♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■聖書が開かれて

2007年04月30日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
 
 えー、キリストの復活という事実は、その復活を通してですねえ、三つのことが開かれていったということが分るんですね。

 一つは言うまでもなく、墓が開かれた、そこからキリストはよみがえられた、墓の中にはキリストはおいでにならない、ということですね。

 二つめのことは、その復活を通して弟子たちの目が開かれていった(ということ)。「目からうろこ」というふうな言い方がありますけれども、本当にイエス・キリストという方はどういう方かということが分かった。そしてイエス・キリストが語られたことの内容についても更に理解することができるようになった。これからの将来についても、また未来についても、彼らの目が開かれていったというふうに言うことができると思うんです。

 で、もう一つのことは、聖書が開かれていったということをルカの福音書の24章を見ますと分るんですね。で、エマオの道々、弟子たちにイエス様は近づいて語られた。何を語られたかというと、聖書についてお話しされたんですね。「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」ってことばがあるんですね。聖書というのは、結局何が書かれているのか、それはイエス・キリスト自身のことが書かれているのだ。そしてイエス・キリストの救いという最も大きな大切な中心的なテーマが書かれている、それが聖書なんだ。創世記からずうっと旧約聖書の終わりに至るまでですねえ、それはキリストを指差していることなんだということ。それはキリストの十字架によって贖(あがな)いが完成すること、キリストの復活を通してそのことが確証されていくということが聖書全体の中のメッセージなんだということを彼らはそのキリストの説き明かしによって理解することができるようになったんですね。ですから後ほど彼らは、そういえば道々イエス様がお話しになっている間、聖書を説明してくださった間も私たちの心は内に燃えていたではないかという言い方を致しました。「あの時、心の中が燃えましたよね」(と) そうですね、私たちは聖書の素晴らしさが分る時に、心が燃えてくる。熱い心が沸いてくる。もっとイエス様に仕えていきたい、そういう気持ちが湧いてくる燃えてくる。そういうことですね。聖書が開かれるってことは素晴らしいことです。

 ( PBA制作「世の光」2007.04.30放送でのお話しより)

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


******

東海福音放送協力会の口座番号についてお問い合わせがありました。

岐阜放送と東海ラジオでの世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送への協力、
そしてテレビ番組ライフ・ラインの東海地方での放送再開のために協力してくださる場合の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会
まで

  ラジオ放送指定とテレビ放送指定の区別を明記してください。
  テレビ放送はただ今資金が溜るまで積立中です。
  ラジオ放送の方が、放送料の値上げにより、一層の協力を必要としております。

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■聖書が開かれて

2007年04月30日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
 
 えー、キリストの復活という事実は、その復活を通してですねえ、三つのことが開かれていったということが分るんですね。

 一つは言うまでもなく、墓が開かれた、そこからキリストはよみがえられた、墓の中にはキリストはおいでにならない、ということですね。

 二つめのことは、その復活を通して弟子たちの目が開かれていった(ということ)。「目からうろこ」というふうな言い方がありますけれども、本当にイエス・キリストという方はどういう方かということが分かった。そしてイエス・キリストが語られたことの内容についても更に理解することができるようになった。これからの将来についても、また未来についても、彼らの目が開かれていったというふうに言うことができると思うんです。

 で、もう一つのことは、聖書が開かれていったということをルカの福音書の24章を見ますと分るんですね。で、エマオの道々、弟子たちにイエス様は近づいて語られた。何を語られたかというと、聖書についてお話しされたんですね。「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」ってことばがあるんですね。聖書というのは、結局何が書かれているのか、それはイエス・キリスト自身のことが書かれているのだ。そしてイエス・キリストの救いという最も大きな大切な中心的なテーマが書かれている、それが聖書なんだ。創世記からずうっと旧約聖書の終わりに至るまでですねえ、それはキリストを指差していることなんだということ。それはキリストの十字架によって贖(あがな)いが完成すること、キリストの復活を通してそのことが確証されていくということが聖書全体の中のメッセージなんだということを彼らはそのキリストの説き明かしによって理解することができるようになったんですね。ですから後ほど彼らは、そういえば道々イエス様がお話しになっている間、聖書を説明してくださった間も私たちの心は内に燃えていたではないかという言い方を致しました。「あの時、心の中が燃えましたよね」(と) そうですね、私たちは聖書の素晴らしさが分る時に、心が燃えてくる。熱い心が沸いてくる。もっとイエス様に仕えていきたい、そういう気持ちが湧いてくる燃えてくる。そういうことですね。聖書が開かれるってことは素晴らしいことです。

