♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して66年の
「世の光」を文字で 

■主への食物のささげ物 / 福井 誠

2018年10月31日 | Weblog
2018/9/26放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主への食物のささげ物」です。
 レビ記3章5節から読んでみましょう。
 「 アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上の薪の上にある全焼のささげ物に載せて、焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。
            (新改訳2017)

主への食物のささげ物」、実に面白い表現です。まるで神様に食欲があり、イスラエルの民からお腹を満たす物質的な食物を求めておられるようですね。しかしそうではありません。この表現はあくまでも霊的・象徴的なもので、つまり捧げられた食物に象徴される感謝、契約の神に対する忠実さまたは信頼をこそ神が求ておられることを意味しています。当時のイスラエルの民は具体的な物をもって主に捧げ物としながら、実はそこに彼らの感謝、忠実、信頼を重ねて捧げていたという訳です。

 私たちにとって食物が不可欠なように、神にとっては霊的な食物つまり私たちの全き献身も不可欠なのです。しかしながら、レビ記を通読しながら私たちが最も理解しなくてはいけないことは、私たちの全き献身を捧げることではなくて、私たちの代りに全き献身が捧げられたという事実です。私たちの捧げ物はどんなに完全なものを心がけても、不完全さをまぬがれ得ません。完全な捧げ物は神の御子イエス・キリストが罪の身代わりとなって十字架にご自身を捧げた自己犠牲以外にはありえません。実に御子の十字架の死に至るまでの御父に対する完全な愛と服従こそが主への食物であり、香ばしい香りでした。

 新約聖書の使徒パウロは、このレビ記をもとにエペソ人への手紙の中で次のように語っています。
 「また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」(エペソ5章2節 )

 こうして考えると、神に捧げ物を捧げることは神を愛する行為と言うよりも、その行為によってかつて神に完全な捧げ物を捧げられたイエス・キリストを思い起こし、神に愛されていることを確認する行為と理解できますねえ。神を愛する以上に神に愛されていることを覚えて、喜び歩む信仰の歩みこそ大事にしていきたいものです。

(PBA制作「世の光」2018.9.26放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■使徒たちの留置 / 板倉邦雄

2018年10月30日 | Weblog
2018/9/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「使徒たちの留置」という題でお話ししましょう。
 
1970年代、日米安保闘争のただ中にありました。その時私は学生で、国会議事堂前のデモに参加して機動隊員に捕まり、留置されそうになったのです。

 さて、使徒ペテロとヨハネの二人がエルサレムの神殿の境内でイエスの受難と十字架、そしてイエスの死人からの復活を宣べ伝へていましたね。その頃の神殿の責任者のサドカイ派は死人の復活を信じていない人々で、ですからナザレのイエスが十字架で死んだ三日目に死人から復活した、などという宣伝はとんでもないことでした。しかも、自分たちの縄張りである神殿の境内で宣伝するなどということは、もってのほかだったのです。

 苛立った彼らはついに実力行使に出ました。使徒ペテロとヨハネに手をかけて逮捕。夕方になって日が暮れていたので、翌日裁判にかけるために二人を神殿内の一角に留置しておくことになったのです。ところが、使徒ペテロとヨハネの話を聞いた多くの巡礼者たちはイエスの十字架と復活を信じたのです。そして自分たちの先祖アブラハムに約束された神様の祝福にあずかりたい、と心から願いました。

 この出来事を通して一つの聖書のことばを思い出します。
 それは伝道者パウロの次のことばです。
 「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
   ピリピ人への手紙1章29節です。 (口語訳)

 使徒ペテロとヨハネは、キリストを信じることにより罪の赦しが与えられ、神の子とされ、永遠のいのちが約束されました。と同時にキリストの証人となることによって迫害され、留置所に入れられてしまいました。しかし両方とも、神様からの賜物・贈り物として二人の人たちは受けとめていたのではないでしょうか。

 聖書のことばです。
 「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。
    ヨブ記2章10節 (新改訳2017)

