♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■すべての人に共通の遺伝子

2006年03月31日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 今日は、すべての人に共通している遺伝子についてお話しします。

 遺伝子は今もっとも注目される分野の一つですね。この遺伝子について医者でもあり多くの本を書いておられる日野原重明さんは、その最新の著書「私が経験した魂のストーリー」という本の中でこんなことを書いています。

 「人の命が誕生した時、すでにその中には死の遺伝子も含まれているのです。ガンになりやすい遺伝子を持っている人、あるいは早く髪が白くなるという遺伝子を持っている人、人によっていろんな異なる遺伝子を持って生まれるのですが、共通に持っているのは死の遺伝子です。人は死ぬ生き物として生まれた。人だけではない。すべての生き物が死ぬ生き物として生まれています。」って言うんですね。

 ま、これは医学的な遺伝子ということだけではなく、ま、人間の有限性、精神的な面についても言っているのだと思います。

 新約聖書のローマ人への手紙5章12節にはこんなふうに書いてあります。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」って言うんですねえ。つまり、死の遺伝子とは罪の遺伝子であり、これが人間に死をもたらし、人間の初めのあのアダムとエバ以来、人間が持っているものだというのです。

 罪というのは、神に背を向け神を知ることができない、神を求めることもできなくなってしまっている、ですから永遠の神と共に生きることから死んでしまった、離れてしまった、そんな意味での罪という意味です。ですから神はこの人間の中に新しい遺伝子を与えるようにして、イエス・キリストをこの世に送り、新しく神と共に永遠に生きる、そんな力を遺伝子を与えてくださった。

 そういう意味でローマ人への手紙の6章23節という所にはこんなふうに書かれています。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 私たち誰もが生まれた時から死ぬ遺伝子、罪の遺伝子を持っているというのですけれども、同じように愛なる神はイエス・キリストによって永遠に生きるいのち、そんな遺伝子を与えて下さっている。それをしっかり得ていきたいものですね。
 

(PBA制作「世の光」2006.03.31放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会もPBAで紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■私はかしこに帰ろう

2006年03月30日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。永い間ご一緒くださいましたが、この番組を私はこれでしばらくお別れすることになりました。今後共、この番組を宜しくお願いいたします。

 さて、作家であり精神科医でもいらっしゃる加賀乙彦さんは、尊厳死について触れながら、自らの死を真剣に考えて欲しいとおっしゃっています。

 尊厳死ということばは、1976年、カレン裁判というのがアメリカであった時から使われるようになったそうです。回復不能の病気で意識も二度と戻らない状態が長く続いた時に、生命維持装置を外すのはむしろ人道的な行為だとニュージャージー州の最高裁が判断した訳なんですね。

 加賀乙彦さんは日本尊厳死協会の会員で、不治の病により死期が迫った場合、延命措置を断わることを宣言したリビング・ウィルに署名されているんだそうですね。加賀乙彦さんは次のように言っています。
 「日本では尊厳死についてあまり議論されていない。みんな長寿を享受できると思って死に無関心なんです。国民みな保険が整備されているから延命措置にかかる膨大な医療費を心配する人が少ないということもあるでしょう。長生きするようになって定年退職してから死ぬまでの時間はいっぱいあるんだから一度ぐらい自分の死について真剣に考えて欲しいものです。」こんなふうに言っているんですねえ。

 死は絶対にやってきます。しかも人にではなく自分にです。旧約聖書に出てくるヨブという人は世間でも神の使いではないかと思われた程に善人で、情け深く、信心深い人でした。しかし突然にして家族を次から次へと失い、ヨプ自身もひどい皮膚病に侵されて死線を漂うのでした。奥さんも彼の苦しみを見かねて「神様を呪い死んだ方がずっと楽だ」とまで言ったほどでした。しかしヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記 1章21節) と言いました。ヨプは死線を漂いながら、遂に神のいやしと祝福を受けたというのが最後の姿なんですねえ。「裸でかしこに帰ろう」そういうヨブのことばが大変(重く)私の心にもありました。神は永遠の祝福をもって私たちを神様の国へ迎え入れてくださいます。そのことがはっきりするとどうでしょうか。自分が今日の一日を生きる。明日一日を生きるということがはっきりしてくるのではないでしょうか。そういう意味においてはお互いがゴールをはっきり決めて生きるということがどんなに大切だろうかと思います。忙しい毎日ですが、聖書によってこのことをしっかり掴んで欲しいと心から願っております。

