♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■実りある人生

2005年10月31日 | Weblog

 おはようございます。世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、秋というのはいろんな言われ方をしますねえ。読書の秋とか芸術の秋とか、あとは食欲の秋とか。実りの秋というのもありますねえ。もう恐らくどこでも稲刈りは終わってしまっているんだろうと思うんですけど、私はよく田んぼの所を通る時にですねえ、本当にこう、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」っていうのを、見ながら実感するんですね。実が実るってすばらしいなあって。本当にああやって頭(こうべ)を垂れるという、実れば実るほど謙遜になっていく。自分は一体どれだけ実をつけているかなあ。そして自分の姿勢は、生き方はどうなんだろうかなあなどというふうに思わされたりするんですけれどねえ。

 えー、詩篇の1篇という所、旧約聖書の詩篇の1篇という所に、神様のみことばに根ざして生きる人生というのは時が来ると豊かに実を結ぶようになるんだというふうなことが書いてあってですね、そして実を結ばないものは風の吹き去る籾殻(もみがら)のように、いざ問題が起こったりすると吹っ飛んでしまうというようなことが書いてあって、確かに実が入っているのと実が入っていないのとは見た所は籾殻(もみがら)の場合あまり変りがない訳ですけれども、実が入っていないと、つまり風が吹いてくる、何か事件が起きる、そのような問題が起こってくる時に、吹っ飛んでしまう。吹き飛んでしまうという。実の入っていない、つまり本当に実りの少ない人生というのは、本当に風の吹き去る籾殻(もみがら)のような価値のないものになってしまうんだろうなあというふうに思わされる訳ですね。

 聖書の中でもイエス様が、いちじくの木を御覧になって、そして(ああ葉がいっぱい茂っているからきっと実があるに違いない)と思って行ってみたら、葉っぱだけで全然実がなかった。普通いちじくは実が先になりますから葉っぱがあるということは当然実があるものだという期待がある訳ですけれども、私自身の人生でも何か見たところ葉っぱが茂っているようだけれどもでも全然実がないなあということだったら大変だなあというふうに思うんですけれども。でも聖書の中で、何とかして実を結ばせようとして父なる神様は私たちをもたげて持ち上げて実を結ばせよとしていてくださることなんだということがヨハネの15章に書かれているんですが、えー、神様をあてにしてですね、そして実りある人生を送らせていただくように本当に主に信頼していきたいなと思わされます。
 

 ( PBA制作「世の光」2005.10.31放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

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##ありがとう (続き)

2005年10月30日 | Weblog


 5 ありがとう
     わたしが黙っていることを許してくれて
   ありがとう
     わたしにはそれ以上は消化できないのを見て
     口に出したいことばを飲み込んでくれて

 6 ありがとう 
     どれだけ有能であるかによってわたしを量らないでいてくれて
     わたしを使い勝手のある何でも屋としてではなく人として扱ってくれて

 7 ありがとう
     同情と愛とを区別してくれて

 8 ありがとう
     わたしの無関心さと不注意さとを指摘してくれて

 9 ありがとう
     わたしにはもうそれ以上は到底無理な時に
     たくさんが本当にもうたくさんであった時に
     もういいよとしてくれて

10 ありがとう
     自分の歩調でとりくむことを許してくれたあなたの忍耐を

11 ありがとう
     あなたの恐れ、あなたの喜び、
     あなたの苦悶、あなたの愛、
     あなたのわたしと一緒にいる人生を
     わたしと分かち合ってくれたことを


 ウルリッヒ・シェーファー 『成長する愛』より

***

日曜日には、 ラジオ放送からではなく
こういうのを、英文から訳して掲載しています。
過去の分は カレンダーの日曜日をクリックしてみてください。
公開するのは原書の一部分となるよう過去ニケ月分程度といたします。
  

