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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■お前は救い主なのか? / 関根弘興

2025年07月16日 | Weblog

2025/4/16放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今週は、イエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週です。

 ゲツセマネの園で祈られたイエス様は、そこを立ち上がっていきました。
 すると、イエス様をわずか銀貨30枚で裏切ったユダを先頭にユダヤの宗教指導者たちが兵隊を連れて、イエス様を逮捕するためにやってきたのです。

 するとイエス様の弟子であるペテロは剣を抜き、大祭司のしもべに斬りかかりました。
 するとイエス様は、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」とペテロをいさめたのです。

 こうして真夜中の逮捕となりました。

 そしてすぐにイエス様に対する審問が始まりました。ユダヤの指導者たちは次から次へと偽りの証人を呼び、証言させたのです。
 しかし証言自体が偽りなので、だんだん辻褄が合わなくなってしまう訳ですよ。

 そこで当時のユダヤ教のもっとも権威ある大祭司がイエス様に言いました。
 「おまえは神の子キリストなのか、答えよ!」

 するとイエス様は、「あなたの言ったとおりです」とお答えになりました。

 その答えに大祭司は激怒しました。
 「神への冒涜だ! これでもまだ証人が必要だというのかぁ! イエスは自分を『救い主だ、神の子だ』と言っている、神を冒涜しているんのだから死刑にあたる!!」と即刻結論を出したのです。

 当時ユダはローマ帝国の支配下にありました。ですから死刑執行の権利はありませんでした。
 しかし例外があって、自分たちの宗教に関する問題に限っては死刑が認められていたのです。

 例えば、神殿の中には異邦人の立入禁止の場所がありました。もしそこに異邦人が立ち入ったら処刑できたのです。また神を冒涜する者、偽預言者、宗教上の罪を犯した者は、「石打ちの刑」にすることができたのです。
 ですから「イエスは神を冒涜した」というなら、彼らは自分たちで即刻石打ちの刑にすることができたはずです。

 ところがですね、彼らはイエス様を石打ちの刑にすることでは満足できないと考えたんでしょうね。
 なぜなら、聖書には「木にかけられたものは呪われる」、こういうことばが出てくるんです。
 つまり、イエスを十字架につけてしまえば呪われたものとなって、金輪際イエスを慕う者など起こらなくなるだろう、そう彼らは考えたのかも知れませんね。

 そこで彼らはローマ総督ピラトのもとに連れて行って、ローマ帝国が行っている最もむごたらしい十字架刑をピラトに願い出たのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.16放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■ゲッセマネの祈り / 関根弘興

2025年07月15日 | Weblog

2025/4/15放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今週は、イエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週です。
 
 さて、イエス様が弟子たちの足を洗い、最後の晩餐を済ませた後、イエス様と弟子たちはオリーブ山のふもとにある「ゲツセマネ」という所にやってきました。もう日が沈み、あたりは真っ暗になっていました。

 イエス様は他の弟子たちを待たせておいて、ペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて園の奥に入って行かれました。この三人は、いつもイエス様と共にいて、イエス様の素晴らしい奇跡のみわざを直接見てきました。しかし、この時のイエス様の姿は、彼らが今まで見たことのない、まったく違うものだったのです。イエス様は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われ、その顔は、悲痛な形相に変わっていきました。そして地面にひれ伏し、苦しみもだえ祈り始めたのです。イエス様の生涯で最も悲痛な姿が示されたのが、このゲツセマネの祈りの時でした。
 そしてイエス様は、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。

 「この杯」とはいったい何でしょう。それは罪のないイエス様がすべての人の罪に代わって十字架にかかって罪の罰を受けてくださるという杯です。
 罪なき者が罪に定められ呪われた者となるという苦しみでした。なんという矛盾、なんという不条理、悲劇でしょう。
 このことは私たちには考えることもできない、想像することもできない痛み、苦しみです。