  (PBA制作「世の光」2006.03.30放送でのお話しより )


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■人の歩みは主によって定められる

2006年03月29日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。神戸市垂水区にあるキリスト教の神学校で勉強していた石井さんからのたった一行のお便りです。この方は東京で大学生の頃、放送「世の光」を聞き、私の家に出入りしてクリスチャンとなり、ふるさとに帰ってサラリーマンになりました。経済的に苦しい中から多額の献金を振り込んで下さって、たった一行のことば「羽鳥先生とその御家族に宜しく。」嬉しい一行でした。石井さん、健康に気をつけて主に仕えてください。お祈りしています。

 さあ今日の神の知恵のことばです。旧約聖書箴言は「知恵の書」と言われていますが、今日はその20章24節のことばです。お読みしましょう。「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。

 人間はどうして自分の道を理解できようかとありますが、私は16歳の時に、何のために生きるのか、どうして何のためにこの世に生まれてきたのか分らずに悩み苦しみ、自殺未遂までしました。そんな私の前で、(この中にヤソはおるかと学生一同を脅す)(軍事)教練の教官の前で、また私のクラスの前で、一人の同級生が「私はクリスチャンです。私を救ってくれたイエス・キリストを信じています」と一言いって座りました。その三秒そこらの短いことばに大きなショックを受けて猛烈にその男の心の中にどんな神様がいるのか知りたい、見たいと思うようになりました。そして私は教会に行き、私のために私の罪の身代わりとして死なれたイエス・キリストとお会いしたのです。神を知り、イエス・キリストを知って初めて、私は何のために生きるのか、知るようになりました。イエス・キリストは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 (ヨハネ福音書 14章6節) このお方を信じ、知ることによって私は人生の歩みとは何か、何のために生きるのかが分りました。

 神の知恵のことば。
 「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。
  旧約聖書箴言20章24節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2006.03.29放送でのお話しより)

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■いのちをあなたに

2006年03月28日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかな一日を過ごしていきたいですね。

 私がクリスチャンになったのは高校1年の夏のことでした。友人と一緒に教会が主催するバイブルキャンプに出かけていったんですね。そのキャンプが軽井沢で開かれるということと、高校生たちが集まるということで何か新しい出会いがあればと思って気軽に出かけていききました。

 私の友達たちは軽井沢に行けるということで聖書にはまったく無関心でした。私はと言えば牧師の子どもであるということもあり、聖書のことはある程度知っていましたが、同じように聖書については興味がありませんでした。それどころか両親が教会の働きをしているということにとても反発していたんですね。日曜日になると半強制的に礼拝には出させられ、満足に小遣いももらえず、教会に来ている人のためには一生懸命な両親を見て、ああきっと私は大事にされてない、愛されてないんだ、と感じたんです。

 その軽井沢のキャンプでの二日目の夜の集会のことでした。説教されていた牧師先生がこんな質問をされたんですね。「今日この中でイエス様を救い主として信じ受け入れる人はいませんか?」するとどうでしょう。私と一緒に参加した友人が手を挙げているではありませんか。まだ数回しか聖書の話を聞いていないのに手を挙げるなんて、ああ何か間違っている、勘違いしているのではないかと(思いました)。でも友人はとても喜んで、イエス様を信じ受け入れることができたのを感謝しているではありませんか。私は考えてしまいました。ようし次の日の聖書の話は真剣に聞こう、そう思ったんですね。

 どうでしょう、次の日の説教(お話し)はイエス様が十字架につけられた話です。牧師の子どもに育っている私には、昔から何度も聞かされていた話で、何も新鮮な感動がないんですね。説教の最後に何度もこう言っていました。「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架について死んでくださったのです。あなたのために命を捨ててくださったんです。」と何度も何度も語るその話を聞いている内に、私は考えてしまいました。誰がいったい背中を向けているような人のために命を捨ててくださるだろう。僕はそんなことはできないし、私の友達もそんなことはできないだろう、と思いました。その時私は、イエス・キリストが私のために命を捨ててまで愛して下さっていることが本当なら、信じることは最低(限)の態度だと思ったんです。「イエス様、私の心にお入りください。私はあなたを救い主として迎えます。」そう私は小さな声で祈りました。そんな小さな祈りから私はクリスチャンとして歩み始めることになったんです。


