♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■人はくじを引く / 板倉邦雄

2018年07月31日 | Weblog
2018/6/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「人はくじを引く」という題でお話ししましょう。
 学級委員を決める時、クラスの中で決選投票となる場合がありました。最後に二人だけ残るというケースです。

 ところで、イエス様の12弟子の内1人の抜けた分の補欠選挙という状況になりました。弟子のペテロが次のように訴えました。
「そういうわけで主イエスが私たちの間を行ったり来たりしている三年の期間中、いわゆるヨハネの洗礼をイエス様が受けた時から始まって私たちを離れて天に挙げられた日に至るまで、終始私たちと行動を共にした人たちの内、誰か一人が私たちに加わって主イエスの復活の証人とならなければなりません。」

 主イエスの復活の証人の条件は前にも触れました。イエス様の伝道をはじめから目撃していること。イエス様の弟子たちと共に行動したことの二点でした。証人は自分の見たこと聞いたこと経験したことが何よりも重要なポイントになりますねえ。

 そこで弟子のペテロの提案に従って、会衆一同そこに集まった人々は話し合い、語り合った結果、バルサバと呼ばれたヨセフとマッテヤの二人を推薦して立てたのです。そして祈りました。
 「すべての人の心を御存知である主なる神様。この二人の内、どちらかを選んで、どうかお示しください。」

 それから二人のためにくじを引いた所、マッテヤに当たったので、この人が十一の弟子すなわち使徒の一人に加えられることになったのです。

 くじを引くとは今時分では選挙するということになるでしょう。人々の心はヨセフにもマッテヤにもキリストの弟子、使徒になって欲しかったのです。しかし使徒職の椅子は一つでした。そのためのくじ引きであり、決選投票の選挙だったのです。

 聖書の箴言という箇所に次のようなことばがあります。
 「人はくじを引く。しかしことを定めるのは主、神である。」(箴言16章33節 口語訳参照)
  また「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」とピリピ人への手紙2章13節にあります。(新改訳2017)

   (PBA制作「世の光」2018.6.26放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■弱さを認めキリストの愛に生きた矢嶋楫子 / 岩井基雄

2018年07月30日 | Weblog
2018/6/25放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 最後の週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は矢嶋楫子(やじま・かじこ)について学んでみましょう。

 3年前の熊本地震の時に被害の大きかった熊本県益城町で1833年、天保4年に生まれ育ったのが矢嶋楫子です。旧名は「かつ」でした。旧家に生まれたかつは、三人の子を持つ林七郎と結婚しますが、酒乱の夫に苦しめられ、命の危険に曝されます。夫の暴力に耐えかねたかつは自ら離縁を言い渡します。当時の良識に反する行動に世間も身内も冷たく対応します。そこでかつは自分にも与えられた3人の子どもも置き、単身東京へ行く決断をしました。上京する船の中、彼女はあなたに漕ぎ出そうと楫子(かじこ)と改名したのです。自立を志した楫子でしたが、10歳近くも年下の妻子ある書生との恋愛と出産を経験し、彼女は自分の弱さを痛感したのです。

 その中で出会ったのがキリスト教でした。楫子は宣教師メアリー・トゥルーと出会い、自分の罪を神様の前に認め、イエス・キリストを自分の救い主として信じ告白をしました。その後楫子は弱さを抱える人々に精一杯寄り添ったのです。40歳で教師となった楫子は貧しさゆえ身売りする少女たちを見、女子教育や禁酒運動に後半生をささげます。50代後半から現在の女子学院初代院長として、また日本キリスト教婦人矯風会初代代表として女性の教育と福祉に力を注ぎます。80歳代まで両方の運動を続け、弱い立場の人々に愛と希望を届ける生涯を歩み抜いたのです。

 命の最後まで地の塩たらんと生きた楫子の人生を作家三浦綾子は『我弱ければ』という本に描いています。自分の弱さを通し、人の弱さとも向き合い続けた楫子は何よりもキリストの力に信頼し、人々に愛を届け続けたのです。

 聖書のことば
  しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
          新約聖書 コリント第二の手紙 12章9節 (新改訳2017)

