♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■生きている父なる神 / 板倉邦雄

2024年07月27日 | Weblog

2024/04/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「生きている父なる神」という題でお話ししましょう。私たちのいのちの源である生きている父なる神についてイエス様は語ってくださいました。ヨハネの福音書6章の57節から59節です。
 まず57節のイエス様のことばを口語訳聖書でお読みします。

 「生ける父がわたしを遣わされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」

 イエス様はここで、「わたしのいのちの源は、生きている父なる神にある」と言っているのです。そして「わたしも父なる神によって生きている。わたしを信じてわたしを食べる人々はわたしによって生きていくのです」と語りました。

 生き続けることが私たちの使命です。イエス様はここで、私たちがいのちにあずかり生きる者となるためには、三段階あると教えているのではないでしょうか。

 第一段階は、生きている父なる神です。父なる神はいのちの源です。
 次の段階は、神の子イエス・キリストです。肉体を持ってこの世に来られたイエス様は、私たちのために開かれたいのちの水門、あるいはパイプラインのようです。イエス様を通していのちは私たちのところまで流れてきました。ちょうどイエス様は、苦しみと痛みの中で血を流しながら私を産んだ母のようです。
 そして第三段階が、私たちがイエス様を信じる信仰によってイエス様からいのちを引き出すことができます。

 私は生まれるとき、自分でもがいて母の胎から出てきたのではありません。私のいのちと生きていく人生は、母の一方的な苦しみと痛みによるものでした。私はただ母にゆだねる、任せるだけだったのです。

 このことはすでにヨハネの福音書3章36節で言われています。
 「み子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と。

 ですから私たちはこの世で天に、生きておられる父なる神を持ち、地上では母なるキリストの教会を持つのです。
 それは私たちの魂と霊そして身体が、父なる神様によって生かされ、養われ、成長し、ある時には訓練されていくためです。
 そして、地上の母なるキリストの教会によって四苦八苦と言われる人生の中でも私たちが慰められ励まされて歩んでゆくためなのです。

 天の父なる神様と地上の母なるキリストの教会は世の終わりまで私たちと共にいてくださいます。

 

 ( PBA制作「世の光」 2024.4.20放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■まことの食物 / 板倉邦雄

2024年07月26日 | Weblog

2024/04/19放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「まことの食物」という題でお話ししましょう。私たちは食べ物や飲み物に注意を払います。それは、私たちが食べたり飲んだりしなければ私たちの肉体はやせ衰え病気になり、やがて死に至るからです。それと同じように私たちが魂と心のために、まことのパンや飲み物を取らなければ私たちの魂や心は飢え、衰え、病み、死んでしまうのではないでしょうか? 
 ヨハネの福音書6章55節と56節のイエス様のことばから共に学びましょう。

 イエス様は会堂に集まった人々に語り続けました。
 「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」

 私たちの魂と心にとってまことの食べ物と飲み物はイエス様の肉体と血潮である、と語っているのです。
 これはやがて十字架に磔になるご自身を指し示していました。両手両足を釘で十字架に打ち付けられ、縄で縛られたイエス様の肉体はやがて裂かれます。そして脇腹を槍で突き通されて、水と一緒に噴き出たイエス様の血潮です。

 そしてイエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」と約束してくださいました。

 私たちがイエス様の肉を食べ、血を飲むとき、私たちはイエス様と一体となって結合されると約束されているのです。すなわち、私たちはイエス様の細胞の一つとなるのですね。

 イエス様は、このことばを実践するように、弟子たちとの最後の晩餐の席で、聖餐式という主の聖晩餐を制定されました。

 主イエス様は十字架に渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。
 「取って食べなさい。このパンはあなたがたのためのわたしのからだ、肉体である。わたしを記念するためこのように行いなさい」
 そして、食事の後、杯をも同じようにして言われました。
 「みな、この杯から飲みなさい。この杯はわたしの血による新しい契約である。これは、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。飲むたびにわたしの記念として、このように行いなさい」
                    (コリント人への手紙第一11:23-25参照)

 そして、代々のキリストの教会の信徒たちは、教会でまことの食物であるキリストの肉と、まことの飲み物であるキリストの血を食べたり飲んだりしてきたのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.19放送でのお話しより )


