 私の盾。私の心は主に拠り頼み 私は助けられた。
    私の心は喜び躍り 私は歌をもって主に感謝しよう。</b>」 

 この詩篇には「ダビデによる」と表題がつけられていますが、実際にはダビデがいつこれを作詞したのかはよくわかっていません。しかしダビデが悪者の手に陥った危機的状況にあったとき、例えば、アブシャロムの謀反の時ではないかと考えられています。そのような危機的状況の中でも祈りと答えに対する感謝を言い表すものとなっていますね。

 まずダビデは、「<b>【主】よ 私はあなたを呼び求めます。 わが岩よ どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が 穴に下る者どもと同じにされないように。</b>」(1節)と、神に助けを求めて叫んでいます。実際に神が正しい者と悪者を区別されること、そして神が悪に報復してくださることを求めています。「神にそっぽを向かれたら私は死ぬしかない。何の望みもない。」 実に率直な訴えです。ダビデの必死な思いが伝わってきますね。

 それが6節から調子はがらっと変化します。ダビデの心には感謝と喜びが溢れているのです。神は彼の祈りに何らかの形で応じたのでしょう。それが祈りの最中に起こったことなのか、或いは祈った後で6節の続きは後の付け加えなのかは分りません。いずれにせよ、この詩篇はいついかなる時も諦めず、あるがまま事実を神に訴え、助けを叫び求めることを励ましています。子供が親に願うことが当たり前のように、私たちも神にためらわず声を上げたいものです。

 またこの祈りは個人的な祈りで終わらず、一国の王の祈りとして終わっていることにも注目しましょう。自分と同じ苦難や境遇にある者への労わりのある祈りに教えられます。苦しい時は自分だけが苦しいと思い易いものですが、そうではないのです。隣人のためにも深く祈りたいものです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.11.13放送でのお話より )


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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として<FONT SIZE="4"><B> 
http://yonohikari.biblica.info </b>
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■ 永遠の命 / 板倉邦雄

2020年01月21日 | Weblog
2019/11/12放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は聖書が語る「永遠の命」について考えたいと思っています。

 永遠の命とはいつまでも終わることのない命です。しかし私たち人間は限りある命ですね。しかしそれは身体の命です。聖書が語るのは私たちの魂と霊の命のことです。使徒の働き13章の続きです。
 さて、次の安息日には殆どアンテオケ全市を挙げて神の言葉を聞きに集まってきました。するとあるユダヤ人たちはその群集を見て妬ましく思い、パウロの語ることに口汚く罵り、反対したのです。それに対して言いました。「神のことばはまずユダヤ人であるあなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかしあなたがたは神のことばを退け、自分自身を永遠の命にふさわしくないものにしてしまったのだ。さあ私たちはこれから方向を変え、異邦人たちの方へ行くのだ。」

 ここに永遠の生命は神のことばを私たちが受け入れることから得られることがわかります。神のことばを退けるなら、神の命・永遠の命は私たちのものとはなりません。イエス・キリストの語ったことばは霊であり命だったからです。「人はパンだけでで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものである。」とイエス様は言われましたね。

 パウロ先生のことばを聞いていた異邦人たちは喜び、主なる神のことばを誉めたたえました。そして永遠の命に与るように定められた者は皆イエス様を信じたのです。

 永遠の命は自分から得るものではなく永遠の命に与るように神によって定められた人たちが、信じることによって得られるものなのです。イエス様も弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」 弟子たちがイエス様を選んで信じ従ったようですが、実のところはイエス様が先手を打って弟子たちを選び定めてくださったのです。ですから弟子たちは時が来てイエス様を信じて従うことができたのです。

 聖書のことばです
 「<b>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。</b>」
        ヨハネの福音書 3章16節
 
  (PBA制作「世の光」2019.11.12放送でのお話より )


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 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ


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■モーセへの神の招き / 岩井基雄

2020年01月20日 | Weblog

2019/11/11放送

<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二月曜日の今日は、旧約聖書のモーセの生涯から神の招きについて学んでみましょう。神の民がエジプトで苦役を強いられる中、神は脱出の道を準備しておられました。それはこの後、神の民をエジプトから導く指導者モーセへの整えです。40年間エジプトの王宮で育ったモーセは、自らの傲慢と拙速さからエジプトの王に命を狙われ、ミディヤンの荒野で羊を飼うものとなります。心砕かれ、羊たちの面倒を見、導くことで彼は心も体をも備えられていったのです。導く者としての訓練は、神様に砕かれること、導かれること、そして神様に委ねられた存在を育み導くことに始まるのですね。そしてついに時が来た時、神がモーセを招かれました。

