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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■何のために生きるの / 関根弘興

2025年03月31日 | Weblog

2024/11/18放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 だれもが幸福になりたいと願うのは、これ当然なことです。「あなたは幸せですか?」と尋ねられると、多くの人は「うーん、まあ幸せですかねえ」そう答えるのだそうです。「だって食べるものもあるし、一応住む家もあるし、不幸な出来事に苦しんでいる人のことを考えれば私なんか幸せなほうですよ。」 こういう答えが圧倒的に多いんだそうです。
 それでは同じ人に、「今の生活が幸せなら不満はありませんよね?」と尋ねると、「それとこれとは話は別よ」とこうなるわけですね。

 確かに、今が幸せな気分でも明日どうなるか分からない、これが正直な気持ちかも知れませんねえ。

 私たちの生活に充足感とか幸福感というものを失わせてしまうものが幾つかあるように思います。
 その一つは、人生の目的が分からないということです。
 自分は何のために生きているのか、分からなければ、これ生きていくのは空しくなりますね。

 私の友人で元新聞記者の方がいました。彼は高校生の時に人生についていろいろ疑問を持ちました。
 ある時、先生にこう尋ねました。「先生。ぼくたちは何のために生きているんですか?」
 「いやぁ難しい質問をするなぁお前は。じゃあ考えておくから昼休みになったらもう一度来い。」先生はこう言ったのです。
 昼休みに行くと、先生は弁当を食べていました。「おお、お前の質問はなぁ難しいなぁ。でもいろいろ考えてやっと分かったぞ。これを見ろ。」
 「えっ? 先生、それは弁当箱なんですけど」
 「そうだ弁当箱だ。よく見ろ。中に何が入っている?」
 「ご飯が入っています」
 「そうだよな。人間はな、このために、つまり食うために生きているんだ」
 先生はこうおっしゃったって言うんですね。
 彼は大変ショックを受けました。

 もちろん私たちは食べるために働きますけれど、食べることが生きる唯一の目的であるならば空しいですねえ。
 ですから自分は何のために生きているのか?ということが明確になるなら、人生は非常に変わってきます。

 聖書には、「神は愛です」と記されています。そして、「神様の愛の対象は、あなたなのです」そう語られるのです。
 あなたの生きる目的は何ですか? それは神様に愛されている存在として今ここに生かされていること、存在そのものがすでに目的なんです。
 あなたが何かできるできないにかかわらず、神様に愛されている尊い存在、それがあなたなのですね。

 さあ、笑顔をもってこの一日を始めていきましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.18放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■安心していきなさい 6 / 大嶋重徳

2025年03月29日 | Weblog

2024/11/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当してきた今週は聖書のルカ福音書7章から学んできました。
 イエス様は「多く赦された者が多く愛する」とおっしゃいました。

 私は妻にどれだけ赦されてきたかと思います。
 ある時、妻の大切なティーポットを割ってしまいました。どれだけ妻から怒られるかと思いました。
 しかし、「いつかは割れるんだから」と赦してくれたのです。自分だったら、自分の大切な何かを壊されたらこんな風に赦せないのに、と思いました。その時に、「ああ、こんな風に人を赦すんだ」と教えられたんです。

 子どもに対しても、「お父さんのさっきの怒り方はひどすぎた。今日は怒りすぎてごめんね。」と言うと、子どもたちは「いいよ」と笑顔で簡単に赦してくれます。赦されながら親をやるのだということを子どもたちから教わりました。
 そうやって愛し方を学んでいくんです。

 しかしそんな子どもたちも妻も、いつもいつも赦せるわけでもありません。赦し難いことだってあります。
 なぜならば人は罪人だからです。いつでも赦せるわけではない、赦せるにも限界があります。「この間までは赦してくれたのに、急になんでそんなに怒るの?」と言われても、人の赦しに甘えて図に乗る姿に頭にくるということだってあるでしょう。
 年を重ねれば若い頃に赦せたことも赦せなくなっているということもあります。年を重ねると人格者になっていくばかりではありません。謝りやすい人でいたいと思いますし、赦されやすい人でありたいと願います。しかし中々変われない自分がいるでしょう。

 しかし罪深さを認め赦されていくときに愛せる人となっていく。そのために愛のない自分に気がつくことです。
 そして神様に祈りましょう。「神様、愛するとはどういうことですか?」
 そして神に赦され、神に教えられた愛し方で愛し始めようとするとき、少しずつ少しずつ愛せるように、赦せるように私たちは変えられていくのです。