  PBA制作「世の光」2018.6.25放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神が与えた相続地 / 羽鳥頼和

2018年07月28日 | Weblog
2018/6/23放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書ヨシュア記13章にあるイスラエルの各部族に割り当てられた相続地についてお話しします。
 
 相続地とは神からその部族に与えられた土地で、代々その部族が住み続けることができる所です。イスラエルはヨルダン川の東側を自分たちの領土として支配することができました。13章にはそのヨルダン川の東側でルベン族、ガド族、マナセ族、それぞれに与えられた相続地が語られています。その所で聖書は、モーセがこれらの部族に相続地を与えたと語っています。実際にモーセは死んでおり、ヨシュアが指導者としてイスラエルを導いていました。しかし聖書は「モーセが」と語ることによって、神がかつてモーセに約束した通りに相続地をイスラエルの各部族に与えたことを教えています。

 相続地を与えてくださる神は、その地に住む者の生活を守り、そして祝福してくださいます。13章には神がイスラエルの民を守ってくださったことを思い出させる「占い師バラムをイスラエルの子らは剣で殺した」という一文が添えられています。このバラムとは敵国モアブの王バラクがイスラエルを呪おうとして雇った占い師です。バラムはイスラエルを呪おうとしました。ところが神はバラムにイスラエルを呪うことをやめさせ、却ってイスラエルを祝福することばを語らせたのです。神がイスラエルの民を守ってくださり、祝福してくださいました。

 また聖書は神がレビ人だけには相続地を与えなかったことを語っています。それはレビ人が神のために奉仕する人々だったからです。神は特別にレビ人のために配慮をされました。各部族の土地にレビ人の住む場所を確保し、食事についても人々の捧げ物によって満たされるように配慮されたのです。神はご自分のために働く者の生活のことも配慮されたのです。神は神を信じる者とその家族そしてその子孫に渡るまでずっと守りそして祝福してくださいます。

 聖書のことば
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
      新約聖書 使徒の働き16章31節 (新改訳2017)

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にご家族でいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.6.23放送でのお話より )
 
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■焦らず生きよう / 関根弘興

2018年07月27日 | Weblog
2018/6/22放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 「人の悩みのすべては一人きりで静かに部屋に座っていられないことから生じる。」これは哲学者のパスカルという人が言ったことばだそうですが、どうも落ち着きのない私にとっては深い響きのあることばです。

 どうでしょう、私たちはすぐに焦り、すぐに結論を出し、慌しく物事を進め、落ち着く間もなくまた次に進む、というそんなサイクルの中に生きているように思いますねえ。どこかでそんなサイクルを断ち切って、本当に心を静める時を選び取ることは忙しい時代だからこそ必要なことだと思います。

 聖書にこのようなことばが記されています。
 「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、
  静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
  しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

         旧約聖書イザヤ章30章15節(新改訳2017)に出て来ることばです。

 自らを顧み、心を静かにして神様を信頼し生きるなら力を得る、とこの預言者は語っていきました。しかしその預言者のことばを聞いた人たちはそれを望まなかったっていうんですね。彼らは、当時置かれた国の危機的な状況の中で、そんなのんびりしていられるか、心を静めてもそれが一体何が役に立つのか、そう考えた訳です。しかし結果的には彼らはその場その場の思いつきの連続の中で、結局大切な国を失っていきました。

 今朝あなたはどうでしょう。今大きな問題を抱えていますか? 困難に直面して出口が無いような失望の中にいますか? 苦しい病の中で辛い日々を過ごしていますか? なんだか毎日毎日、焦りだけが空回りしているそんなような思いの中にいますか? この一時だけでも、あなたのそんな焦りを手放しませんか。そしてこう祈るのです。「神様、あなたに信頼します。そして焦っている心を今、手放します。心を静かにしてこの時を過ごします。」 そして静かに目を閉じて数分間黙祷してみてはいかがでしょう。緊張した心も体もほぐしながらリラックスして、私の人生は神様の御手の中にある、と告白して生きていきませんか。聖書の約束は、立ち返って静かにすれば救われ、信頼すれば力を得る、と書いてあるのですから。