 聖書はこう語ります。

  <b> モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
すると【主】の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。</b>」 
   旧約聖書 出エジプト記 3章1節から3節

 モーセは羊を荒野の奥まで導きました。それはいつものコースよりも遠くまで行ったという意味でしょう。モーセは今まで行ったことない所に来たのです。そこに神の導きがありました。それは後に「神の山」と呼ばれる場所でした。この場所でモーセは神と出会い、使命を受け取り、また後に、神から律法--十の戒め・十戒--を受け取ることになるのです。

 モーセはそこで不思議な光景を目にします。それは燃えているのに燃え尽きない柴でした。神の臨在と裁きを表す火とともに、裁きの中にあっても燃え尽きることのない神の民また神の憐れみと愛の熱情がその炎の中に表されていたのでしょうか。モーセはこの不思議な神の臨在と招きの中に身を置くのです。すべてが神の導きでした。

 神様は日常の中であなたを訓練し、整え導かれます。与えられた日々の訓練をおろそかにせず、神の愛と使命を自らのものとさせていただきたいと願います。

 (PBA制作「世の光」 2019.11.11放送でのお話より )
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■ ルームランナーの起源 / 水谷 潔

2020年01月18日 | Weblog
2019/11/9放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 水谷 潔です。

 19世紀後半のこと、イギリスの監獄には踏み車という拷問道具がありました。囚人たちが板を踏んで大きな輪を回し、穀物を挽き、水車を回したそうで、一日6時間にわたる労働は、ま、それはそれは過酷なものでした。しかしやがて監獄についての法律が廃止され、踏み車は姿を消して行きます。その後、この踏み車は健康目的に転用されて医療器具となります。さらには家庭の中にまで普及して、今、健康器具となっているんです。それが皆さんよくご存知のあのルームランナーです。拷問道具が健康器具に、苦しみを与えるものが健康を与えるものになっているのですから、まさにこれは大どんでん返しですよね。

 でも聖書はそれ以上の大どんでん返しを記しています。それは十字架です。十字架というのはもともと古代ローマの死刑道具でした。人を磔(はりつけ)、長く壮絶な苦しみの中で死に至らせる残酷な死刑の道具でした。地図では病院を表す記号は十字架です。病院はいのちを守り救う所ですが本来の十字架はいのちを奪うものでした。アクセサリの十字架はとても美しいものですが、本来は忌み嫌われる醜いものでした。教会の屋根にそびえる十字架は希望を与えますが、本来は絶望を与えるものでした。しかしイエス様は十字架の意味を大どんでん返ししてくださいました。

 2000年前のこと、イエス様は十字架の上で一点の罪も汚れもないご自身の永遠のいのちと、罪と穢れによって永遠に滅んでいく私たちのいのちを交換してくださったのです。神様を離れて滅びざるをえない私たちの罪を身代わりに負ってくださり、その罰としてご自分は十字架にかかり、死なれたのです。それによって信じる者に罪の赦しを与え、死を突き抜けて生きる永遠のいのちを与えてくださったのです。

 イエス様は罪の罰を与えるための十字架を罪の赦しを与えるものに変える、という大どんでん返しをしてくださいました。そして何より信じる者を罪ゆえの死と滅びから罪の赦しと永遠のいのちへと大どんでん返ししてくださったんですね。

 これからはどこかでルームランナーを見かけたら、この十字架の大どんでん返しを思い出してください。そしてどうでしょう、あなたの人生にも大どんでん返しを考えてみませんか?

