♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■プライド優先

2006年10月31日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 今日は最初に聖書のことばを紹介しましょう。新約聖書 第二コリントの手紙4章16節。
私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 ま、私たちは自分の姿を見て、自分は何もできないって感じたり、また困難にぶつかると落ち込みやすく恐れやすい存在だなって感じることがあるでしょう。ま、でも何とかして頑張って強がって自分の弱さを隠してこらえるということもしばしばあります。ま、人生はそんなことの繰り返しかもしれませんね。

 でも強がりは決して勇気とは違います。またある人はプライドが優先してしまい、正直に自分を見ようとすることを恐れます。自分が見栄をはって強がっても、内側に希望も確信もなければ何も生まれないんですね。

 私が高校生の時、ま、カンフー映画が流行りました。ブルース・リーという人の映画をよく見に行ったんですね。朝から晩まで映画館に入りびたりました。映画館から出てくると、自分がまるで映画の主人公になったかのように感じる訳です。中身はまったく変っていないのに、ただ映画を見続けたら、自分が強くなったようなそんな気がしてくるから不思議ですよね。

 人は同じような勘違いをよくするんです。例えば、ほんの少し地位や力を持つと、また成功を収めると、自分がまるで別人になったかのように錯覚するんです。私たちは明日のことさえ分らない小さな弱い存在です。まして死というものの前ではなす術(すべ)を知りません。おれは大丈夫、と豪語しても本来人は脆(もろ)く弱い存在なんです。ですから永遠の支えと励ましがどうしても人には必要なんですね。本当の勇気は、自分をいかに強く見せようとするかではなくて、本当の勇気は、自分の本当のありのままの姿、弱さを持ち明日のことすら分らない存在であることを素直に認めることから始まるんです。

 パウロはこう言っています。「私は誇ることがあるとするなら弱さを誇ろう。そして決して人生に勇気を失いません。」と言ったのです。(※) 

 有名な讃美歌の中に、「主、我を愛す」という讃美歌があります。その詞には、「主は強ければ我弱くとも恐れはあらじ」と歌うんですねえ。私たちの人生は自分の弱さを認め、キリストの強さに覆われていくことから切り開かれていくんですよ。






もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。コリント人への手紙第二 11章30節

私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。コリント人への手紙第二 12章5節

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。コリント人への手紙第二 12章9、10節

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。コリント人への手紙第二 4章16節


 ( PBA制作「世の光」2006.10.31放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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■永遠に生きる

2006年10月30日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、私は牧師になって良かったなあとつくづく思ったことがありました。それは一人の御婦人が、 --そうですねえ、まだ40代の方でしたけれども、えー、財産のある方で、そして一流の学校を出てですねえ、社会的にもそれなりの立場を守っている方でしたけども-- 、癌でいよいよもうあとわずかしかないというふうな中に追い込まれている中で、その方が私につくづくですね、「私がもしもイエス様を知らなかったなら私はこの死に対してどう向きあったらいいか分らなかったでしょうね。もしもイエス様を知らなかったなら、死はあまりにも残酷で、私はこれに耐えられない。どんなに持っている財産も何の役にも立たないのよね。自分の持っている学歴も社会的な立場も、この死の前には無力なのよね。」ってそう言われてですね、「でもあなたは、」 --私に向かってですね --、「私に永遠のいのちを教えてくれました。御子イエスを信ずる者は永遠のいのちを持つ。滅びることがなくって永遠のいのちを持つというヨハネの福音書の3章の16節、あれは真実な神様のお約束ですよね。イエス様がおっしゃった。わたしを信ずる者は死んでも生きる、って言われましたよね。だから私は、この肉体のいのちは確かにもうわずかだけれど、私は死なない。死んでも生きる。イエス様のよみがえりに与って私もよみがえる。永遠のいのちをいただいて永遠に生きることができる。こんな希望を持つことができたということは、どんな財産、どんな学歴よりも本当にありがたいことだとつくづく思います。先生、ありがとう。私にその永遠のいのちを知らせてくださってありがとう。」ってそう言ってですね、私の手を掴んでそして間もなく息を引き取っていかれた。御子イエスを信じる者は滅びることなくして永遠のいのちを持つ。これは何という素晴らしい福音ではないでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活によって誰にも与えられる、これは福音です。


 ( PBA制作「世の光」2006.10.30放送でのお話しより)


