♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■永遠のいのちとは / 関根弘興

2016年10月31日 | Weblog
2016/10/31放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 番組に「永遠のいのちとはどういうもので、どうしたらそれを得ることができますか?」という質問が届いています。

 聖書は、イエス・キリストを信じ受け入れる一人ひとりに永遠のいのちが与えられると約束しているんです。永遠とは決して尽きることがなく失われることがないということですよね。イエス・キリストは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ 11章25節)と約束されました。ですから永遠のいのちとは、この肉体の死を越えた後も続くいのちということですねえ。

 またイエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ 14章6節)と言われました。新約聖書の後ろの方のヘブル人への手紙という所を読みますと、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル 13章8節)と記されているんです。ですから永遠のいのちとは、イエス・キリストご自身が持っているいのち、いや聖書を読み進めていきますと、イエス様ご自身が永遠のいのちそのもののだと教えているんです。

 この永遠のいのちは私たちに何をもたらすのでしょう。三つのことをもたらすんです。一つは、決して失われることのない希望をもたらします。永遠のいのちなんですから決して尽きることが無いいのちですよね。私たちのこの肉体はいつかは朽ちていきます。しかし死を乗り越えていく決して失われることのないいのちは、永遠の希望を私たちに与えるのです。

 二番目に、いのちはそこにいつも応答があります。 死というものは応答のない世界です。しかし永遠のいのちはいつも神様との応答可能な関わりに生きることになるんです。どんな時にもイエス様によって祈り、叫び、求めることができる信頼の中に生きてことができるんですねえ。永遠のいのちとは神様との深い信頼関係に生きることができるいのちなんです。

 そして三番目は、いのちは実を結ぶということです。永遠のいのちが与えられて生きるとき、これはイエス様のいのちそのものなんですから、最終的にイエス様にある一人ひとりは栄光から栄光へキリストに似た者へと造り変えられていくのです。

 このいのちを私たちはどのように得ることができるのでしょう。聖書のことばをお聴きください。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子((イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
  こう書いているんです。
 
(PBA制作「世の光」2016.10.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■本当の友となる購い主 / 羽鳥頼和

2016年10月29日 | Weblog
2016/10/29放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書のヨブ記19章からお話しします。ヨブ記の主人公であるヨブは大きな苦難に遭いました。一日の内に財産と子どもたちを失い、その後自分も全身にできものができてしまったのです。そんなヨブの所に三人の友人がお見舞いに来ます。ところがヨブと友人との語り合いは議論となり、議論が白熱して自分の意見を正当化するための議論となっていきました。ヨブにはこの議論が苦痛となり、友人にいじめられてるような気持ちになりました。
 旧約聖書 箴言17章17節は言います。
 「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

 残念ながら見舞いに来た三人はそのような友ではなかったのです。友人のことばに傷つき、自分の理解者が一人もいないことを痛感したヨブは、自分の思いを岩に刻んで残したいと思いました。それはずっと後でもいいから誰かにこの思いを理解してもらいたいという願いの現れです。それは今は誰も理解してくれないという絶望感が大きいことの現れでもあります。

 そんな絶望の中でヨブは一抹の希望を見出します。ヨブは言います。
 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ記 19章25節)

 ヨブは絶望の中で友人たちに代わる贖う方を見出したのです。「贖う」とは、本来、奴隷を代金を払って自由にすること、あるいは取り上げられた土地を買い戻したりすることを指します。 贖う者はまず親族でした。ヨブが見出した贖う方は、親族のような身近な者となってヨブを贖い、回復を与える方、それも神との関係を回復し親しい交わりに入れてくださる方でした。ヨブが見い出した贖う方とはキリストのことです。

 新約聖書テモテへの手紙第一 2章6節は言います。
 「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。
 
 キリストは十字架で死ぬことによって罪の奴隷である私たちを解放してくださったのです。イエスはあなたの良き理解者、素晴らしい相談相手であり、あなたを救うお方です。

 (PBA制作「世の光」 2016.10.29放送でのお話より )
 
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が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■群馬や東京に教会を開拓した海老名弾正 / 岩井基雄

