♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■健やかでいなさい / 藤本 満

2024年04月27日 | Weblog

2024/01/13放送/

 「世の光」の時間です。神奈川県川崎市にあるインマヌエル高津教会の牧師、藤本満です。
昨日の放送では新約聖書マルコの福音書の5章から、12年出血の病気にかかっていた女性のお話をしました。今日はその続きです。

 女性はイエス・キリストの噂を聞いて思っていました。「この方の衣にでも触れれば、きっと癒やされる」。そして勇気をもって一歩踏み出しイエスに触れました。

 この出来事はこう閉じられています。5章34節
 「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰が あなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」

 この最後のことば、「苦しむことなく、健やかでいなさい」について考えて見ましょう。
  私たちは病気と隣り合わせに生きています。持病があり、突発の病があり、何年も、また次から次へと。それはこの女性も同じでありましょう。
 しかし彼女は病を癒す権威を持っておられる救い主に出会いました。人生はそこから根本的に変わりました。

 私たちの人生は例えて言えば、大きな洗面台の前にモップを持たされて立っているようなものだと私は考えています。何かの出来事で蛇口が一気に開かれます。そこから不安や疑い、怒りや心配の水が勢いよく音を立てて流れてきます。あいにく洗面台の栓は閉められています。勢いよく出てくる不安にパニックになります。しばらくすると水をモップで拭いている自分がいます。この世で苦しむことなく健やかな人生というのは、あまり現実的ではありません。
 
 しかしイエスのもとにいくと蛇口を閉めてくださいます。仕事や人間関係、家族のことなど、自分では閉められない蛇口はたくさんあります。でもイエスはそれを閉めてくださり、洗面台の栓を抜いて、溜まった水を流してくださいます。人生の患いの大元との蛇口を閉めてくださる方。女性はそのイエスに出会いました。これから先も病気になるでしょう。しかし、またこの方に触れる、また触れていただければいいのです。私たちもまた、そのようにイエスのところに来ます。


 ( PBA制作「世の光」 2024.1.13放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■勇気をもって踏み出す / 藤本 満

2024年04月26日 | Weblog

2024/01/12放送

 「世の光」の時間です。神奈川県川崎市にあるインマヌエル高津教会の牧師、藤本満です。
昨日の放送では新約聖書マルコの福音書の5章を見ました。今日はその続きに出てくる、12年もの間、出血の病気を患っていた女性のお話です。

 その女性は多くの医者にかかりながら良くなるどころか、かえって悪くなり、どんどん貧しくなって町の外のスラムに住むようになりました。イエスが通られると聞いて、どさくさに紛れてイエスの衣に触ると、イエスから力が出て女性は癒やされました。

 群衆の中には元気な人もいれば、悩みを抱えた人もいたことでしょう。しかしこの場面で癒やされたのは、この女性ひとりです。
 この出来事に登場する女性は、まさにあなたかもしれません。多くの人がラジオに耳を傾け、しかしイエスに触れた人はあなた一人であった、ということもあるでしょう。
 28節には「『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思っていた」と記されています。イエスの噂を聞いてから、ずっとそのように思っていたのでしょう。

 しかしこの場合、この女性が建物の陰に隠れて、ずっとそのような目で道行くイエスを見つめていても、「あの方の衣にでも触れれば」と何度思い巡らしても、癒やされなかったでしょう。重要なのは、勇気を出して、一歩踏み出したことです。とっさの行動であったでしょう。しかし勇気を出して一歩踏み出し、群衆に紛れてでも、後ろからでもイエスに触れました。

 信仰とは神の力に期待して一歩踏み出すことです。この当時は、出血の病であると、人に触れることも、触れてもらうことも許されていませんでした。すると、この女性はいつの間にか自分に対する劣等意識に染まっていったと思います。自分は神の恵みをいただく資格はない。病の苦しみに沈み、周囲から疎まれてきたのですから。
 しかし、この機会を逃すまい、と治りたい一心で手を伸ばしました。そしてイエスは触れられることを許されました。

 群衆から抜け出して、隠れていないで一歩踏み出してイエスに触れる、それが私たちの信仰です。それは今すぐにでもできることです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.1.12放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■正気になってイエスの前に座る / 藤本 満

