♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■地震は神の怒り? / 関根弘興

2016年02月29日 | Weblog
2016/2/29放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 先日番組にこんな質問が届けられました。「神様は全知全能なる方なのになぜ今、日本全世界で大きな地震が起こるのですか? 神様が怒っておられるのか、また世界を造ったことを嘆いているんでしょうか。」 こんな質問でした。

 私たちが自然災害などが起った時に考えてはいけない発想があります。それはですね、何か自分が悪いことをしたので結果として神様の怒りがこうして起こったのだというそんな発想ですね。

 旧約聖書にヨブという人のことが紹介されています。彼は正しい潔白な人でした。しかし次から次へと災いが襲うんですねえ。そんな悲惨な現状を知ったヨブの友人がヨブを訪ねて来るんです。でもヨブの友達は、ヨブがこれほど大きな悲惨な状態にあるのはヨブが何か悪いことした結果に違いない、と言い始めたんです。ヨブはどれほど友人のことばに傷つき、悲しみを味わったことでしょう。

 しかし神様はヨブの友達に対してこう言いました。「あなたはわたしについて真実を語らなかった。」と。つまり突然の災いの原因が、因果応報だ!と主張したヨブの友達のことばは真実でなかったと言ってるんですね。

 ですからこの事を通しても、地震などが起った時に、因果応報だとか神様が怒っているのだというふうに考えてはいけないんです。神様はこの世界を創造された時に、造られた一つ一つに法則性を持たせてくださり、今も治めてくださっています。ですから定期的に見事な正確さで太陽は上りまた地球は回っている訳ですね。そしてその法則性を神様は特別なことが無い限り侵害なさらないんです。ですからこの大地も同じです。地殻変動がありますし、大陸プレートは少しずつ移動する訳です。ですからそれによって地震はありまし海水の温度変化によって台風も来ます。これは自然の営みなんですねえ。

 しかし残念ながら人間は自然の法則性さえも破壊し、今問題になっていますが温暖化が進み、気象変動はこれからとても心配なことになっていますね。

 だから私たちは自然災害を私たち人間の手で人災へと変えてしまわないように神様に知恵を求めながら管理していくことが大切なんです。災害が起った時、自らの生き方や人としての繋がりの大切さを学び、神様の前に謙遜に生きること、それが大切なんですね。神様は決してあなたを見捨てる方ではないのです。

 (PBA制作「世の光」2016.2.29放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■いついけにえをささげるのか / 羽鳥頼和

2016年02月27日 | Weblog
2016/2/27放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書の時代に神がイスラエルに命じられたいけにえのことについてお話しします。

 旧約聖書民数記28章から29章にかけて、いついけにえを捧げるのか教えられています。いけにえとは神に罪を赦していただくために神に捧げるように命じられたものです。人が信仰を持って真心から捧げることによって神との関係を回復することができると神は約束されました。

 それでは、いついけにえを捧げるのか見てみましょう。まず毎日、朝と夕方にいけにえを捧げます。そして毎週、安息日にいけにえを捧げます。また毎月、1日にもいけにえを捧げます。それだけではありません。1年の内にも、いけにえを捧げる特別な日を神は定めました。まず1月15日とその50日目。これはエジプトから救い出されたことを覚える時でした。そして7月の1日のほかに10日と、15日から22日までの8日間、毎日いけにえを捧げることが定められました。そしてそれぞれの時に、捧げるいけにえの数量もそれぞれしっかりと決められていました。

 いけにえは簡単に捧げられるものではありません。捧げ物は最上のものでなければなりませんし、羊や牛の場合、それを処理するのは非常に大変でした。イスラエルの生活はいけにえを捧げることに多くの時間と労力をかけなければならなかったのです。罪を犯す者が罪を赦されて神との関係を回復するためにこんなにしなければならなかったのです。

 私たちが救われるためにも同じように繰り返しいけにえを捧げなければならないのでしょうか。いいえ、そうではありません。新約聖書ヘブル人への手紙10章10節ではこのように言っています。
 「みこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
 キリストの十字架は完全です。ですから一度だけで良いのです。キリストの十字架によって私たちの罪を赦され、神との関係を回復されるのです。十字架こそ私たちの救いです。

 明日は日曜日です。救い主キリストを礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.2.27放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■愛と信仰と教育と ~本多庸一の信仰~ /岩井基雄