***

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■イエス・キリストを離れては、何もすることができない

2005年10月29日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 徳島県脇町の真鍋さんからは新約聖書ヨハネの福音書15章5節、イエス・キリストのことばをお寄せいただきました。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 私はクリスチャンホームに生まれ、中学校の時に洗礼を受けましたが、大学生になってから神様に背を向け、信仰から離れていきました。親元を離れ下宿生活を送るうちに私の心はおしゃれやコンパなど、世俗的な楽しみに支配されるようになったのです。聖日礼拝も、朝寝をしたり遊ぶ予定を優先したりして、だんだん守らなくなりました。やがて私は社会人となり、見合いで結婚しました。それから10年間、まことの神を信ぜず生きて行くうちに家庭の人間関係にすごく苦しむようになりました。なんとか自分の力で解決しようとしましたが、悩みは大きくなるばかりで、毎日が辛く、怒りと悲しみに満ちたものでした。しまいにはストレスから体調を崩して入院するほどになりました。それでも試練は止むどこか、形を変え、ますます激しく襲ってきました。この八方塞がりの中で、私はやっとイエス様を見上げ、それ以外もう他に道はないと思いました。その時このイエス様のことばが与えられ、十何年ぶりに神に祈り、神のもとに立ち帰ることができたのです。それからはまるで心が暗闇の中から光に移されたようでした。自分を取り囲むことは何一つ変らないのに、心は不思議に喜びと平安に満たされました。教会の皆さんが祈ってくださいました。どんな試練の中にも神様は脱出の道を備えていてくださいます。一切を主の御手に委ね歩んで行きたいです。

 真鍋さんの心に残る聖書のことば。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
 ヨハネの福音書15章5節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2005.10.29放送でのお話しより )

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■150%達成目標

2005年10月28日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 ある雑誌に「良い人ほど早死にする」っていう記事があって考えさせられました。まあ人の良い、良い人ってのは誰に対してもいつも良くするんだと気を遣う。そこでストレスがたまって、時には病んでしまうっていう訳ですねえ。そう言われてみると思いあたる例があるような気がいたします。ま、逆を言えば、じゃあある程度礼を欠いたり、人に不満足を与えたりしてもマイペースで行くことが長生きの秘訣ともなる訳ですねえ。まあ礼を欠いたり不義理になってしまうことの言い訳にしてどんどんそうなっては困る訳ですけれどもね。バランスが必要ということでしょうか。

 私は以前、海外で宣教師として働いておりました。今も日本から海外のいろんな国に宣教師を派遣する団体の責任を持っています。ま、この宣教師という仕事は、現地のことばを覚えて生活・習慣に適応していかなければなりません。ストレスが溜ります。いわゆる良い人としてふるまわなければならない訳ですから疲れて倒れてしまう場合も少なくありません。ま、そこで私はいつも150%人間を目指して行くようにとアドバイズするんです。150%だったらなお大変。決してそうじゃありません。つまり、いくらことばを覚えて現地の人と同じようになろうとしても決してそうはなれない。75 %ぐらい目指せばいいんだ。そして逆に長く海外にいると、日本人としてもだんだん現地化して日本人的でなくなる。ま、75 %ぐらいの日本人になっていく。ま、合わせて150 %という訳です。

 インドネシアでは、学校のテストでも100点はないんです。100点は神様の数字。90点は先生。80点が生徒の最高点という訳です。だから75点とったらすごいという訳です。でも100点目指す日本じゃ、75点、なあんだとなりますねえ。えらい違いです。私たちも大人も自分の生活目標また人生の目標100 %、それは無理かもしれません。聖書では、その100 %はイエス・キリストだ、人間の本当のあるべき姿それはキリスト、そしてそれは単なる目標ではなくて、このキリストを目指していく所にキリストが共にいて、私たちに励ましや慰めや力を与えてくださると言うのです。75 %を目指しながらキリストを仰いで歩んでいけたらいいですねえ。

(PBA制作「世の光」2005.10.28放送でのお話しより )