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■わたしの与えるパンは、わたしの肉である / 板倉邦雄

2024年07月25日 | Weblog

2024/04/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしが与えるパンは、わたしの肉である」という不思議な題でお話ししましょう。

 いよいよ神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活という出来事と私たちとの関係に入ります。
 それは当時、ユダヤ人たちにも理解を超えていることばでした。
 「わたしの与えるパンは、世のいのちのために与えるわたしの肉である」というこのイエス様の発言が、安息日礼拝のために会堂にいた人々に波紋を広げることになりました。ヨハネの福音書6章51節からです。

 そこでユダヤ人たちは互いに論じ合いました。「この人はどうして、自分の肉を私たちに与えて食べさせることができようか」

 彼らユダヤ人は、依然として胃袋に入る肉のパンのことを考えていたようです。

 しかし、イエス様が私たちに与えようとするいのちのパンは、私たちの霊と魂に与える、そのような質的ないのちのパンのことでした。すなわち、神のことばです。私たちに生きる力を与え、私たちに生気を与え、やる気や元気、根気の源のことばです。そこから、信仰、希望、愛が湧いてくるのではないでしょうか?

 このようないのちのパンはイエス様の語ることばの中に宿っていました。肉体とは私たちにとっては、やがて朽ちゆくものであり、死にゆく素材ではないでしょうか。土の器である私たちの肉体はもろく壊れやすいものです。しかし、イエス様の肉体と魂と霊の中には永遠のいのちのパンが宿っていたのです。

 ですからイエス様はこのように断言したのです。
 「よくよく言っておく。人の子(わたし)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠のいのちがあり、わたしは終わりの日にその人をよみがえらせるであろう。」

 私が初めて教会に行った高校2年生の秋です。礼拝の最後に教会の信徒たちが皆、前の方にぞろぞろと出て行って、おもむろに小さなパンを裂いて食べ、小さな杯から赤いぶどうジュースを飲んでいました。聖餐式と呼ばれる儀式だと後で教えてくださいました。私たちのためにイエス様が十字架の上でご自分の肉体を裂いて、私たちにいのちのパンを与え、血潮を流して私たちの罪の償いをしてくださった、その出来事の事実を忘れないでおぼえるための儀式だったのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.18放送でのお話しより )


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■わたしが命のパンである / 板倉邦雄

2024年07月24日 | Weblog

2024/04/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしが命のパンである」という題でお話ししましょう。イエス・キリストは同じことばを(ヨハネの福音書)6章35節でも語りました。大切なことは何回でも繰り返すものですね。
 今日、私たちももう一度、イエス様が私たちの身体と魂と霊にとって生きるいのちを与えるパンであることを確認したいのです。ヨハネの福音書6章47節からです。

 さて、イエス様は人々に向かってこう言われました。
 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる人は永遠のいのちを持つ。わたしはいのちのパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。」

 マナとは、イスラエルの先祖たちが荒野で自分たちの胃袋を満たすために食べたパンでした。このマナも天の父なる神様から与えられたものでした。
 しかし、このマナは人々の胃袋を満たすことがあっても、人々の魂や心を満たすことはできなかったのです。人はパンだけで生きるものではないからです。神のことばによって生きるものである、と聖書にありますね?

 では、私たちの魂や心を養い、永遠のいのちを与えてくださるお方は誰でしょうか?
 それは神のひとり子イエス・キリスト以外にはありません。「わたしを信じる人は永遠のいのちを持つ。わたしはいのちのパンである」とイエス様は言われました。
 そしてまた、こう続けて言われたのです。「天から下って来たパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下って来た生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」

 イエス様は、いのちのパンであるわたしを食べなさい、と天の食卓へ私たちを招いているのです。天から下ってきたパンを食べる人は決して死ぬことはありません。私たちは自分の胃袋を満たし、生きるためにパンを食べ、食卓に来るのです。私たちは自分の魂や心が生きるためにイエス様の招きに応え、イエス様を信じて神様の食卓に着き、永遠のいのちをいただきたいのです。

 イエス様はご自分を「天から下って来た生きたパン」と呼びました。生きたパンを食べますと私たちも生きるのです。

 では私たちを生かすパンとは何ですか。それは神のことばです。私たちは身体を満たすパンだけで生きていくことはできません。心や魂を満たすことばによって生きていくことができるのです。なぜなら、ことばは天地の始まりから神と共にあり、ことばは神であった、とこのヨハネの福音書の冒頭にありました。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.17放送でのお話しより )


