♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■十戒 - 自由への励まし 21 / 大嶋重徳

2017年08月31日 | Weblog
2017/7/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第三戒は「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節、申命記 5章11節)と命じています。

 ここまでで見てきたように「みだりに唱えるな」という命令は、ふさわしい神様の名前の読み方があるのだと教えられているのです。そしてその神様の名前をふさわしく呼ぶとは、まさに礼拝という場所で行われるものです。ではなぜ週の初めの日、日曜日に礼拝を捧げているのでしょうか。週の初めの日、遊びに行くのでも自分の時間を確保するのでもなく、神に礼拝を捧げることから新しい一週間を始めようとする時、私たちは自分の人生の最も大切なものが神様だと告白しているのです。

 礼拝において『使徒信条』という教会が大切にしてきた信仰告白をする時に、十字架にかかり私たちの救いのために命を投げ打ってくださったキリストの愛と恵みを味わいます。その時に自分が罪人であることを改めて気がつかされ、神様の前で悔い改めに導かれていきます。

 更に「主の祈り」にある「御名があがめられますように」という祈りによって神の名をふさわしく呼ぶ読み方を知っていきます。賛美をする時、聖餐をする時、私たちは神の名と共にいる生き方が形造られていくのです。礼拝をし続ける時、神の名をみだりに唱えなくなるのです。礼拝こそ十戒が放つ光の生き方に生きて行こうとする姿勢が私たちの中で立ち上がって来る場所なのです。何より礼拝は神を私物化する生き方から私たちを自由にしてくれる訓練の時となります。

 第三戒おけるみだりに神の名を唱えない生き方は礼拝における一つ一つの行為によって実現し始めます。そこで次週から教会において伝統的な礼拝プログラムを見ることにしたいと思います。礼拝におけるプログラムの一つ一つは実は私たちの日常にどのような光の生活を指し示しているのかを教えてくれています。主の日の礼拝は日曜のためだけではありません。生き方の指針となっているのです。いろんな礼拝プログラムが歴史の中で作られてきました。これらはいずれもふさわしい神の名の呼び方を求める真剣な営みです。礼拝プログラムは私たちを自由にする指針が詰まっているのです。

 さて次週から礼拝のプログラムの意味をご一緒に考えていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2017.7.27放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■あなたの内には神の霊が宿り / 福井 誠

2017年08月30日 | Weblog
2017/7/26放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたの内には神の霊が宿り」です。ダニエル書5章13節、14節を読んでみましょう。
 「あのダニエルか。あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。

 既に聖書通読はダニエル書に入っていますねえ。今週はダニエル書をずっと読んでおられた方も多いと思います。実はこの5章とその前の4章の間には時間的な飛躍がありますね。

 4章まではバビロンの王ネブカデネザルのお話。5章はその子ベルシャツァルが王様になった時のお話です。1章か4章の主役であったネブカデネザル王の治世は43年。後継者はベルシャツァルではなく息子のメロダクでした。しかしメロダクは2年後、義理の兄弟ネリグリッサロスに殺され、ネリグリッサロスが約4年間国を支配しました。その後は彼の子ラバシ・マルドゥクが数ヶ月国を治めますが、この若い王様も暗殺され、バビロン帝国はネブカデネザルの二番目の妻の息子ナボニドスによって統治されるようになるのです。ベルシャツァルはその子どもですね。このエピソードに至るまで実に約23年の歴史が省略されているのです。

 で、ここに描かれた物語は実は先の1章から4章の出来事が前提となっています。つまりそこでは世界の覇者となったネブカデネザルが不思議な経験を通して自分に勝る権力を持ったまことの神の存在に気づき、神の前にへりくだったことが書かれていますね。5章に出て来るベルシャツァルははその父ネブカデネザル王に起こったことをよく理解しているはずでした。しかし父の経験から悟ることもなく、まことの神を畏れずに、譲り受けた権力と富を欲しいままにし傍若無人な振る舞いをしたので、神はこれを裁かれると宣告されているのです。人間、勢いのある時に神の前にへりくだるのは難しいものです。成功は自分の力ではなく神が導いてくださったのだと謙虚に考えるのは難しいものですね。しかしよくよく考えてみれば、人間の地位など巡り合わせや弾みですらあったりするものですね。なのに自分の小さな力を誇りがちな愚かさが私たちにはあります。裸で生まれ裸で帰る何も持たない人間。その人間にすべてを備えてくださる神を覚えて、謙虚に歩みたいものです。