 (PBA制作「世の光」 2019.11.9放送でのお話より )
 
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■ 神のものは神に / 関根弘興

2020年01月17日 | Weblog
2019/11/8放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。


 イエス・キリストのもとに、ことばの罠をかけようとやって来た宗教家たちがいました。彼らはこういう質問をしたんですねえ。「税金をカイザルに納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。」 これはイエスと答えても、ノーと答えてもイエス様を失墜させることができる質問でした。


 しかしイエス様はその企みをご存知でした。イエス様はこうお答えになったんです。「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい。」と。


 私たちは二つの世界に属しているんですねえ。一つはそれぞれが実際に住んでいる場所です。私は神奈川県に住んでいます。ですから神奈川県民としての権利とか義務を持って生活し、もちろん税金も払っているわけです。神様を信じ生きるということは、この世との関係はどうでもいい、この世と隔絶して生きていくことだということではないんですね。それどころか、社会の一員として生活し、カイザルのものはカイザルにと言われてるように、それぞれの義務を果たしつつ生きることが聖書では教えられているんです。


 しかしイエス様は、神のものは神に返しなさい、とも言われました。新約聖書の黙示録4章11節というところには、神様の前で礼拝をささげる人々のことばが記されています。


 「<b>主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。</b>」
 
 と、このように書かれています。礼拝されるべき神様は愛と恵みと真実に満ちた三位一体の神様だけです。もし人や物が礼拝されるなら、それは神様に返されるべきものが返されていないということになるんですね。


 当時のローマ皇帝カイザルは広大な地域の支配者でした。人々は命令に従い税金を治め、法律に従う必要がありました。しかし、彼らは皇帝礼拝が義務づけられた時、どんな迫害を受けても断固として拒否したのです。しかしクリスチャンたちは皇帝礼拝が義務づけられた時、どんな迫害を受けても断固として拒否していきました。なぜなら、礼拝は神様だけにささげられるものだからです。神のものは神に返す、とは礼拝すべき方をしっかりと心に据え、賛美をそして感謝を、そして祈りを、そして信仰の告白をささげていく、そんな歩みでもあるんですね。


     (PBA制作「世の光」2019.11.8放送でのお話しより)


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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


■ ルカの福音書1 -あなたに分かって欲しい / 大嶋重徳

2020年01月16日 | Weblog
2019/11/7放送
<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 今日からルカによる福音書をご一緒に学んでいきたいと思います。ルカ福音書はルカが書いた冒頭に「よく分っていただきたい」という言葉で始まります。皆さんはラブレターを書いた事がありますか? ラブレターを書くとき私たちは自分の思いを相手によく分って欲しいと願って手紙を書きます。その際、一所懸命書くでしょう。書いては破り、書いては破りをしながら何度も何度も書き直すです。相手に自分の思いを確実に知って欲しい。そしてその手紙をもらった人も、どういう思いでこれが書かれているんだろうか、と何度も何度も読み返すでしょう。ルカ福音書を記したルカも同じ思いで聖書を記しました。その相手はテオフィロという一人の人物でした。このルカの冒頭の言葉をじっくり読んでいくときに、私たちがルカ福音書のどこに心を向けて読めばよいかが分りますし、何より聖書はどのようによればよいのかということも教えてくれるのです。


 ルカ福音書1章は「尊敬するテオフィロ様、」と始まります。このテオフィロという人が誰なのかはよくわかっていません。テオフィロ様の「様」ということばは「閣下」という言い方もできますので、 地位の高い人である事は分ります。さらにテオフィロはユダヤ人ではない外国人の名前です。つまりルカ福音書は私たちと同じような外国人に向けて書かれたものなのです。


 しかしここでたった一人の個人に宛てた書物を聖書とするのはおかしいのではないかという疑問が湧いてきます。考えようによっては聖書としてふさわしくないと考える人も出てくるかもしれません。しかし教会でメッセージをした後で、こういう感想を聞くことがあります。


 「先生、今日、まるで私一人のために語られた、そんなメッセージでした。」 ラジオをお聴きの皆さんも、今日のこの話は自分に語られているなあという経験をされたことがあるのではないかと思います。私はラジオをお聴きの皆さんに向かって語りながら、やはりお一人お一人に向かって語るというのもまた事実だからです。ですからいつもメッセージは一般的なお話で終わることなどありません。今日のこのメッセージはあなたのためのことばです、と信じて語っているのです。

 なぜ、私がそうするんでしょうか。それは神様が私の名を呼んで私一人に向かって語りこんでくださるという経験をメッセージ準備の中でするからです。そこにあなたに分って欲しいと願う神の思いがある。聖書はあなたに向けて書かれたラブレターなのです。
 
   ( PBA制作「世の光」2019.11.7放送でのお話しより )