2016年02月26日 | Weblog
2016/2/26放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯の中でも、今日は日本メソジスト教会初代監督で教育者でもあった本多庸一について学んでみましょう。

 弘前藩士・本多八郎左衛門久元の長男として生まれた本田庸一は幕末の混乱の世を歩みます。明治維新後の明治3年、1870年に漢訳聖書の創世記に触れ、その世界観に衝撃を受けた本田はその後、弘前藩の命によって横浜に留学し、宣教師ジェームズ・バラが開いたバラ塾に学びます。本田たちがバラに要請して始めた祈祷会がきっかけで日本の最初のプロテスタント教会・日本基督公会が設立されたのです。本田はバラから受洗し、クリスチャンとなります。1873年に弘前に帰郷した本田は廃校となっていた東奥義塾を再興し、その年の12月より塾長を務める傍ら、東北最古のプロテスタント教会である弘前教会を宣教師ジョン・イングと共に設立し、そして初代牧師を兼務します。自由民権運動でも指導的な立場にあった本田は政治家になるか宗教家になるか悩みましたが、アメリカの神学校に留学した時、間一発で列車事故を免れた体験がきっかけとなって、自分の人生を神様に明け渡し、キリスト教の伝道に生涯を捧げる決心をするのです。帰国後、現在の青山学院の第二代院長として学院発展の礎を築き、神様のことばである聖書によって人を育てることにも力を尽くします。その後も1912年に長崎で病により天に召されるまで彼は国内や朝鮮などで伝道活動を続け、神様の愛を人々に伝え続けたのです。本田は調和を重んじる人であり、その信仰は素朴な福音主義の信仰でした。彼は教会とキリスト教主義学校に人生を捧げ、近代市民社会の日本国家の設立にも力を尽くしていったのです。神様に捧げ尽くした彼の人生は、神様の豊かな祝福に満ち、神様はすべてのことを働かせて益に変えてくださったのです。

 聖書のことば
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
              ローマ人への手紙 8章28節

(PBA制作「世の光」2016.2.26放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■耳が遠くて、聞こえないのではない / 福井 誠

2016年02月25日 | Weblog
2016/2/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「耳が遠くて聞こえないのではない」です。それではイザヤ書59章1節、2節から読んでみましょう。

 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

 「なぜ神の助けが来ないのか、それは主の御手が短いからではない。その耳が遠いからでもない。私たちの内にある罪のゆえだ。罪が私たちと神との間で隔ての壁となり、神の祝福を受けさせないようにさせているのだ。」と言います。私たちの内にある罪が神の前で不利な証言をし、私たちを告発し、神の祝福から私たちを遠ざけている、というのです。

 実際に聖書が罪と言う時には、人を殺したり盗んだりという具体的な分かり易い行為のみを言うのではありません。聖書が言う罪はもっと内面的なこと、例えば心の中で「あいつなんか死んでしまえば良い」と思ったりすること、人を妬んだり羨んだり、苦々しい思いにくすぶり続けることを言いますね。けれどもそのような思いは誰にでもあるもの、そしてそのような思いがあればもはや神の祝福は受けられないとしたら、もう人間には絶望以外の何ものもありません。人間というのは神の裁きを受けるほかはない、全く哀れな存在ですね。

 しかしイザヤは神はさばき主であると同時に贖い主、つまり罪人に憐み深く救いを与えるお方であると語っています。神は自分の心の中に素直に罪深い思いがあることを認めて、悔い改める者、へりくだる者のそばにいてくださるお方です。自分の心には妬みの罪があるなあ、偽善の罪があるなあ、と罪人として生きている現実を自覚し、神の前にへりくだる者に憐み深くあると言うのです。神は正しいお方ですから私たちが自分の罪の現実に正直になるなら、その事を認めてくださいます。そしてその罪の泥沼の中から救われる力をも与えてくださるのです。
 
 ぜひ教会へ行って聖書に教えられて、私たちを愛し私たちの人生の歩みを変えてくださる神を知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.2.25放送でのお話より )

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■十の言葉 (第三戒) / 板倉邦雄

2016年02月24日 | Weblog
2016/2/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「十の言葉」の第三戒をお話ししましょう。