 しかし、苦しみもだえながら祈られたイエス様は、「神のみこころが成るように」と祈り終えると、それまでの苦しみの形相は一変して、まっすぐと十字架への道へと進んで行かれました。

  人は何かの困難や問題が目前に迫ってくると、恐れたり、ひるんだりしますが、心の準備が整うと、その後は、その課題や困難に力強く立ち向かっていくことできると言います。このゲツセマネの祈りの後、イエス様は驚くほど自信に満ちた態度を示されました。恐れもだえたあのイエス様の姿は、もはやそこにはありません。少しの疑いもありません。少しの迷いもありません。少しの不安もありません。ただ、ご自分の前に置かれた人の罪を背負い、救いの道を開く十字架への道へとまっすぐに進んで行かれたのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.15放送でのお話しより )


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■弟子の足を洗うイエス / 関根弘興

2025年07月14日 | Weblog

2025/4/14放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。今週は、イエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週です。

 イエス様の生涯は新約聖書の福音書に記されています。ちょうどユダヤ最大の祭り「過越祭」の時期でした。このお祭りが近づくと、世界中からユダヤ人たちが神殿のあるエルサレムに押し寄せ、たくさんの人で溢れかえっていったのです。

 イエス様が十字架につけられる前の日のことでした。イエス様は弟子たちと食卓に着き、なんと弟子たちの足を洗い始められたのです。
 普通、宴会の席に招待された客が足を洗ってもらうのは、その家に入る時でした。そして足を洗うのはもちろん奴隷の仕事です。サンダル履きで外を歩いたために汚れた足を奴隷に洗わせるわけです。
 ここに集まった弟子たちも家に入る時、き奴隷に洗ってもらったかどうかわかりませんが、普通はすでに足を洗ってから食卓に着いているはずです。しかしイエス様は食事をしている最中に、わざわざ立ち上がり、上着を脱ぎ、腰をかがめて弟子たちの足を洗い始められたのです。

 イエス様がここでわざわざ食事の間に弟子たちの足を洗われたということはどのような意味が込められているのでしょう。それはイエス様がひとり一人に仕えるしもべとして来てくださったということを示しているのです。
 そしてイエス様は不思議なことを言われました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」 こう言われたのです。

 あなたはイエス様との関わりは何によって始まると考えますか? 何か立派なことをし、すばらしい功績を収めたら、イエス様も喜んで関わってくださる、そう考えますか? 聖書が私たちに教えていることは、もっとも汚れている足に象徴される私たちの心の汚(きたな)さ・罪をイエス様によって洗っていただくことからイエス様との関係はスタートするんですよ、と教えるんですね。

 普通は人の汚い部分とは関わりたくないものです。そして自分の汚い部分は隠したいものですよね。
 しかしイエス様が来られた目的は、私たちのありのままをご覧になって、私たちの最も汚い部分を、罪を、洗い清めるために来てくださったのです。
 そしてそのためのたったひとつの方法は一体何だったのでしょう? 
 それは、自らが私たちの罪の身代わりとなって十字架についてくださる、という不思議な不思議な道だったのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.14放送でのお話しより )


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■あなたの姿6 / 大嶋重徳

2025年07月12日 | Weblog

2025/4/12放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ルカ福音書8章からゲラサの地に住む悪霊に憑かれた男性の物語を見てきました。沢山の悪霊を追い出されたイエス様の出会いが描かれています。豚が悪霊に取り憑かれ、けたたましく水に飛び込んで行った後に静けさが来ました。そして彼は服を着て、正気に戻って座っていたのです。

 私たちもキリストの十字架を受け入れるとき、私たちの罪ある人生が死んで正気を取り戻すのです。そしてイエス様と新しく生きる。イエス様が今週、私たちに見せようとされているあなたの本当の姿は「神に赦されて、神の静けさのなかにいるあなた自身の姿」です。神と共にいる自分の姿に私たちの本当の自分がいます。クリスチャンとはこの、キリストの十字架に赦された本当の自分を見出した人のことです。

