♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して70年、
PBA『世の光』を文字で 

■父とふたりの息子のたとえ話 / 羽鳥頼和

2021年01月30日 | Weblog

2020.8.8放送

 世の光の時間です。お聴き下さりありがとうございます。羽鳥頼和です。放蕩息子の話をご存知でしょうか。イエス・キリストが語られた喩え話です。この喩え話は父親と彼の二人の息子の話です。

 ある人に二人の息子がいました。弟の方が父親に、自分が相続する分の財産を今、分けて下さい、と言いました。すると父親は財産を兄弟それぞれに分けてやりました。

 すると弟は、自分が受け取った財産を持って、遠い国に行ってしまいます。そこで彼は放蕩の限りを尽くして全財産を使い果たしてしまいます。無一文になった彼は、我に返って、父親の所に帰る決心をします。

 ボロボロになった弟息子がまだ実家から随分離れていた時、父親は、遠くに弟息子が帰って来るのを見つけると、可哀相に思い、息子の所まで走って行き、口づけして綺麗な服を着せて、子牛を美味しく調理して食べさせました。

 さて、帰ってきた弟とそれを喜んでいる父親を見た兄息子は怒ります。そして父親に言いました。「長年の間、私はあなたにお仕えし、あなたの命令を破ったことは一度もありません。その私には今まで子ヤギ一匹下さってこともありません。それなのに、あなたの財産を食い潰した息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を与えるのですか。」

 兄は、(父親が)弟をひいきして自分には何もしてくれない、と不満を言っています。彼は父親が自分にもたくさんの財産を与えてくれたことを忘れています。

 父親が弟と兄を同じように愛しているのに、弟も兄も父親の愛に気付いていなかったのです。

 イエスはこの喩え話で、神の愛を教えています。神はこの父親のように私たちをいつも愛して、一緒にいることを喜び、ご自分のものを惜しまず与えてくださるお方です。神はあなたの人生を良いもので満ち足らせてくださるお方です。たとえ人が神から離れてしまっても、その人が帰ってくるのを待っておられるお方です。

 神はあなたを愛しておられます。


   ( PBA制作「世の光」 2020.8.8放送でのお話より )
 
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■イスカリオテのユダ / 関根弘興

2021年01月29日 | Weblog

2020/8/7放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。

 イエス様は、その口に偽りがなく、何一つ悪いことをされなかったのに、当時の宗教家たちの妬みの故に逮捕されてしまいました。その手引きをしたのがイエス様の弟子の一人であったイスカリオテのユダでした。

 イスカリオテとはケリオテの人という意味です。ケリオテはユダヤ地方にある町でした。他の弟子たちの多くは当時蔑まれていた田舎のガリラヤ地方の出身者でしたからユダは何となく優越感を抱いていたかもしれません。 また彼には経済的な才覚があったようでした。彼はイエス様の十二弟子の一人に選ばれ、イエス様と苦楽を共にし、素晴らしい教えや様々な奇跡的なみわざも目撃してきました。 しかし、ユダの内に次第に裏切りの心が芽生えて来ました。

 マタイの福音書の26章にはこう書かれています。
 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。   (マタイの福音書 26:14,15,16)
こう書かれています。

 イエス様はユダの心を見抜いておられたので、最後の晩餐の席で「この中に私を裏切る者がいる」と言われました。でも決してユダを名指しすることをせず、他の弟子たちに分からないように、方向を変えて悔い改めて生きるチャンスをユダにお与えになっていました。

 しかしユダは裏切りの手引きを実行するために出ていってしまいました。 ユダはイエス様を逮捕するための合図を決めていました。それは、「私が口づけをするのがその人だ。その人を捕まえるのだ。」と祭司長たちに言っておいたのです。 ユダはイエスに近づいてきました。

 その時にイエス様はユダに、「友よ。何のために来たのですか?」と言われたのです。もちろんイエス様はユダが自分を捕らえるために手引きをしていることはご存分でした。しかしイエス様はここでも、ユダが犯そうとしていることの愚かさを何とかして悟らせようとしておられるのです。イエス様はユダの人生そのものを案じておられるのですねえ。
 そしてイエス様はラジオを聴いておられるあなたの人生に対してもいつも最善を願い、あなたの人生を案じておられる方なのです。