  (PBA制作「世の光」2018.6.22放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし 64 / 大嶋重徳

2018年07月26日 | Weblog
2018/6/21放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒第六戒に「殺してはならない。」(出エジプト記20章13節 新改訳2017)とあります。この戒めは 「生きよ、今日を生きていきなさい。」と言う神様の声が鳴り響いている戒めです。そして「今日を生きていきなさい」という声を聞いた者は、自分の人生は自分以外の誰かと互いに生かしあうことへと召し出されているんだなあ、と自覚が生まれてきます。そして生きることに疲れ果てた誰かの隣にすっと座り、その疲れと痛みに寄り添う者となっていったのです。「殺してはならない。」という第六戒に生きていこうとする人は、ただ単に殺さなかったらいいでしょという生き方ではなく、殺されそうになっていたり死にたくなってしまっていたりする誰かのために一緒に生きて行こうと声をかける優しい存在になるのです。そしていのちが大切にされていく社会を形成し、平和の問題を自分の生き方としてとらえることのできる人、世界に生きることの励ましを与え、平和の光を放つことになっていくのです。

 このように第六戒の「殺してはならない。」という戒めの目指すところは、生かされること、愛しあうことです。

 しかし現在、私たちの目の前には殺された被害者家族の感情が実際的にあることも事実です。第六戒はそんな被害者家族に「赦せ」と声高に叫ぶことや中絶に悲しみを抱える人に「堕胎は殺人だ」とだけ言う原理主義者になる事を求めてはいません。まだ自分でいのちを絶つことがいけないことだと知りながらも苦しみ悩み弱さの中で耐えられず自殺に心が惹かれていってしまう魂もいます。原理主義者の響きや生きづらさを抱えている人の心を生かしたりはせず、もっと追い詰めていくこととなるでしょう。

 第六戒の戒めの実践は、赦せない痛みを抱える家族の思いに執り成すことのできる神のことばはいかなるものか、という事を考え続けることです。悲しみに悲しみが重なる事が無いように、自分の手の及ぶ場所にどこへでも行き、どこまでも関わり、泣く者と共に泣き、社会的な執り成しを続けることも第六戒の放つ光の生き方です。あなたのそばに、大切な人の死を迎えて苦しみ悲しみを抱えている人がいるでしょうか。私たちは今日そんな方のそばに行って一緒に涙し祈る者でありたいと思います。

   ( PBA制作「世の光」2018.6.21放送でのお話しより )

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■みことばの成就するときまで / 福井 誠

2018年07月25日 | Weblog
2018/6/20放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「みことばの成就するときまで」です。 黙示録17章17節から読んでみましょう。
それは、神のことばが成る時まで、神はみこころが実現するように王たちの心を動かし、彼らが一つ思いとなって、自分たちの支配権を獣に委ねるようにされたからです。」(新改訳2017)

 先週から黙示録の内容も一挙に進んでしまいましたので、少し流れを説明する必要があるでしょうね。

 6章から七つの封印が解かれたり、七つのラッパが吹かれたり、七つの神の怒りの鉢がぶちまけられたりすることで、様々な災いが起こることが描かれています。それは終末に向かっていく人類やこの地上の姿を描いているのですね。飢餓、自然災害、戦争、疫病と様々な不幸な出来事が繰り返し強まって行き、やがて終わりがくる。

 そしてこの17章から新しい話題になり19章まで続いています。御使いがやってきて「大水の上に座している大淫婦に対するさばきを見せましょう。」(17章1節)と語っていますね。

 16章まではローマ帝国の迫害に苦しむキリスト者に対して、世の中はどんどん悪くなっていっても世の苦しみはいつまでも続かない、と慰めを語るのが中心でした。主の正しいさばきがあり、主の解放があるということです。17章からはキリスト者に対して苦しみを与えてきた張本人であるローマ帝国に対するさばきが象徴的に語られていますね。

 そして当時の迫害は地域差がありました。あるキリスト者が苦しめられ、あるキリスト者はローマ帝国の豊かさに安住している状況がありました。17章からはそうした豊かさに安住し、他の兄弟姉妹の痛みに無関心となり世の人々と変わらない世俗化の中にいるキリスト者に対する警告にもなっているのです。つまりサルデスやラオデキヤの教会に象徴されるような人々への警告ですね。