  (PBA制作「世の光」2018.9.25放送でのお話より )

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■日本の最初の牧師 澤山保羅 / 岩井基雄

2018年10月29日 | Weblog
2018/9/24放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は日本の最初の牧師として歩んだ澤山保羅(ぽうろ)について学んでみましょう。

 澤山保羅は幕末、長州吉敷毛利家の家臣の長男として生まれ、本名は澤山馬之進です。 ごう校である憲章館で学び、14歳の時には良城隊の鼓手として幕長戦争にも出陣します。明治維新後、洋楽修行をめざして出た神戸でグリーン宣教師と出会い英語を学ぶと共に初めてキリスト教に触れる機会を得ました。

 そして20歳の時、アメリカのノースウェスタン大学の予科に留学をし、滞在先の家族と教会へ通う内に自分の罪深さを認め、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、クリスチャンになります。健康を損ない、闘病生活を送る内、教会の人々に心を支えられ、愛を受けたということも大きかったようです。やがて日本で伝道活動を行なっていた別のアメリカ人宣教師から、日本での宣教のチャレンジを受け、澤山は伝道者として生きることを決意し、24才で帰国の途に着いたのです。

 帰国した澤山は明治10年に日本初の自給教会・浪速公会を設立し、日本で最初の牧師となります。澤山自身も診療所で働き、教会費自給による運営を試み、日本組合教会の基盤を作りました。そして翌明治11年には、日本の将来の母となる女性をキリスト教精神に基づく教育によって育成しようと、同郷の後輩・成瀬仁蔵の協力を得て梅花女学校を設立したのです。

 澤山はその後も愛を届ける働きに情熱を傾けましたが、明治20年、肺結核のため34年の短い生涯を閉じることになりました。新島襄は人の愛に生きた澤山を、「日本のジョージ・ミュラーである」と述べました。

 最後に、現在、梅花学園のスクールモットーとなっている澤山の愛唱の聖書のことばをお読みします。
 
 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」 新約聖書マタイの福音書 7章12節 (新改訳2017)

 私たちもまた、キリストの愛に生かされ、愛を届けるものとさせていただきたいですね。

 (PBA制作「世の光」2018.9.24放送でのお話しより)

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こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■クリスチャンの自由 / 羽鳥頼和

2018年10月27日 | Weblog
2018/9/22放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は新約聖書コリント人への手紙第一 6章から、キリストを信じる者・クリスチャンの自由についてお話しします。

 キリストの十字架は「贖い」であると言われます。贖いとは、奴隷を贖い金を払って解放し、自由にすることです。例えば具体的には、自分の子どもが奴隷となってしまった場合、その主人に贖い金を払って奴隷となっていた子どもを買い戻すことを言います。ですから、贖いをすることを「買い戻す」とも言うのです。つまりキリストの十字架が贖いであるというのは、罪の奴隷である私たちを十字架によって贖い、買い戻してくださり、罪から解放してくださったということなのです。キリストを信じた者は罪から解放されて自由な者となったのです。しかし自由になったから何をしても良いのではありません。聖書は言っています。
 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。 (コリント人への手紙第一 6章12節)

 聖書は特に、不品行を行わないようにと勧めています。この当時、コリントでは性的な不道徳が多く行われていたのです。ですから聖書は不品行を行う者についてこう教えています。
 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主(キリスト)のためにあり、・・・不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。 (コリント人への手紙第一 6章13節、18節)

 更に聖書はコリントの教会の人々にこう教えています。
 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」 (コリント人への手紙第一 6章20節)

 神の栄光を表すにはどうすればよいのでしょう。まず神を信じて神からの救いを得ることです。そして神を信じて生きることが神の栄光を表すことです。そして神に礼拝を捧げる事が神の栄光を表す最も良いことなのです。

 明日は日曜日です。キリスト教会では神に礼拝をささげます。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.9.22放送でのお話より )
 
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■使命についての確信 / 関根弘興

2018年10月26日 | Weblog
2018/9/21放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

