♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■おことばをください③ / 大嶋重徳

2024年07月31日 | Weblog

2024/04/24放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する週はルカ福音書からご一緒に聖書を学んでいます。今週はルカ7章から、イエス様が「これほどの信仰を見たことがありません。」と言われた百人隊長のお話を見ています。

 この箇所の魅力溢れることは、これほどまでにイエス様が驚かれた信仰にその信仰の持ち主が気づいていないということです。

 私たちも今日受けとめておきたいことは、自分が到底 "無い" と思っているところにイエス様は信仰が "ある" と言ってくださる。自分の自信のない信仰を実は神様が認められ、褒められていることがあり得るのです。

 では百人隊長の信仰の出発点はどこにあったのでしょうか。それは彼が重んじていたしもべのためでした。百人隊長にとってイエス様に助けを求めた時、それは自分のためではありませんでした。彼は自分のいのちを助けてくれと頼んでいるのではありません。愛する大切なしもべのために、自分の中で超えられないと思っている一線を越えてでもイエス様のもとへと近づこうと思ったのです。彼は一人のしもべのためにイエス様を求めました。ここに彼の出発点があったのです。

 私たちは、「信じる」とは自分のために信じると思いがちです。自分の救いはともかく、私は家族が救われるために信じるとはあまり考えつくことではありません。
 しかしこの百人隊長は、自分はイエス様のもとへ行く資格はない。しかしどうしても、イエス様に来ていただかなければならない。それはしもべのためでした。自分の人生のためには、神に直接求めるという一線を超えることはしなかった彼が、自分のしもべのためならば彼は神を求めたのです。彼は自分が超えられないと思っていた一線を超えました。

 こういうところにも信仰は始まるのです。今日あなたが誰かのために何かをしてあげたいと思っていることがあるでしょうか。自分の力では到底適わない、自分の手が届かないかもしれません。しかし神様ならば何とか出来ると思うならば、神様を求めてください。あなたはまだ神様のことを信じていないかもしれない。しかしあなたがその一線を越えて、神様に祈り求めるならば、神様はあなたの祈りを聴き、応えてくださるのです。そしてそこに神様はあなたの信仰を見出して、その祈りに応えてくださるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.24放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■おことばをください② / 大嶋重徳

2024年07月30日 | Weblog

2024/04/23放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する週はルカ福音書からご一緒に聖書を学んでいます。今週はルカ7章から、「これほどの信仰を見たことがありません。」と(イエス様から)言われたカペナウムという地域の百人隊長のお話を見ています。

 百人隊長のしもべが病気になり、しもべの癒やしのためにイエス様を求めると、イエス様は来てくださいました。しかしイエス様が家に近づくと、「あなた様を私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません」と彼は言います。

 呼んでおいて、いざとなると入ってもらうのは困るとは何だ、矛盾ではないかと思います。しかし彼にとって矛盾ではないのです。彼はイエス様に来てもらいたいとは思っているんです。しかし同時に、彼は認めざるを得ないこと、それは自分がイエス様をお迎えに行くのもイエス様に家に入っていただくこともできないほど「資格がない」と考えていました。

 「資格がない」とは「信仰がない」ことだと考えていたのです。当時からも異邦人でもユダヤ人の会堂に参加することが出来ました。彼が求めるなら、洗礼を受け、割礼という儀式を受け、ユダヤ教徒になることもできたのです。しかし彼はその線を越えることをしなかったのです。

 イエス様に口利きをしたイスラエルの長老から見ても、まだこっちの信仰者の側に来ていない百人隊長でした。でもこの人は立派な人だし、同じくイスラエル人の特権として「イエス様に話してあげるよ。」と力になろうと考えたのです。それは彼らもまた、求道者の彼が直接イエス様にお願いするのには無理があると考えていたからでしょう。

 しかし、イエス様が見ておられるのは、イスラエルに属しているかどうか異邦人なら駄目かどうかではありませんでした。
 洗礼を受けているかどうか、キリスト教信者かどうかという「わかりやすく引かれた線」でもありませんでした。本人が自覚していない「信仰」をイエス様は見出してくださるのです。人が自分で引いてしまっている線を軽々と超えて見てくださるイエス様がおられます。イエス様は、「おことばだけください」という求道者、また信仰を持っていない百人隊長のことばにこそ信仰を見出されます。