 御使いはヨハネに言います。「神のことばが成る時まで、」 世の中は神のご計画の中で動いています。神が語られた通りにすべて実現していく期間があるのです。ある人々は「神などいない。地上がすべてである。」と地上の権力に従う人生を歩んでいるかもしれません。しかしそうであってはならないという警告です。この世をお造りになり、この世の始まりと終わりを定めておられる神を認め、神に従う人生にこそ祝福があるのです。

(PBA制作「世の光」2018.6.20放送でのお話より )

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■その職務は他の者に / 板倉邦雄

2018年07月24日 | Weblog
2018/6/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「その職務は他の者に」という題でお話しします。

 職務というものは大切なものです。その職務が重要なポストであればなおさらですね。そのポストが空きになったら他の者がその職務に就かなくてはなりません。

 さて、その頃エルサレムの都の宿屋には120名ばかりの人々が一団となって集まっていました。そのときイエス様の弟子の一人のペテロが、集団の中に立ち上がって言いました。「兄弟たちよ。イエス様を捕らえた者たちの手引きになったユダについては聖霊がダビデ王の口を通して預言したそのことばは実現しなければなりませんでした。ダビデの詩篇にこう書いています。『その務めは他のものに取らせよ』と書かれています。弟子だったイスカリオテの出身のユダは私たちの仲間に加えられ財務の務めを授かっていた者でした。ところが不義の報酬である地所を手に入れました。何とその地所へまっさかさまに落ちて腹が真ん中から引き裂け、はらわたが皆流れ出る悲惨な死に方をしてしまいました。この事件はエルサレム全住民に知れ渡り、この地所は血の地所と呼ばれるようになりました。そのような地所に住む者は誰もいないでしょう。それも旧約聖書詩篇に書いてあることが実現するためでした。こう書いてあります。『その屋敷は荒れ果てよ。その地所には一人も住む者がいなくなれ。』」 (使徒の働き1章15~20節参照)

 弟子のペテロが人々の前で立って語りたかったことは二つでした。すなわち、十二弟子の一人ユダが不義の報酬でイエス様を裏切ることによって十二弟子の欠けた職務を他の者が引き継ぐことは旧約聖書に預言されていたということでした。

 この世界と人生は私たちが動かしているようですが、実はそうではありません。この世界と私たちの人生の営みは、すべて神とキリストの主権と支配そして計画の中にあるということです。

 イエスのことばです。
  「 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
       マタイの福音書 10章28節、29節 (新改訳2017)

   (PBA制作「世の光」2018.6.19放送でのお話より )

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■人々の痛みに届くものとされる / 岩井基雄

2018年07月23日 | Weblog
2018/6/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。前回は1万人を超える人たちの必要をキリストが満たされた後、弟子たちは帰りの舟で激しい向かい風に遭い苦しむ中、キリストが彼らに近づかれ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と書かれた所から学びました。キリストが舟に乗り込まれると、暴風雨も止まったのです。主が共におられる平安と祝福を弟子たちは経験しました。

 弟子たちの舟が向かっていたのはベツサイダでした。しかし舟は湖の反対側のゲネサレという地に到着したのです。予定外の出来事の連続でした。休むために出発した弟子たちは駆けつけた1万人以上の人々に仕え、帰りには嵐の中、一晩中舟を漕ぎ、疲れ果てた後、キリスト共にこのゲネサレに到着したのです。しかもそこにも人々がやってきました。弟子はなおも、キリストを必要とし病いからの癒しや苦しみからの解放を求めた人たちに、仕えることになったです。聖書はこう語っています。

 彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。
 そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。
 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

   新約聖書マルコの福音書 6章54節から56節 (新改訳2017)