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■つぶやき / 板倉邦雄

2024年07月23日 | Weblog

2024/04/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「つぶやき」という題でお話しましょう。『つぶやきシロー』という芸人がいます。いつもブツブツつぶやき、不平・不満の芸を披露していますね。
 さて、イエス様に反抗的だったユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から下ってきたパンです。」などと言うものですから、イエス様について「つぶやき」始めました。ヨハネの福音書6章41節からです。

 そのユダヤ人たちのつぶやきはこうです。「この人は、ヨセフの子でイエスではないか。私たちは、彼の父母を知っているぞ。どうして今、『わたしは天から下ってきたパン』などと言うのか。」
 子どもの頃からのイエス様を知っている者にとりましては当然のつぶやきでした。つぶやきですから小さな声で互いに顔を見合わせながら、ブツブツと不平と不満を言っていたのです。

 イエス様は彼らに答えました。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。」
 つぶやきは人への不満や不平、文句です。小声でささやくのですが、電流のように拡散し、人々の間に毒をまき散らすことになります。

 なぜ「つぶやき」を私たちは止めなければならないのでしょうか? それは、つぶやきの背後に疑いと不信が隠されているからですね。そして、周りの人を失望させるからです。

 続けてイエス様は言いました。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう。」

 ところで、私たちは皆、つぶやき人間です。文句は言うし、不平不満は言います。そのような者がどうしてイエス様のもとに来て、信じて従うことができるでしょうか。そんな私たちが、今信じて求めることができているのです。
 それは、イエス様をこの世に遣わしてくださった天の父なる神様が私たちをご自分のもとへ一方的に引き寄せてくださったからです。
 それはちょうど磁石のようなもので、強力な磁力をもって天の父がこの世の私たちを引き寄せて、神の子イエス様のもとに来るようにしてくださったからですね。

 イエス様のことばです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」
        ヨハネの福音書15章16節


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.16放送でのお話しより )

    ※※ ここでの 「つぶやき」は ツイッター・Xでの「つぶやき」の意味ではなく、不平・不満・小言を小声で言うこと。

 

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■イエスの決意 / 板倉邦雄

2024年07月22日 | Weblog

2024/04/15放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日はヨハネの福音書6章の37節からイエス様の決意の心を見ていきたいのです。

 ではまず、イエス様がこの世に来られた使命に対する確信を見ていきましょう。
 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。」
 これは、天の父なる神様がイエス・キリストを信じる人たちをお選びになったことを指しています。この父なる神の選びは、この天地が創造される前でした。聖書には「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選んだ」(エペソ1:4参照)と書いてあります。ですから時が満ちて神に選ばれた人はキリストのところに来て信じたのです。

 次に、イエス様の決意です。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37参照)とおっしゃいました。イエス様のところに来て信じて従う者をイエス様は決して捨てることはしません。必ず最後まで私たちを保ち、守り続けてくださるのです。

 もう一つのイエス様の決意は何でしょうか。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした父のみこころを行うためです。」(ヨハネ6:38参照)と言いました。
 わたしは父なる神の大使です、という決意です。イエス様は神の国から遣わされた神の大使ですから、自分のこころを行うためではなく、神様のこころを徹底して実行するという決意でした。

 では父なる神のみこころとは何でしょうか。それは神が選んでくださったすべての者をイエス様が一人も失わないことです(ヨハネ6:39参照)。そして、一人ひとりを終わりの日によみがえらせることでした(ヨハネ6:40参照)。ですから、イエス様はこの世界の始まりからこの世界の終わりまで私たちと関わりを持ってくださるのです。

 最後に、父なる神様のみこころのもう一つは何でしょうか。それは、イエス様を見て信じる者が皆、永遠のいのちを持つことでした(ヨハネ6:40参照)。この世でイエス様に会い、イエス様を信じて永遠のいのちを持った人たちすべてを、イエス様は終わりの日によみがえらせるのは当然なことです。イエス様のからだにつながり、イエス様の細胞の一つになっているからです。


 イエス様の約束のことばです。
  「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」
       ヨハネの福音書11章25節と26節