2016年10月28日 | Weblog
2016/10/28放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 月の最後の金曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は海老名弾正について学んでみましょう。

 筑後の国・柳川(柳河)藩、現在の福岡県柳川市の藩士海老名家の長男として生まれた海老名弾正は、熊本洋学校でリロイ・ジェーンズと出会い、イエス・キリストを信じるに至ります。明治5年、金森通倫らと共に35名は花岡山で奉教趣意書に署名し、キリストの愛を日本に広めることを誓約します。そしてその後、海老名弾正はリロイ・ジェーンズから洗礼受け、同年秋、同志社神学校に移り、新島 襄の薫陶を受けます。明治10年、新島襄の勧めで上州・安中に伝道を開始し、明治12年同志社を卒業し、安中教会の設立に伴い牧師となります。明治15年、横井小楠の長女・みや子と結婚をし、明治17年、上州・前橋に転居し、前橋教会をも創立します。更には明治19年、東京伝道を志し、本郷湯島で伝道を開始し、東大生をはじめ多くの青年に影響を与え、同年、本郷教会をも創立するのです。この時期に、郷里の熊本に熊本英学校、熊本女学校をも創立し、解任されたリロイ・ジェーンズの使命を継承すべく、学生たちにキリストの愛に基づいた教育を届けて行くのです。大正8年には母校同志社の第8代総長に就任しますが、聖書を神のことばとしてそのまま受け入れることができなかった海老名は、聖書や信仰の理解をめぐって正統主義信仰の植村正久と福音主義論争を戦わせます。海老名自身、真の福音を求め、葛藤していたのかもしれませんね。

 福音には人々を変えていく力があります。あなたの人生をも神様は根底から変え、あなたを希望と祝福の人生へと導いてくださるのです。キリストはあなたにも語られています。
 「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」 新約聖書 コロサイ人への手紙1章6節
 あなたも自分の弱さを認め、真理と愛を心から求め、福音に生きる人生を始めてみませんか?
 
  (PBA制作「世の光」2016.10.28放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■真実に報いてくださる/福井 誠

2016年10月27日 | Weblog
2016/10/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「真実に報いてくださる」です。それでは第一サムエル記26章23節から読んでみましょう。
 「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。

 26章に描かれているエピソードは既に読んだ23章のそれとよく似たものですねえ。23章ではダビデが潜んでいた洞窟の奥に、たまたま用を足しに迷い込んできたサウルでしたが、今度はサウルの陣地にダビデとその家来が侵入した所、皆居眠りをこいていたというのです。またしてもダビデではなくサウルが危機に曝されていますね。ただ今日の箇所は先のエピソードよりもダビデには余裕があります。ダビデは槍一突きでサウルを殺すことができる状況にありながら、また自らの手を汚さずにそうできる状況にありながら、サウルを殺さずにやり過ごしているのです。この時のダビデの心情は詩篇57篇に描かれていますね。こうあります。
 「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。 神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。」(詩篇 57篇2節、3節)
 
 ダビデは自分の勝利を少なからず感じていますね。いずれサウルは滅びるのだから放っておけばいい、ぐらいの態度です。そしてここでも言っています。
 「主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」(サムエル記第一 26章24節)
 主はちゃんと私を守ってくれる、大丈夫だ、と言わんばかりです。もちろんこのあとサウルはすぐに心臓発作を起こして死ぬわけでもなく、まだまだ余力があって、ダビデを追跡することをやめませんでした。ダビデももちろんその事は分かっていたでしょう。けれどもそうであってもダビデの心は、もはや神の約束に対する信頼によって恐れを克服しているのですね。神に委ねることを私たちはどこかで学ぶ必要があります。いかなる危機的状況に遭っても、平安の内に物事を受けとめ、淡々と物事に対応することが人間にはできるからです。それこそ信仰を持つ者の強さ、祝福ではないでしょうか。泰然自若(たいぜんじじゃく)、つまり物事に動じない強さを、ぜひ信仰を持つ者の体験として味わって欲しいものです。

(PBA制作「世の光」2016.10.27放送でのお話より )