 なおも人々に仕える弟子たちです。しかしなぜかここには弟子たちの記述がありません。一連の出来事の中で自分たちの無力さを認め、主の力を目の当たりにした弟子たちは自分を無にして病む人々を喜んでキリストの元に運び、癒され解放される喜びを共に味わっていたからではないでしょうか。神様は私をも人々に愛を届ける器として用いてくださいます。私たちも弟子たちと同じように、自分たちの無力さを認め、私たち自身が御子キリストの愛と力を豊かに味わって行きませんか? イエス・キリストはあなたを愛し、癒し、そしてあなたを愛の器として用いてくださるのです。

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■ふたつのパンの奇蹟 / 羽鳥頼和

2018年07月21日 | Weblog
2018/6/16放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書マルコの福音書8章でイエスが語られたパン種とパンの奇蹟についてお話します。
 イエスは弟子たちに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(15節)と言われました。パン種とはイースト菌のことです。聖書では人の罪に喩えられます。ここでもパリサイ人のパン種はユダヤ人の罪のことを、そしてヘロデのパン種はユダヤ人以外の異邦人つまり外国人の罪のことを言っています。つまりイースト菌のようにあっという間に膨らむ罪に気をつけなさい、と注意しているのです。それは罪が人に死をもたらすからです。


 続いてイエスは弟子たちに以前行なった二つのパンの奇蹟について質問をされました。「わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」 弟子たちは答えました。「十二です。」 続いてイエスは、「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」 彼らは答えました。「七つです。
 先のパンの奇跡はユダヤ人たちに対して行われ、後のパンの奇跡は異邦人すなわち外国人に対して行われました。イエスはこのパンの奇跡を弟子たちに思い出させたのです。これらのパンの奇跡で残ったパン切れを入れたかごの数の12も7も完全を表す数字です。このことは人々を満腹にした二つのパンの奇蹟が完璧なことであったことを示していると思われます。パン種のことを言って人を死に至らしめる罪に気をつけるように言われたイエスは、すべての人を救うことができる救い主であることを示されたのです。

 イエスは言われました。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」 新約聖書ヨハネの福音書6章51節
 パンを食べるとはイエスを信じることです。イエス・キリストを信じる者は永遠に生きるのです。ただ生きながらえるのではありません。神によって受ける素晴らしい恵みと神との親しい関係を保ちながら永遠に生きることができるのです。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

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■義のために迫害されている者は幸いです / 関根弘興

2018年07月20日 | Weblog
2018/6/15放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストがガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上で人々にお語りになった山上の説教と呼ばれているものがあります。その中でイエス様は、本当に幸いな人とはどのような人かということを教えてくださいました。今日はその幸いな教えの最後の8番目のことばを紹介しましょう。
 「 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイの福音書5章10節  新改訳2017)
 
ここで言われている「義のために迫害されている者」とはこれはイエス・キリストを信じる信仰のために迫害されている者と言い換えることができます。キリスト教会の歴史を見ると、4世紀の初めの頃まで特に非常に激しい迫害を教会は経験しました。パウロという人はピリピ人への手紙1章29節で、「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」と書いています。どういうことかというと、イエス・キリストを信じて生きるからこそ生じる苦しみがある、とパウロは記しているんです。

 私たちは信仰を持って生きて行くとき、社会の中でいろんな葛藤を覚えることがあるかもしれません。時には理不尽な仕打ちを受けるということが起こるかもしれません。私たちはいろんな葛藤や苦しみを経験するとき、ただ、ああ自分は何と無力なんだろう、自分の無力さを思い知らされるのではないかと思います。そして思わず「神様、助けてください!」と神様に呼び求める以外にはなすすべがないということを知るのです。

 それはイエス・キリストがこの山上の説教の最初に挙げられた幸い、それは神様以外に頼るべきものが何もないという、「心の貧しい人は幸いです。」という所にまた戻って来るんですね。

 イエス・キリストが教えられた幸いの教えというのは、一つ一つが独立しているのではなく生活の中で循環されていくものなんです。私たちは神様に助けを呼びながら、また辛い悲しい涙を流すこともあるでしょう。でも主の慰めを受けながら歩んでいくことができるんです。そして「天のお父さん」と親しく呼び求めることができ、神様との平和に生かされていくとき、イエス様が教えられた失われることのない幸いに歩むことができるんです。

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