      (PBA制作「世の光」2020.8.7放送でのお話しより)
 ***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■ルカの福音書27-  「みことば」というごはん / 大嶋重徳

2021年01月28日 | Weblog

2020/8/6放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。羊飼いがマリヤとヨセフの夫婦の所にやって来て、天使が野原で自分たちに告げたことを伝えました。するとマリヤはこれらのことをすぺて心に納めて思いを巡らしていた、とあります。マリヤのように心に納め思いを巡らすとき、自分の人生に起こったことの点と点が一つの線となって繋がっていくことを経験します。ああ、この出来事の意味はあの祈りをしたことを神様が聞いてくださったからなのか、と一本の線となっていくのです。

 神様のなさることを刺繍に例えた人がいます。刺繍は一見、後ろから見るとぼんやりとしていて、その柄がはっきりと分かりません。しかし一旦表を向けると鮮やかな柄が見えてきます。

 心に納め思いを巡らすということは人生の点と点を線に繋いでいく作業です。そして線と線を繋いで鮮やかな一つの面を見ていく作業となるのです。

 神様は無駄なことをなさらず、良くしようとしてくださる神です。

 しかし私たちは、心に納め思いを巡らす時間を失うならば、私たちは誤った神観、自分の思い込みから作り上げた神を誤解したままにすることがあるのです。

 多くの人が驚いて早く判断してしまうときに、自分の時間を神に捧げる沈黙の時を持つ、あるいは文字にして気づいたことの意味を書き起こすのです。そして自分の人生の中でその意味を深く心に納めていくのです。

 私にとって自分と神様の関係を育てられたなと思うのは、この静まる時間を持つことでした。

 皆さんは一日の中で静まりをしているでしょうか。一日を思い巡らし、自分に起こった出来事を神様の眼差しの中で受けとめるということをしているでしょうか。朝に夕に聖書の前に座り、一日を思い巡らし、自分に起こった出来事を神様の眼差しの中で受けとめるということをしているでしょうか。

 この世の光のラジオの時間もその時間の一つであるかもしれません。ただ朝に夜に聖書を読んでも一向に心に響かないということもあるでしょう。パタンと聖書を閉じた瞬間にどこを読んだかも思い出せないということがあります。しかしそれでも良いのです。みことばというご飯を食べていれば死にません。はっきり言って、私たちは昨日のご飯を覚えていなかったりもします。食べたかな?と食べたことも忘れることがあります。しかし、食べていれば死なないのです。感謝なことに聖書のことばを食べ過ぎて身体に悪いということはないのですから。

    ( PBA制作「世の光」2020.8.6放送でのお話しより )

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■くびきに首を差し出す / 福井 誠

2021年01月27日 | Weblog

2020/8/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われるものがあります。今聖書を開いてまいりましょう。エレミヤ書27章12節から「くびきに首を差し出す」と題してメッセージをお伝え致します。

 ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに言った。
「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。

 このエレミヤの預言はユダの王ゼデキヤに向けて語られたものです。紀元前597年、ユダ南王国がバビロンとの戦争に敗れて、沢山の捕虜がバビロンに連れ去られた第一回バビロン捕囚の時のことでした。

 ユダ南王国バビロンの属国となった訳ですが、エドム、モアブ、アモン、ツロ、シドンなどの近隣諸国はユダ南王国に外交使節を送り、同盟を呼びかけ、反乱を企てようとしていました。

 そこに預言者エレミヤが現れ、同盟を結ばないように、つまりバビロンのくびきに甘んじて属国のまま歩むことが神の御心である、と語るのです。

 しかし当時のイスラエルの人々は、バビロン捕囚が速やかに終わり独立国家が回復されることを強く望んでいました。そんな訳でエレミヤの預言は歓迎されず、耳を貸す者は誰もいませんでした。

 しかしその状況は今の時代にも起こることなのかもしれませんね。というのは、人は誰でも自分の耳に良いことには耳を傾け、耳ざわりの悪いものには聞こうとはしないものでしょう。やはり、あなたの人生は良くなるのだという話には耳を傾けても、これからまだまだ苦難は続くし、その苦難を受け入れて生きなさい、しばらくは辛抱ですよ、などということばにはなかなか応じられないものでしょう。  けれどもしばしば神は人に、忍耐の時を過ごさせることがあります。なぜそうされるのか、理解に苦しむ所ですが、人生にはそのような現実もあるのです。