 今日ラジオをお聞きの皆さん、もしあなたが自分には信仰がないと思われていたとしても、イエス様はあなたの中にすでに信仰を見出しておられるかもしれません。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.23放送でのお話しより )


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■おことばをください① / 大嶋重徳

2024年07月29日 | Weblog

2024/04/22放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 私の担当する週はルカ福音書からご一緒に聖書を学んでいます。今週はルカの福音書7章から、イエス様が「これほどの信仰を見たことがありません。」と言われた軍人の百人隊長が出てきます。

 百人隊長の彼に仕えるしもべが病気で死にかけていました。
 すると彼はイエス様のところにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださるようお願いしました。
 彼はカペナウムのヘロデ・アンティパスという王様に雇われていた軍人でした。彼の上には千人隊長という軍全体を取り仕切る将軍のような存在がいて、王様がいる、そんな軍隊の構造のなかでは相当のエリートで、百人を束ねることの出来るリーダーとしても優れた人柄でした。
 また彼はユダヤ人の会堂を立てるために自分の財産から多額のお金を出してあげたことも記されています。ユダヤ人会堂建築のためにお金を出すということは、聖書の神を求める思いがあったのは間違い無いことでしょう。ただの政治的な人気取りのためであったら、ユダヤ人の長老がイエス様に取り次ぐほどに親しくなることはなかったでしょう。彼は会堂に通っていた人でもあったと考えられます。

 イエス様はそんな彼の申し出を受け入れて、彼らと一緒に行かれました。

 すると彼は友人たちを使いに出してイエスに伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。」(ルカの福音7:6参照)

 と言います。彼の自己認識は、自分はまだイエス様に直接話す資格などない。自分からイエス様に声をかけられるような自分では無い、と思っていました。
 そして言います。「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」

 このことばを聞いたイエス様は「これほどの信仰を見たことがありません」と言われるのです。
 イエス様をこれほど驚かせたのは、信仰者の自覚を持っていない求道者の彼でした。果たしてイエス様は私の信仰を見てそんな事を言ってくださるだろうかと思います。

 今週はこの百人隊長の物語から、「信仰」とは何かということをご一緒に考えてまいりたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.22放送でのお話しより )


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■生きている父なる神 / 板倉邦雄

2024年07月27日 | Weblog

2024/04/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「生きている父なる神」という題でお話ししましょう。私たちのいのちの源である生きている父なる神についてイエス様は語ってくださいました。ヨハネの福音書6章の57節から59節です。
 まず57節のイエス様のことばを口語訳聖書でお読みします。

 「生ける父がわたしを遣わされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」

 イエス様はここで、「わたしのいのちの源は、生きている父なる神にある」と言っているのです。そして「わたしも父なる神によって生きている。わたしを信じてわたしを食べる人々はわたしによって生きていくのです」と語りました。

 生き続けることが私たちの使命です。イエス様はここで、私たちがいのちにあずかり生きる者となるためには、三段階あると教えているのではないでしょうか。

 第一段階は、生きている父なる神です。父なる神はいのちの源です。
 次の段階は、神の子イエス・キリストです。肉体を持ってこの世に来られたイエス様は、私たちのために開かれたいのちの水門、あるいはパイプラインのようです。イエス様を通していのちは私たちのところまで流れてきました。ちょうどイエス様は、苦しみと痛みの中で血を流しながら私を産んだ母のようです。
 そして第三段階が、私たちがイエス様を信じる信仰によってイエス様からいのちを引き出すことができます。

 私は生まれるとき、自分でもがいて母の胎から出てきたのではありません。私のいのちと生きていく人生は、母の一方的な苦しみと痛みによるものでした。私はただ母にゆだねる、任せるだけだったのです。

 このことはすでにヨハネの福音書3章36節で言われています。
 「み子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と。

 ですから私たちはこの世で天に、生きておられる父なる神を持ち、地上では母なるキリストの教会を持つのです。
 それは私たちの魂と霊そして身体が、父なる神様によって生かされ、養われ、成長し、ある時には訓練されていくためです。
 そして、地上の母なるキリストの教会によって四苦八苦と言われる人生の中でも私たちが慰められ励まされて歩んでゆくためなのです。

 天の父なる神様と地上の母なるキリストの教会は世の終わりまで私たちと共にいてくださいます。

 