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.15放送でのお話しより )


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■みおしえを守る者は幸いである / 福井 誠

2024年07月20日 | Weblog

2024/04/13放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠です。この一週間、皆さんと聖書の箴言を読み続けることができて本当に感謝でした。次回、私が担当するメッセージも楽しみにしてください。一週間続いたら今度は三か月。三か月続けば一年続きます。ぜひ、聖書を読み続けてください。

 今日は、「みおしえを守る者は幸い」と題してお話をします。旧約聖書箴言29章18節をお読みします。

 「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」

 「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう」とあります。ここで「幻」と訳されたことばは、よく「ビジョン」と言い換えられて語られます。つまり、組織はビジョンを持たないとだめになる、というようなメッセージをどこかで聞いたことはないでしょうか。
 しかし、ここはそのようなことを語っているのではありません。「幻」と訳されたヘブル語は、ハツォン、「預言」とも訳されることばで、単純に「神のみおしえ」を意味しています。つまり著者が言いたいことは、「神のみおしえ」がなければ人は好き勝手に振る舞う、聖書の教えは大事ですよ、と言うことです。ですから、後半「み教えを守る者は幸いである」となるわけです。

 そこで神のみおしえですが、それは、人に何が正しく何が間違っているのかを教えます。それは人間社会の絶対的な真理を教えています。国や人が違っても共通に正しい、あるいは共通に間違っているということを教えているのです。
 確かに、愛やいのちを重んじる教えは万人に共通なものでしょう。

 ただ箴言の著者がさらに言いたいことは、この神のみおしえに沿って民を治め、訓練する指導者が現れることです。どんな職業も尊い職業であることに間違いはありません。しかし神のみおしえを深く解き明かし養育する努力を惜しまない働き人が起こることは実はとても重要なのです。
 それは、今週の月曜日に語った、若獅子のように頼もしい人を育てる働き、社会を本当に安心と平和に満ちた場にする働きでもあります。

 ぜひ、聖書を教える指導者が起こされるように共にお祈りいたしましょう。

 では、今日もよき一日となるように祈ります。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.13放送でのお話しより )


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■むちと叱責は知恵を与える / 福井 誠

2024年07月19日 | Weblog

2024/04/12放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠が担当する第五日。今日は金曜日。昔は、花の金曜日と言われ、友達や同僚と夜を楽しく過ごす日でしたが、今は死語でしょうか。
 しかし神様のことばはいつでも楽しく味わうことができます。今日も昨日の続きで、「むちと叱責は知恵を与える」と題してお話しをします。

 旧約聖書箴言29章15節をお読みします。

 「むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる。」

 今日はちょっと子育て論的なお話をしましょう。私は子育てには成功したと言えるような者ではありませんが、二人の子どもを育てて社会に送り出してみて、やはり子育てにはしっかりとしたしつけが必要と思います。

 「むちと叱責は知恵を与える」 これを文字通りに受け止めて、実際にむちを使って厳しく打ち叩いて子育てをすることと捉える人もいるようですが、そうではありません。むちで打つような厳しさで、信念と覚悟を持って、というのが本当でしょう。

 私が大学で学んでいた時に心理学の教授がよく冗談交じりに言っていました。「子どもは生もの、放っておいたら腐ってしまう」と。
 確かにそうなのです。生まれたての子どもは本当にかわいいです。「かわいい、かわいい」で毎日過ごせますが、いつまでもそうではありません。私の娘にも子どもが生まれました。孫が遊びに来ると私は本当に嬉しい。孫は何をやっても可愛い。お爺さんには怒る理由はありません。
 しかし母親である娘にとってはそうではありません。娘が次第に子育てに悩み始め、親になっていく姿を見て、私は子育てからすっかり開放されている自分がいることを感じました。そして子育ての責任は改めて大きなものだったと思うところがありました。

 「放っておかれた子は、母に恥を見させる。」

 昔、米国の小児科医ジェームズ・ドブソン先生が「思い切ってしつけましょう」という本を書き、反響を呼びました。何が悪いか、何が正しいか、どうしたら正しいことができるのか、子どもは愛情をもってしっかり躾けるべきで、心を砕けばその努力は必ず報われるのです。