 もちろん神に悪意はありません。神は善なる方ですから理解し難いその御心に強いられていると思われる時があってもやがて最善の結果になる、と信じたいものです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.8.5放送でのお話より )

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■会堂から講堂へ / 板倉邦雄

2021年01月26日 | Weblog

2020/8/4放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「会堂から講堂へ」という題でお話ししましょう。使徒の働き19章の続きです。

 さてパウロはいつものように安息日になりますとユダヤ人の会堂に入り、3ヶ月の間、大胆に神の国について論じ、神への悔い改めと主イエス・キリストを信じるように勧めました。

 神の国とは、神の民が神の場所で神の支配と祝福を受ける世界ではないでしょうか。イエス様のこの地上での人々への最初の勧めのことばは「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。神の民となり、神の支配と祝福に与るには、悔い改めと信仰だったのです。

 このことは神の選民とされたユダヤ人にとって小さな頃から教えられてきたことでした。ところが心を頑なにして神の国の支配と祝福を受け入れようとはしませんでした。むしろ会堂に集まった会衆の前で、神の国の福音について足ざまにけなしたりしたのです。

 そこでパウロはイエス様を信じ受け入れた信徒たちを引き連れて、反対者や妨害者たちから離れ、ティラノにある集会場を移転しました。その講堂は誰もが使用できる集会場のようでした。パウロはそこを伝道の拠点として二年間働きを続けたのです。エペソ周辺の小アジアの人々はユダヤ人もギリシャ人も皆、主イエスのことばを聞きました。

 私も26歳で開拓伝道をしましたので集会場の問題は伝道する上で大きな課題でした。反対者や妨害者から離れながら5回移動したことになります。

 私たちの人生はある意味でこの世では旅人であり寄留者ではないでしょうか。ですから荷物は少なくし、また無用なあ争いはなるべく避けて大事な人を守りながら、あるいは家族を守りながら歩んで行きたいものですね。

 聖書のことばです。
 「あなたがたは旅人 寄留者なのですから魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」
        ペテロの第一の手紙 2章の11節

  (PBA制作「世の光」2020.8.4放送でのお話より )


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■主に信頼する平安 / 岩井基雄

2021年01月25日 | Weblog

2020/8/3放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
第一月曜日の今日は詩篇116篇の後半から、主に信頼する平安に心を留めてみましょう。

 この詩篇は死の不安や絶望的な苦悩から救い出された作者の感謝の歌です。詩人の苦悩の原因は重い病気だったようです。作者はその病の中にあって神様への祈りを忘れていませんでした。そしてその祈りの中でも自分の心の内にある恐れや不安を隠しません。そしてその痛みの中から彼は目を神様に向けました。今日の詩篇をお読みします。

「まことに私は語ります。 私は大いに苦しんでいました。 … 私は救いの杯を掲げ 主の御名を呼び求めます。 私は自分の誓いを主に果たします。 御民すべての目の前で。 … 主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。 ああ 主よ 私はまことにあなたのしもべです。」
   旧約聖書 詩篇 116篇 10節、13節から16節 

 死の恐怖が自分を襲う中、作者は神様を呼び求め、受け取った救いの喜びを表し、自分の誓いを果たす、と宣言しています。その背後には、神様の主権にすべてを委ねた平安が描かれています。自分が神様のしもべにすぎないことを告白し、神様の御手に自分の存在、死の現実をも含め、すべて委ねたのです。

 主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。それは物事を見る作者の視点が、自分からではなく神様からの視点に移ったということを示しています。彼は、神様が愚かな者をきよめて聖徒とし、価値の無い者を尊い者としてくださった、その主である神様の深い恵みを感謝しているのです。

 作者はこう続けます。

 「私はあなたに感謝のいけにえを献げ 主の御名を呼び求めます。 私は自分の誓いを主に果たします。 御民すべての目の前で。 主の家の大庭で。 エルサレムよ あなたのただ中で。 ハレルヤ。」
   詩篇116篇 17節から19節

 重い病から癒やされた感謝とともに神様に自らの人生を委ね、神への誓いを誠実に果たす決意と賛美の勝利が歌われています。私たちも正直に、悲しみも苦しみも神様に申し上げ、そしてすべてを委ね、明け渡す勝利と平安を受け取り続けたいと願っています。