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■わたしがあなたがたを選んだ

2006年10月28日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日の世の光は、皆様からお寄せ戴く「心に残る聖書のことば」の御紹介です。徳島県阿南市の井坂さんは新約聖書ヨハネの福音書15章16節のことばをお寄せくださいました。お読みしましょう。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 私が教会へ初めて行ったのは16歳の時で、友人に誘われてでした。その時は、人を赦すことができない、愛することができない、私は何のために生きているのか分らないとか、いろいろと悩み苦しんでいた時でした。讃美歌の美しさ、自分のためでなく他人のためにも真剣に祈る姿を拝見して感動を覚えました。熱心な求道ではありませんでしたが、このヨハネの福音書の15章16節のおことばによって受洗する決心をしました。クリスチャンの夫も与えられ、四人の子どもにも恵まれ、幸いな日々を送っていましたが、長女が中2で不登校になり、目の前がまっくらになりました。次いで高2の長男が躁鬱病にかかり、本当にダブルパンチでした。子どもの苦しみをなるたけ止めてあげなくてはと思いながら、自分が立っているのが精一杯でした。独りになるといつも泣いてばかり。信仰はどこへやら。あまりにも大きい試練に押し潰されそうでした。祈祷会で皆さんに祈ってもらおう、これしかないと私も祈祷会に出席するようになり、長女は今は通信制の高校3年。長男も信じて家の手伝いをしてくれ、笑いが家庭に戻りました。今私は、祈りに燃えています。

 井坂さんの心に残る聖書のことば。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」(口語訳聖書)
ヨハネの福音書15章16節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.10.28放送のお話しより)


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■多くの人に見つめられて

2006年10月27日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は毎日の生活を張りのある活き活きとしたものにする工夫についてお話しします。

 国際弁護士として活躍している佐々木満男さんが、自分のこんな興味深い体験について書いておられます。自分の映画を撮ってみたいって三度も言われたそうです。断わったそうですけど、三回も言われたので意識するようになったそうです。たとえば事務所で働く自分の姿、どのように映るんだろうか。そんなふうに考えると、何か主演俳優の気分で盛り上がってきたそうです。エレベーターに乗る自分の姿、人と話している姿、コーヒー飲みながら独り物思いにふけっている自分、ま、何げない毎日の生活の一コマ一コマに新鮮な味わいが湧いてきたって言うんですね。ま、そんな経験から佐々木さんは、みんな『自分・私』というノンフィクション映画の主人公なんだ。そしてこの映画の主役は自分以外誰にも出来ない。ま、そういうふうに考えると生活に張りが生まれ、新しい感覚で、また心持ちで生活や仕事ができるって言うんです。なるほどなあって考えさせられますね。

 人に見られている、いいえ、カメラで撮られている。画面に映画になる。そんなふうに思ったら、少し心持ちが感覚が変ってくるかもしれませんね。私たち、自分にしか歩むことのできない、演ずることのできない、人生ドラマを演じている訳ですね。その監督者、それは神様であり、またその脚本は私たちの人生のドラマの、このように行くべきだっていうそのテキストが聖書でもあると思います。そして、その聖書の中には、イエス・キリストの歩まれた姿、このキリストと共に歩んだ多くの人たちの生涯が書かれています。ですからイエス・キリストは単なる模範ではなく、私たちの共演者と言ってもよいかもしれません。何か私たち、自分にしか歩むことのできない人生ドラマを自分自身が、共演者なるキリストと共に演じていく、そしていつもそれは多くの人に、いいえ神様に見られ、そして知られ、助けられていく。そんなふうに思うと、私たちの心持ち・生活が活き活きと張りのあるものとなるのではないでしょうか。

  (PBA制作「世の光」2006.10.27放送でのお話しより )


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■悔い改めに祝福がある

2006年10月26日 | Weblog
 

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中の使徒の働きから読んでみましょう。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。   使徒の働き2章38節

 ある方の信仰の歩みを聞きました。幼い頃教会学校に通い、教えられるがまま素直に信仰心を抱いたといいます。その後転居もあって教会を離れてしまいますが、社会人になった時に、なぜか埋め尽すことのできない心の空しさを感じるようになりました。そこで再び聖書に出会い、手にとって読んでみると、その一つ一つのことばが心に染み入り、もう一度神様を信じようと思うようになりました。信仰告白をし、バプテスマを受けてクリスチャンになろうとしましたが、両親に反対され、その志はかないませんでした。また結婚してからは御主人に反対され、クリスチャンになったのは随分あとのことでした。そんな信仰の歩みを振り返って、なぜクリスチャンとしての歩みをすぐ始められなかったのかというと、それは両親や御主人の反対があったというのも確かだけれど、自分が罪人であることをなかなか受け入れられなかったせいでもあったと言うのです。自分は結構真面目に生きてきた人間。だから自分を罪人として認めることは何か今までの人生をすべて否定されるような恐い気がしてなかなか受け入れられなかったと言います。それが教会に通い続け、聖書を読み続けることでかたくなな心が解きほぐされ、だんだんと聖書の言うことが受け入れられるようになったのだと言います。確かに私は神の前に罪など何一つないと言い切れる人など誰もいないことでしょう。ただその罪をはっきり認めるには時間がかかることがあります。けれども罪を認める所に主の十字架の赦しと祝福があるのです。