 ではまず第三戒を朗読します。
 「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(出エジプト記 20章 7節)
 この第三戒は、「主」という名の神のことばや働きを尊く敬虔深く用いなさい、という積極的な命令だということです。「主」と訳されたことばは神の名前です。私たちは日毎の祈りの中でも「主」という名前が崇められるように、誉めたたえられるように祈るのです。ですから毎週の礼拝の中で主という名の神を心から賛美するのです。御名を誉めたたえるのです。歌声をあげるのです。

 次にこの第三戒は、神に対して軽々しい冗談半分のことばや態度を取ってはならないということです。アメリカ映画を見ると時々「ジーザス・クライスト」というセリフがあります。その翻訳は「この間抜け!」であります。これはまさに主の御名をみだりに唱えることではないでしょうか。またことばだけではなく、心と生活態度で神様を否定するようなことも警告しているのです。口先では神の名を唱えながら行動において神様のことばに反することをするなら、この第三戒を破っているのです。

 イエス様もこう言いました。
 「口先で『主よ、主よ』と言う者が天国へ入るのではない。」(参照 マタイ7章21節、ルカ6章46節)

 聖書はこうも言っています。
 「『神と交わりをしている』と言いながら、もし闇の中を歩いているなら、私たちは偽っているのである。」
  すなわち偽善者なのだと言うのです。

 心と唇がちぐはぐな偽善な生活こそ主なる神様の嫌いなことなのです。ですから主は、御名をみだりに唱えるものを罰しないではおかない、と言われたのです。私たちはすべて主という名の神に罰せられて当然な偽善者ではないでしょうか。仮面をかぶって演技している偽善者ではないでしょうか。悲しむべき惨めな罪人です。不敬虔な者でしょう。しかし、私たちの救い主であるイエス・キリストは、私たちのこのような不敬虔と偽善のために十字架の上で身代わりとなって死んでくださったのです。
 
 (PBA制作「世の光」2016.2.24放送でのお話より )

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■弟子レビ -- 共に食事をする / 原田憲夫

2016年02月23日 | Weblog
2016/2/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 今日はキリストの弟子、取税人レビ--マタイを紹介します。取税人というのは当時の支配者ローマ帝国の権威を傘に同胞のユダヤ人から税を徴収する際にピンはねをして暴利を貪っていたので同胞から売国奴・罪人と蔑まれていました。

 ある日キリストはこの取税人レビに「わたしについてきなさい。」と呼びかけました。その時レビの内側を激しく駆り立てる何かが起こったのです。そうです。この時レビはキリストの心に触れたのです。すかさずレビは立ち上がって従いました。それは一時的な気まぐれではなく、何もかも捨ててキリストに従うという後戻りできない決断です。不思議な喜びが溢れてきました。そこでキリストを家に招き、仲間たちを呼んで食事を共にしたのです。あるいは仲間との別れの食事だったのかもしれません。

 ところがそれは、ユダヤ社会の掟を厳格に守って正しい人を自認するパリサイ派の指導者たちから見れば驚きでした。当時の社会では人を家に招いて共に食事をすると言うのは、その人との特別に親しい関係にあることを意味しました。ですから、パリサイ派の人々から見れば、「朱に交われば赤くなる」とのことわざのように、なぜ取税人や罪人たちと一緒に食事をするのか、汚(けが)れるのに、と身震いしたのです。

 しかしキリストはその人々にこう言います。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ 9章12、13節、マルコ 2章
17節、参照ルカ 5章31、32節 )

 このキリストのことばはかつての私の心にも触れました。私はパリサイ派の人々のように真面目を楯にする生意気な人間でしたが、私こそ病人なのだと気づかせてくださいました。そしてキリストはそんな私も近づいて共に食事をしてくださったのです。心が暖かくなる経験でした。

 キリストはあらゆる偏見や隔ての壁を壊し、すべての人々に手を差し伸べ、共に食事をされるお方です。今日あなたに「共に食事をしよう」と、手を差し伸べておられます。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(マタイ 9章12節、マルコ 2章17節、ルカ5章31節) どうぞこのキリストのことばを心で聴いてみてください。その時、あなたの傍らに来てあなたと共に食事をするキリストに触れることでしょう。ぜひこの機会に一度お近くのキリスト教会を尋ねてみてください。

  ( PBA制作「世の光」2016.2.23放送でのお話しより )