  (PBA制作「世の光」 2020.8.3放送でのお話より ) 
 
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■主に信頼する平安 / 羽鳥頼和

2021年01月23日 | Weblog

2020/8/1放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 私は去年、おととしと、心臓の手術をしました。およそ二年以上具合が悪い訳です。永く身体の調子が悪いのは大変です。もし身体の不調・病気が10年、20年と続いたらどうでしょう。聖書には18年間も具合の悪かった女の人がイエス・キリストによって癒やされた奇跡のことが記されています。 聖書は、その女性が18年も病の霊に憑かれ、腰が曲がって伸ばすことが出来なかった、と記しています。この人は腰が曲がってしまう病気だったようですが、聖書はその病気か病の霊に憑かれているためであったと記しています。

 イエスは女の人を見ると、「女の方、あなたは病から解放されました。」と言われてから彼女に手を置かれました。すると彼女は腰を伸ばして神をほめたたえました。

 ところが、病の癒やしを行なったのが安息日だったので、安息日に病気の治療を行なってはいけないと考えていた会堂司は、イエスに病気を治してもらおうとやってきた人々に怒って言いました。「安息日以外の六日間の間で癒やしてもらいなさい。」

 するとイエスは会堂司に言いました。
「この人も信仰の父であるアブラハムの子孫です。それを18年もの間、サタンが支配していたのです。この束縛からの解放こそ安息日に相応しいではありませんか。」

 このように病を癒やし、病の霊から解放されるイエスはまことの救い主です。キリストはあなたをも救ってくださいます。そしてあなたに幸せな人生を与えて下さるのです。 
 聖書のことば
 「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し、あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満ち足らせる。」
      旧約聖書 詩篇103篇3節から5節

 それではまたお聴きください。 

      (PBA制作「世の光」2020.8.1放送でのお話しより)
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■ペテロの抵抗 / 関根弘興

2021年01月22日 | Weblog

2020/7/31放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 イエス様が逮捕される前、オリーブ山の麓にあるゲッセマネという所に行かれ、これまで弟子たちが見たことのない苦しみの形相でイエス様は苦しみ悶えながら祈られました。しかしイエス様はそこではっきりと、ご自分が人々の罪の身代わりのために十字架につくことこそ神の御計画であるということを確信し、十字架への道をまっすぐに進んで行かれるのです 。

 イエス様がゲッセマネで祈り終わった直後のことです。近くで待っていた弟子たちに、「立ちなさい。さあ行くのです。」と言われました。

 ちょうどその時、十二弟子の一人であるユダが一隊の兵士と祭司長・パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて灯火と松明と武器をもってやってきました。

 当時のユダヤの指導者たちは軍隊を持っていませんでした 。ですから一隊の兵士とはローマの軍隊で、ま、通常は600人の隊を表す言葉です。イエス様一人を捕まえるためにユダヤの宗教指導者や役人だけではない、ローマの兵隊たちも何百人も動員されたというわけですね。それそれが灯火と松明と武器を持ち 、騒然とした雰囲気が立ち込めていたことでしょう。

 ユダはイエス様を逮捕するための合図を決めていました。それは「私が口付けをするのがその人だ、その人を捕まえるのだ」と言っておいたからです。ユダはイエスに近づき口づけしました。それが合図となり辺りは騒然となったのです。

 その時、弟子のペテロが剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としてしまったんです。するとイエス様はペテロにこう言われました。
 「剣を元におさめなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と 。

 イエス様がなそうとする救いのみわざは武力を用いて達成するものではありません。イエス様は自分を捕らえるために来た大祭司のしもべの耳の傷をその場所で癒やされたのです。 弟子たちはなすすべがありませんでした。もはや散っていくしかありませんでした。

 イエス様の救いのみわざは、こうしてイエス様が逮捕され、蔑まれ、たった一人で十字架への道を歩み、なされていくのです。


      (PBA制作「世の光」2020.7.31放送でのお話しより)
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■ルカの福音書26- 立ち止まって / 大嶋重徳

2021年01月21日 | Weblog

2020/7/30放送
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ルカ福音書を順番に読んでいます。羊飼いがマリヤとヨセフの夫婦の所にやってきて、天使が野原で自分たちに告げたことを伝えました。するとマリヤは、これらの事をすべて心に納めて思いを巡らしていた、とあります。マリヤにとって想像もしなかった出来事が余りのスピードで彼女の人生に押し寄せてきたからです。