新約聖書の福音書の中にイエス・キリストは取税人レビという人に、「わたしについて来なさい」(マタイ9章9節)と招かれる、そういう記事が出てきます。

 レビはイエス・キリストにすぐについて行きました。このイエス様について行けば大丈夫と思ったんでしょうね。聖書を読んでいくと「わたしについて来なさい」と招かれるイエス様は三つの確信を持っていたことが分ります。

 その第一は、自分の存在についての確信でした。イエス・キリストは「わたしは世の光であり、道・真理・いのちそのものだ」とお語りになりました。

 そして第二は、イエス・キリストは自分の使命について確信を持っておられるということです。私たちは自分が何のために生きてるんだろうか、分からなくなってしまうことが時々ありますよね。何をしていいのか迷うこともあるし、自分のしたことに後悔することもあります。自分では良いことしたと思っても、人に評価されないと自信をなくしてしまったり、まさに私たちの人生は迷いながらの人生です。しかしイエス・キリストはご自分の使命と目的をはっきりと自覚し、明確に宣言しておられます。

 ヨハネの福音書10章10節には、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」 こうイエス・キリストはお語りになりました。

 またルカの福音書の19章10節、この所では「人の子は、---つまりイエス・キリストは---、失われた者を捜して救うために来たのです。」と書かれています。つまりイエス様は、迷子のようになってしまい、生きることの本当の意味や目的を見失っている一人ひとりを探し出して豊かな命を与えるために来てくださったのだ、とはっきりと書かれているんです。

 またマタイの福音書の5章17節、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」 こう言われました。これはどういうことかと言えば、「わたしこそ旧約聖書で約束されている救い主であり、救いの約束を成し遂げるためにわたしは来たのだ」とイエス・キリストはおっしゃったんですね。

 イエス様は、神様から離れてしまい、生きる意味や目的を見失っているそんな一人ひとりを探し出し、救い出し、命を与え、導いてくださるために来てくださいました。そのイエス・キリストがあなたに、「わたしについて来なさい」と招いておられるんです。

     (PBA制作「世の光」2018.9.21放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし77 / 大嶋重徳

2018年10月25日 | Weblog
2018/9/20放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。十戒第七戒には「姦淫してはならない。」(出エジプト記20章14節 新改訳2017)とあります。

この十戒第七戒「姦淫してはならない。」とは既に夫婦となっている男女が自分の配偶者以外の者と肉体的な関係を持つことを禁止する戒めです。しかし現実に私たちを取り囲む社会はこの戒めとかけ離れた状況にあることは言うまでもありません。男女が結婚外の不倫の関係を持つことは時に、美しく自分の気持ちに正直に従った純粋な愛の結果であることのように表現されています。むしろ結婚の性的な関係を夫婦に限定する事など自由の問題とされ、捉えられることもあります。若者たちを取り囲む世界でも、お付き合いが始まったら身体の関係を持つのが当たり前の時代となりました。学校教育においても結婚前の身体の関係を持つことを止めることよりも避妊教育が徹底されています。そして聖書から「姦淫してはならない。」と聞いてきたクリスチャンの若者たちも中学生・高校生の頃から、周りでは「何人と身体の関係を持った」、そう誇らしげに語る友だちとの関係で居心地の悪さを覚えてきました。また、彼らが目にするメディアでも結婚前に身体の相性が起こるか分からないまま結婚するなんて良い結婚生活が送れるかどうか分からない、そう彼らの不安を煽ってきます。更にセックスのテクニックが下手な相手は考えられない、という声を聞くと自分だけがおかしいんではないか、聖書の生き方に自信をなくしていくのです。またキリスト教会でもこのテーマについてきちんと語られる機会が少なく、自分の内側にある性欲をどう取り扱ったら良いのか分からないまま若い世代の混乱は続きます。そしていつの間にか周りに流され性的な関係を持ってしまい、その罪に傷つき、あるいは開き直り、教会を離れていく原因となってきたのです。