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■愛に根差し生きる/関根弘興

2016年02月22日 | Weblog
2016/2/22放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 聖書が教える人生の特徴は、愛に根差し、愛に基礎を置く生き方であると思います。私たちの人生が何に根差し、何を土台としているのかということは生き方を大きく左右しますね。

 新約聖書の多くの手紙を書いたパウロは、イエス・キリストを信じ生かされていく人生は、「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」(エペソ 3章17節)のだと言っています。でもその愛とはどのようなものでしょうか。もし自分自身の持っている愛が土台だとしたら随分不安定な人生になってしまうと思いませんか? なぜなら私たちの愛は移り変わり易くて揺れ動き、すぐに消えてしまうような少しあてにならないこともあるからです。しかしパウロが、愛に根差し愛に基礎を置いて、と記している所の愛は人間の不確かな愛のことではなくてキリストの愛のことです。どんな時にも決して変わることのないキリストの愛に根差し、基礎を置いて生きること、これが聖書の教える人生なんだよと教えているんですねえ。

 「根差す」というのはどういうことでしょうか。植物の根が土の中にしっかりと伸びていくということですよね。キリストの愛に根差すとはキリストの愛の中に深く入り込んでいって必要な栄養を十分受け取っていくことです。

 キリストの愛に「基礎を置く」とは、キリストの愛を土台としているということです。キリストの愛は決して揺らぐことがありません。

 イエス様はヨハネの福音書の15章9節でこう言われました。
 「 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

 イエス様は「わたしの怒りの中にとどまりなさい」とは言いませんでした。「わたしの呪いの中にとどまりなさい」とも「罰の中にとどまりなさい」とも「宗教的な戒めの中にとどまりなさい」とも言われませんでした。「愛の中にとどまりなさい」と言われたんですねえ。

 私たちはまずキリストの愛を知り、その愛の中に安息し生かされていくんです。その結果、神を愛し人を愛する者へと変えられていくんです。私たちはキリストに愛され、その愛の中に安息し、憩い、癒されつつ歩まなければ愛に根差して生きることなどできないんですね。
 
 第一ヨハネの手紙4章19節のことば
 「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

 (PBA制作「世の光」2016.2.22放送でのお話しより)

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■死を招く罪/羽鳥頼和

2016年02月20日 | Weblog
2016/2/20放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書の民数記25章からお話しします。

 エジプトを脱出しておよそ40年が経った頃、荒野にいたイスラエルはそこでモアブの娘たちと淫らなことをし始めました。それは彼らたちが自分たちの神バアル・ペオルの儀式にイスラエルの男性たちを誘ったためでした。神の怒りはイスラエルに対して燃え上がりました。
 神はモーセに命じました。
 「バアル・ペオルを慕った者たちをみな捕えて晒し者にせよ。」

 そこでモーセはリーダーたちに命じました。
 「あなたがたはバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」

 モーセとイスラエルの全会衆はみな集まり、大きな悲しみと悔い改めの思いをもって嘆き悲しんでいました。すると彼らの目の前にイスラエルの族長の息子がミデヤンの族長の娘を連れてやってきました。彼らは異教の神の義式を行い、淫らなことをしようとしてテントに入っていきました。その事を知った祭司ピネハスは立ち上がり、手に槍を取り、テントの奥の部屋に入り、二人を殺したのでした。

 恐ろしい出来事ですが、私たちはこの惨事を引き起こした不信仰を伴う異教の儀式に心を留めなければいけません。この罪はまことの神への裏切りであり、神が与えてくださった男と女の性と神の定められた結婚を軽んじる行為でした。ですからこれは神に対する恐ろしい罪です。罪とは本来、神に対する恐ろしい行為であり、かならず死を招くのです。
 しかし神は、その恐ろしい罪を赦すために独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架につけられました。イエスが私たちの代りに死んでくださったのです。私たちを救うためにこの方法しかありませんでした。十字架の出来事は恐ろしい出来事ですが、私たちにとっては唯一の救いの道なのです。

 神の救いを厳粛に受け取りましょう。難しいことではありません。子どもの讃美歌にこのような歌詞があります。「それは僕の罪のため、ごめんね。ありがとう、イエス様。」 救いを与えてくださった神に「ごめんなさい。そしてありがとうございます。」と真心から言えば良いのです。