 聖書をお読みいたしましょう。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。  使徒の働き2章38節

 (PBA制作「世の光」2006.10.26放送でのお話しより)

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■福音の四季:寄り添う心

2006年10月25日 | Weblog
 
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さあ、今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。栃木県佐野市にお住まいのナガセさんからいただきました。

 「今日のおことば、ありがとうこざいました。私は10代の頃から羽鳥先生とは世の光の放送でのお交わりです。ありがとうございました。」

 ナガセさん、今、何歳になられるのでしょうか。とにかく長い長いおつきあいらしく、嬉しく思います。私、ラジオを始めて45年になるのです。さあ、今日もまた福音の四季のメッセージです。聖書のことばは旧約聖書詩篇73篇28節。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

 花たばには中心のある花と、それに添える花がありますね。私の見た花束で、カトレア胡蝶蘭という主役がドカンと真ん中にあり、香りの高いジャスミンの小さな十字架の花が添えてあり、レジメに鑑葉植物、それにリボンです。華やかなカトレヤに添え、「ジャスミンの白き十字架の花がふるらし」と歌が添えてありました。

 寄り添う恵みを考えてみたいと思いますねえ。寄り添うとは信頼することです。

 第一、 「主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」詩篇34篇22節

 二、「これを信じる者は、あわてることがない。」イザヤ書 28章16節

 三、「しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」詩篇32篇10節

 神に寄り添う、神の身近に寄り添う人は罪から遠ざけられる。神に信頼する者は神の恵みに取り囲まれる。何という素晴らしいことでしょうか。神の近くではなく、神に遠く、悪魔に近く住む者は心に痛みを覚えるとあります。

 「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」旧約聖書詩篇73篇28節

 それではまた聞いてください。
 
 ( PBA制作「世の光」2006.10.25放送でのお話しより )

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■一羽の雀

2006年10月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 えー、今日は最初に、イエス・キリストが語られたことばをお読みいたします。
 「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」マタイの福音書10章29節から。

 私の友人で以前、ケニヤという国に海外青年協力隊で派遣された仲間がいます。彼がケニヤから手紙をくれたんですね。その手紙にはこう記されていました。

 ある日、仕事中にふと空を見上げてみました。青い空と、そして白い月がありました。夜空の月でさえろくに見たこともなかったのに、月がこんなに美しいとは知りませんでした。注意してみると、この世は美しいもので溢れています。イエス様は、「空の鳥を見なさい」とも、「百合の花のことを考えてみなさい」ともおっしゃいました。もちろん私だって聖書の有名な箇所ですので、この聖句のことを知っているつもりでした。でも本当に今の今まで注意してそれらを見たことも考えたこともなかったように思います。よく見れば、なるほど花一つとってもソロモン王の栄華よりも勝っていると例えられているほどの美しさです。野の花、鳥たち、そして一羽の雀さえも、これほど良くしてくださる方が、まして私たちにどれだけの思いをかけていてくださるのか、恩知らずにも今まで気付いていなかったような気がしました。そして本当に何も恐れることや心配することなどないのだと思いました。

 ま、こんな手紙を貰いました。一羽の雀さえも忘れることのない神様が私たちを忘れる筈がありませんよね。私たちの痛みや今置かれている状況を知らない筈がありませんよね。そしてイエス様は「わたしはあなたのことを全部知っているんだから恐れるな」と聖書で語っているんです。そして「わたしはあなたと共にいる。恐れることないよ。勇気を出してあなたの一日を進めていきなさい。」と、今日も励ましているんですねえ。本当に何も恐れることや心配することはないのだと聖書から教えられながら歩んでいきましょう。
 

 ( PBA制作「世の光」2006.10.24放送でのお話しより )

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■いのちを付与する者

2006年10月23日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、ミケランジェロという有名な芸術家がおりましたよねえ。で、この方の弟子、その師匠であるミケランジェロの指導を受けて、そしてある彫刻を造りあげた。それが何ケ月もかかって造りあげた。その結果をその師匠であるミケランジェロが何て言ってくれるかなあということをずうっと気にしていて、そしてミケランジェロがそこを通ってそれを見てくれるその時をですね、ずうっと陰に隠れて、一体何て言ってくれるかなあというのでそうっと窺っていたそうなんですね。でミケランジェロがその彫刻をじいっとある時に見てそして最後に一言「うーん、これに命をさえ与えることができればねえ」ってこうひとこと言ってその場を去っていったということなんですねえ。それで弟子が言った。「あれはどういう意味なんだろう。あれは誉めたことなのか、それとも駄目だということなのか」って後から悩んだ末「あれはどういう意味だったんでしょうか」って聞いたら、「いやあ、これに命さえもし与えることができれば。それは本当にその命を与えることができるっていうのは神様しかできないことで、これが命がないのが残念だ。あくまでやっぱり造った物は造った物で、そういうふうな意味で誉めたんだ。」ということをまあ言われたというふうなことをまあ読んだことがある訳なんですよね。