 彼はこの地を去って行こうとされるイエス様に「お供をしたい」と伝えました。人から離れ、墓場で暮らし、「誰かと生きていこう」とは思えなかった彼が、「お供したい」と思える人と出会えました。「神など自分を苦しめる存在ではないか」と思っていた彼が、「神と一緒に生きていきたい」と思ったのです。神への不信が消えました。「ついていきたい。」

 しかしそのように求める彼にイエス様は、「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい」と言われました。

 冷たいことばでしょうか? そうではありません。墓場で生きていた彼にとって、神と共に生きる生活とは、彼の日常の中で、彼の家族の中で、彼と共に生きる友人の中で、幾つもの顔を使い分けて生きるのではなくクリスチャンという一つの顔を持って生きていく。これが彼の本当の人生の「救い」でした。

 イエス様は今日、私たちを、幾つもの顔を使い分けて生きるのではない、宗教的に閉じこもった世界で生きるのではない、と語りかけておられます。あなたがあなたの置かれている場所で、ラジオを聴いてくださっているその場所で、あなたが神に愛され、赦されて生きていく。これがあなたの本当の姿です。

 この本当のあなたの人生を生きていきたいと思われませんか? イエス・キリストを受け入れるとき、あなたは本当の自分の人生を生きていけるようになるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.12放送でのお話しより )


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■あなたの姿5 / 大嶋重徳

2025年07月11日 | Weblog

2025/4/11放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ルカ福音書8章には沢山の悪霊に取り憑かれた男から悪霊が豚に乗り移っていく、そんなところを見てきました。
 イエス様は「本当のあなたの姿に戻って欲しい」と願われているのです。死んでいく豚に、悪霊に憑かれていた彼が自分自身の深い闇の部分を見たように、今日イエス様は私たちに一つの光景を見せられます。それはあの十字架の光景です。

 イエス・キリストが十字架にかけられた場所、それはまさに人間の狂った世界でした。神を神としない叫び声に満ちていました。「神ならば自分を救って俺たちも救え」と自分中心の叫ぶ声、神を殺せと叫び、自分の救い主を受け入れず、十字架につけたのです。

 イエス様は今日、あなたが気付かないふりをしてきたあの生活を、そのままではいけない、そのまま神のことばに頑ななままにいてはいけない、(と)人生を踏み外しそうになっているあなたのことをそのままにしておかないイエス様があなたの元へと来てくださっている。(イエス様は)罪に向かって走り出し、死に滅んでいく私の姿を見ていられない。そしてイエス様は人間の罪に満ちた叫び声を一身に受けて、そして十字架の上で豚が死んだように死なれました。

 私たちは人前でいい格好を演じられたとしても、人から「格好いいよね」「素敵だね」と言われても、そうではない自分がいることを自分が一番よく知っています。内側には誰にもばれていないと思っている自分のずるさ、汚(きたな)さ、人には絶対見せられない自分の闇の生活があります。幸せそうにしている人を見ると落ち込み、妬み、謙遜なふりをしながら自分こそ何もかも分かっていると思っている、そんな高慢な姿。そして自分を自分で見ないようにしてしまう。気が付かないようにしよう、大丈夫うまく隠せている、と思っていても、どうにもならない罪を犯す自分が今ここにいます。

 しかしイエス様はあなたを苦しめるその罪の苦しみを十字架の上で叫び声を上げながら、私の罪の身代わりに豚のように死なれました。
 十字架の上でイエス様はこう祈られたんです。
 「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」

 自分で何をしているのか分からない自分、自分で自分をコントロールできない自分。それが私たちの姿です。ここに私がいます。私たちは今日も十字架からイエス様に祈られているのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.11放送でのお話しより )


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■あなたの姿4 / 大嶋重徳

2025年07月10日 | Weblog

2025/4/10放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書のルカ福音書8章の悪霊に憑かれた男性が出てきます。彼はイエス様に「あなたの名前は何か」と聞かれた時、自分のことを「レギオン」・「沢山いる」と言いました。

