♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■思い煩いをゆだねる

2010年04月30日 | Weblog
2010/4/30放送

世の光の時間です。 お元気ですか? 岩井基雄です。

 私の悪い癖の一つは、何でも自分でやろうとすることです。 自分でやらないと気が済まないんですねえ。 そし時には神様に任せることもせずに自分だけで悩んでしまうこともあるのです。 あなたはいかがですか? 

 主イエスの弟子ペテロもそんな弟子の一人だったようです。 そして彼はある手紙の中でこう書いています。 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」ペテロ第一の手紙 5章7節 

 彼は自分で思い煩うことをやめ、神に委ねること、神に明け渡すことの素晴らしさを語っています。 なぜなら、神が私たちのことを心配してくださるから、だというのです。 自分の弱さをすべて知り、失敗も挫折も愛の眼差しで見つめ、祈り続けてくださったキリストの愛にペテロは気がつかされていきます。 そして彼は後に神様に信頼し、委ね、明け渡していく人生がどんなに素晴らしいものかを経験していったのです。 

 ではどうしたらそのように神に信頼し、委ね、明け渡していくことができるでしょうか。 ベテロはその手紙のことばの直前にこう記しています。 
 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ 5章6節)

 神様の前に自分の罪と弱さを認め、高慢を捨て、力強い神の御手の下にへりくだることが神に信頼し平安を得る鍵なのだとペテロは分かったのです。 そしてそのへりくだることは、あなたにとっても、どんな問題があっても苦しみがあってもその中で心を騒がせないでいることができる鍵なのです。 

 あなたはいかがでしょうか。 あなたも神様の前に心からへりくだり、神に信頼し、委ね、平安な生涯へと歩み出しませんか? 

 もう一度聖書をお読みします。 
 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ 5章6-7節)

   (PBA制作「世の光」2010.4.30放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■大祝会が用意されている

2010年04月29日 | Weblog
2010/4/29放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。 今日のバイブルメッセージは「大祝会が用意されている」です。 それでは聖書の中のヘブル人への手紙12章22節から読んでみましょう。

 「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。

 旧約聖書を読むと、神に近づくことは恐るべきことである、そんな印象を受けることがあります。 実際ヘブル人の著者は、モーセの時代、神がイスラエルの人々に御自身を表わされた時に、それは大変恐ろしい経験であったあったことを語っています。 神の現れは、燃える火、黒雲、暗闇、猛り狂う嵐と、イスラエルの人々を恐怖のどん底に突き落とす出来事でした。 確かに聖書が語る神は天地万物をお造りになった神、万物の支配者なのですから、どのような形にしろその神が現れるというのは恐るべきこと、地に平伏すべきことである、というのはうなずけることですねえ。

 しかしヘブル人への手紙の著者は、私たちが神に近づくことについて別のイメージを与えてくれます。 「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」と。 笑いと感謝と讃美に溢れた楽しげな場所に近づくイメージですねえ。 なぜでしょうか。 それはイエスの十字架の罪の赦しに与っているからです。 イエスの復活のいのちに与り、神の目に喜ばしいものとされているからです。 心にやましいことがあれば当然人は正しい神に近づくことを恐れるものでしょう。 神のさばきの座に近づいていると思えば恐怖を抱いて当然です。 しかし私たちは既に裁かれており、神と和解し、神の祝福を約束されているとしたら、私たちは神に会うことを楽しみに思うのです。 また神が私たちの苦労を知り、私たちの労をねぎらってくださるとすれば、なおさら天に行くことが楽しみになるのですねえ。

 私たちはこの神の大祝会に招かれており、日々、一歩いっぽそこに近づいていることを覚えて正しい歩みをさせていただきたいものです。

  ( PBA制作「世の光」2010.4.29放送でのお話より )

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■神殿を私物化

2010年04月28日 | Weblog
2010/4/28放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしですか。 板倉邦雄です。 今日は「神殿を私物化」という題でお話ししましょう。 旧約聖書のネヘミヤ記の続きです。

 さて、知事ネヘミヤが都エルサレムを離れてバビロンへ帰っていた時です。 とんでもないことが起こっていました。

 神様を礼拝する神殿の倉庫の管理をしていた祭司エリヤシブ、彼は役人トビヤと親しくしていました。 役人トビヤと言えば知事ネヘミヤの城壁再建にことごとく反対した人でしたね。 その役人トビヤのために祭司エリヤシブは神殿の倉庫を豪華な客間に改造してしまったのです。

