世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
えー、ある人が「人間であることと人間になるこということは違う」って言いました。そういえば、私は人間であると胸を張ってみたところでお互い何も自分の意志で人間となることを決断・選択して生まれてきた訳ではありませんよね。生まれてみたら、たまたま人間であったにすぎない訳です。えー、そういう点から言えば犬や猫だって同じことになる訳で、私たちが動物学的な分類上、犬ではない猿ではない人間であるっていうだけだったら一体どれほどの意味を持つのだろうかという事になりますねえ。
えー、ある大学の教育学の教授、家族の方はみんなクリスチャンでしたが、本人は「私は決してクリスチャンなんかにならない。」と言っておられた方があるんですが、ある日かかりつけのお医者さんに診察してもらった時、「昨日お宅のお嬢さんがお見えになりましてねえ、その時おっしゃってましたよ。何でもお宅は皆さんクリスチャンなんですってねえ。」(って)、そのお医者さんが言われたんですねえ。「いや家の者たちはみんなそうだけど私は違う!」ってその教授が強く否定しますと、「ああそう言えばねえ、『家はみんなクリスチャンだからお食事の時はお祈りして戴くんです。お祈りしないで戴くのは家のポチとパパだけなのよ。』っておっしゃっていましたよ。」 それからこの教授、「何だそれじゃ、わしはポチなみかあ。」と、すっかり考え込んでしまって、じゃあポチとパパ、つまり動物と人間の違いは何ぞやと真剣に考えるようになって聖書を読み始め、教会にも行き、ついにポチとパパの違いを発見したというお話を伺ったことがあります。あなたはポチとパパの違い、いや動物と人間の違いをどのように理解されるでしょうか。
主イエスはかつて夜訪ねてきたユダヤ人の指導者のニコデモっていう人に、「 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネの福音書3章6節、7節)というふうに言われました。どんなに優れた人であったとしても生まれたままの延長でしかないとするならば、動物学的な分類上の人間であるという域を出ていないことになりますね。人間がもし動物と異なる次元で生きようとするなら、いつかどこかで本来的な人間らしい人間に「なる」という実存的な決断をもって出発しなければならないのではないでしょうかねえ。だらだら、生まれてきたまま人間をやっているのでは意味がありません。ですから主イエスは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3章3節)と言われたのですね。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく」(コリント人への手紙第二 5章17節)生まれ変ることができるとありますから、キリストにあって新しく人間に「なる」ということ、大切なことだと思いますね。
( PBA制作「世の光」2006.07.31放送でのお話しより)
******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***
このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。