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■悪く言いふらす/板倉邦雄

2016年10月26日 | Weblog
2016/10/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「悪く言いふらす」という題でお話ししましょう。

 「風評」ということばは悪い意味で用いられます。実際はそうではないのに被害を被るのです。悪く言いふらすことによって私たちの心はそがれてしまうということでしょうねえ。
 さて、モーセの命令によって12人の探索隊が約束の地カナンを40日かけて探り、そしてモーセに報告しました。
 「私たちはあなたが遣わした地へ行ってきました。その地は豊かな牧草地です。花が咲き乱れ、たくさんの蜂が巣を作っています。まさに乳と蜜の流れる土地です。しかし城壁に囲まれた堅固な非常に大きな町です。その内に住んでいる民族は強力です。私たちはその町にアナクの子孫、巨人たちを見ました。」
 その時、12人の探索隊の一人カレブはモーセの前で民衆を静めながら言いました。
 「私たちはすぐに上ってその町々を攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます。」
 しかし、カレブと共に探索に行った人々は声を合わせて反対しました。
 「私たちにはそのような民族のいる所に攻め上ることはできません。彼らは私たちよりも強いからです。」
 そして彼らは自分たちが探った土地のことをイスラエルの人々に悪く言いふらしたのです。
 「私たちが行き巡って探った所は、それはひどい土地でねえ。住んだら生きてゆくことはできません。またみんな巨人なんです。私たちには自分がイナゴのように小さく思われました。相手はライオンで、踏みつぶされてしまうでしょう。」
 さて今日私たちは全能の神様を見ていた信仰者カレブと、目の前の人を見ていて悪評を言いふらした多数の探索隊員たちを見てきました。10円玉でも目の前に持ってきますと太陽も見えなくなってしまいます。目の前の人を恐れて心が暗くなると、不安や恐れに支配されてしまうでしょう。しかし神様への信仰は私たちの心に暖かい光が支配して来るのです。悪口は私たちを罠に落とすだけではないでしょうか。
 聖書のことばです。
 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 箴言29章25節
  (PBA制作「世の光」2016.10.26放送でのお話より )

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■起きて、床を取り上げて歩け -4 / 大嶋重徳

2016年10月25日 | Weblog
2016/10/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書にはベテスダの池で38年もの間、寝たきりの人が出てきます。この人は「よくなりた」(ヨハネ福音書 5章6節)という思いを持てずにいました。
 彼のその弱さのことばをそのまま聞かれたイエス様は、こう言われます。
 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ福音書 5章8節)
 彼の弱さを聞いてなお、「起きなさい」とイエス・キリストは語りかけられたのです。
 このことばに触れた時、今まで「良くなりたいか?」(ヨハネ福音書 5章6節)と聞かれても弱さしか話すことができなかった彼が、自分の身体を起こそうとしました。自分の弱さに耳を傾けてくれたイエス様のことばに信頼したのです。今まで誰も自分のそばに居ようとはしてくれなかった。しかしそんな自分に「起きなさい」と言ってくれる人がいたのです。その時彼は、誰と競争するのでもない、イエス様だけを見つめて身体を起こそうとしたのです。身体が動きました。そして彼は起き上がりました。「床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ福音書 5章9節)とあります。

 しかし物語はここで終わりませんでした。ここで彼の人生が変わった訳ではなかったからです。この後、安息日に癒すことは駄目だと考えていていたユダヤ人たちが、この男を責めます。するとイエス様はわざわざ彼を見つけ出して言おうとされたことがありました。
 イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
 「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。」
(ヨハネ 5章14節)

 イエス様が彼に言われたのは、「安息日に癒しちゃったからごちゃごちゃ言われてごめんね。」とも、「最近どう? 友達できた?」でも(なく)、「もう病気になっちゃだめだよ。」とは言われませんでした。イエス様が再び彼を見つけて出してでも伝えたかったのは、彼の抱える本当の問題は彼の孤独でも彼の失望でも38年間の病気にあるのでもなかったからです。本当に彼を苦しみていたのは罪だ、とイエス・キリストは語られたのです。 私たちにとっても私たちの弱さの一番下に潜んでいるのは今日も罪です。もちろん病気は罪ではありません。孤独も罪ではありません。しかし人間の抱える問題の一番下に根づいているのは罪です。身体が良くなっても人間関係が良くなっても、なお解決できない問題が私たちにはあります。実はこの罪の問題の解決のために私たちの傍らにイエス様は来てくださったのです。聖書の語る罪について来週からお話ししたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.10.25放送でのお話しより )