 このような時代にあって第七戒は頭の固い時代遅れの戒めなのでしょうか。そうでありません。第七戒は古い役に立たない戒めなどでは決してなく、この性のテーマでこそ傷つき痛み、愛に失望している現代人にとって本当の愛に生きる優しさと希望を与えるものなのです。そして性欲をはじめとして神様の造られた性の祝福について教えてくれるものなのです。この性の混乱した時代にあって、十戒第七戒の語る自由の指針を一緒に見ていきたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2018.9.20放送でのお話しより )

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■有り余るほどであった / 福井 誠

2018年10月24日 | Weblog
2018/9/19放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「有り余るほどであった」です。
 出エジプト記の36章7節から読んでみましょう。
 「手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。
            (新改訳2017)

現在、イスラエルのエルサレムに行くと、エルサレムの旧市街には神殿の丘と呼ばれる場所があります。今日そこにはイスラム教のモスクが建っていますが、かつてはユダヤ教の神殿が建っていました。しかしそのはるか昔はどうであったか、ユダヤ人がそこに神殿を定める前は、移動式の神殿というべき幕屋と呼ばれるものが使われていました。それは天幕をつなぎ合わせて作ったもので、素晴らしい装飾が施されたものでした。今日の箇所はその幕屋を作るためにどのような材料でどのように組み立てたのかが分る箇所ですね。
 まず幕屋を建て上げるための材料が求られました。イスラエルの民は自発的な捧げ物としてそれを差し出したのですが、その量は余りにも多く、工事をする者たちがもはや聖所のための捧げ物は不要であるというほどであったと言います。

 何がイスラエルの民をこれほど気前よくさせたのでしょうか。それは神の誠実さに対してであったというべきなのでしょう。というのも、イスラエルの民はいつも神に逆らい、神を捨て去るような生き方をしていました。すでに彼らはまことの神を知りながら、まことの神を指し示すモーセがいなくなると、金の子牛を造り、それを拝む偶像崇拝の罪を犯していました。そのような不真実さにもかかわらず、神は約束を反古にすることをせず、イスラエルの民のただ中に住まい、祝福されることを幕屋を造るように促すことで示した訳です。金の子牛を造り、偶像を崇拝した事件は神にはもう忘れさられていました。人を愛するとは、人のした悪を忘れることだと言われますが、まさに神はイスラエルのした悪を忘れ、イスラエルを愛し続けてくださっているのです。その神を覚えればこそ、このあり余る捧げ物がなされたということです。

 今日、教会でも献金が捧げられますが、それは教会に対する寄付でもお賽銭でもなく、神の愛に応答する私たちの心の感謝と喜びの証しとして捧げられるものでありたいものですね。

(PBA制作「世の光」2018.9.19放送でのお話より )

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■祝福にあずかる為に / 板倉邦雄

2018年10月23日 | Weblog
2018/9/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「祝福にあずかる為に」という題でお話ししましょう。
 
イエス・キリストがなぜこの世に来てくださったのか、今日はその事をお話ししたいのです。使徒の働き3章です。

 「イスラエルの皆さん。主なる神は私をお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から一人の預言者をお立てになるであろう。その預言者すなわち救世主なるイエスがあなたがたに語ることはことごとく聞き従いなさい。それからサムエルを始めそのあと続いて語った預言者たちはみなこの一人の預言者・救世主イエスの登場の時のことを語り、予告したのです。ですからイスラエルの皆さん、あなたがたはこの一人の預言者の子、救い主イエスの子です。」

 さてここにイエス・キリストがこの世に来られた目的の一つがあります。それはイエスを信じる者が神の子となる特権を得るためでした。

 使徒ヨハネはこう言っています。
 「イエスを受け入れた者すなわちイエスの名を信じた人々には彼は神の子となる力を与えたのである。」 ヨハネの福音書1章12節 (口語訳参照)

 更に使徒ペテロは続けてこう語りかけました。
 「あなたがたは神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子です。神は先祖アブラハムに対して契約を結んでこう仰せられました。『地上の諸民族はあなたの子孫によって祝福を受けるであろう。』 神がまずあなたがたのために一人のしもべイエスを立てて、お遣わしになった目的は、あなたがた一人びとりを悪から立ち帰らせて祝福に与らせるためなのです。」