 ( PBA制作「世の光」 2024.4.20放送でのお話しより )


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■まことの食物 / 板倉邦雄

2024年07月26日 | Weblog

2024/04/19放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「まことの食物」という題でお話ししましょう。私たちは食べ物や飲み物に注意を払います。それは、私たちが食べたり飲んだりしなければ私たちの肉体はやせ衰え病気になり、やがて死に至るからです。それと同じように私たちが魂と心のために、まことのパンや飲み物を取らなければ私たちの魂や心は飢え、衰え、病み、死んでしまうのではないでしょうか? 
 ヨハネの福音書6章55節と56節のイエス様のことばから共に学びましょう。

 イエス様は会堂に集まった人々に語り続けました。
 「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」

 私たちの魂と心にとってまことの食べ物と飲み物はイエス様の肉体と血潮である、と語っているのです。
 これはやがて十字架に磔になるご自身を指し示していました。両手両足を釘で十字架に打ち付けられ、縄で縛られたイエス様の肉体はやがて裂かれます。そして脇腹を槍で突き通されて、水と一緒に噴き出たイエス様の血潮です。

 そしてイエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」と約束してくださいました。

 私たちがイエス様の肉を食べ、血を飲むとき、私たちはイエス様と一体となって結合されると約束されているのです。すなわち、私たちはイエス様の細胞の一つとなるのですね。

 イエス様は、このことばを実践するように、弟子たちとの最後の晩餐の席で、聖餐式という主の聖晩餐を制定されました。

 主イエス様は十字架に渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。
 「取って食べなさい。このパンはあなたがたのためのわたしのからだ、肉体である。わたしを記念するためこのように行いなさい」
 そして、食事の後、杯をも同じようにして言われました。
 「みな、この杯から飲みなさい。この杯はわたしの血による新しい契約である。これは、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。飲むたびにわたしの記念として、このように行いなさい」
                    (コリント人への手紙第一11:23-25参照)

 そして、代々のキリストの教会の信徒たちは、教会でまことの食物であるキリストの肉と、まことの飲み物であるキリストの血を食べたり飲んだりしてきたのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.19放送でのお話しより )


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■わたしの与えるパンは、わたしの肉である / 板倉邦雄

2024年07月25日 | Weblog

2024/04/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしが与えるパンは、わたしの肉である」という不思議な題でお話ししましょう。

 いよいよ神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活という出来事と私たちとの関係に入ります。
 それは当時、ユダヤ人たちにも理解を超えていることばでした。
 「わたしの与えるパンは、世のいのちのために与えるわたしの肉である」というこのイエス様の発言が、安息日礼拝のために会堂にいた人々に波紋を広げることになりました。ヨハネの福音書6章51節からです。

 そこでユダヤ人たちは互いに論じ合いました。「この人はどうして、自分の肉を私たちに与えて食べさせることができようか」

 彼らユダヤ人は、依然として胃袋に入る肉のパンのことを考えていたようです。

 しかし、イエス様が私たちに与えようとするいのちのパンは、私たちの霊と魂に与える、そのような質的ないのちのパンのことでした。すなわち、神のことばです。私たちに生きる力を与え、私たちに生気を与え、やる気や元気、根気の源のことばです。そこから、信仰、希望、愛が湧いてくるのではないでしょうか?

 このようないのちのパンはイエス様の語ることばの中に宿っていました。肉体とは私たちにとっては、やがて朽ちゆくものであり、死にゆく素材ではないでしょうか。土の器である私たちの肉体はもろく壊れやすいものです。しかし、イエス様の肉体と魂と霊の中には永遠のいのちのパンが宿っていたのです。

 ですからイエス様はこのように断言したのです。
 「よくよく言っておく。人の子(わたし)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠のいのちがあり、わたしは終わりの日にその人をよみがえらせるであろう。」

 私が初めて教会に行った高校2年生の秋です。礼拝の最後に教会の信徒たちが皆、前の方にぞろぞろと出て行って、おもむろに小さなパンを裂いて食べ、小さな杯から赤いぶどうジュースを飲んでいました。聖餐式と呼ばれる儀式だと後で教えてくださいました。私たちのためにイエス様が十字架の上でご自分の肉体を裂いて、私たちにいのちのパンを与え、血潮を流して私たちの罪の償いをしてくださった、その出来事の事実を忘れないでおぼえるための儀式だったのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.18放送でのお話しより )