2024年04月25日 | Weblog

2024/01/11放送/

 「世の光」の時間です。神奈川県川崎市にあるインマヌエル高津教会の牧師、藤本満です。
今日は、新約聖書マルコの福音書5章の初めに記されている出来事から、「正気になってイエスの前に座る」と題してお話しいたします。

 イエスは舟からあがられると、あまり人が行かない道を歩いて行きました。その道は墓場に通じていました。その道を行くことを人が嫌がるのは、墓場に悪霊につかれた男が住んでいたからです。凶暴で、鎖で縛りつけられて生きていました。石で自分の体を傷つけていた、と記されています。

 この男は私を象徴しているかのようです。精一杯努力しなが何の実りもない、まるでいのちのない墓場のような苦労だ、と思うことがあります。不安や疑い、うらみや怒り、ストレスという鎖に縛られていることも。懸命に生きているつもりが、実際は自分を生かすことができないかもしれません。

 イエスは墓場に住んでいる男に取り憑いている悪霊に向かって、「この人から出て行け」とおっしゃいました。イエスが舟を下(お)り、墓場に通じる道を歩んで来られたのは、この男と出会い、解放するためでした。イエスはそのように私にも出会ってくださいます。

 物語の最後のほう、マルコの福音書5章15節に次のような場面があります。出来事の噂を聞いて、町の人々が彼の所にやってきました。すると何とこの男は「正気に返って座っていた」と記されています。正気に返ってイエスの前に座る、神の御前に座る。それは「世の光」の放送を聞くことかもしれません。近くの教会にいらっしゃることかもしれません。ただ座って、心を静めることだけではありません。人生の様々な出来事のただ中にあって、助けてくださった神に感謝する祈りもあります。解放された喜びを歌う讃美歌もあります。自分を傷つけることをやめて、自分を生かすために神のことばを神の語りかけを聞きます。
 
 もしあなたが自虐的に生きているなぁと感じたら、神の御前に座って、イエスのことばに耳を傾け、正気を取り戻そうではありませんか。


 ( PBA制作「世の光」 2024.1.11放送でのお話しより )


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■イエスを見つめ直す / 藤本 満

2024年04月24日 | Weblog

2024/01/10放送/

 「世の光」の時間です。神奈川県川崎市にあるインマヌエル高津教会の牧師、藤本満です。
月曜日から続けて、イエスをお乗せした弟子たちの舟が嵐で沈むばかりになる、という新約聖書マルコの福音書4章の出来事を見ています。今日はその出来事の最後のお話しです。

 「イエスを見つめ直す」と題をつけました。一瞬にして凪(なぎ)になった後のことです。マルコの福音書4章41節にこうあります。
 「彼らは非常に恐れて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろか。』」
イエスを見つめ直すことになります。

 起きてください、助けてくださいと叫びました。

 それに答えてイエスは、嵐を静めてくださいました。

 改めて自分の信仰の乏しさを実感しました。でも、物語はそこで終わっていません。

 「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか」
  と弟子たちは互いに言いました。

 この問いかけをもってイエスを見つめ直していくのが信仰者の人生です。
 見つめ直せばイエスの憐れみの深さを実感します。

 自分の人生に起こった事だけを見てイエスを見つめ直すのではありません。時にはお目にかかったこともない方の信仰体験談を読んで聴いて、イエスを見つめ直します。

 叫んでいるのは私ひとりではありません。アブラハムもダビデも叫びました。ペテロもパウロも叫びました。 そうしてイエスの愛の大きさ、真実の確かさを思い直すことを「信仰の成長」と言います。

 ロッククライマーは、ハーケンと呼ばれる金具を絶壁に打ち付けて命綱を固定しながら登ります。ふと登るのをやめて、下を上を見てみると、ハーケンが至るところに打ってあります。人生も絶壁のすごさだけを見つめるのではなく、そこに打ち込まれたハーケンのような祈りを見てごらんなさい。絶壁に自分で打ち込んだ祈り、私を支えてくれる人の祈り、そこに信仰をかけてふんばるとき、必ず引き上げてくださるイエスの力、イエスの力強さが働きます。


 ( PBA制作「世の光」 2024.1.10放送でのお話しより )


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■心にかけておられる / 藤本 満

2024年04月23日 | Weblog

2024/01/09放送

 「世の光」の時間です。神奈川県川崎市にあるインマヌエル高津教会の牧師、藤本満です。
今日は、昨日と同じ聖書の箇所から、「心にかけておられる」と題してお話しします。