 そこには「安心して行きなさい」とイエス様が言ってくださる安心のある生き方があります。今はまだ愛の足りない者だけれども、愛することから程遠い者だけども、「安心して行く」ことができる。必ず変えられていく。必ず成長していくことが出来ます。そう信じて歩んで行くことが出来るとき、私たちは変わることのできない不安にいるのではない。変えられていく安心の中を、平安の中を歩んでいくことができるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.16放送でのお話しより )


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■安心していきなさい  5 / 大嶋重徳

2025年03月28日 | Weblog

2024/11/15放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。私の担当する今週、聖書のルカ福音書7章から学んでいます。

 イエス様はシモンという人に500デナリと50デナリを借りたけれども返せなかったしもべの話をして、どちらが金貸しを愛せるようになったかとお聞きになりました。
 シモンはイエス様に、「500デナリを借りたしもべです」と答えました。

 イエス様はこのたとえ話をしながら、「シモン、あなたこそが500デナリを借りたしもべなのだ」とおっしゃりたいのです。罪深いとされる女性に対する彼の心を見抜いておられました。

 「あなたは正しい。しかしそこに愛がない。シモン、あなたは彼女の涙の意味がわかっていない。自分の罪深さに涙するほどの自分の罪の深刻さがわかっていない。」 しかしイエス様はシモンに、「あなたは罪ゆえの悲しみが見えていない。だから人の罪の悲しみも、自分の罪の悲しみも見えてこないのだ。あなたのほうがもっと罪深いのだ、シモン。」 

 イエス様のこの例え話で、シモンは500デナリを借りているのは彼女だと思って聴いていたでしょう。自分は50デナリも借りていないと思っていたでしょう。
 「しかしシモン、あなたこそが500デナリ借りている側なのだ」とおっしゃりたいんです。

 しかし彼女は自分の罪に気が付いている。自分の愛のなさ、自分の罪深さに気が付いている。そして自分の赦された罪の大きさに気が付いている。
 しかしイエス様は言われました。「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

 ここに今日、私たちが愛に生きる手がかりがあります。それは「多く赦されること」です。赦しのなかで愛を経験することです。

 私の友人がこう言いました。「本当に赦された経験をしたことがないと、人を赦す事などできないものだなあ。」

 確かにそうです。愛の足りない私たちにとって、愛せるようになるために必要なことは、イエス様の愛に赦される経験を重ねることです。そしてイエス様はどこまでも赦してくださる。その愛の大きさを経験すれば経験するほど、自分が愛された愛で人を愛せるようになるのです。イエス様に愛された愛を誰かにも与えることが出来るようになるのです。その意味ではもっともっと自分の罪深さを知ることこそが、愛せる人になっていく手がかりとなるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.15放送でのお話しより )


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■安心していきなさい 4 / 大嶋重徳

2025年03月27日 | Weblog

2024/11/14放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は聖書のルカ福音書7章から学んでいます。

 パリサイ人シモンの家に招かれたイエス様に一人の罪深い女性がやってきて、彼女の愛の行動を受け入れられました。しかし家主のシモンはこの行動を見て、「早く追い出してくれ」とずうっと心の中で密かに思っていました。