 神殿の倉庫は人々の捧げものである穀物、香料、ぶどう酒、オリーブ油などの十分の一税が保管されていた重要な所です。 聖書によりますと、これらの捧げものは神殿で仕えるレビ人や聖歌隊員、ガードマンに支給すると定められていました。 ところが、そうした公的な場所を個人の客間として使ったのです(ネヘミヤ記13章4-5節参照)。

 バビロンから帰った知事ネヘミヤはその悪事を知らされました。 ネヘミヤは憤慨し、役人トビヤの持ち物を全部外に放り出したのです。 そして部屋をきよめさせ、神殿の器物、捧げものの穀物、香料、オリーブ油を元通りそこに戻しました。 それから、生活費が打ち切られて、礼拝の勤めをするレビ人たちが各々(おのおの)農地に引き揚げていたのですが、直ちに呼び戻し、本来の職務につかせたのです。 

 さて、ネヘミヤ知事から約500年後、イエス様は弟子たちとエルサレムに上られました。 そしして礼拝のために神殿に来られたのです。 すると神殿の庭には、牛、羊、鳩を売る者や両替え人たちが座り込んで商売に熱中していました。 イエス様は鞭を作り、羊や牛を神殿から追い出し、両替人の台をひっくり返し、鳩を売る者に言われました。 「ここから出て行け。 わたしの父の家を商売の家とするな。 わたしの家は祈りの家である。」

 知事ネヘミヤとイエス様の姿が重なって見えてきますね。 この世に「私のもの」と言うものはありません。 この世のすべては神様のものですから、私たちは良き管理者とさせていただきましょう。

 聖書のことばです。
 「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。」第一テモテへの手紙 6章9節 (口語訳聖書)

  ( PBA制作「世の光」2010.4.28放送でのお話より )

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■かけがえのないあなた

2010年04月27日 | Weblog
2010/4/27放送

 世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日爽やかに過ごしていきたいですね。 

 「かけがえのない」ということばは、「これはとても大切なもの」という意味ですよねえ。 先日、ある本を読んでいましたら、この「かけがえ」ということばが説明されていました。 この「かけがえ」ということばが最初に記録されたのは室町時代だそうです。 その意味は、「他のものと掛け替える」すなわち「取り替える」という意味だけのことばだったそうです。 ま、この壁にこの絵を掛け替えましょう、この額に取替えましょう、というような単純な意味ですよね。 何かのものをただ取り替えるという意味で用いられたのが「かけがえ」だそうです。 しかしこれが江戸時代になると「かけがえのない」という表現が定着するようになり、それと共に意味も「非常に大切な、すなわち他のものでは代用が効かない」という意味になっていったのだそうです。 「欠けたら他のものでは代用できない唯一の価値あるもの」、それが「かけがえのない」という意味なんですね。 

 私が私でならなければならない理由は何でしょう。 あなたがあなたでなければならない理由は何でしょう。 それは、一人ひとりが「かけがえのない」存在だ、ということです。 要するに、他のものでは代用が効かない大切な大切な存在なのだ、ということなんですね。

 まあ私たちは時々、失敗そして挫折そして失望が襲うとね、自分なんかいてもいなくてもどうでもいい、そんな投げやりな気持ちになることがあります。 自分なんて他のものと幾らでも代用・取替えが効くではないか、と考えてしまうことがあるかもしれません。 でも、あなたという存在は「かけがえのない」あなたなのですね。 

 なぜそう言えるのでしょう。 それは天地を創造された神様があなたに命を与え、あなたはどこを探しても世界中でたった一人の存在だからなんです。 あなたでなければいけないんです。 代用が効かない大切な存在なんですね。 

 イエス・キリストはある時、迷い出た羊を懸命に探し出す羊飼いのお話をなさいました。 谷底にくだり、命の危険を顧みず、必死になって迷子の羊を探すんです。 その羊飼いの姿こそイエス・キリスト御自身の姿でもあるんですねえ。 

 あなたは人生に迷っていませんか? 自分なんてどうでもいいと投げやりになって生きていませんか? イエス様は、かけがえのないあなたを捜し出して救おうと今も働いておられるんです。 「あなたのためにいのちを捨てても惜しくない」と言われる大きな大きなイエス様の愛で愛されていることを知ってください。 あなたは、かけがえのないあなた、なのですから。 

 (PBA制作「世の光」2010.4.27放送でのお話しより)