 ( PBA制作「世の光」2007.04.30放送でのお話しより)

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■目に見えないものこそ

2007年04月28日 | Weblog

 
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 村上宣道(のぶみち)です。

 聖書を最初にお読みしたいと思います。第二コリントの4章の16節から18節までですね。

  ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
  今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
  私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


 えー、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」、パウロという人は見えないものに目をとめて生きている。だから今はどんなに患難に出会っても、いろんな難しい問題に直面しても、これがすべてではない。やがて神様は私たちに永遠の栄光を与えてくださるのだ。だから今どんなに苦しくって辛くって、もう打ちひしがれそうな状況の中にあっても、しかし勇気を失いません(と彼は言う)。外なる人は衰えていく。パウロであってもやっぱり人間的な、そして年齢から来る肉体的な衰えということは感じていたことでしょう。でも内なる人は日々新たにされて活き活きと生きることができる(と彼は言う)。それは永遠なるものに目をとめて生きているから、見えるものがすべてではない、見えないものこそが素晴らしい永遠に価値あるものなのだということの価値観の中で生きることができたからだというふうに言えると思いますね。

 あのー、よく赤ちゃんなんかに「いない、いない、ぱあー!」って、よくやったりしますね。で、「いない、いない」ってやった時に、本当に赤ちゃんは(こちらが)いなくなったと思うらしいんですね、顔が見えなくなって。それが「ばあーっ!」って出てくると、ああいたんだあっていうんで「キャッキャッ」って言って喜ぶという(こと)。あのう、目に見えない時にはいないと思ってしまうという存在しないと思ってしまうのは幼児性だって言われるんですね。そこには目に見えなくっても実は存在しているものがあるのだということを知ることができる。それは当然、大人はそう言う訳ですよね。私たちがある意味において成人した人間として生きるっていうことは、目に見えないものに確かなものがあるのだということをはっきり知って、そこを目指して生きるということ、これが大事なことだということですね。

 ( PBA制作「世の光」07.04.28放送のお話しより)


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■セルフ・イメージを高める

2007年04月27日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。
 
 今日は、セルフ・イメージを高めることの大切さについてお話しします。

 私たちの心の豊かさとか人間関係の円滑さ、それは心の中にあるセルフ・イメージと深く関係していると言われています。そしてその自己像 --セルフ・イメージ-- を高めていくためには、幼い時から、ほめられる、認められていくってことが大切だ、とも言われています。

 でも、あるお母さんたちへのアンケートによりますと、お母さんの口癖そのベスト10、こういうことばだそうです。
 一 「勉強しなさい」
 二 「早く起きなさい」
   「だめじゃないの」
   「宿題しなさい」
   「テレビばかり見て」
   「早くしなさい」
   「しっかりね」
   「気をつけなさい」
   「早く寝なさい」
   「落ち着いて」

 親も無意識の内に、子どもをほめるよりも叱ったり、否定的なことばを使いやすいんですねえ。こんなに言い続けられたら、たいていの子ども(は)、セルフ・イメージ(が)、低くなってしまいますね。

 じゃ、どうしたら、ほめることば、相手を認めていくそんな優しさ(が)、生まれてくるんでしょうか。
 
 ま、いろいろあるでしょうけど、大切なのは、自分の中にある良いもの、それを自覚したり客観的に評価することができるってことではないでしょうか。なぜなら、自分の心の中にコンプレックスとか不満、そういうものが一杯あると、人の良い所が見れません。

 自分を見る、客観的に見るってことは難しいことです。ま、自分を見るには鏡が必要だとも言われます。実は聖書は心の鏡だと言われています。それは私たちの本当の姿、心の中まで写し出すという意味です。そして何よりも、私たちを認め、愛してくださる神様が見えてくる訳です。

 聖書の中には慰めのことば、励ましのことば(が)、一杯あります。その中心がイエス・キリストです。

 エペソ人への手紙の3章17節という所に、こんなふうに書いてあります。
キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」 愛と赦しのキリストが心の中にいてくださると、そうすると、人を慰めたり、励ましたり、何よりも人を良く思うほめることば、それも口から出てくる。ま、それがキリストを信ずることから生まれてくるって言うんです。

 あなたも試してごらんになりませんか?