(PBA制作「世の光」2017.7.26放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神の前に戦うとは / 板倉邦雄

2017年08月29日 | Weblog
2017/7/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神の前に戦うとは」という題でお話ししましょう。今日の民数記の32章には「主(神)の前に」と言うことばが6回も出てきます。神の前に戦うとはどういうことかを考えましょう。

 さて、イスラエルの人々と指導者モーセの心をくじいてしまったことに気づき、反省したガド族とルベン族の人々はモーセの所へ進み出て言いました。「私たちはこのギリアデの地ヨルダン川の東にありますの地に子どもたちのために町を建てたいのです。ですから私たちは彼らを約束の地カナンに導いて行きます。ただ私たちの子どもたちでこの現地の住民から害を受けないため、堅固な町々に住まわせておきたいのです。私たちはイスラエルの人々が部族毎に相続地を受けるまでは家には帰りません。」 (民数記32章16-18節参照)

 モーセは彼らに答えました。「もしあなたがたがそのように実行し皆武装して神の前に行って戦い、神がその敵をご自分の前から追い払われてカナンの国が神の前に征服された後帰って来るならばあなたがたは神の前にも人々の前にも非難されることはないであろう。そしてギレアデの地は神の前にあなたがたの所有となるでしょう。しかし、そうしないなら、あなたがたは神に向かって罪を犯した者となり、その罪は必ずその身に及ぶことを知らなければならない。あなたがたは約束したことは行わなければならない。」(民数記32章20-24節参照)

 神の前に戦うということはどういうことでしょうか。まず家族を守るために戦うということが分ります。家族を守るということは同じ仲間と共に苦楽を共にして戦うということを意味していましたねえ。そして何よりも私たちの人生と生活の戦いの大将は主という名の神様であることを忘れないことです。この主なる神様を信じて戦い抜いて参りましょう。

 聖書のことばです。
 「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
  世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

         第一ヨハネの手紙 5章4節と5節

  (PBA制作「世の光」2017.7.25放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■障碍児教育の父 石井亮一 / 岩井基雄

2017年08月28日 | Weblog
2017/7/24放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は様々なハンディキャップを持つ子どもたちに神様の愛を届けた石井亮一について学んでみましょう。

 石井亮一は1867年、慶応3年、佐賀藩士の六男として誕生しました。祖父は家老職、父も上士で亮一は豊かな暮らしをしていたのです。亮一は学力優秀でしたが体が弱かったため、藩主の侍医大須賀家の養子になります。亮一は科学者になる夢を抱き工部大学校(※現東京大学工学部)を受験しますが身体検査で不合格となってしまいます。夢を諦められない亮一はアメリカ留学を志し、英語習得のため立教大学に入学しました。立教大学在学中に亮一は創立者であるウィリアムズ宣教師と深く交わり、その人格と教えに感銘し、聖書の語る神様と救い主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンとなったのです。なおも(※留学のための)身体検査で不合格となった亮一でしたが、留学を諦め、立教女学校の教師となり、キリストの愛による女子教育に勤めていったのです。 彼は教頭となったあと、濃尾大地震が発生しました。そのため多くの子どもが孤児となり、中でも少女たちが人身売買の被害を受けていることを知った亮一は岡山孤児院の石井十次と合流し、孤児の救済にあたったのです。亮一は二十数名の女子の孤児を引き取り私財を投げうち荻野吟子女医の自宅を借り、聖三一孤女学院を開設し、幼稚園から高校まで彼女たちへの教育を開始しました。亮一が保護した孤女の中に知的な遅れが認められる子どもが二人いました。当時は彼らへの理解も研究もなく、白痴と呼ばれ人権侵害され放置されるような状況でした。神様の愛を伝えたい亮一は二度渡米し、知的障碍児教育や教育法を学びました。ヘレン・ケラーとも会見して理解を深め、学院を滝野川学園と改名し、知的障碍者教育の専門機関としたのです。彼の働きを妻の筆子も豊かに支えていったのです。

 聖書のことば
 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
         新約聖書 ヨハネ第一の手紙 3章18節

  PBA制作「世の光」2017.7.24放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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