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■新旧交代

2010年04月26日 | Weblog
2010/4/26放送

 世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。 

 えー、4月というのは新旧交代の時だなあというふうに思わされますねえ。

 私はよくまあ森林公園のような所を散歩するんですが、冬の間もずうっとこう寒い中でしたけれども散歩をしてます。 本当にもう葉っぱはもちろん全部落ちてですね、もう何にもない、まさに枯れてしまったような木々の中をこう歩く。 で、下にはその落ちた落ち葉がですねえ段々腐っていくような状態な訳ですけれども。 そして今頃歩くとですねえ本当に新しいいのちの息吹にこう囲まれてですね、もうこちらまでもが新しいいのちに更にリフレッシュされていくような、そんな思いがする訳ですよね。 

 まあ社会的な仕組みの中でも卒業があって、そして新入生があって。 または退職する人があって、または新入社員がいてとかですね、定年になっちゃって方もいらっしゃるかもしれません。 いろんな意味で新規交代というものがですね社会的な営みの中にも、または自然の営みの中にもある訳でして、しかしそれは神様がお考えになった一つの仕組みなんだなあというふうにも思う訳ですね。

 新しいいのちが生まれることのために今迄のいのちが消えていくという、それが次のいのちに受け継がれていく。 次のいのちを与えるために自らのいのちを絶っていくと言いましょうかね、そういうふうな一つの仕組みを思う訳ですね。 私たちがこうして生かされているのも、いろんないのちからもらったいのちで生きているということができる訳ですけれども。

 イエス様はかつてこうおっしゃいました。 「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、いつまでも一粒のまま。 もし死ねば多くの実を結ぶのだ。」(ヨハネの福音書 12章24節参照)というふうに。 そうですよね、死ななければ多くの実を結ぶということはあり得ない。 イエス・キリストは御自分のことをそれはおっしゃったんですけれども、「多くの人々にほんとに滅びることなくって永遠のいのちを与えるためには、わたしは死ななければならない。」(と。) そして十字架の上で罪の償いとして死んでくださった。 そのことのゆえに私たちは滅びることなくって永遠のいのちを得ることができるという。

 死によっていのちが与えられる。 それは自然のそういう仕組みと共に、まさにイエス・キリストの十字架は私たちにそれを示している。 そんなふうに思うんですねえ。 

  ( PBA制作「世の光」2010.4.26放送でのお話しより)

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■はじめの一歩

2010年04月24日 | Weblog
2010/4/24放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか。 山中直義です。

 神様を信じてもどうせ何も変わらないのではないか。 聖書のメッセージを初めて聞くようになった頃、私の心にはそんな思いがありました。 旧訳聖書創世記に登場するアブラムという人物も初めて神様の語りかけを聞いた時は同じような思いでいたのではないか、と思います。 本当の神様を知らずに生きてきたアブラムにとって自分が知っている世界だけがすべてであった、と思うのです。 今更自分の人生が根本的に変えられるなどと思えなかったのではないでしょうか。

 そんなアブラムに神様は次のように語りかけられました。 創世記12章1節から3節のことばです。
 
 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

 この語りかけを聞いた時、「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」(創世記12章4節)と聖書は言います。 

 アブラムはこの時、神様のことばすべてを理解できた訳ではなかったと思います。 すべてが分かった訳ではない。 すべてを完全に信じ切れている訳でもない。 しかし神様のことばに不思議に導かれて、とにかく一歩踏み出した。 不安も戸惑いも恐れもあった。 そんな初めの一歩だったと思うのです。 しかしその後、アブラムは神様の約束が本当に真実であったということを体験していくことになります。 神様は人の思いを遥かに越えた良いことを実際にしてくださる。 そのことを味わい続ける幸いな人生があの一歩から始まったのです。

 どうせ何も変わらない。 そう思っていた私でしたが、とんでもありません。 もし神様を信じ、聖書のことばに従って一歩踏み出すなら、神様はとてつもなく良いことをしてくださいます。 神様を信じ、聖書のことばに導かれ、あなたも一歩踏み出しませんか? 