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■わたしが命のパンである / 板倉邦雄

2024年07月24日 | Weblog

2024/04/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしが命のパンである」という題でお話ししましょう。イエス・キリストは同じことばを(ヨハネの福音書)6章35節でも語りました。大切なことは何回でも繰り返すものですね。
 今日、私たちももう一度、イエス様が私たちの身体と魂と霊にとって生きるいのちを与えるパンであることを確認したいのです。ヨハネの福音書6章47節からです。

 さて、イエス様は人々に向かってこう言われました。
 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる人は永遠のいのちを持つ。わたしはいのちのパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。」

 マナとは、イスラエルの先祖たちが荒野で自分たちの胃袋を満たすために食べたパンでした。このマナも天の父なる神様から与えられたものでした。
 しかし、このマナは人々の胃袋を満たすことがあっても、人々の魂や心を満たすことはできなかったのです。人はパンだけで生きるものではないからです。神のことばによって生きるものである、と聖書にありますね?

 では、私たちの魂や心を養い、永遠のいのちを与えてくださるお方は誰でしょうか?
 それは神のひとり子イエス・キリスト以外にはありません。「わたしを信じる人は永遠のいのちを持つ。わたしはいのちのパンである」とイエス様は言われました。
 そしてまた、こう続けて言われたのです。「天から下って来たパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下って来た生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」

 イエス様は、いのちのパンであるわたしを食べなさい、と天の食卓へ私たちを招いているのです。天から下ってきたパンを食べる人は決して死ぬことはありません。私たちは自分の胃袋を満たし、生きるためにパンを食べ、食卓に来るのです。私たちは自分の魂や心が生きるためにイエス様の招きに応え、イエス様を信じて神様の食卓に着き、永遠のいのちをいただきたいのです。

 イエス様はご自分を「天から下って来た生きたパン」と呼びました。生きたパンを食べますと私たちも生きるのです。

 では私たちを生かすパンとは何ですか。それは神のことばです。私たちは身体を満たすパンだけで生きていくことはできません。心や魂を満たすことばによって生きていくことができるのです。なぜなら、ことばは天地の始まりから神と共にあり、ことばは神であった、とこのヨハネの福音書の冒頭にありました。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.17放送でのお話しより )


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■つぶやき / 板倉邦雄

2024年07月23日 | Weblog

2024/04/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「つぶやき」という題でお話しましょう。『つぶやきシロー』という芸人がいます。いつもブツブツつぶやき、不平・不満の芸を披露していますね。
 さて、イエス様に反抗的だったユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から下ってきたパンです。」などと言うものですから、イエス様について「つぶやき」始めました。ヨハネの福音書6章41節からです。

 そのユダヤ人たちのつぶやきはこうです。「この人は、ヨセフの子でイエスではないか。私たちは、彼の父母を知っているぞ。どうして今、『わたしは天から下ってきたパン』などと言うのか。」
 子どもの頃からのイエス様を知っている者にとりましては当然のつぶやきでした。つぶやきですから小さな声で互いに顔を見合わせながら、ブツブツと不平と不満を言っていたのです。

 イエス様は彼らに答えました。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。」
 つぶやきは人への不満や不平、文句です。小声でささやくのですが、電流のように拡散し、人々の間に毒をまき散らすことになります。

 なぜ「つぶやき」を私たちは止めなければならないのでしょうか? それは、つぶやきの背後に疑いと不信が隠されているからですね。そして、周りの人を失望させるからです。

 続けてイエス様は言いました。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう。」

 ところで、私たちは皆、つぶやき人間です。文句は言うし、不平不満は言います。そのような者がどうしてイエス様のもとに来て、信じて従うことができるでしょうか。そんな私たちが、今信じて求めることができているのです。
 それは、イエス様をこの世に遣わしてくださった天の父なる神様が私たちをご自分のもとへ一方的に引き寄せてくださったからです。
 それはちょうど磁石のようなもので、強力な磁力をもって天の父がこの世の私たちを引き寄せて、神の子イエス様のもとに来るようにしてくださったからですね。

 イエス様のことばです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」
        ヨハネの福音書15章16節


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.16放送でのお話しより )