  (PBA制作「世の光」2007.04.27放送でのお話しより )

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■もはや責められることはない

2007年04月26日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中のローマ人への手紙から読んでみましょう。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」 ローマ人への手紙 8章1節、2節

 この世の中に、どんな過ちも犯さない、どんな失敗もしないなどという人はいません。たとえイエス様を信じてクリスチャンになっても失敗はするし、過ちを犯し、罪を犯すということがあるでしょう。

 たとえば旧約聖書に出てくるアブラハムという人物は自分の妻のことで偽る過ちを犯しましたし、ダビデという王様は姦淫の罪を犯しました。またイエスの弟子であるペテロも剣で人を殺そうとしました。

 そのように神を信じる人たちの人間的な過ちや失敗を数えあげればきりがありません。

 しかし聖書を読んで驚かされるのは、神様がそのような人々を赦されて、「もはや罪に定めることがない」と宣言されていることです。パウロは言いました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 キリスト・イエスを信じる者は、もはや神に、罪・過ちを責められることはありません。人間は過去をほじくり返し、罪・過ちをいつまでも責めたてるかもしれません。自分で自分をいつまでも赦せないということもあるでしょう。しかし、神はあなたの過ちを「もはや責めない」と言います。神の前に私たちの過去の一切が記録されているとしても、神はそれをすべて真っさらにしてくださるのです。何を恐れる必要がありましょうか。神に赦されている。新しくされている。この希望の中に新しい人生を踏み出してみませんか? 

 ぜひキリスト教会に行って、聖書から新しい人生を見い出していただきたいと思います。

 (PBA制作「世の光」2007.04.26放送でのお話しより)

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■処女が赤ちゃんを産む訳がない!?

2007年04月25日 | Weblog
 
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 
 さて今日は、処女降誕という題でお話ししましょう。

 イエス・キリスト様が処女マリヤから誕生した。マタイ福音書の始まりは、だらだらと名前を並べた次は、処女マリヤがイエス様を産んだという記録です。

 系図を読み進んでも、マリヤの処女降誕の記事で私たちはつまずいてしまうのでしょうか。処女が赤ちゃんを産む訳がないでしょう(と)。私もせめてイエス様の素晴らしい教えを最初の方へ持ってくればいいのになあと思ったりもしました。しかしマタイの福音書はイエスの処女降誕を初めに記録しているのです。なぜだと思いますか?

 マタイ福音書1章18節にはこのように記録されています。「母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。」(口語訳)

 この記録によればイエス様の父は婚約者ヨセフではなく、聖霊なる神様ということになります。イエス様は罪にけがれた男性の血ではなく、神様のきよくただしい血筋によってこの世に誕生しなければならなかったということなのです。どうしてでしょうか。次の聖句はこう書いてあります。

 「彼女(マリヤ)は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである 」。(口語訳)  21節

 イエス様がこの世に生まれる使命が言われています。イエス様のこの世での使命は、自分の民をそのもろもろの罪から救う者となることでした。私たちの罪のために身代わりとなって死ぬために生まれたと言っているのです。生きるために誰もが生まれるでしょう。しかしイエス様は死ぬために、私たちの救いのために生まれてくださったのです。私たちの罪の身代わりになるために、罪の血筋を持つ人が身代わりになることはできません。借金のある人が借金の肩代わりをできないのと同じです。イエス様が罪のない方として生まれるためには処女マリヤの胎内に宿ってくださらなければならなかったのです。

( PBA制作「世の光」2007.04.25放送でのお話しより )

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■悔い改めて生きる

2007年04月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日も一日さわやかに歩んでいきたいですね。