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■切れる人とキレル人

2005年10月27日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 新聞に掲載されていました五行歌、埼玉県上尾市の遠山節子さんの五行歌、紹介します。

 切れるとは 頭の良い人のことだった ような気がする いつからだろう 別の意に変ったのは

 この五行歌に、こんなコメントがありました。「世の中は不思議だ。頭の切れる人が求められることがなくなり、切れる人に困る時代となった。」なあるほどと思い、改めて国語辞典を見ました。「切れる人とは何でもよく処理できる様子」とありましたし、さらに「頭の回転が早く、てきぱきと処理できる人」とありました。それがいつからか、「頭にきた」とか「切れた」というような意味に使われるようになったんでしょうねえ。親が子どもの進路について心配したつもりで言ったのがしゃくにさわって息子が親を刺し殺したとか、しつけのつもりで言ったことが頭にきて暴力ざたになったとか、こんなことがいっはいありますよね。家庭でも職場でも学校でも、通勤中の電車の中でも、電車を待っているホームでも、やれ体に触ったの目が合ったの、で、ちょっとしたことで切れる人が多すぎます。いつも疲れていたりイライラしているんじゃないかなあって思いますね。私も私鉄と地下鉄を使って通勤しているんですけど、自分の心中も時には穏やかじゃないっていう時があるんですよ。

 さて、旧約聖書、箴言という所にはですね、怒りについてこんなことばがあります。12章の16節です、「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」 15章の18節、「激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。」 16章32節、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」 ま、怒りっていうのは誰にも生じる感情だなって思います。それを聖書は、怒りをおそくする者は勇士にまさるヒーローだと言い、町を攻め取り勝利を得るよりもすばらしい事だって言っているんですね。

 さてお互い、ま、ある程度は怒りを治めるといいましょうか押さえるっていうことはできるかもしれません。聖書が言うのも分りますよね。でも、堪忍袋の緒が切れるってこともあります。さてそんな時、どうすれば良いのでしょうか。どうでしょうか、イエス様はどうするだろうかと視点を自分からですねイエス様に変えてみたらどうでしょうか。そこに一呼吸の時間が生まれますし、イエス様がその場を乗り越える力をくださるはずです。お互い、こういうことから勇士に勝るヒ-ロ-にさせていただきたいと思います。

  (PBA制作「世の光」2005.10.27放送でのお話しより )

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■信仰によって歩んで

2005年10月26日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。青森県八戸市にお住まいの菅原さんからいただきました。

 現在聖公会の信徒です。羽鳥 明先生、お元気のようでなによりです。どうされているかと思っていました。ただ今療養中で家で本を乱読している日々です。キリストの信仰を人に理解してもらうのはつくづく難しいと感じました。ラジオやテレビによるフォローが重要だと思います。

 菅原さん、私のことを気遣ってくださってありがとうございました。

 さ、今日の約束のことばです。新約聖書コリント人への手紙第二5章7節のことばです。「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

 私たちがよく歌う聖歌にこんな歌があります。「見ゆる所によらずして、信仰によりて歩むべし。」私たちの新しい人生は、信仰によって歩む人生ですね。神のみことば、神の御約束を信じ、そこに立って何も見えず何も聞こえなくても信仰によって神に従って歩む人生です。そんな無茶なとおっしゃる方もおられましょう。しかし、私たちの日常生活もみんな信仰によって歩む人生なんですねえ。御飯を出されれば毒が入っているかもしれないのにガブッと食べなければ生きていけません。バスや電車に乗れば運転手を信用して何も言わずに信仰によって乗り込みます。信仰によって乗り込まなければどこにも行けません。私たちの人生は一に信頼、二に信頼の歩みですねえ。

 神様はすべての造り主、私たちを愛をもって善のみを行うと信じれば、何を見なくても聞かなくても、神を信じてすばらしい祝福の人生を送れるのです。イエス・キリストと共に歩む人生も信じるということで始まります。私も16歳の時に目をつむって清水の舞台から飛び下りるように神様・イエス様の愛を信じて神の御腕の中に飛び込みました。それから祝福の人生が始まったのです。

