世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日、さわやかに過ごしていきたいですね。
新約聖書のヨハネの福音書12章という中にこんな麗しい記事が出てきます。 それはイエス・キリストが十字架につけられる週のことでした。 ベタニヤという小さな村に住むマルタとマリヤの家に(イエスが)行った時のことです。
この家に住むマリヤが非常に高価な純粋な香油を300グラムとってイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でイエス様の足を拭(ぬぐ)ったのです。 家は香油の香りでいっぱいになりました。 ところが弟子の一人で、あのイスカリオテ・ユダはこう言いました。「なぜこの香油を300デナリに売って貧しい人々に施さなかったのか」 彼は、何て無駄なことをするのか、とまあ彼女を叱責したんですね。 もちろんユダは貧しい人々に心をかけていたのではなく、彼は財布を預かっていて「その中に収められたものを、いつも盗んでいた」(ヨハネ12章6節)、と聖書に書かれている通り、彼の興味はお金でした。
ある書物の中でこんなことが書かれていました。 人生に成功するためには無理をなくせ、むらをなくせ、そして無駄をなくせ、と書かれていました。 しかしこの無駄をなくすということは、とても大切だと思うんですが、でも私たちの人生には一見無駄と思えることの中に実は大切なこともありますよね。
私たちはあまりにも合理的に物事を見、判断していくとき、何かとても冷たい存在になってしまうことがありますよねえ。 あの香油をマリヤがイエス様に注いだことはユダにしてみれば、何という無駄なことだ、と考えました。 しかし、イエス・キリストに対する感謝と愛の現れは決して無駄にはなりません。 奇しくも、この行為はイエス様の葬りの準備となった、とあります。
マリヤはイエス様が十字架につけられるなどとは決して考えませんでしたが、しかしこの出来事を通して、イエス・キリストが私たちのために十字架の道を歩まれることがより確かなものだということを示す出来事になっていったんですね。
そしてイエス・キリストの十字架こそそれは一見無駄な死のように見えるものでした。 極悪人がつけられる十字架に罪のない神の独り子がつけられるなど犬死にのように見えますよね。 しかしその十字架の死こそ私たちの罪の身代わりの死であり、私たちに本当の罪の赦しをもたらす壮絶な愛を示す場となったのです。
マリヤは感謝をこめて香油を注ぎました。 マリヤのできる最善の感謝の行為でした。 そしてイエス・キリストは私たちのためにいのちを注いでくださいました。 それは最高の愛の現れでした。 今日、あなたはこのキリストの愛に何をもって応えていきますか?
(PBA制作「世の光」2009.6.30放送でのお話しより)
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