 新約聖書マルコの福音書4章40節で、嵐に怯える弟子たちにイエスが語られました。
 「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」

 信仰がない――信仰を持つ以前も、またイエスに従うようになってからも、この課題を抱えています。弟子たちも、また私たちも人生に嵐が吹くと途端に信仰がなくなってしまったかのように不安を感じます。

 物語には、信仰がない、とまで言われてしまうことばがあります。
 それは嵐の恐怖で弟子たちが発した4章38節のことばです。
 「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」 

 死んでもかまわない――元のことばは「気にも留めない」の一語です。このことばはヨハネの福音書の10章にも用いられています。イエスはご自分を指しておっしゃいました。
 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」
 しかし当時の宗教家は、自分を優先して、何かあれば羊を置き去りにする雇い人の羊飼いだというのです。
 ヨハネの福音書10章13節には、
 「彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていない」とあります。

 「心にかけていない」――これが弟子たちが叫んだのと同じことばです。
 舟が沈みそう、イエスは私のことなど気にかけていない。

 イエスが気にかけていないなどありえません。良き羊飼いは羊のためにいのちを捨てるのですから。

 でも私たちはやっぱり嵐という現実問題に直面したとき、まるでイエスが気にもかけておられないかのように神の沈黙を経験することがあります。祈ってもなんの答えもない。しかも何年も、何十年も祈っているのに。そのようなうめきを、イエスを信じているキリスト者でも日常的に感じています。

 しかし、「世の光」を聞きながら十字架のイエスを見上げます。私のことなど気にかけていないのではない、この方は私のためにいのちをお捨てになりました。


 ( PBA制作「世の光」 2024.1.9放送でのお話しより )


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■イエスと共に船出する / 藤本 満

2024年04月22日 | Weblog

2024/01/08放送/

 「世の光」の時間です。今週は、神奈川県川崎市にあるインマヌエル高津教会の牧師、藤本満が担当します。
 今日は、新約聖書マルコの福音書4章35節から、「イエスと共に船出する」と題してお話しします。

 ある日、ガリラヤの湖の岸辺にいたイエスが、弟子たちに向こう岸に渡ろうとおっしゃいました。

 35節 「イエスは弟子たちに『向こう岸へ渡ろう』と言われた」

 でも、しばらくするとガリラヤの湖に突風が吹き付け、激しい嵐となり、小舟は沈むばかりになります。

 イエスを信じるとは、イエスを共に乗せて舟を出す人生のようなものです。順風満帆な時もあるでしょう。ところが嵐がやって来ます。必死に水を掻き出します。そして叫びます。

 4章38節
  「私たちが死んでも、かまわないのですか」

 この叫びは祈りです。祈ることは主イエスに向かって叫ぶことです。でもその時、気がつきます。そもそも「向こう岸へ行こう」と船出を促したのはイエスでした。私の人生の小舟にイエスは乗っておられます。
物語は、イエスが起き上がって波と風を沈めるというように展開していきます。

 注目したいのは、イエスを舟に乗せていても嵐は来る、舟は沈みそうになる、という現実です。

 私は以前、アメリカで小型ジェットに乗ったことがあります。離陸してすぐに、目的地は悪天候だとアナウンスがありました。着陸態勢に入ったとき、飛行機が回転しながら急降下というほどの嵐でした。
 そのときでした。ポンとアナウンスの音が鳴りました。「機長です。みなさん、あす土曜日のご予定はいかがでしょうか。私は息子と一緒に野球の試合を見に行くことを楽しみにしています。しばらく揺れますが、大丈夫です」
 絶妙なアナウンスでした。なるほど、機長にも家族がいる、明日がある。乗客と運命共同体、同じ飛行機に乗っているのです。

 人生の嵐にあっても、イエスも私の舟に乗っておられます。イエスが共にいてくださる、それを実感する力が信仰です。


 ( PBA制作「世の光」 2024.1.8放送でのお話しより )


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■無理矢理王に / 板倉邦雄

2024年04月20日 | Weblog

2023/12/02放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「無理矢理王に」という題でお話ししましょう。

 「無理が通れば道理引っ込む」ということわざがあります。道理を無視したことが世間に通用するようになれば、道理に適ったことは行われなくなってしまうという意味です。
 今日は、神の子イエス様を無理矢理、王様にしようとしたお話です。ヨハネの福音書の6章の14節から15節です。

 さてイエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々に給食した出来事は、そこに集まった人々を驚かせました。人々は口々に言い合いました。
 「ほんとうに、この人こそ世に来るべき預言者である」

 すなわち、ユダヤ人たちをエジプトの奴隷から解放したモーセのような預言者か旧約聖書に約束された救世主に違いない。ダビデ王の再来である、と興奮気味にパンの奇跡を味わった人々は語り合ったに違いありません。

 ユダヤの国は、今は二人の王様によって支配され、二人の王様に税金と貢物を納めていた時代でした。一人はローマ皇帝カイザルです。実際にはローマ政府に派遣された総督ポンテオ・ピラトのもとに支配されていました。
 もう一人は外国人のヘロデ王様によってユダヤは支配されていたのです。

 ですから長い間、自分たちの民族の中から来るべき救い主、ダビデのような王様の到来を待ち望んでいたのは不思議ではありません。
 ですから、病人や足の不自由な人を癒し、今また五つのパンと二匹の魚で人々の飢えを満たすこのイエス様こそ、私たちと私たちの祖国を外国人の支配から解放してくださるに違いない、と思ったのは当然でした。

 そのことにイエス様は気付いたのでしょう。しかも無理やりに力づくでもつかまえて王様に祭り上げようとしているのをイエス様は察しました。
 そこでイエス様は弟子たちを残して一人で山に退かれたのです。

 さて、神の子イエス様がこの世に来られた目的と使命は何でしたでしょうか。
 病人を癒すためでしたか? 飢えた人の腹を満たすためでしたか? 神の子イエス様がこの世に来られた目的と使命は、神の国の福音を宣べ伝えるためだったのです。

 聖書のことばです。
 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
               マルコの福音書1章15節


 ( PBA制作「世の光」 2023.12.02でのお話しより )


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■五千人の給食 その三 五つのパンと二匹の魚 / 板倉邦雄

2024年04月19日 | Weblog

2023/12/01放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「五千人の給食 その三 五つのパンと二匹の魚」という題でお話ししましょう。

 さていよいよ五千人の給食が始まります。子どもが持っていた食事用の五つのパンと二匹の魚です。ヨハネの福音書6章10節から14節まで。

 さてイエス様は弟子たちに命じられました。
   「人々を座らせなさい」

 山の麓には草原が広がっていました。そこに座った男の数だけで五千人です。子どもたちがいたということは、そのお母さんたちそして女性たちを含めますと、さらに多くの人々が草の上に座りました。

 そしてイエス様は子どもが提供した五つのパンを取り、感謝の祈りを捧げたことでしょう。
 「天の父なる神様、子どもがささげたこの五つのパンと二匹の魚を感謝します。
  このパンと魚を祝福してください」

 そして、そのパンを12弟子が持っている籠にちぎって入れました。
 そして座っている人々に分け与えられたのです。

 弟子たちは驚きと不思議の中で配り続けました。二匹の魚も同様にして、人々が望むだけ分け与えられたのです。どうやってパンが増え、どうやって魚が増えたのか、弟子たちも見ていた群衆も分かりませんでした。

 しかし分かっていたことがあります。五つのパンと二匹の魚しかなかったこと、そしてそれは小さな子どもがイエス様に提供し捧げたこと、そして自分たちは十分お腹がいっぱいになったという事実です。

 そして食事の後、イエス様は弟子たちに言われました。
 「少しでも無駄にならないように、パンくずのあまりを集めなさい」

 そこで弟子たちが集めると、五つのパンを食べて残ったパンくずは、十二の籠に一杯になったのです。

 さて、私たちは五千人の給食から幾つかのことを学ぶことができるでしょう。

 まず第一は、神の子イエス様は私たちの持っているわずかなものでもイエス様の元へ持っていくならば、豊かに祝福してくださるということです。

 第二に、それは自分のためだけではなく多くの人々の祝福となるということです。

 さらに第三は、神の恵みの豊かさを私たちは少しでも無駄にしてはならないということでしょう。

 余ったものを注意深く保存し、また管理し、使うべきではないでしょうか。


 ( PBA制作「世の光」 2023.12.01でのお話しより )