 今日の約束のことば。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
コリント人への手紙第二5章7節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.10.26放送でのお話しより )

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■方向転換

2005年10月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 新約聖書が書かれた時代は、あのローマ帝国が全世界を支配する時代でした。その世界に、イエス・キリストの福音が伝えられていきました。するとそこに大きな喜びが沸き上がっていきました。でもクリスチャンたちに対するいろいろな誤解やうわさも撒き散らされていくことになり、迫害も起こってきました。でもその数はますます増えていったんですねえ。

 クリスチャンになる人たちは社会的に大きな地位を持っている人もいれば奴隷の身分の人たちもいました。聖書は、すべての人を敬いなさいと勧めています。立場はどうあれ、一人一人は大切な、そして敬まわれなければならない一人一人だという訳です。

 ローマの時代、帝国内には大体六千万人の奴隷がいたとされています。すごい数ですねえ。奴隷はもともと戦争で捕らえられた捕虜だった訳です。その奴隷の仕事も多岐に渡っていました。医者もいれば教師もいる。音楽家、俳優、秘書。ローマの仕事の殆どは奴隷が行っていたと言われます。もちろんすべての奴隷が過酷な運命を背負わされた訳ではありません。主人の家族から愛され信頼された奴隷もたくさんいたはずです。でもローマの法律においては奴隷は人格を持っていない、ただの物扱いされたんですね。当時、道具には三つあると言われました。話すことができない道具、これが家畜です。話すことができる道具、これが奴隷。聞くことができず話すこともできない道具、これが農機具だという訳です。ですから奴隷は人格を持った人間として(は)決して見られていませんでした。奴隷にとっては主人の意志がすべてであった訳です。

 でも聖書には、すべての人を敬いなさいとあるんですよ。もちろんその「すべて」の中に奴隷も入っていました。当時、教会ではちょっと面白いことを見ることができたでしょう。時には奴隷の主人が礼拝の受付をし、奴隷が司会をしていたりする、そんな光景を見たはずです。みんなイエス・キリストによって愛され尊ばれる存在だという訳ですねえ。肩書きやプライドや見栄も、そこでは必要ありません。何と麗しい光景でしょう。主にあって社会的な壁さえも壊されていったんです。

 さてあなたは自分のことをどのように思っていらっしゃいますか? 聖書はこう語っています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。」実はこの心はキリストの心でもあるんですよ。
 
 ( PBA制作「世の光」2005.10.25放送でのお話しより )

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■いつも前向き

2005年10月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、高齢化社会を迎えて、いかに健康を管理し若さを保つか、ってこのことへの関心は異常なほど高まっていますよねえ。

 えー、健康を保つことはもう一種の宗教になっているんじゃないかって、ある人が言ってましたけど、そんな気がするくらいですけれど。まあそれは、死んだらおしまい、この世がすべてと考えているからっていうこともあるんじゃないかなあと思うんですけれども。まあしかし、いくら健康に気をつけて若さを保つことに一生懸命になっても人はいつかは年をとって病気になって死んでいきますよねえ。
 
 日本人は人の年齢に非常に関心があって、すぐおいくつですかって聞くって言うんですけど、ある人が言ってましたけれどその理由は、人に歳を聞いて自分より上だって思うと、あっこの人は自分より先に逝くんだろうって優越感を持つためじゃないかって言ってましたけど。

 それはどうか分りませんが、今熟年の中で一番まあ注目の的、あこがれの人ってのは日野原重明先生じゃないかと思うんですねえ。93歳でありながら先生の手帳には、3年先までの講演の予約で一杯だって言うんですからすごいですねえ。えー、なぜあんなに若々しいのかって言われると、前向きに生きておられるからだっていうふうに言われるそうなんですけどねえ。前向きに生きられるってのは前途に希望があるからですよねえ。先生御自身が健康を管理しながらも、そして3年先までのちゃんと予約がするくらいですね、いつも前の目標に向かってこう歩んでらっしゃるからだということが言えるだろうと思いますし、同時に日野原先生は牧師の息子で、そしてクリスチャンですね。ですから、永遠のいのちを信じてですね、この世がすべてではない、そして死は終わりではない、という生き方がその根底にあるからだと思うんですね。何歳になっても希望があるということですね。