 イエスがこの世に来られた第二の目的は、私たちが契約の子どもとなって神の祝福に与るためでした。この神様の祝福に与るために私たちはイエスを信じて、悪から離れて、神との平和を持つことが必要なのです。

 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
            ローマ人の手紙4章25節、5章1節 (新改訳2017)

  (PBA制作「世の光」2018.9.18放送でのお話より )

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■心の内の闇を認める勇気 / 岩井基雄

2018年10月22日 | Weblog
2018/9/17放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 私たちの心には様々な闇がありますね。しかしそれと正面から向き合い、その闇を認めることは簡単なことではありません。イスラエルの指導者やパリサイ人たちは自分たちこそ神の国を受け継ぐ存在であり、神の律法を堅く守っていると自負していました。しかし、心の奥にある高慢、人々を見下す傲慢には心を留めていなかったのです。救い主キリストは彼らに向かって、時に激しいことばを語り、「白く塗った墓だ」(参照マタイの福音書23章27節)と彼らの偽善性、心の腐れを指摘されたのです。それはキリストが彼らをも愛し、悔い改めに導くためでした。キリストは食前に手を洗うというユダヤのしきたりを用いて心の罪の問題をはっきりと語りました。
 手を払わないで食事をするなら穢れると言われているが、本当の穢れは人の心の中から出てくる、と指摘されたのです。

 キリストは私たちにも語ります。
 「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」 新約聖書 マルコの福音書7章15節(新改訳2017)

 そして人の心の内側から出てくる悪についてこう続けました。
 「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」 
        マルコの福音書7章21節から23節

 私たちの心から出て来る罪の現実を私たちは避けることができません。私たち一人ひとりが神様の前に自分の内側にある罪を問われるのです。そして罪の結果は永遠の死であると聖書はっきり語ります。しかし、自分の罪と向き合い、その罪を認め、神様の前に悔い改めていく歩みは私たちを内側から変えていくのです。神様はあなたの心にある汚れも闇も全部御存知で、なおあなたを愛し、あなたを赦しと解放へと招いてくださっているからです。

 聖書のことば
 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
             (ヨハネの手紙第一 1章9節)

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■キリストの十字架の福音 / 羽鳥頼和

2018年10月20日 | Weblog
2018/9/15放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は新約聖書コリント人への手紙第一の2章で語られているキリストの福音について
お話しします。

 福音とは人を救う良い知らせです。2章ではこの人を救う良い知らせである福音のことを「神の奥義」「隠された神の知恵」と語っています。奥義とはとても素晴らしいことであるけれどもそれが隠されていることを意味しています。ですから隠された神の知恵なのです。福音は神の素晴らしい知恵です。

 神は人を救う福音を、世界をご自分が創造される前から定めておられました。そしてこの福音は、神が教えてくださるのでなければ私たちには分りません。聖書は神の聖霊が人に福音を教えてくださると言います。実際に私たちは聖書を読むことによって初めて、神の福音を知ることができるのです。神の福音を知った私たちが神の福音を信じることができるのもこの神の聖霊の助けがあるからです。

 この福音の中心は、十字架につけられたキリストです。神の子であるキリストがすべての人の身代わりとなって十字架で死なれたのです。キリストの十字架によって人は罪を赦され、救われて、永遠のいのちを受けるのです。

 2章の9節では、キリストの十字架の福音についてこのように語っています。
 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
 
 誰も人を救うために救い主キリストが身代わりとなって死ぬことなど考えもしませんでした。しかし神は人を愛し、人を救うためにキリストの十字架の福音を備えてくださったのです。

 新約聖書のヨハネの福音書3章16節はこのように語っています。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神は独り子を犠牲にしてもよい、とするほどに私たちを愛しておられます。

 明日は日曜日です。キリストの十字架の福音を知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2018.9.15放送でのお話より )
 
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