 こうして聖書のことばを語る者として、ま、いつも期待していることがあります。それはまず、語られたことばがお互いの理性に届けられ、そのことばが理解されるということです。そして理解されたら、その人の感性に届けられていくということを期待する訳ですね。時々、「神様はあなたを愛しています」と熱く語っても、それがどうしたのというような、まったくそっけない反応も返ってきます。どうも心に届けられてなかったんだなと思うんですね。理解された事がその人の心に届けられ、そして感動が生まれる。そしてその語られたことばを聞いた人の意志に働きかけ、実際の生活の中にそれが適用されていくことが起こったら、何と素晴らしいでしょう。

 最初の教会がスタートした時、ペテロは群衆に向かって説教しました。すると人々は、ペテロの話しを理解したんです。そして理解して終わるだけではありませんでした。彼らは、自分たちの罪こそはイエス・キリストを十字架につけた、という説教に心を刺されたんです。彼らの感性に、彼らの心に、キリストの十字架の出来事が深く突き刺さったんですね。そして彼らは、「私たちはどうすれば良いでしょう」と、具体的に自分たちの意志で応答し始めました。

 ペテロの説教に応答し始めた人たちにペテロは何を語ったでしょう。ペテロは単純に、「悔い改めなさい」と語ったんです。これは、今までイエス様に背を向けていたならイエス様の方に向きを180度変えていきなさい、というそういう応答なんです。

 イエス様が話された放蕩息子の話があります。この息子は、父親から財産を分けてもらい、遠い国に行ってしまいました。そこで湯水のように財産を使い果たしてしまうんです。しかし飢饉が襲い、彼は大変惨めになってしまいました。彼は自分の惨めさを痛いほど気づかされるんですね。そこで彼は向きを変えて、こんな決意をするんです。そうだもう一度、勇気をもって父親のもとに帰ろう、こう決断したんですねえ。この息子が帰って行った時、父親はどうしたでしょう。ぼろぼろになったこの息子のありのままを受け入れたんです。

 どうして聖書は、「悔い改めなさい」と何度も何度も言うのでしょう。なぜなら、恵みとまことに富む愛なる神様が、悔い改めたその場に、方向を変えたその場所に居てくださるからです。

 悔い改め、これは方向転換です。神なしの世界から神ありの世界へ行くことです。神様はあなたの後姿には見飽きているんですね。正面のあなたを見たいと願っているんですよ。
 

 ( PBA制作「世の光」2007.04.24放送でのお話しより )

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■目が開かれて

2007年04月23日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
 
 えー、イエス・キリストを葬った墓が開かれてキリストはそこからよみがえられた、というこの事実は、もう墓ということに象徴される過去に決別し、墓に象徴される死に決別し、墓に象徴される絶望に決別して、もはや墓に留まっている必要はないのだということで弟子たちは喜んでこのイエス・キリストの復活の事実を人々に告げるようになったのですけれども、

 聖書を見ますと、このキリストの墓が開かれてキリストがよみがえられたということを(弟子たちが)知った時に、彼らの目が開かれていったという出来事が書いてあるんですね。

 で、どういうふうに開かれたかというと、イエス・キリストってお方について目が開かれていったということなんですね。

 それまで三年間、イエス様と一緒に過ごしたんですけれども、本当の意味でイエス様のことはよく分からなかった部分があるんですね。けれども確かに死からよみがえられた、というその事実を通して、イエス・キリストは間違いなく神の子だということが明らかにされました。そしてイエス・キリストの十字架の死というのは単なる死で終わったのではなくって、確かに贖(あがな)いの死であったのだ。救いは完成されたのだ。おっしゃってた通りのことがあの十字架の上でなされたのだという事の一つの証明でもある。よみがえってくださったことによって、そのことが確かなことにされたという(こと)。イエス・キリストは間違いなく救い主だということがはっきりとしたということですね。よみがえってくださったイエス・キリストは、いつでも私たちの近くにいてくださって、私たちと歩みを共にしてくださるお方なんだという(こと)。

 エマオの途上という所で弟子たちはこのイエスに出会いました。そして(イエスが)聖書の話をしてくれたそのことを思いおこしながら、イエス・キリストはこれからの生活の中にも共にいてくださる、一緒に歩んでくださるお方なのだということ。そういう意味でイエス・キリストって方について目が開かれていったということですね。