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<p>さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。</p>
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このサイトは URL名として<FONT SIZE="4"><B>  http://yonohikari.biblica.info </b> が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。</font></p>



■ 大いなる御力をほめ歌います / 福井 誠

2020年01月15日 | Weblog
2019/11/6放送
<FONT COLOR="#770000">
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。


 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は詩篇21篇13節から「大いなる御力をほめ歌います」と題してメッセージをお伝えいたします。


 <b> 主よ あなたの御力のゆえに あなたがあがめられますように。
   「大いなる御力を 私たちは歌い ほめ歌います。</b>」 


 この詩篇は前の20篇と繋がった内容になっているものです。つまりダビデは詩篇20篇で「<b>苦難の日に 主があなたにお答えになりますように。主が</b>・・・<b>あなたを支えられますように。</b>・・・<b>あなたの心の望みを</b>・・・<b>かなえ</b>・・・<b>あなたのすべての計画を 遂げさせてくださいますように。</b>」と祈っています。


 そしてその祈りに答えられた喜びの経験をこの21篇で語っており、「<b>あなたは 彼の心の望みをかなえ 唇の願いを退けられません。</b>」(21篇2節 )と告白しています。つまり詩篇20篇とこの21篇は願いとその答えという対の詩篇になっているのです。20篇が苦難の日に願った祈りであるとすれば、21篇は苦難において祈った通りに助け出されたことを思い起こし感謝をささげている祈りですね。


 実際その背景には3節「<b>純金の冠を置かれます</b>」とあるようにアンモン人との戦争て勝利した出来事があったと考えられています。その時、ダビデの頭には勝利の記念にと、金で造られ宝石で装飾されたアンモン人の王の冠が置かれました。けれども注目すべきは、その勝利はダビデの力によるものではなく、ダビデを憐れんでくださった主によるものなのです。神が純金の冠をダビデに与えてくださったのですね。大切なのは戦略的に戦った王の戦略を機能させ勝利に導かれた神です。偉大なのは人ではなく神だということですね。


 この詩篇を読み思わされることは、主に信頼するときに私たちはもはや弱くはありえない。私たちの思いを受け止め、私たちに最善を尽くすされる主がともにおられることです。たとえいかなる苦難があろうと、勝利に導かれる神がおられ、私たちは主の威力をほめ歌うようになるのです。力強い主に信頼して歩みましょう。


 では良き一週を祈ります。


 (PBA制作「世の光」2019.10.30放送でのお話より )


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■ パウロの説教(その三)/ 板倉邦雄

2020年01月14日 | Weblog
2019/11/5放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 さて、パウロの説教の結論です。使徒の働き13章の続きです。


 ですから兄弟たちよ。このことを承知しておいていただきたいのです。この十字架で死なれ、墓の中で朽ち果てることなく復活されたイエス様こそ私たちの罪を赦してくださるのです。このイエス様を信じる人は皆、すべての罪から解放され、正しい者と宣言されます。モーセの律法では正しいとされなかった私たちですが、イエスを信じる者はもれなくイエスによって正しい者、神の前に義とされるのです。主イエスは私たちの罪科のために死に渡され、私たちが義とされるためによみがえられたのです。」


 安息日、会堂でのパウロの説教は終わりました。バルナバとパウロの二人が会堂を出る時、人々は次の安息日にもこれと同じような話をしてくれるようにと、しきりに願ったのです。そして神礼拝の集会が終わってからも大勢のユダヤ人や信心深い異邦人の会衆者たちがパウロとバルナバとにぞろぞろとついてきたのです。そこで二人は彼らに、これまでと同じように引き続き神の恵みにとどまるように、説き勧めました。太陽が昇り雨が降り風が吹く恵みです。そのおかげで花が咲き、実りの季節があり、私たちの心に楽しみと喜びがあります。私たちは神のそのような一般の恵みの中にとどまり生きることができるのです。そしてもう一つは神様を信じることによって注がれる特別な恵みの中で生きるのです。それは安らぎと平和、忍耐と希望そして愛という恵みの中で私たちは生きるのです。私たちはこうした両方の神の恵みの中にとどまることが求められているのです。


 ところで、三回にわたるパウロの説教を見てきましたが、その中心点は一、神の恵みにとどまること。二、神への悔い改め。三、主イエス・キリストを信じる信仰でした。


 聖書のことばです。
 「私は、・・・<b>ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。</b>」
            使徒の働き 20章21節