 (PBA制作「世の光」2006.03.28放送でのお話しより )

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■決算期

2006年03月27日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(むらかみ・のぶみち)です。

 えー、3月も終わりに近づいてきて、3月というのは年度末というふうにも言われますし、そしてそれが決算期である--会社とか、ま、様々な所でそういうふうな組織の中では、(決算が)ある--(そういう)時期ではないかなと思うんですね。で、私が思うんですけれども、私たちの人生にもですね、一つの清算をすると言いましょうか決算期があることを自覚していなければならないだろうなというふうに思わされるんですねえー。

 イエス様がマタイによる福音書25章の所で例え話のようにしておっしゃったんですけれども、天の御国はしもべたちを呼んでじぶんの財産を預け、旅に出ていく人のようですというふうにも書いてあってですね、ある人には5タラント、ある人には2タラント、1タラント、というそれぞれ能力に応じてあげた。そしてそれをどういうふうにまあ生かしてくるかということで最終的には帰ってきて彼らと清算をしたということばがあるんですね。で、どういうふうにそれを活用してきたかということが問われる時があるのだということをイエス様がおっしゃっておられるわけですね。

 で、私たちはこの私たちに与えられた人生の中でどんなふうに生きることが大切なんだろうかという、何を一番大事なこととして、何が最も価値あるものなのかということをきちんと計算してですね、意識するということが必要なんだろうなというふうに思いますね。

 イエス様がおっしゃったことの中で、人が全世界を儲けても自分の命を損したら何になるのだろうか(マタイ福音書16章26節、マルコ福音書8章36節、ルカ福音書9章25節)というふうに言われました。大事なことは、この世界の何を得るに勝って私たちは永遠のいのちというものをしっかり確保していなかったら何も得たことにはならないという、このことは最も根本的なことだと思うんですね。

イエス様を神様が、御自分の御子をお遣わしになったのは、彼を信ずることによって滅びないで永遠のいのちを得るため(ヨハネ福音書3章16節)だとありますから、イエス・キリストを信じることによって追従していただいて、永遠のいのちを確保する。そして与えられた人生の中で神様が与えられた能力を最大限に生かして、どれだけ神様のために役立つことができたか、他者のためにそれを活用することができたか、生かすことができたかということが、やがて清算される時があるんだなあということを考えながら、毎日毎日を大切に生きるということが私たちにとって神様からほめられるってことだなあと思うんですね。
 
 ( PBA制作「世の光」2006.03.27放送でのお話しより )


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■わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず

2006年03月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さあ、今日の世の光は、皆さまからお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。徳島県阿南市にお住まいの、かねしたさんは旧約聖書イザヤ書54章10節のことばをお寄せくださいました。お読みしましょう。

 「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

 朝目覚めて、あっ今日も生かされていると思い、心の中から喜びが溢れてきます。主が与えてくださった数えきれない恵みを思い、ただ感謝で一杯です。私は生まれて間もなく脳性麻痺にかかり、体が不自由になりました。そんな私に家族は人一倍愛情を注いでくれました。でも私の心は満たされませんでした。何のために生まれたのか、私には希望がありませんでした。そんな時、何げなく聞いていたラジオの福音放送がきっかけになり、教会に導かれました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである。」とのイエス様のことばを信じ、受洗の恵みに与りました。そして私は重度の障害を持つ主人と結婚し、二人の子どもも与えられました。その後、子どもの怪我による入院、私自身の二度に渡る足の手術、夫の交通事故による長期入院。母の死と苦しみや悲しみの中を歩みました。けれども私の心の中には平安がありました。試練の時こそ主が最も近く感じられます。主は耐えられない試練を与えることは決してなさいませんでした。私は今、家族や多くの人たちの支えによって日々の生活や信仰が守られていることを感謝し、主に喜ばれるような歩みがしたいと心から願っております。

 かねしたさんの心に残る聖書のことば。

 「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

 旧約聖書イザヤ書54章10節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.03.25放送でのお話しより )

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■人となられた神・キリスト

2006年03月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 今日は、聖書の中心であるイエス・キリストは神である、ということについてお話します。