 では今日も良き一日となるように祈ります。


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■正しい人が増える喜び / 福井 誠

2024年07月18日 | Weblog

2024/04/11放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠が担当する第四日。継続は力なり。日々聖書を読み深めるなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日は箴言29章から読んでまいりましょう。今日は、「正しい人が増える喜び」と題してお話しします。

 旧約聖書箴言29章2節をお読みします

 「正しい人が増えると、民は喜び、悪しき者が治めると、民はうめく。」

 ある意味で当然のことを言っています。確かに正しい人が増える社会は安心できる社会、平和な社会、社会の住人が喜ぶのもよくわかります。そして、悪い人が組織の長、国の長になったら、これは最悪です。世界のニュースを見ていれば、それは一目瞭然、聖書はありのままの現実を語っているようです。

 しかし正しい人ってどういう人でしょう。感覚的にはわかる気がしますが、具体的にそれはどういうことを言うのか。箴言の著者が29章で語っていることばを拾い集めてみると、なるほど、なるほどです。

 まず、正しい人は正義を持って国をしっかり治める人です。重税を取り立てたり、人を粗末にしたりはしません。
 また正しい人は人を陥れようとはしない人です。人の権利をきちんと守る人です。
 また正しい人は弱い者に配慮する心のある人です。悪い人には弱い者への心遣いなど微塵もありません。
 また正しい人は、争い事をかきたてるようなことをせず、むしろ治めようとします。
 さらに正しい人は敵のためにも祈ることができる人です。頭に来るようなことがあっても感情的になって怒鳴ったりせず、むしろぐっと我慢し、事の成り行きを見ていく人間的な力量のある人です。

 確かに、こうした正しい人が増える社会は実に安心感のある社会です。たとえ誰かが物事に失敗するようなことがあっても、やり直しのために努力できそうな社会です。そんな社会があればよいな、と思うことはありませんか?
 しかし、そんな社会ができるのも、まずはこの私の意識から、と言うのが本当ではないでしょうか? 神の助けを得ながら正しい人が増える、私はその一人でもある、と覚えたいものです。


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■主により頼む人は豊かにされる / 福井 誠

2024年07月17日 | Weblog

2024/04/10放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠が担当する第三日。「三日の馬飼い」と言うことばがあります。三日坊主と意味は同じです。今日を乗り越えたら、また聖書が面白くなります。

 今日は、「主により頼む人は豊かにされる」と題して、昨日の続き箴言28章から読んでみましょう。
 箴言28章25節をお読みします。

 「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし、【主】に拠り頼む人は豊かにされる。」

 欲深を戒めることわざは日本にもたくさんあります。例えば「欲の熊鷹股裂くる」と言われます。一羽の大きな熊鷹が、二頭の猪を左右の足でそれぞれ捕まえたところ、その二頭の猪が左右に逃げようとし、熊鷹はこれを逃がしまいと頑張ったために股が避けてしまったというお話から、強欲は身を滅ぼす、と戒めることわざとなったものです。

 ただ欲のない人などいないですし、欲を捨て去ることもなかなか難しいものです。どこまでが強欲なのか、その境界も曖昧です。ただ、欲に度が過ぎれば争いが起こると、聖書は言います。争いは、一つの警告、知らせ、と考えるべきでしょう。

 しかし率直なところ、欲で失敗した経験のある人は、もうそのような物欲から解放されたい、自由になりたいと思っていることもあるのではないでしょうか。どうしたらよいものでしょう。

 新約聖書にはザアカイという取税人のエピソードが出てきます。彼もまた欲深な自分の問題を感じていた人でした。彼は強欲さによって大変なお金持ちになりましたが、逆に、本当に心を分かち合う友は誰もいない、実に寂しい人でした。華やかな人生の陰で彼はぐじぐじ、くすぶった思いを抱いていたのです。

 ところがある日、そのザアカイはイエスと出会い、「あなたに本当に必要なのはお金ではない。友である。」と示されるのです。そして彼は、そう語られるイエスが真実な友となってくれたことで変えられていくのです。

 欲を捨て去ろうと、修行僧のように頑張らず、私たちの心の友となってくださる神がおられることを知ることはとても大切なことです。豊かな人生の秘訣は目に見えるものではなくて、目に見えない神の愛と誠実さに目を開かれることにあるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.10放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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