       (PBA制作「世の光」2010.4.24放送でのお話しより )

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  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
            (自由ケ丘キリスト教会内)



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■神のことばによって

2010年04月23日 | Weblog
2010/4/23放送

世の光の時間です。 お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 もう随分前のことですが、ある方に「岩井さん、聖書の一番最初にある神のことばって何だか知っていますか?」 そう尋ねられたことがあります。

 「もちろんですよ。 創世記1章1節の『初めに、神が天と地を創造した。』でしょう?」と答えたのですが、それは違っていました。 古い聖書(※新改訳聖書の旧版)の表紙の裏にはこんなことばがあったのです。 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(※1ペテロ1章24節-25節では「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」) これはイザヤ書(40章8節)にある神のことばです。 やられたあ、と思いましたね。

 しかし確かに、どんなに美しい花も草木もいつかは枯れ、散ってしまいます。 しかし変わることなく私たちの心に喜びと希望を与えるのは神のことば・聖書のことばなのですね。

 さて、このイザヤ書のことばをイエスの弟子ペテロがある手紙の中で引用し、こう書いています。
 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」ペテロ第一の手紙 1章23節から25節

 イエスの弟子として歩んだペテロはイエス・キリストが説き明かされる旧約聖書のことばを何度も何度も聞いたでしょう。 そしてイエス・キリストのことば・救い主のことばに彼は心を留め、生かされてかきたのです。 キリストの教会を導く指導者となったペテロは、人が新しく生まれ成長するのは神のことばによるのだと気が付き、そして何度も強調しました。

 かつては自分こそがキリストの十二人の弟子のリーダーなのだと自慢にさえ思っていたペテロでしたが、彼は自分がいかにキリストのことば・即ち神のことばを聞いていなかったか、を気が付かされ続けたのです。

 どんな失敗や過ちがある人も、神のことばによって新しい人生を始めることができます。 人が新しく生まれるのは神のことば・聖書によるからです。

 どうぞあなたもぜひ聖書を手にとってみてください。 そして自分へのメッセージとして、あなたにいのちを与える神のことばとして読んでみてください。 新しい人生は神のことばから始まるからです。 

   (PBA制作「世の光」2010.4.23放送でのお話しより)



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■訓練を受ける

2010年04月22日 | Weblog
2010/4/22放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。 今日のバイブルメッセージは「訓練を受ける」です。 それでは聖書の中のヘブル人への手紙12章11節から読んでみましょう。

 「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル人への手紙 12章11節)
 「訓練と思って耐え忍びなさい。」(ヘブル人への手紙 12章7節)

 信仰というのは一生かけたものです。 つまりそこには様々な試練が付きもので、信仰を持てば何もかもうまくいくなどというのは幻想に過ぎません。 人間、生きていれば何かしら喜ばしいことばかりではなく、悲しく思われることもあるものですねえ。 そして一難去ってまた一難、と次から次へと新しい試練に晒(さら)されると思うこともあるでしょう。 それは神様が私たちをいじめておられるのではなく、私たちの信仰の成熟のために訓練をレベルアップしていくためなのです。 初級編、中級編、上級編と物事が進んでいくように、私たちの信仰もステップアップしていく必要があるのです。 しかし多くの人はそこで、これはたまらん、とアップはアップでもアップアップしているのが現実ではないでしょうか。

 これは何が問題か。 一つは姿勢の問題です。 ヘブル(書)の著者が言うように、神は訓練を与えられるお方である、懲らしめを与えられるお方である、と様々な試練を神からの訓練としっかり受けとめる姿勢が出来ているか、の問題です。

 腹さえ決まっていれば物事に動ぜずに訓練と思って耐え忍べるものです。 しかし大方の人は腹が決まっておらず、こんな筈じゃなかった、とあたふたしてしまうのですね。 

 二つめに、「これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあるように、この訓練によって結ぶ実がある、としっかりとした信仰を持つことです。 私たちの苦しみは決して無駄にはならない、必ず豊かな実りを得るのだ、と目に見えない先を望み見る信仰に立つことですね。

 人間は歳とともに経験が深まるものでしょう。 試練が深まるのも当然のことです。 しかし一生をかけた訓練によって私たちの信仰は完成されていきます。 淡々と神からの訓練をこなしていく泰然自若(たいぜんじじゃく:ゆったりと落ち着いて平常と変わらないさま)の人生を歩んでまいりたいものですね。 

  ( PBA制作「世の光」2010.4.22放送でのお話より )

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■信仰による善行

2010年04月21日 | Weblog
2010/4/21放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしですか。 板倉邦雄です。 今日は「信仰による善行」という題でお話ししましょう。 