 ここで思い出すのは、「おことばどおりこの身になりますように」というマリヤの一年前のことばです。神のことばが自分の身になる・・・まさに神のことばと現実の生活をつなぎ合わせることで彼女の人生は支えられていったのです。ああそうだ、私はあなたの前で「おことばどおりこの身になりますように」と言ったな、と。そうでなければ自分の人生に起こった出来事を受けとめきれないような人生となったでしょう。

 信仰とは、神様のことばを聞きながら私たちの日常でバラバラに分かれているものを一つにつなぎ合わせていくんです。信仰とは、魂・心の内側のことだけではありません。日曜日の礼拝では、本来私たちがすべきこと、それは過ぎ去った一週間をきちんと思い巡らすことです。月曜日から順々に自分に起こった出来事を思い起こし、一つのこととしてつなぎ合わせることが大切なのです。

 今週、皆さんの生活で何が起こりましたか? 何にもないように見える毎日の中で、実はそこで起こっている出来事の意味を思い巡らすことが大切なのです。

 実は一日として同じ一日などありません。今あなたの心にかかっている出来事は何でしょうか。それがあなたの人生にとってどんな意味があるでしょうか。そこに神のことばがどのように語りかけられ、あなたはその決断をするように神に促されていることがある。
 皆さんの通り過ぎていった人生の出来事あるいは心の深くに押し込んでしまって、そこに神様から自分がどのように取り扱われたのかを深く考えないままで通り過ぎてしまった出来事がきっとあるでしょう。

 今日私たちは忙しく歩いているところから立ち止まりたいと思います。意味を問わずに、神のことばとつなぎ合わせることをしないまま過ごしたこと、なすべき決断があると知りながらもなお先送りしようとしていたことに、立ち止まり考える時を持つのです。そのとき私たちはなすべき決断をふさわしくすることができるようになります。

    ( PBA制作「世の光」2020.7.30放送でのお話しより )

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■私の訴えを打ち明けたのだから / 福井 誠

2021年01月20日 | Weblog

2020/7/29放送
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。継続は力なり。聖書を一日一日1と読み進むなら、不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はエレミヤ書20章12節から「私の訴えを打ち明けたのだから」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「正しい者を試し、思いと心を見る万軍の主よ、あなたが彼らに復讐するのを私に見させてください。私の訴えをあなたに打ち明けたのですから。」

 エレミヤは別名「涙の預言者」とも呼ばれます。それは神の言葉に耳を貸そうとしないイスラエルの民に涙ながらに神の言葉を語り続けた情の熱い預言者であったからです。今日の箇所にはそんなエレミアに対するイスラエルの人々の嘲りのエピソードが描かれています。

 ここに主の神殿で働いていたパシュフルという祭司が出てきます。パシュフルはエレミヤが語るエルサレム滅亡の預言に我慢がならず、それは神の言葉ではない、と怒りを燃やしてエレミアを捕らえ、鞭を打ち、牢にぶち込んでしまうのです。なんとエレミアは一般大衆にではなく神に仕える祭司に、あなたの言うことは間違っている、と否定されたのですね。

 その時のエレミヤの心境も描かれています。エレミヤはいささか動揺し、落胆した気持ちを吐き出すような祈りを捧げています。実際、エレミヤが預言したエルサレムの滅亡は一向に実現する気配もなく、語れば語る程にエレミアは物笑いとなり、嘲れててしまいました。エレミヤは、エルサレム滅亡の預言は確実に起こる神の御計画であると確信していましたが、それ以上に人々は確信をもってエレミアの語ることを否定したのです。

 エレミヤは四面楚歌の中にありましたがそこで辱めを受ける自分の境遇を嘆いたりせず、むしろ神に自分の窮状を素直に訴えて語りかけていますね。大事な点です。エレミヤは神と本当に身内のように話しかけています。 

 信仰を持つというのは、教会に通ったり聖書を学んだりする以上のことです。それは神との人格的な関係であり、互いに喜びも悲しみも分かち合うような関係を持つことです。いのちある信仰というのは実に神との対話が成り立つ関係を持つことだと言うべきでしょう。 

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.7.29放送でのお話より )

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