 するとイエス様はその心を見抜かれて、こんな話をされました。

 ある金貸しから、二人の者が金を借りていた。一人は五百デナリ、ほかの一人は五十デナリ借りていた。
 ~~~ 1デナリとは当時のお金で一日分の給与です。今で言うと500万円と50万円の ~~~ 借金をしながら二人とも返せなくなっている。すると金貸しが借金を帳消しにしてくれた。どちらが多く金貸しを愛するだろうか?」

 シモンは簡単に答えます。「多く余計に赦してもらったほうでしょう」

 「あなたの判断はあたっている」イエス様はこうおっしゃいました。

 このことばは「判断はあたっている。しかしあなたは全然わかっていない」という意味です。

 イエス様は、「わたしがこの家にはいって来た時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました」(と。)

 この当時、パレスチナの乾燥した空気は砂埃にまみれていました。大切なお客さんを迎える時、水のたらいを持って足を洗ってもてなしたのです。本来ならば口づけし、頭に油を塗って、食卓の宴席にお迎えするのが大切にすべき人へのおもてなしでした。
 しかしシモンはそれをしなかったんです。

 彼女とシモンの違いは何か?とイエス様はおっしゃっている。

 あなたは正しいけれども愛がない。そういうことが人間にはあります。今日も私たちは正しいことをしている。正しいことを言っている。しかし愛がないということがあります。そして心密かに「自分はそれほど悪くは無い」「誰かと比べると比較的正しい」と思うのです。

 しかしイエス様はその心を見抜かれます。「あなたに言いたいことがある。あなたは愛がないではないか。」

 今日、私たちも自分の愛のなさに苦しんでいます。一体どうすればその愛を得ることが出来るのでしょうか。この例えの意味は一体何でしょうか。明日、その答えをイエス様から教えていただきたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.14放送でのお話しより )


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■安心していきなさい 3 / 大嶋重徳

2025年03月26日 | Weblog

2024/11/13放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は聖書のルカ福音書7章から学んでいます。

 今週、町で「罪深い」と呼ばれていた女性が泣きながらパリサイ人シモンの家にいるイエス様の足元にやってきた物語を学んでいます。
 彼女は、座っておられたイエス様の足元に近づくと、涙がイエス様の足に流れ落ちてイエス様の足を濡らしました。自分は何も拭く物を持っていない。思わず自分の編んでいる髪を解いてその髪の毛で足を拭ったのです。そして涙を拭うように足に口づけし、持ってきた高価な香油を塗りました。石膏に入った高価な香油、これは当時の女性たちの宝物でした。感情の溢れ出る彼女の思いの込もった行動でした。

 そんな彼女の行為に、イエス様は「あなたの罪は赦されています」と言われ、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」 イエス様は、ただただ涙している自分の姿を「あなたの信仰」、と「あなたに、そこに信仰があるよ」と言ってくださったのです。

 一方シモンは自分の家にそんな女性が入ってきたことに戸惑ったでしょう。しかしシモンが彼女を止めなかったのは、イエス様が彼女のなすがままの行為を受け止めておられたからです。
 しかし家主であるシモンからすると見ていられない光景でした。シモンはこの時、「イエス様はこの女がどれほど罪深い女か知っておられる筈だろう」と、イエス様を見ていました。「早く彼女を追い出してくれ」と思っていたのです。きっと顔を歪めて見ていたのでしょう。

 するとイエス様は、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われ、「この女を見ましたか?」と言われました。シモンに「この女性を見よ」と言われたんです。「シモン、目を背(そむ)けるな」と言われたんです。彼女の姿に目を背けているシモンがいたのです。イエス様はシモンに「あなたには愛が足りない」と言われました。

 私たちたちの生きる世界は、私たちたちの悲しみのために泣く涙を受け入れてくれる場所があまりにもありません。
 しかしイエス様は私たちの悲しみのあるところをじいっと見つめてくださるのです。私たちの拙(つたな)い、神様を求める心を受け止めて、私たちの人目をはばからず泣いてしまう涙を「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださるのです。

 このイエス様の前で思う存分泣いてみませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.13放送でのお話しより )


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■安心していきなさい 2 / 大嶋重徳

2025年03月25日 | Weblog

2024/11/12放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。私の担当する今週は聖書のルカ福音書7章から学んでいます。

 今週は新約聖書時代の宗教学者であったパリサイ人シモンの家の食事会にイエス様が招かれた時、町で「罪深い女性」と呼ばれる人物が、食卓に入ってきた物語を学んでいます。

 パリサイ人とは「分離する者」という意味で、聖書の語る罪から遠ざかろうとする人たちを意味します。彼女にとっては、パリサイ人の家は絶対に近づきたくない場所です。(パリサイ人たちは)自分をいつも蔑(さげす)んだ目で見てくる。自分が家に入ってくることなど絶対に許しはしない。しかし彼女はその家に勇気をもって入ってきました。

 すると食事をされているイエス様と目があったのでしょう、「入ってきていいよ」という顔をしてくださったのでしょう。そうでなければ上座にいるイエス様のそばには近づけませんでした。「思った通りの人だった」と思ったことを思います。泣きながら一直線にイエス様に向かっていきました。涙が溢れて止められない。自分の存在の悲しさに涙した彼女がいました。