 「念仏往生」ということばがあります。 どんな悪人でも「南無阿弥陀仏」と一念仏を唱えただけで極楽浄土に生まれるという思想です。 そこで、どんな悪行をしても大丈夫、という教えが流行したと言われます。 しかしそれは誤った考えですね。  聖書でも、イエス・キリストを信じる信仰によって誰でも救われる、と教えています。 だったら善行は必要ではないかというと、そうではありません。 信仰による善行が求められています。 旧約聖書のネヘミヤ記の続きです。   さて、神様の律法の書を開き自分たちの罪や悪を示されたイスラエルの人々は、神様の前に罪の告白の祈りを捧げました。 そして神様への信仰の回復は次に善行へと人々を駆り立てていったのです。 神様に喜ばれる七つの約束をし、実行へと移しました。

  その七つの約束とは、
  一、異教徒との結婚はしない。
  二、神様を安息日には礼拝し、売り買いはしない。
  三、七年目の安息年には借金を帳消しにする。 --- 貧しい人々が奴隷にならないためでした。
  四、神殿を維持運営するために捧げものをする。
  五、供え物をするための材料を提供する。
  六、収穫の初なり---その年の最初の収穫物---を捧げる。
  七、すべての収穫の十分の一を捧げ、神殿で働く人々を養う。

  以上の七つの約束をし、実行することにしたのです。 神様を信じるということは、必然的に善行が生み出されてくるのです。

   私の知り合いで酒に飲まれた人がいました。 夜のベンチで寝て、ある時には殴られて顔を腫らして家に帰った、と聞いています。 クリスチャンの奥様はハラハラしながら神様に祈り続けました。 六十代になって思いもかけぬ重病になり、病床で心を入れ替え、退院後妻と共に神様を礼拝に来るようになりました。 それ以来、新しい人生が始まりました。

   聖書のことばです。  「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」 エペソ人への手紙 2章 10節

  ( PBA制作「世の光」2010.4.21放送でのお話より )

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■キリストにとどまる

2010年04月20日 | Weblog
2010/4/20放送

 世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日爽やかに過ごしていきたいですね。 

 新約聖書ヨハネの第一の手紙2章28節のことばを紹介します。 「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。

 このヨハネがこの手紙を書いた頃、ちょうど紀元80年代後半から90年代の初めと言われますが、この時代はローマ帝国によってクリスチャンたちが少しずつ迫害されていった時代でもありました。 一方、教会の内部では、こともあろうにキリストに敵対する者、ま、キリストにとって代わろうとする偽キリストが出てきた、というんです。 教会では外からの迫害の手が忍び寄り、内側ではキリストにとって代わる偽キリストのような者が現れていったっていうんですねえ。 この手紙を書いたヨハネはどれほどこうした状況に心を痛めたことでしょう。 彼はこのような状況を見て、「今は終わりの時だ」と言ったんです(※)。

 しかし彼が「終わりの時」と言ったのは、ああもうだめだ、という諦めのことばではありません。 私たちが「終わりだ」ということばを使うと、「もうだめだ、諦めよう」というような意味で使いますよね、「一巻の終わり」なんてことばも使いますしね。 でもヨハネが「終わりの時」と言うのは、そういう否定的な意味で使ったのではないんです。 聖書が「終わりの時」ということばを使う時は、必ず次に神様の栄光に輝く時が来る、ということが前提になっているんですねえ。 イエス・キリストに信頼する者はどんな困難があっても最終的にはイエス・キリストによる勝利が、栄光が与えられる、と確信しているんだと言うんですよ。

 これはねえ私たちの人生においても実は同じなんです。 私たちはいろんな困難に遭います。 そして死を考えると「ああすべての終わりだ」と考えてしまいます。 しかし聖書は、死は人生の終わりの時であるけれども永遠の時の始まりでもあるのだ、と教えます。 要するに、人生の死という終わりの時ですらそれは通過点だ、と教えるんですね。 そしてその先には神の栄光が待っている、と言うんです。

 ヨハネは内に外にある困難な状況を見た時に、危機感にあおられ、ガンバレ! がんばらなければ教会が潰れてしまうぞ! しっかりしろ、と叱咤激励したでしょうか。 そうしませんでした。 ヨハネはこうした中にあってイエス・キリストによって与えられている事実に目を留めながら、その事実の中に留まり生きていきなさい、と冷静に語るんです。 どんなことがあっても変わらない事実があるんですねえ。 何でしょう。 それは信じる者を決して見放さず捨てることのないキリストが共にいてくださる、ということです。 そして私たちはこのキリストの中に留まって生きていく、これが勝利の秘訣です。 

 ※ 1ヨハネ 2:18 「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」

 (PBA制作「世の光」2010.4.20放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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