    ※※ ここでの 「つぶやき」は ツイッター・Xでの「つぶやき」の意味ではなく、不平・不満・小言を小声で言うこと。

 

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■イエスの決意 / 板倉邦雄

2024年07月22日 | Weblog

2024/04/15放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日はヨハネの福音書6章の37節からイエス様の決意の心を見ていきたいのです。

 ではまず、イエス様がこの世に来られた使命に対する確信を見ていきましょう。
 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。」
 これは、天の父なる神様がイエス・キリストを信じる人たちをお選びになったことを指しています。この父なる神の選びは、この天地が創造される前でした。聖書には「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選んだ」(エペソ1:4参照)と書いてあります。ですから時が満ちて神に選ばれた人はキリストのところに来て信じたのです。

 次に、イエス様の決意です。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37参照)とおっしゃいました。イエス様のところに来て信じて従う者をイエス様は決して捨てることはしません。必ず最後まで私たちを保ち、守り続けてくださるのです。

 もう一つのイエス様の決意は何でしょうか。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした父のみこころを行うためです。」(ヨハネ6:38参照)と言いました。
 わたしは父なる神の大使です、という決意です。イエス様は神の国から遣わされた神の大使ですから、自分のこころを行うためではなく、神様のこころを徹底して実行するという決意でした。

 では父なる神のみこころとは何でしょうか。それは神が選んでくださったすべての者をイエス様が一人も失わないことです(ヨハネ6:39参照)。そして、一人ひとりを終わりの日によみがえらせることでした(ヨハネ6:40参照)。ですから、イエス様はこの世界の始まりからこの世界の終わりまで私たちと関わりを持ってくださるのです。

 最後に、父なる神様のみこころのもう一つは何でしょうか。それは、イエス様を見て信じる者が皆、永遠のいのちを持つことでした(ヨハネ6:40参照)。この世でイエス様に会い、イエス様を信じて永遠のいのちを持った人たちすべてを、イエス様は終わりの日によみがえらせるのは当然なことです。イエス様のからだにつながり、イエス様の細胞の一つになっているからです。


 イエス様の約束のことばです。
  「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」
       ヨハネの福音書11章25節と26節


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.15放送でのお話しより )


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■みおしえを守る者は幸いである / 福井 誠

2024年07月20日 | Weblog

2024/04/13放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠です。この一週間、皆さんと聖書の箴言を読み続けることができて本当に感謝でした。次回、私が担当するメッセージも楽しみにしてください。一週間続いたら今度は三か月。三か月続けば一年続きます。ぜひ、聖書を読み続けてください。

 今日は、「みおしえを守る者は幸い」と題してお話をします。旧約聖書箴言29章18節をお読みします。

 「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」

 「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう」とあります。ここで「幻」と訳されたことばは、よく「ビジョン」と言い換えられて語られます。つまり、組織はビジョンを持たないとだめになる、というようなメッセージをどこかで聞いたことはないでしょうか。
 しかし、ここはそのようなことを語っているのではありません。「幻」と訳されたヘブル語は、ハツォン、「預言」とも訳されることばで、単純に「神のみおしえ」を意味しています。つまり著者が言いたいことは、「神のみおしえ」がなければ人は好き勝手に振る舞う、聖書の教えは大事ですよ、と言うことです。ですから、後半「み教えを守る者は幸いである」となるわけです。

 そこで神のみおしえですが、それは、人に何が正しく何が間違っているのかを教えます。それは人間社会の絶対的な真理を教えています。国や人が違っても共通に正しい、あるいは共通に間違っているということを教えているのです。
 確かに、愛やいのちを重んじる教えは万人に共通なものでしょう。

 ただ箴言の著者がさらに言いたいことは、この神のみおしえに沿って民を治め、訓練する指導者が現れることです。どんな職業も尊い職業であることに間違いはありません。しかし神のみおしえを深く解き明かし養育する努力を惜しまない働き人が起こることは実はとても重要なのです。
 それは、今週の月曜日に語った、若獅子のように頼もしい人を育てる働き、社会を本当に安心と平和に満ちた場にする働きでもあります。

 ぜひ、聖書を教える指導者が起こされるように共にお祈りいたしましょう。

 では、今日もよき一日となるように祈ります。


 ( PBA制作「世の光」 2024.4.13放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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