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■明るみに出しなさい / 関根弘興

2016年10月24日 | Weblog
2016/10/24放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日も聖書のことばを最初に紹介しましょう。
 新約聖書エペソ人への手紙5章11節
 「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
 
 ここで言われている「実を結ばない暗やみのわざ」とは一体何でしょう。これはこの手紙の後を読むとこんなふうに書かれているんですねえ。
 「彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだ」(エペソ 5章12 節)と書かれているんです。

 この当時、大きな町にはギリシャ神話に登場する神々を祭った神殿がありました。そしてそこには神殿の中に娼婦がいたのです。多くの人はその中で不品行を行い、欲の赴くままに生きていたんですねえ。しかいそうした社会の中で、クリスチャンになった人々はもはやそういう世界とは決別していく訳です。すると、以前の姿を知っていた人たちは「何だお前、クリスチャンになったら付き合いが悪くなったなあ」と悪口を言って来る人もいたでしょうね。イエス様を信じて生きて行くとき、以前なら平気で行なっていたことが、これは違う、と気づくことがたくさんあるわけです。特に当時のギリシャの神殿にまつわる宗教的な行為や習慣などに対しては、これは良いこと、これは愚かなこと、これは人の益になること、これは人を害すること、などきちんと判断して良くないことから袂を分かっていくようになるのです。パウロの言う「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」ということは、暗やみのわざの中にいる人を批判して、あの人達はとんでもないことをしている、と糾弾するということではありません。光の子どもとしての態度や行動を通して周りの人々を照らし、暗闇の中で生きていくことの危うさを明るみに出していくということなんですね。

 イエス・キリストはマタイの福音書5章13節(、14節)でこう語りました。
 「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界の光です。
 このように言われたのです。キリストを信頼し生きるということは、キリストの恵みの光に照らされながら、あなたという存在そのものが腐敗を防ぐ塩となり、周りを照らす光とされていく、ということなんですね。この社会との関わりを完全に断ち、社会から隔絶された生活をすることが私たちの生活ではありません。世の光としてキリストの光に照らされながらこの社会で生きていく仲間なんですね。

(PBA制作「世の光」2016.10.24放送でのお話しより)

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■私は神と論じ合いたい / 羽鳥頼和

2016年10月22日 | Weblog
2016/10/22放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

今日は旧約聖書のヨブ記13章からお話しします。
 ヨブ記の主人公であるヨブは大きな苦難に遭いました。一日の内に、財産と子どもたちを失い、その後自分も全身にできものができてしまったのです。ヨブは、神が敵になってしまったのではないか、と思いました。しかし、それでもヨブは神を信頼し、神との関係を回復することを求めました。ヨブは「私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」(ヨブ記 13章3節)と言ったのです。何と大胆なことでしょう。財産を失くし、子どもを亡くし、大きな喪失感の中にあり、その上自分は病気のために大きな苦しみの中にありながら、苦難からの解放や幸せになることや、健康の回復を求めたのではなく、ヨブは神との関係の回復を求めました。

 神と論じ合うためには、神の前に出なければなりません。ヨブは、「神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。」(ヨブ記 13章15節)と、死も覚悟します。確かにきよくなければ誰も神の前に出ることは許されません。ヨブは死を覚悟しながら、それと同時に、神もまた私の救いとなってくださる、と信じていました。苦難の中にあってヨブは神を信頼し続けました。そして神が救ってくださると確信したのです。

 私たちは神の前に出ることができるでしょうか。人はイエス・キリストによって神の前に出ることができるのです。新約聖書ヘブル人への手紙10章19節はこう教えています。
 「兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