 自分の存在の悲しさに涙するということは人の尊厳に関わることです。自分の魂をどん底から見つめるならば、本当は泣くしかないような私たち人間の弱さがあります。人の目、人の期待に上手く答えられずに疲れ切った私たちが本当はいます。
 しかしどこでも泣けない。どこにも泣いて良い場所がない。映画館でそっと泣く。一人でお酒を飲みながらそっと泣く。心許せる友だちの前でそっと泣く。しかしその涙が自分の罪深さを解決出来るわけではありません。

 しかしこの時、彼女はイエス様の前で泣きました。
 するとイエス様は「あなたの罪は赦されています」と言ってくださったんです。

 「赦せる権威のある」方の前で泣く涙でした。私たちが自分の罪に悲しみ、いくらお酒を飲んでも、いくら泣いたとしても、いくら怒鳴り散らしても、決して晴れることができない魂の虚しさ、存在の悲しさが吹き飛んでいく安心がイエス様のもとにはありました。

 今日も自分の罪に悲しく目に涙を浮かべて泣くときに、教会では目を上げると十字架が見えてきます。「あなたの罪は赦された」 十字架の愛が見えてくるのです。教会は誰の目も気にせずに安心して泣ける場所です。ぜひ教会にいらっしゃいませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.12放送でのお話しより )


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■安心していきなさい 1 / 大嶋重徳

2025年03月24日 | Weblog

2024/11/11放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は聖書のルカ福音書7章から学んでいきます。

 今週の箇所は、新約聖書時代の宗教学者であったパリサイ人シモンの家にイエス様が食事に招かれた中で起こった出来事が記されています。

 パリサイ人とは「分離する者」という意味があります。聖書のことば通りに生きていくために、彼らが「罪深い」とする人たちと距離を取っている、そんな人でした。
 平気で罪深い者たちと食べたり飲んだりしているイエス様のことを敵対視するパリサイ人も多くいたのですが、このシモンはイエス様を食事に招く珍しいタイプのパリサイ人でした。
 またイエス様も「パリサイ人の家なんかには行かない」と言われることはなく、招かれると「別け隔てなく」すっとそこに入っていかれました。

 するとその食事の最中に事件が起こりました。その町に住む一人の女性がパリサイ人シモンの家に入ってきて、イエス様に香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、足に口づけして、香油を塗ったのです。彼女はこの町で「罪深い女」と呼ばれていた女性でした。どんな罪深さであったのかは聖書は記しません。しかし、その町の人で知らない人はいない罪深さであったのでしょう。

 彼女はどこかでイエス・キリストのことを聞いたのです。ひどい罪人扱いされて仲間に入れられなかった人をも愛された。誰からも距離を置かれ、遠巻きに差別されていた病人一人ひとりに手を置いて抱きしめられた・・・そんな噂を聞いたのでしょう、自分もそこに行きたい、と思ったのです。
 彼女は人から「罪深い」と言われる仕事であったのかもしれません。誰にも自分の気持ちなどわかってもらえない。イエス様の話を聞いた時、この人だったら蔑(さげす)んだりせずに、私の話を聞いてもらえるのではないか、分かってもらえるのではないかと居ても立ってもいられずに「会いたい」と訪ねて来たのです。

 今週はこの女性とイエス様との関わりから、「愛するとは何か」ということをご一緒に考えたいと思います。私たちもまた愛することを求めています。そして愛のない自分に落ち込む者たちです。しかし私たちには誰かを愛する手がかりがあります。今週は愛せるようにしてくださるイエス様ご自身のことばから愛を学んでいきたいと思います。

 
 ( PBA制作「世の光」 2024.11.11放送でのお話しより )


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■罪のない者が、石を投げよ / 板倉邦雄

2025年03月22日 | Weblog

2024/11/09放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「罪のない者が、石を投げよ」という題でお話ししましょう。ヨハネの福音書8章6節からです。

 イエス様を罠にかけて裁判所に訴える口実を得ようと、姦淫の現場すなわち不貞の現場で捕まえられた女がイエス様の前に連行されてきました。
 そして、「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられた女です。不埒(ふらち)な女ですよ。モーセの律法の中でこういう女を石で打ち殺せと命じられていましたが、あなたはどう思いますか?」

 しかしイエス様は彼らの質問にお答えにならず、身を屈めて指で地面に何かを書いておられました。

 「先生、早く質問に答えてくださいよ」と催促を続けるので、イエス様はむっくりと身を起こして言われました。
 「あなた方の中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
 そしてまた身を屈めて地面に指でものを書き続けられたのです。

 何を書かれたのでしょうか。ある聖書学者は、モーセの十戒を書いていたのではないか、と言っています。

 ところでモーセの律法によりますと、死刑に処するにはまず証人たちが手を下し、ついで民がみな手を下さなければならない、と規定されています。申命記の17章(7節)です。しかも証人は3人いなければなりませんでした。証人の証言がいかに慎重であるべきかが分かります。そして証言者がまず石を投げて殺すことになりました。罪人が罪人を訴え裁くということはそういうことだったのです。