 多くの方は、(神の存在は分かる。またキリストの崇高な教えや人格は素晴らしい。)と、思います。でもキリストが信仰の対象である神であるということになかなか実感またピンと来ないと思っておられるのではないでしょうか。

 それは一つには、日本では優れた者、立派な人が神として拝まれるという、そういう背景があるからだと思うのです。ま、ちなみに世界中では21億のキリスト教人口ですから、全世界の約三分の一の人はキリストが神であると信じている訳です。ま、それはどうしてかと言いますと、学校でも家庭でも聖書が教えられ、読まれているという背景があるからだと思います。

 例えば新約聖書のコロサイ人への手紙の1章という所には、神の御子キリストは目に見えない神が見える人として来られたのだと書いています。そしてこの御子キリストが天と地とそこにある万物を創造した創造主であり、あらゆる者の根源であり、これを究極的に守り導いていると説明しています。キリストの弟子ヨハネも、神様は目には見えないけれどもひとり子の神がこの地上に来てくださって神様を説明してくださったんだと書いています。

 日本でも最初にプロテスタントの宣教師に洗礼・バプテスマを受けた村田若狭守(むらたわかさのかみ)という人の例があります。彼は江戸時代の長崎で外国の船を監視する司令官でした。調べのために上海より取り寄せた漢文の聖書を読みました。その結果をこんなふうに述べているんです。
 
 「私が初めてイエス・キリストの品性と働きを読んだ時の感動はとても十分にお話しすることはできません。それまでの私は、このような人物を見たことも聞いたことも想像したこともありませんでした。感嘆のあまり私の心はキリストの品性と働きに捕われてしまいました。」

 そして安政6年、この村田若狭守は最初に来日したプロテスタント宣教師の一人・フルベッキ宣教師にバプテスマを受けました。キリストが神である、救い主であるということを本当に実感する。それは聖書に書かれていることばを通して自分で個人的に読み、知るということではないでしょうか。
 
 
(PBA制作「世の光」2006.03.24放送でのお話しより )


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■へこたれない

2006年03月23日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 今日は読売新聞の子どもの歌から、小学校三年生の山のべ・たくみ君の詩を紹介しましょう。

 がんばるぞ がんばるぞ あっ失敗
 図工がんばるぞ ボロボロ
 勉強がんばるぞ はあー寝ちゃった
 何もかもだめ 
 まあ人生こういうもんよ

 この詩についてですね、川崎ひろしさん--
お亡くなりになりましたけど--こんなコメントを寄せていらっしゃいました。「たくみ君のへこたれない精神に拍手。」

 まあよく失敗を恐れるなとか、失敗は成功のもと、成功のためにあるんだ、そんなふうにも言われますよねえ。ですからこのへこたれない精神に私も拍手を贈りたいと思っています。私たちは小さい時から「がんばりなさい」「もっとばんばれるでしょう」「がんばれば出来ないことはないよ」と教えられて来ました。でも時にはこれ以上どうがんばればいいんだ。そんなような限界に来てしまうこともありますよねえ。そしてへこたれて立ち上がれない程になってしまいます。

 ところでこのたくみ君の詩に戻りますが、何もかもだめ、まあ人生こういうもんよっていうのはどうでしょうかねえ。まったく諦めてしまったり開き直ったりしているのでもなさそうです。かといって大人のように悟り切っているようでもありません。明るく受けとめ、またがんばるかあ、と自分に言い聞かせている、つまり、へこたれない精神を感じるんですね。

 100の内、99は失敗かもしれない。失敗とまでいかなくても、うまくいかないことかもしれない。でもまた挑戦してみるさ、そんな力を抜いた生き方ができれば、もう少し楽になるんじゃないかなって感じました。その上、私たちには天地万物を造られた神様がついていらっしゃいます。

 この私たちの神様は、イエス・キリストを墓に放りっぱなしにされたままのお方ではありません。墓を破り、(イエス・キリストを)よみがえらせたお方です。そしてキリストと共に私たちをよみがえらせることのできるお方だと信じる時、聖書のことばはお互いのものとなるのではないでしょうか。

 新約聖書コリント第二の手紙の4章の8節と10節です。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。・・・・イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

 転んでもただでは起きない人生がここにあるんですね。私たちを墓に閉じ込めようとする様々な出来事に対してイエス様はあなたと一緒にその墓を打ち破ってよみがえってくださるお方です。へこたれない精神(を)、イエス様があなたにお与えくださいます。
 