 私たちは人から自分に求められるイメージがあります。「あの人は明るいよね」と思われると、そのイメージを保っていないといけない。「どうしたの? 今日、暗いよ」 どれだけ辛(つら)くても「全然、大丈夫」と答えないといけない。・・・ 私たちは空気を読みながら、求められる顔をしています。そしてその顔をし続けることに苦しんでいる。自分が自分でバラバラで、そんな自分が嫌いなのに、自分が自分でコントロールできない。

 イエス様はいろんな表情をしてしまうあなたがダメだというのではありません。そうではなく、「あまりにも多くの顔を使い分け、自分で自分が耐えられなくなっている」ことを心配されているのです。

 彼に取り憑いた悪霊のレギオンはイエス様の圧倒的な力にたまりかねて、イエス様に一つの願いをします。「底知れぬ所に行けとは命じないように」 そして「豚の群れの中に入ることを許して欲しい」と。
 すると悪霊どもはその人から出ていって豚に入りました。
 すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、溺れ死んでしまったのです。

 悪霊に憑かれた彼の目の前には沢山の豚の群れが険しい崖を駆け下りていく光景が映りました。何百頭もの豚が崖を駆け下りて、凄まじい鳴き声をあげて湖の中に飛び込んでいく水しぶき。そして次々と溺れ死んでいく光景を彼は見たのです。
 この時、彼は自分の内側にあるものを目にしました。悲鳴をあげて湖に飛び込んでいく豚の群れの姿は、墓場で荒野で駆け巡ってしまう自分の姿でした。足枷(あしかせ)と鎖を打ち砕き、他の人と同じようなことができず、服を脱ぎ、自分で自分を受け止められず、独りで墓場にいるしかない自分の姿。「レギオン」・「沢山いる」 自分自身の内側にある闇と罪の世界でした。彼は神から離れて死の側(そば)すれすれにいた自分の姿を見たのです。

 イエス様が十字架にかかられたのは、私たちの罪を身代わりに引き受けるためでした。イエス様はこの豚のように叫びながら十字架で死んでくださいました。私たちを苦しめる幾つも犯し続ける罪を解き放つためにです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.10放送でのお話しより )


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■あなたの姿3 / 大嶋重徳

2025年07月09日 | Weblog

2025/4/9放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 
 聖書のルカ福音書8章には悪霊に憑(つ)かれた男性が出てきます。
 「私に関わらないでくれ」と言う彼に、イエス様は「お前の名は何か」と聞かれました。
 イエス様が相手の名前を聞くということは非常に珍しいことです。

 ルカ福音書19章に出てくるザアカイという人が、自己紹介する前からイエス様は「ザアカイ!」と呼ばれました。ここでも「えーっと、君の名前はなんだったっけ?」と名前を忘れられた訳ではありません。

 ここで大切なのは「名前を聞かれた」という意味です。聖書で名前は、その人の実体・本質を表します。「神の名を褒め称える」とは、神ご自身の実質を褒め称えるということを指しています。
 そしてここでイエス様が「お前の名は何か」と名前を聞かれたのは、「あなたの本当の実体は何か。あなたの本当の姿は何ですか?」という意味なのです。

 彼はここで自分のことを「レギオンです」と答えます。レギオンとは当時のローマの軍隊の名前で何千もの兵隊が属する部隊の名前です。彼の内側には大勢の悪霊が取り憑いていました。もはや自分で自分がわからないほど彼自身の中に大勢の何かがうごめいていたんです。「あなたの本当の姿は何ですか?」 彼は「大勢いるんです」と答えました。本当の自分がどこに居るのかも分からない。「いっぱいありすぎて分かりません」そんな自分自身のことが苦しくて彼は墓場で叫んでいたのです。