 聖所とは神のおられるところです。聖所に入るとは、すなわち神の前に出ることです。イエスの血とは、十字架で流された血のことです。更にヘブル人への手紙10章22節は言います。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
 イエス・キリストの十字架によってきよめられて神の前に出ることができるのです。

 (PBA制作「世の光」 2016.10.22放送でのお話より )
 
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■罪人を招くために来られたキリスト  マルコ⑬ / 岩井基雄

2016年10月21日 | Weblog
2016/10/21放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。イエス・キリストは12人の人たちをご自分の弟子として招かれました。その多くは無学な漁師たちでしたが、その中には人々から嫌われる職業であった取税人たちもいたのです。この取税人とは当時イスラエルを支配していたローマに納める税金をユダヤ人たちから集める人達のことで、しかも彼らは不正を働き、税金を多く集めて私腹を肥やしていたのです。ユダヤ人から見ると彼らは裏切り者でした。彼らはユダヤ人たちから見下げられ嫌われていました。しかし、その取税人のマタイをイエス・キリストは弟子として招いたのです。そしてキリストに従ったマタイはキリストを自宅に迎えると共に、取税人仲間たちや罪人と呼ばれて安息日を守ることができない人々をも招待したのです。その姿を見てユダヤ人たちはつぶやきました。その彼らにイエスはこう答えたのです。
 聖書はこう語っています。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。
 「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 

           新約聖書マルコの福音書 2章16節、17節
 
 自分たちは正しいと自負し、他の人を見下げている者たちではなく、自分の弱さや罪深さを認め、赦しと回復を求める者たちの所にイエス・キリストは愛と恵み、赦しと平安を届けてくださるのです。神の御子イエス・キリストがこの地に来れたのは罪人を招いて彼らに赦しといのちを与えるためなのです。あなたのためにもイエス・キリストはこの地上に来れました。あなたも自分の弱さや愚かさ、心の病と罪を認め、まことの医者であり癒しと救いを与える救い主イエス・キリストを心に迎え、その愛といのちによって生かされる豊かな生涯を歩みだしませんか? イエス・キリストにあってあなたの人生は喜びと感謝、いのちと希望に満ちて行くのです。

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■引き留めてくださった主 / 福井 誠

2016年10月20日 | Weblog
2016/10/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「引き留めてくださった主」です。それでは第一サムエル記25章39節から読んでみましょう。
 
 「ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。
 『私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように。主はナバルの悪を、その頭上に返された。』


 逃亡の旅を続けていたダビデは、いつしか600人の部下を抱えていましたね。けれども味方が増えたら増えたで、ダビデは頭として彼らの多くの必要を考えなくてはなりませんでした。ダビデはかつてナバルという人物に恩を売ったことを思い出し、助けを求めます。ナバルは農夫たちの中では一番の金持ちでしたので、恩義に感じて何とかしてくれると思ったのでしょう。しかしナバルはダビデを「逃亡した奴隷」と呼んで、冷たくあしらい、恩を仇で返します。ダビデは激しく怒りました。400人の部下に武装させると、ナバルのみならず、一家を皆殺しにしようと出かけて行きます。先にダビデは逆転窮地に立たせられたサウル王に憐れみをかけ、手を下さず大人の対応をしていましたが、その直後、全く普通の人間の行動を取っていますね。目には目を、歯には歯を。ナバルの侮辱に報復しようとするのです。こういうところを見るとやはり人間というのは愚かさの塊なのだと思いますね。いつでも立派な訳ではない。やはり人間というのは罪人です。時として恥ずかしい本性をさらけ出してしまうものなのですね。幸いダビデはナバルの妻アビガイルの機転によってその浅ましい復讐をせずに済むのですが、その時にダビデは自分の愚かさに気付いて言うのです。
 「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように。

 神のみことばである聖書は私たちを愚かしい行動から守ってくれるものです。いつでも神の知恵あるみことばに心を向けて、そのみことばを心に蓄え、人間として品格のある人生を歩みたいものですね。続けて聖書に親しんで参りましょう。

(PBA制作「世の光」2016.10.20放送でのお話より )

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