 墓が開かれていっただけではなくって弟子たちの目が開かれた。私たちもイエス様がいつもそばにいてくださるということに目が開かれた者でありたいですね。

 ( PBA制作「世の光」2007.04.23放送でのお話しより)

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■永遠への思い

2007年04月21日 | Weblog

 
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 村上宣道(のぶみち)です。

 聖書のことばを最初にお読みしたいと思いますが、旧約聖書
の伝道の書3章の11節。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(口語訳)

 「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」えー、人間は、本能的にって言ってもいいかもしれませんが、この世だけで終わらない、あの世があるっていうふうなそういう言い方をすることがありますよねえ。で、信仰があるとか無いとかに関わらず、また天国で会いましょうみたいな事を言ったりいたします。

 その永遠というものがある、この地上限りではないということについては、何となく、理屈ではなくて本能的にそれを思っている所がある。それは実は神が私たちを創造された時に、神のかたちに似せて人間を神は造られたその神様御自身が永遠なるお方ですから、その永遠というものを私たち人間にもちゃんと授けてくださった。その永遠を思う思いを授けてくださったということですね。

 ですから人間が神によって造られた、存在している、私たちが存在しているということは一時的なこの地上だけの生活のためではなくて、永遠に生きるということを前提として神は私たちを創造し、私たちをこの地上に存在させてくださっているということなのですね。

 ただ、永遠をどういうふうに過ごすかということ、これは大変大事なことな訳ですね。神と共に永遠に過ごすか、それとも神から離れた状態で。それは地獄のような生活 ---地獄の生活というのは神から祝福を失った離れた生活のことを意味する訳ですね。--- 神から離れて神を抜きにして不信仰な不従順な生活を送ってきた人間は本来はみな滅ぼされなきゃならないような状態であった。しかし神は私たちが神と共に永遠に生きることができるようにするということで、有名なヨハネの福音書3章の16節にありますように、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を --私たちを-- 愛してくださった。それは御子を信じる者が、滅びないで、永遠のいのちを得るためだ。神の愛の目的は私たちが永遠のいのちをもって神と共に永遠に生きることができるようにしてくださるのだという。私たちはイエス・キリストを信ずることによってそれを自分のものにすることができるってことですね。

 ( PBA制作「世の光」07.04.21放送のお話しより)


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■健康で長生きの秘訣

2007年04月20日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。
 
 今日は、健康で長生きするための秘訣についてお話しします。今日本は長寿社会となって百歳以上の人、珍しくなくなりました。でも先日、百歳の方のお話しを伺う機会があったんですが、そのお話しと生活ぶりに驚きました。神奈川県にお住まいの草光澄子さんという方なんですが、そのかくしゃくと歩く姿勢、身のこなし、とても百歳とは思えません。何でも手際よくこなしてしまう。編み物・織物、何と英語のテキストの翻訳までしてるって言うんですねえ。ま、それには秘訣がある訳です。毎日、健康のためにいろんな工夫をなさっておられますね。ま、瞬(まばた)きを百回するだとか、耳を3箇所35回づつ指圧するだとか、20分歩くとか、足の屈伸百回するとかですね。とにかく毎日全身の筋肉を少しづつ動かす。ま、こういう全身運動の心掛け、これも大切ですが、ところが草光さん曰(いわ)く、「運動の心掛けも大切だが、心の持ち方、これも大切だ」って言うんですね。草光さんが心掛けていることは「何年生きたとか、長く生きることが大切ではない。一日一日を神の恵みの中に感謝して喜んで生きる、日々心新たに生きることだ」と言われます。

 ま、こんな心掛けの土台になっているもの、また生きる支えになっているのが旧約聖書イザヤ書の46章4節のことばだそうです。神様の約束のことばです。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」ま、こんな聖書のことば、これが積極的な前向きな生き方の土台、また心の支えになっているというのです。

 新約聖書にもこういうことばがあります。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4章6節、7節) こんな思い・信仰・心掛けをもって生きていきたいですね。

  (PBA制作「世の光」2007.04.20放送でのお話しより )

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