 しかしこの場合、イエス様は沈黙、無視されたのです。真実な3人の証人たちもいないばかりか、相手の男もいないし、しかも最初に石を投げる証人たちもいないのです。ですからイエス様は、罪のない無罪の人だけがこの女に石を投げることができる、と言われたのです。
 イエス様はモーセの律法ではなく私たち一人ひとりの良心に訴えました。罪を犯さない正しい人はこの世に誰もいないからです。イエス様は私たちを地上の法廷ではなく天の法廷に引き出されたのではないでしょうか? 罪ある者が感情だけで他人を裁く資格があるのでしょうか。

 イエス様のことばです。口語訳聖書で読みます。

   「人を裁くな。自分が裁かれないためである」 マタイの福音書 7章1節 


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■訴える口実 / 板倉邦雄

2025年03月21日 | Weblog

2024/11/08放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「訴える口実」という題でお話ししましょう。
 「目的のために手段を選ばない」ということばがあります。ヨハネの福音書8章からは、イエス様を最高裁判所に訴える口実を得るために手段を選ばない策略がなされます。ヨハネの福音書8章に入ります。

 さて、イエス様はいつものように朝早くオリーブ山で祈った後、神殿に来られました。
 すると巡礼者や礼拝者たちがイエス様のところに集まって来たので、イエス様は座って彼らに静かに教えておられました。するとそこに旧約聖書の専門家である律法学者たちやパリサイ派の人たちが姦淫の現場、すなわち不貞の現場で捕まえられた女を引っ張って来て群衆の真ん中に立たせたのです。

 どうやって男女の密会の現場を見つけたのか。女を連れて来るためには前もっての工作がなされなければイエス様の前に連れてくることは不可能です。女ったらしの男が金で雇われて利用されたのでしょうか。罪は両成敗のはずですけれども、男の方はどこへ行ってしまったのでしょう。

 彼らはイエス様に質問しました。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられました。モーセは律法の中でこういう女は石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか。」

 彼らがこのような質問をしたのは、イエス様を罠にかけて訴える口実を得るためでした。イエス様が「この女をモーセの律法に従って石打ちにしなさい」と言ったら、今までのイエス様のことばや教え、慈悲の行動に矛盾するものでした。イエス様に対する人々の人気は落ちるでしょう。反対に、「この女を赦せ」と言えば、モーセの律法に違反することですから、ユダヤの最高裁判所に訴える口実ができます。イエス様がどちらに答えても、モーセの律法にがんじがらめに縛られるようにと企てられたのです。

 昔も今も、「目的のために手段を選ばない」という事柄がこの世で大手を振ってまかり通っていますね。また、人々は「法令順守」という名目のもとでがんじがらめになって苦しんでいるのではないでしょうか。法律や法令は良いものです。しかし、法律や法令は人のためであるのであって、法律や法令のために人があるのではありません。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.08放送でのお話しより )


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■イエスの言を聞いて / 板倉邦雄

2025年03月20日 | Weblog

2024/11/06放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「イエスの言(ことば)を聞いて」という題でお話ししましょう。イエス・キリストのことばが語られるとき、そこには様々な反応があらわれてきます。「だれでも渇く者はわたしのところに来て飲むがよい」という説教を聞いて、人々の間に三つの反応が起こりました。ヨハネの福音書7章40節からです。

 まず第一の人たちは、この方はまことの預言者である、と認めました。人々はイエス様を神から遣わされた預言者だと信じ、受け入れたのです。預言者として尊敬できますからイエス様のことばを神のことばとして受け入れ従っていくことができるでしょう。

 第二の人たちは、この方はキリストである、と告白しました。イエスはキリストである、という信仰告白です。キリストとは名前ではなく称号です。太閤秀吉の太閤と同じです。太閤とは天皇にお仕えする大臣という意味ですね。ですから、キリストとはメシア・救世主という称号です。イエス様こそ私たちが待ちに待った救世主キリスト・救い主である、と告白したのです。

 第三の人たちは、「キリスト救世主はまさかガリラヤから出て来ない。『キリストはダビデの子孫から、また、ダビデのいたベツレヘム村から出る』と聖書に書かれているではないか」、と言いました。いわゆる反対者たちです。しかし反対者たちの多くはよく調べもしないで反対するということです。イエス様はガリラヤ出身ですが、生まれたのはダビデ王と同じベツレヘムの村でした。しかもイエスはダビデの子孫、ヨセフを父としていたのです。

 このように、イエス様の説教によって三種類の人々に分かれ、論争と分裂が生じたとヨハネは書いています。

 今日に至るまでイエス・キリストの教えについて分裂し、論争が繰り広げられてきました。ですから驚くことはないでしょう。大切なことは私たちがどの種類の人々に与(くみ)するか、ということです。ラジオの前の皆さんは、第一と第二の人々に属していただきたいのです。

 聖書のことばです。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒の働き16章31節


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.06放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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