 私たちも幾つも自分の顔を持っています。子どもたちも家に帰ると親の前では家族が求める顔、先生の前だと先生受けする顔。大人も職場で上司に向かってする顔と部下に向かってする顔がぜんぜん違う人がいます。それらの顔もその日その日の感情次第でうごめく。機嫌の悪い自分が止まらない。相手次第で言うことも変わる。自分が自分でバラバラだ。そんな自分が嫌いだ。そんな自分が苦しい。・・・

 イエス様の「あなたの名前は何か?」「本当のあなたはどこにいるのか?」と聞くこの問いは、人の求める要求に疲れ果てて、神様の元から離れて、足かせや鎖を断ち切ってでも墓場へ向かいたくなるあなたの人生に、「本当の自分の姿」を取り戻すためのことばが掛けられているのです。

 今日、あなたを疲れさせてしまっている幾つものあなたの姿にはどんなものがあるでしょうか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.9放送でのお話しより )


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■あなたの姿2 / 大嶋重徳

2025年07月08日 | Weblog

2025/4/8放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。私の担当する今週は聖書のルカ福音書8章から学んでいます。

 墓場に住む悪霊に憑かれた男性の側(そば)にイエス・キリストが来られました。
 イエス様がガリラヤ湖を渡って陸に上がられると、悪霊に憑(つ)かれている人がイエス様を出迎えました。

 彼は墓場に住む自分の生活から抜け出したくってイエス様に救いを求めたのでしょうか? いや、そうではありませんでした。
 彼はイエス様を見ると大声でこう言います。
 「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」

 彼に取り憑いた悪霊は、神の存在は自分を苦しめるものだ、と(彼に)思わせていました。「神が私に何かしようとすることは私を苦しめることに違いない」
 悪霊は神に対する誤解を作り出します。「神を信じるなどくだらない愚かな行為じゃないか。神様に支配されあちゃうよ。神の思い通りにされてしまいますよ」と励ますんです。「見てみろ。神を信じて息苦しい生き方をあの人たちはしているじゃないか」

 しかし神を信じることとは自分を苦しめるようなものなのでしょうか? そうではない筈です。むしろ自由へと解き放たれていくことです。人の目を気にしていたところから、人のことばに左右されていたところから、自分に向けられる神の愛と眼差しと神のことばを信頼して生きていく。
 しかし人間は罪を持っていて、神のことばに従って生きていくよりも自分のことばに従って生きていきたいと思うようになりました。
 罪とは第一に、神を神としないことです。「あなたに何の関係があるのか」と神に言うのです。そこには「自分が自分の人生の神でいようとする」という思いがあります。そして反発が生まれてきます。「クリスチャンになんかになると堅苦しい生き方になるよ」と思わされていく。神への警戒心が生まれ、神への不信が生まれ、神への無関心が生まれるのです。

 しかしイエス・キリストはそんな彼に近づいていかれ、声をかけられます。「私はあなたと関係がある。あなたがいる場所はそこではない。悪霊と一緒にいるあなたが本当のあなたではない。あなたが居るべき本当の場所はわたしのそばだ。」

 では私たちの本当の姿とは一体、どのような姿なのでしょうか。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.8放送でのお話しより )


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■あなたの姿1 / 大嶋重徳

2025年07月07日 | Weblog

2025/4/7放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。 今週は聖書のルカ福音書8章から学びましょう。

 ゲラサという土地に住む、汚れた霊に憑かれた人が出てきます。この人は裸で墓場に住み、いろんな人が鎖と足枷(あしかせ)で彼をつないでおこうとしましたが、彼は誰からも縛り付けられようとしてもその鎖を打ち砕き、墓場にある荒野に生きていました。
 別の福音書では「石で自分のからだを傷つけていた。」(マルコ5:5)とあります。自分の人生に嫌気がさすかのように、自分の体をかきむしり、石で傷つけていたのです。