 (PBA制作「世の光」 2016.2.20放送でのお話より )
 
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■誘惑への勝利 マルコ⑤/岩井基雄

2016年02月19日 | Weblog
2016/2/19放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。前回はイエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたところから学びました。

 この後キリストは40日間の断食の後、神様を否定する悪しき霊・サタンから三つの誘惑を受けます。聖書はこう記しています。
 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
           新約聖書マルコの福音書1章12節、13節

 イスラエル地方の砂漠化した荒野で40日間断食をし、祈り、心身共に渇き切っていたキリストはその渇きや空腹の中でサタンからの誘惑を受けられたのです。

 誘惑に遭うということは罪ではありません。イエス・キリストも誘惑を受けられたからです。キリストが受けた三つの誘惑は食欲にも現される所有欲、自分の力を示そうとする名誉欲、あらゆる権威を自分のものとしようとする権威欲への誘惑でした。

 しかしキリストは、その一つ一つに神のことばである聖書を通して勝利されました。また、この極限状態でのサタンの誘惑を体験する前に、神様のいのちと愛が注がれるその洗礼と「あなたは、わたしの愛する子」(マルコ 1章11節)という神様からの愛のことばを受けたことは、イエス・キリストにとってどれほど大きな力となったことでしょうか。

 私たちもまた様々な誘惑に遭います。そして私たちは数多くの失敗を繰り返してしまいます。しかし、そんな私たちを内側から変え、ご自身の愛と命を私たちに与えるためにキリストはこの荒野での誘惑を受けられ勝利を取られたのです。神の御使いたちがイエスに仕えられていたように、勝利者であるキリストが愛を持ってあなたに仕えていてくださいます。あなたには新しい人生、喜びと希望に溢れる人生が用意されているのです。自分の弱さや過ち・罪を認め、神様の愛、キリストの命を受け取ってきませんか? キリストが私たちのために勝利してくださった聖書のことばをお読みします。

 聖書のことば
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
    新約聖書マタイの福音書4章4節

 キリストにあってあなたに勝利があります。

(PBA制作「世の光」2016.2.19放送でのお話しより)

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■その罪を告げよ / 福井 誠

2016年02月18日 | Weblog
2016/2/18放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「その罪を告げよ」です。
 それではイザヤ書58章1節から読んでみましょう。
 「わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。

 皆さんはどう思いますか? 自分の罪を告げられる、悪い部分を指摘される、そんな嫌なことはありませんね。けれども分かっているようで分からないのが自分の罪です。どうやら何かひどい目に遭わない限り、あるいは面目丸つぶれの事態が起こらない限り、私たちは自分を認め自分を反省することがなかったりします。結果、もっと早く分かっていれば何で誰も言ってくれなかったのか、ということになったりするものですね。耳痛い事も一時の我慢、聞かせてもらった方がありがたい、ということがあったりするものですね。

 当時のユダヤ人も同じでした。彼らは宗教的には熱心な民族でした。実際に断食もし、祈りもしている。けれども神はそのようなユダヤ人を受け入れられずにいました。なぜか、それは形ばっかりで神に対する恐れも愛の一かけらもないものだったからです。

 イザヤはその現実をユダヤの民に指摘せよと言われている訳です。実はこれは信仰を持って歩もうとしている人に対してとても大切なことを言っていますね。自分では熱心に神に従っていると思う。けれどもそれは形ばかりで心のある信仰ではないということがありますね。

 そういう意味で私は考えるところがあるのですが、神を信じるというのは迷信的な信仰も本物の信仰ではないのだなあと思います。つまり自分の身に悪いことが起こったら嫌だからというのでとりあえず信仰を持つことがありますね。けれどもそれは神様を信じているようで、実際のところ信じてはいないのです。

 神様を信じることはもっと人格的な関係ですね。神様は私たちの行為に喜びもし悲しみもする。怒りもし笑いもする。命があり感情もあるお方です。私たちは人がどんな思いで自分に近づいて来るのかというものを見抜くものですが、神様もなおさらです。心遣いを持った信仰の歩み、それが神の祝福を受けないわけがありません。ぜひ教会へ行って聖書から教えられて神様に対する心遣いのある信仰を深めていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.2.18放送でのお話より )

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