 で、先生に限らず、こう前向きに生きている人は70歳でも80歳になっても今が一番若いというふうな。そしていつも前のものに向かって目指して歩むというそういう生き方がその人の中にあるならばそれは年齢と関係なく若さを保つことができるのではないかなというふうにまあ自分に言い聞かせたりしている訳なんですけれどもね。パウロという人が言ってるんですね。もう自分はあるものを捕らえたなどとは思っていない、いつでもひたむきに前のものに向かって進んでいるっていうふうに言っていますけれども、私たちはそういう前向きの生き方っていうのをいつも持っていきたいと思いますし、永遠の希望を持って歩んでいきたい。そう思います。

 ( PBA制作「世の光」2005.10.24放送でのお話しより )

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##ありがとう

2005年10月23日 | Weblog



1 ありがとう あなたの気遣いを
   「家」を「家庭」とすることへの気遣いを
   居間を整えることへの気遣いを
    ただ素敵な部屋であること以上に
    私が自由な思いでいられるようにと
    くつろいで休める場所にしようとのあなたの気遣いを

  そうするのがあなたの役目なのだとは決して思うことがないようにしよう
  そうではなくそれは予期せぬ驚きとして私にしてくれる贈り物

2 ありがとう
   机の上の花を
   ほころびの直ったセーターを
   私の目覚めのためにと考えてかけてくれる音楽を

3 ありがとう
   私の姿を教えてくれる鏡でいてくれることを

4 ありがとう
   自立したあなたでいてくれることを
   それで私はあなたのためにもっと多くのことができるよう自由にされる
   自由にされてこそ私はあなたのために
   

 ウルリッヒ・シェーファー 『成長する愛』より

***

日曜日には、 ラジオ放送からではなく
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■目が澄んでおれば全身も明るい

2005年10月22日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 徳島県徳島市にお住まいの秋吉牧師先生からは新約聖書マタイの福音書6章22節のことばをお寄せくださいました。
 「目はからだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば全身も明るい。
イエス・キリストのことばですねえ。

 私の母は、若い頃から目が悪く、70歳の時、完全に失明してしまいました。その母が、少しでも見えるうちに自分の一生を書き残したいということで、大きな字で自分史を書き、その本に「霧」と題をつけましたが、それは自分の目の中にたちこめている濃霧という意味で、そのような題にしたのです。

 さてイエス様は、「目はからだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば全身も明るい。」とおっしゃいました。イエス様は肉眼のことを言われたのではなく、私たちの心の目のことを言われたのですね。私たちの心が澄んでいる、健全であることなのですねえ。澄んでいる目、健全な目というのは、他人の欠点や弱さや過ちに対して寛大である、寛容であるということなのです。私たちの目が健全であるなら小さなゴミも良く見えますが、心の目が健全な人は逆に他人の欠点、弱さ、過ちに目をつぶるということなのですねえ。私たちはお互い、自分に甘く他人に厳しいと言います。しかし澄んだ目について書いた後でイエス様はこう言っています。「あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気がつかないのか。兄弟に向かって『あなたの目からおがくずを取らせてください』とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」 マタイの福音書の7章の3節、4節です。神様から澄んでいる目、健全な目をいただいて、自分の罪をしっかりと見据える所から本当の幸せが始まるのですね。

 秋吉牧師の心に残る聖書のことば、
イエス・キリストのことば。 「目はからだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば全身も明るい。」 新約聖書マタイの福音書6章22節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2005.10.22放送でのお話しより )

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