 悪霊に取り憑かれた男という私たちの日常では聞きなれない話ですが、私は彼のこういう気持ちが少し分かるように思います。
 私の両親は二人とも地元でそこそこ有名な学校の教師でした。「大嶋先生の息子」と教師の息子というレッテルにイライラし、何かこの衝動をぶつけたくなりました。壁や枕を殴りつけたり、意味も無く夜中に叫び出したくなりました。「親や学校は縛り付けてくるな! 支配してくるな!」 そんな風な気持ちになっていたんです。

 このゲラサ人の地に住むこの男性は墓場に住んでいました。墓場は死がすぐ側にある場所です。誰も普通は好き好んで来ません。「今日、待ち合わせ場所は墓場ね」ということなんかは無い訳です。墓場は人が来ません。墓場でいくら叫んだとしても、いくら自分で自分のからだを傷つけたとしても、誰にも気がついてはもらえない。彼は自分を縛り付けてくる鎖を引きちぎって、墓場に向かいました。誰にも知られていない場所で、誰にも聞いて貰えることはない場所で、声にならない声を上げていたのです。

 私たちもそうです。責任の重さに耐え切れなくなることがあります。先行きの見えない不安が死へと心を駆り立てていく。誰にも相談することができない。どれだけ体が疲れきっても、どれだけ心をすり減らしても終わることがないように見える仕事の山。カラオケに行く、飲みに行く。しかしその時間が終わったら襲ってくる虚しさや寂しさ。弱音を吐いたら弱みを握られるだけ。だからこそ、ひとり墓場のような場所で夜昼となく声を上げている。

 このゲラサの地に住む男性は一見奇妙な男に見えますが、現代を生きる私たちの姿にとてもよく似ているなあと思うのです。

 今週はこの人に出会われたイエス・キリストの姿から、私たちもイエス様にお会いしたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2025.4.7放送でのお話しより )


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■誰の声を聞くべきか /黒木昭江

2025年07月05日 | Weblog

2025/4/5放送

 「世の光」の時間です。今週は愛知県名古屋市の富田キリスト教会の牧師、黒木昭江がお届けしてきました。

 かつて私が会社で働いていた時、しばしば悩んだのは上司の意見がバラバラなことでした。部長の指示と課長の指示が違う。私はいったいどちらに従えば良いのか??

 誰の声を聞くべきか・・・これは重要なことです。仕事の上だけでなく人生を生きる上では尚更大切なことではないでしょうか。職場でも学校でも家庭でも、私たちは自分に対するあらゆる評価のことばに晒(さら)されます。嬉しい評価もあればネガティブな評価もある。それに毎回振り回されていたら私たちは疲弊してしまいます。

 救い主としてお生まれになったイエス・キリストは、三十数年間の短い人生の間、度重なる苦難に見舞われました。特に、救い主として公に働かれた最後の数年は打ちのめされる経験を何度もされました。
 当時の宗教学者から、「おまえの教えは間違っている」と糾弾され、時に悪魔呼ばわりされました。最愛の母親でさえイエスの働きを誤解することがあり、理解者であった従兄弟(いとこ)は権力者によって殺されました。身近な弟子にさえ裏切られ、不法な裁判にかけられ、最後は十字架の上で処刑されました。

 けれどもイエスは人生を否定せず、自暴自棄にならず、十字架上で命を削られながらも他の死刑囚を救いに導きました。この強さはどこから来たのでしょうか。

 イエスは救い主としての働きを始めた時、洗礼を受けました。その時イエスは神様のことばを聞いたのです。それはこんなことばでした。マタイの福音書3章17節

  「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 この神様のことばをしっかり握りしめて歩んだイエスは、神の愛を疑うことなく、神に愛され喜ばれていることを支えに、自分を否定したり運命を呪ったりすることなく、最後まで自分の人生をしっかり歩んだのです。そして亡くなって三日目に復活されました。

 明日は日曜日です。ぜひお近くの教会へお出かけくださり、神の愛のことばをお聞きください。


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