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■五千人の給食 その二 人生のテスト / 板倉邦雄

2024年04月18日 | Weblog

2023/11/30放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「五千人の給食 その二 人生のテスト」という題でお話ししましょう。

 私たちの人生は苦しみや楽しみだけではありません。神様は私たちにテストを課すようです。それは私たちの人生が苦楽だけではなく、神様の素晴らしさを味わうためでもあります。ヨハネ福音書の6章5節から9節です。五千人の給食の続きです。

 さてイエス様は目を上げて大勢の群衆が自分の方に集まって来るのを見ました。イエス様のことばや教えを聞きたい、また病める人は癒してもらいたい。人々は朝、自分の家を出てこの日の夕方まで山のふもとまでイエス様について来ました。昼食はどうしたでしょうか。夕食はどうするのでしょうか。帰りはどうするの? そんな後先は考えずに、人々はイエス様の後を我を忘れてついてきたのです。

 するとイエス様は弟子のピリポを試そうとしてこう言われました。
 「ピリポ、どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」
 
 するとピリポは、イエス様に即答します。
 「200デナリ --約200万円-- のパンがあっても、めいめいが少しずついただいても足りません」
 
 群衆を解散させて人々を家へ帰らせることだ。ピリポをはじめ弟子たちにとっては常識的であり、合理的な考えでした。

 そこへペテロの兄弟アンデレが口を挟みました。
 「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている子どもがいます。
  しかし、こんなに大勢の人ではそれが何の足しになるでしょう」

 とにかく、弟子のアンデレもピリポと同じように、自分たちの常識と合理的な考えからはみ出すことはできませんでした。私たちにはとても無理です。

 さてひるがえって、神の子イエス様は時々、私たちの人生にテストをされるということです。私たちの目には不可能で無理なことをチャレンジさせようとされるのではないでしょうか。
 それは人の常識や思いをはるかに超えた神の国の世界を経験させたいからです。私たちの人生をただ苦しみと楽しみだけで終わらせたくないのです。天の父なる神様を信じる人生がいかに驚異的であり、不思議なことであり、素晴らしいものであるか、ということを味わってもらいたいのです。


 ( PBA制作「世の光」 2023.11.30でのお話しより )


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■五千人の給食 その一 我を忘れて / 板倉邦雄

2024年04月17日 | Weblog

2023/11/29放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「五千人の給食 その一 我を忘れて」という題でお話ししましょう。

 今日から、神の子イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々の空腹を満たしたというしるし、すなわちサインをヨハネ福音書6章から見ていくことにします。
 第1回は、五千人の給食の場所と時と状況です。

 まず場所ですけれども、イエス様の一行はエルサレムの都からふたたびガリラヤ湖に帰ってきました。そして6章3節を見ますと、「イエス様と弟子たちはガリラヤ湖の近くの山に登られた」、と記されています。

 五千人の給食というしるし・サインが実行された場所は人里離れた山のふもとであったということです。 
 すなわち近くに魚市場もなければパン屋もない、人里離れた山の近くで行われたということなのです。

 では次にどのような時であったかということですが、4節には「時に、ユダヤ人の祭である過越の祭が間近になっていた」と書かれています。
 イエス様と弟子たちの思いは、過越の祭まではしばらく自分たちの身を隠しておこうという計画だったかもしれません。人々に会うために山に行く人はいないでしょう。
 また、聖書の他の福音書の並行記事からもわかることは、この五千人の給食の事件は、洗礼者ヨハネの殉教死後すぐに起こっています。ですから、ヨハネを殺害した暴君ヘロデを避けたかったからかもしれません。

 では第三に、どのような状況だったのでしょうか?
 ヨハネはこのように書いています。
 「すると、大勢の群衆がイエスについてきた。病人たちになさっているしるしを見たからである」

 多くの群衆がイエス様の一行を追いかけてきたのです。朝、出発して、やがて一日が終わろうとする夕方近くになっていたようですね。
 何と、ガリラヤの人たちは寝食も忘れるほどイエス様を熱烈に慕っていました。彼らはイエス様の教えを求めていました。病気の人や貧しい人という弱者をイエス様に助けてもらいたかったからです。
 その一心で我を忘れて、人里離れた場所で夜を迎えることになることも気にしなかったのです。

 私にもそのような主イエス様への熱い思いを与えられるように祈っています。


 ( PBA制作「世の光」 2023.11.29でのお話しより )


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