  (PBA制作「世の光」2006.03.23放送でのお話しより )



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■思慮があれば怒りをおそくする

2006年03月22日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。さ、今日の世の光、まず皆様からのお便りの紹介です。千葉県千葉市にお住まいの土橋さんからいただきました。

 私たち夫婦は結婚記念日10回目を迎えました。私は家出同然、入籍のみで結婚式も披露宴もなしで結婚しました。その後私が決断して入信しクリスチャンになり、それから夫が救われ、母が救われ、私たちの家庭はクリスチャンホームになりました。振り返って神の恵みを数え、新しい年に新しい出発が出来ました。

 ・・・土橋さん、万歳ですね。一つの決断からあなたの幸せは出発したのですねえ。

 さあ今日の神の知恵のことばです。今日は旧約聖書箴言19章11節のことばです。お読みしましょう。
人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。

 しおだあきらという名も無き農村詩人のクリスチャンがおりました。そのしおだあきらの詩に「愛とは」という詩がありますが、彼は、「愛とは待つこと、赦して待つこと」と歌いました。彼は、アウグスチヌスの母モニカのことを述べました。アウグスチヌスは素晴らしい学者でしたが、放蕩無頼に身を持ち崩して母モニカの悩みの種でした。しかし母モニカは心の底から息子を赦し、長い長い忍耐をもって待ちました。毎晩戸には鍵をかけず、灯りをつけっぱなしにしてひたすら赦して愛して待ったのです。アウグスヌスは母のもとに帰り、自ら深く悔い改め、悔いし砕けし心で神様を受け入れ、神様を信じ、神様に従いました。アウグスチヌスはその時代の一番のクリスチャンとなり、今の世でも彼の著書は読み続けられています。母モニカの赦して待つことは正解だったのですねえ。怒って罵倒して諦めて見捨てるのではなくて、愛して赦して待つことが勝利をもたらしたのです。

神の知恵のことば。
人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。
旧約聖書箴言19章11節のことばです。
 
 また聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2006.03.22放送でのお話しより)

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■罪の報酬

2006年03月21日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、 関根弘興(せきねひろおき)です。今日も爽やかに一日を過ごしていきたいですね。

 旧約聖書を読むと私たち日本人にはどうも馴染めない光景を目にします。それはモーセという人がイスラエルの人たちをエジプトから脱出させて約束の地へと導く途中、神様は一つの天幕を作るようにと命じられました。ま、これは移動式の神殿のようなものだったんですねえ。そこでは何が行われたかというと、前庭には祭壇がありました。そして人々は自分の罪の身代わりのために牛や羊など動物をいけにえとして捧げていったんです。人の罪というものはいのちをもって償われなければならないということを聖書は教えているんですねえ。聖書には、「罪から来る報酬は死である。」(ローマ6章23節)と書かれているんです。どうも私たちはそういう光景を全く目にしないで育ちましたから、(そんなこまでしなくたっていいじゃない)って思ってしまう訳です。

 人類学者のルース・ベネディクトという人がいますが、彼女が『菊と刀』という日本人論の中でこんなことを言っているんです。「日本人は罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置いているのです。恥の文化には、人間に対してはもとより、神に対して告白するという習慣はない。幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪--罪を贖う--ということの儀式はない。」こんなふうに書いていました。確かに初詣で賑わう人たちを見ても、誰も商売繁盛・家内安全・健康でありますようにと自分の幸せを願ってきますよね。誰一人、私は自分の罪を悔い改めに来ました、どうぞ私の罪を赦してくださいと訪れる人はいませんよね。

 でも聖書の中心的なメッセージは何でしょうか。それは、イエス・キリストが私たちすべての罪を十字架で身代わりに負ってくださったということなんです。旧約聖書の時代は、動物がたくさんいけにえとして捧げられました。でもそれはみんな不完全なものでした。でもイエス・キリストはただ一度、私たちの罪のために身代わりとなって十字架を背負い、十字架に釘づけされたんです。

 聖書のことばをお聞きください。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4章10節)

 本当の愛は、あなたのためにいのちを捨てることを惜しまないキリストの中にあるんですね。いのちがけの愛があなたに注がれていることを知ってください。


 (PBA制作「世の光」2006.03.21放送でのお話しより )

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