  (PBA制作「世の光」2019.11.5放送でのお話より )


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■ 御恵みのすばらしさのゆえに / 岩井基雄

2020年01月13日 | Weblog
2019/11/4放送
<FONT COLOR="#770000">
 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第一月曜日の今日は詩篇109篇から「御恵みの素晴らしさのゆえに」と題して、神様の恵みに信頼する人生に心を留めてみましょう。


 私たちの人生には様々な痛みがありますが、自分が愛を注ぐ者からなじられたり嘲りたりする悲しみは私たちの心を深くえぐりますねえ。そのような思いをダビデをはじめ旧約聖書の多くの人物も経験しました。今日の詩篇の作者もその痛みを神に申し述べます。前半をお読みします。


 「<b> 私の賛美である神よ。沈黙しないでください。
   彼らは 邪悪な口と欺きの口を私に向けて開き 偽りの舌をもって私に語るからです。
   彼らは 憎しみのことばで私を取り囲み ゆえもなく私に挑んできます。</b>」
            旧約聖書 詩篇109篇1節から3節


 この後この詩篇の作者は敵への報復や呪いさえ祈るのです。その気持ちは理解できますよね。しかしこの詩篇には「ダビデによる賛歌」と表題があるのです。その内容は賛歌・賛美というよりも心のうめきを神に正直に告げる祈りですよね。私たちのすべてを知る神は、私たちが正直に心を表し、心の傷も痛みをも隠さず心を注ぎ出して祈るのを待っていてくださるです。


 しかしそれでは終わっていません。敵への呪い、死からの報いを祈った後に、ダビデはこう歌うのです。


  「<b>しかし 神よ 私の主よ あなたは 御名のために 私にみわざを行ってください。
 御恵みのすばらしさのゆえに 私を救い出してください。</b>」
                詩篇109篇21節




 ダビデは自分のためにではなく神の御名のために、神のみわざを行い救い出してください、と祈ります。それは自分の願いを越えた神の御心に信頼し、委ねる祈りでした。彼は自分の存在を神に任せ、まことの助けを祈るのです。そこには呪いを祈る自分をも変えて欲しいとの祈りも含まれていたことでしょう。


 聖書が語る神は、正直な祈りとともに結果を明け渡し自分を委ねる祈りを待っておられます。真の主権者である神は、ご自身の恵みの素晴らしさのゆえにあなたに愛のわざを行い、あなたを苦難から救い出し、内側から造り変えてくださるのです。


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■ 神には永遠の救いの計画がある / 羽鳥頼和

2020年01月11日 | Weblog
2020/1/4放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今年最初の土曜日の世の光です。今年はどんな一年になるでしょうか。一年の計は元旦にあり、と言われます。何かを行う時に最初に計画を立てることは大切です。しっかりと計画を立てていると、その年は充実した素晴らしい年になるでしょう。今日は新約聖書のエペソ人への手紙の1章で語られている神の救いの計画についてお話しします。

  神は一年の初めどころか「世界の基が据えられる前から」(4節)救いの計画を立てて、私たちを救おうと決めておられました。「世界の基が据えられる前」とは、神による天地創造の前のことです。最高の知恵と力を持っておられる神が計画し実行されるのです。ですから、途中で計画を変更することはありません。計画が中止されることも絶対にないのです。神の救いは思いつきや行き当たりばったりのものではありません。神の救いは確かです。そして神の救いは恵みに溢れています。この素晴らしい救いの恵みの第一が罪の赦しです。「キリストにあって、私たちは・・・罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(7節)

  もう一人の素晴らしい恵みは、神の国を受け継ぐことです。「キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」(11節) 「神の国を受け継ぐ」とは神の国に永遠に住むことです。神の国は本当の安心・安全があり、いつも神とともにいることができる本当の平和のあるところです。

  このような素晴らしい恵みを神が与えてくださる理由もエペソ人への手紙に語られています。 「それは、・・・私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」(12節) そうです。神は神をほめたたえて礼拝をささげる事ができるために私たちを救ってくださったのです。

 明日は日曜日です。キリスト教会では神に礼拝をささげます。お近くの教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2020.1.4放送でのお話より )
 
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