 命を与えることができるのは神様しかできないって、これはまさにそうですよね。イエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネの福音書14章6節)というふうにおっしゃいました。「わたしがいのちである」ということの意味は、まさにそれは命の根源でいらっしゃる、そして命の賦与者・命を与えることができるお方、それは神様にしかできないことですねえ。イエス・キリストは私のためにこの地上においでくださって十字架において罪の贖(あがな)いを完成してくださった。そして死からよみがえってくださった。そのことを通して私たちに、あなたの人生もよみがえることができる、新しい命に生きることができるのだ、ただそれだけではなくって、やがて永遠にまで生きることができるのだということを私たちにはっきりと示してくださったお方ですね。イエス・キリストは「わたしがいのちだ。わたしを信じる者は・・・」(※)とおっしゃいましたけれども、この方を信じるならばその命を得ることができるということですねえ。

※ イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11章25節)


 ( PBA制作「世の光」2006.10.23放送でのお話しより)


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■神は望んでおられます

2006年10月21日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日の世の光は、皆様からお寄せ戴く「心に残る聖書のことば」の御紹介です。徳島県脇町にお住まいの藤田さんは、新約聖書テモテへの手紙第一2章4節のことばをお寄せくださいました。お読みしましょう。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

 一九九六年の正月はいつもと違って主人の入院に始まるという慌ただしい年明けでした。そしてその二週間後にあの阪神大震災が起きました。私の実家は兵庫県芦屋市で、テレビには惨澹たる状況が映し出され、私は実家の上には何が起こってもしかたがないと思わされました。しかし幸いにも、父がタンスの下敷きになって腰を痛めた以外、皆無事でした。地震から十日後、主人がお世話になっている整形外科に父親も入院させていただくことになり、両親は徳島にやってまいりました。無傷だった母は、日曜になると私と一緒に脇町の教会の礼拝に集うようになりました。そこで母は皆さんの被災者のために捧げられる篤い祈りと暖かな交わりに大きな感動に包まれました。それから熱心に教会に通うようになり、二年後には受洗のお恵みに与りました。私は家族の救いを願い、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16章31節 )というみことばをもって祈りながらも、しかし百パーセントこのみことばを信じきれないでいました。ところが神様は、そのような不信仰をも咎めず、素晴らしいみわざを示してくださいました。母の救いを通して、私は使徒の働きの16章のみことばを強く信じるようになりました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

 藤田さんの心に残る聖書のことば。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
 新約聖書テモテへの手紙第一2章4節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.10.21放送のお話しより)


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■「神様」をもっと正確に

2006年10月20日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は「神様」ということばの意味について考えてみたいと思います。

 私たち何げなく使っている日本語の中に、本来のことばの意味と日常使っている意味、違う場合、時には反対のようになってしまう場合ってあるんですよね。

 例えば君ということば。ま、本来は「若君」とか「何々の君」という、これは何々様と同じ尊敬語なんですよね。でも目上の人に「君」とか、何々「君」なんて使ったら大変です。

 また、貴様ということばも、下品なことばのようですけれどもその本来の意味のことばは、貴い様ですから「貴いお方様」という意味で、大変な尊敬の意味なんですよね。

 神様という日本語も、何かその意味、非常にあいまいだったり、ま、もともとは神様というのは「人間が礼拝する対象」という意味のはずですけれども、何か「神様、病気治してください」「合格できるように」なんていう時の神様、何かお賽銭でですねえこう「治しなさい」と何か召し使いに言い付けてるみたいな、そんなふうな意味でも使われる場合があるのではないでしょうか。

 聖書では、神様っていう意味、こんなふうに言っています。旧約聖書の詩篇の95篇の4節、5節という所ですが、「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」ま、神様とは天地万物の創造主だと言うんですね。だから次のように言っています。「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。」(詩篇95篇6節、7節)と。「平伏し、またひざまづいて拝む・礼拝する神様、それが天地を造られた神なんだ」って言うんですね。

 新約聖書でも、使徒の働き17章の25節という所には、「神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方」だと言っています。

 神とは「天と地の創造主、そして私たちにいのちと生きる力を与えてくださるお方」である。ま、そんなことを正しく知る所から、神様についての正確な理解そしてまた神を知る恵み・力が体験されていくのではないでしょうか。


  (PBA制作「世の光」2006.10.20放送でのお話しより )


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