♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■成長過程

2010年07月31日 | Weblog
2010/7/31放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか。 山中直義です。

 アメリカの大学では二年生のことをソフォモアと言います。 このことばには「未熟な」という俗語的な意味があるそうです。 いろんなことが少し分かり始めている。 でも実際にはまだまだ成長過程にすぎない、そんな意味を持つことばだそうです。 

 さて旧約聖書の創世記18章には、そんな成長過程にあったアブラハムの姿が描かれています。 ある日、アブラハムのもとに不思議な来訪者がありました。 実はこの人物、神様ご自身であったと聖書は教えています。 アブラハムもそのことにすぐに気がついたようです。 彼はとにかく熱心にこの特別な客人をもてなそうとしました。

 しかし、熱心に仕えようとするその陰で、彼には決定的に欠けた所もありました。 それはすぐ隣にいる人に対する憐れみの心であったと言えます。

 最高のものをもって神様にお仕えしたい。 そう考えたアブラハムは天幕の中にいた彼の妻サラの所に駆け込んでこう言いました。 「早く20リットルほどの上等の小麦粉をこねてパン菓子を作っておくれ。」(創世記 18章6節参照) 彼は突然駆け込んでいって一方的に理不尽な命令をしたのです。 そして妻サラの返事も聞かず、その気持ちを思い遣ることもなく、他のご馳走を用意するために、すぐに駆け出していった(7節参照)、と聖書は言います。 天幕の中でひとり小麦粉をこねるサラをよそにアブラハムは上機嫌で客人に給仕していたといいます。 しかしその時、この客人、人の姿をとった神様はアブラハムにこう問いかけました。 「あなたの妻サラはどこにいますか。」(創世記 18章9節) 

 熱心に神様に仕えているようであっても、すぐ隣にいる人に対する愛や思い遣りが決定的に欠けている、そんなアブラハムの姿から私たちの決定的な欠けや愛のなさを思わされないでしょうか。

 神様は最も小さな者をことさらに憐れんでくださる優しいお方です。 そんな神様をさらに深く知らされるために、神様の語りかけに教えられながら成長の過程を共に歩んでいきたいですよね。 

 聖書のことば

 「わたしがあなたがたを愛したように(そのように)、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ヨハネの福音書 13章34節 (ヨハネの福音書 15章12節参照) 

        (PBA制作「世の光」2010.7.31放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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東海地方での世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送に協力してくださる場合の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
            (自由ケ丘キリスト教会内)



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■分かち合う恵み

2010年07月30日 | Weblog
2010/7/30放送

 世の光の時間です。 お変わりありませんか? 岩井基雄です。 今日も旧約聖書の詩篇をご一緒に味わいたいと思います。 今日も詩篇40篇です。 お聴きください。

 「私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。」 詩篇 40篇10節、11節

 嬉しいこと、喜ばしいことを誰かに伝えることは素敵なことですね。 神様にある恵みや祝福は分かち合っても分かち合っても減らないどころか、もっと豊かに更に祝福へと向かうことができるのです。

 この詩篇の作者ダビデはイスラエルの王様でしたが、失敗をし、過ちを犯し、多くの人を傷つけました。 しかし彼はそれを神様の前に認めて罪を告白したのです。 そして神は彼を赦されました。 神様は彼の人生に再び祝福と恵みを与えてくださったのです。 彼は神様が自分に与えてくださった真実と救い、恵みとまことを会衆に分かち合いました。

 それは自分の愚かさを露呈する危険をも含んでいましたが、神様によって与えてくださった赦しの喜びを自分の内側にしまっておくことができなかったのです。 王であったダビデでしたが、彼は見えるものにではなく、見えない真実な神の愛・神の憐れみに心を向け、そこに希望を置いたのです。

 あなたの人生にも豊かな祝福が用意されています。 あなたもこの神様の恵みとまことに生かされ守られる者とされませんか? 

 もう一度、今日の詩篇をお読みします。 

 「私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。」 (詩篇 40篇10節、11節)

 すべてをご存知の神様があなたの人生を豊かな祝福へと導いてくださいます。 苦しみの中から本当の神様にあなたも信頼を置きませんか?

   (PBA制作「世の光」2010.7.30放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しく
はPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。
日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。
予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。
問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■わたしが聖であるから

2010年07月29日 | Weblog
2010/7/29放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。 今日のバイブルメッセージは「わたしが聖であるから」です。 それではレビ記の11章44節から読んでみましょう。

 「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

 聖書は私たちに、きよい人生を歩むように、と勧めています。 しかし「きよい」ってどういうことでしょうか。 実は分かりにくいことばですねえ。 ある人は「完全な人」を意味するかもしれません。 あるいは「清純で純真な人」を意味するかもしれませんね。 聖書で「きよい」と言った時には、むしろ「分離されたもの」「分かたれたもの」という意味があります。 
 
 先日、妻が鉛筆立ての整理をしていました。 子どもたちが使った色鉛筆やらポールペンを整理していたのです。 鉛筆削りで丁寧に削って鉛筆立てに立てていましたが、もはや鉛筆削りで削ることもできないほどに短くなったものは別に選り分けていました。

 実は聖書の「きよい」ということばにもそのように「選り分ける」という意味があります。 ですから「聖別する」というのは「区別する」「選り分ける」という意味ですねえ。

 そして神様が「きよい」というのは神様御自身もこの世のものとは区別された特別な存在である、ということです。 そして神様を信じる人も神様と同じようにこの世から選り分けられた歩みや生き方をしなさい、ということです。

 例えばこの世の中ではお金や物を蓄える目に見える繁栄を求める生き方が当たり前かもしれません。 しかし必ずしもそんな世の中の流れにならって生きる必要もないことでしょう。

 パウロは言いました。
 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリント4章18節)

 目に見えないもの、愛や正しさや真実さ、そういったものを追い求めて生きていく生き方もあります。 価値観の持ち方、考え方、振舞い方でこの世の大勢とは違う、というのはグループ思考で考えやすい日本人にはちょっと抵抗感があるかもしれませんね。 しかし、グループの枠を越えて大事にしなくてはいけないこともあることでしょう。 仕事には引退があります。 しかし生き方に引退はないと言われます。 引退のない私たちの人生において区別された生き方、神のきよさを大事にする生き方もあるのです。 

 聖書にその生き方を学んでみませんか?

  ( PBA制作「世の光」2010.7.29放送でのお話より )

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■十字架のキリストの姿

2010年07月28日 | Weblog

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2010/7/28放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 以前、知人に頼まれて一緒に、あるホスピスに入院されている方を訪ねたことがあります。 部屋にはその方の奥さんもおられました。 私はその方たちに一枚の絵をお見せしながらお話しをしました。 その絵はグリューネバルトという画家が描いた十字架の絵でした。 十字架につけられたキリストの体は黒ずんで痩せ衰え、棘(イバラ)で作った冠をかぶらされた額からは血が滴り、苦痛で顔はゆがみ、釘を打たれた手と足は苦痛で引きつり、その手と足そして脇腹から血が滴り落ちています。 そんなキリストを見てその奥さんは「主人のよう」と言われました。 癌に侵され苦しんでいるご主人の姿と、苦しみの中にあるキリストの姿が重なったのです。 この時私はイザヤ書53章4節のみことばを思い出しました。 

 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

 キリストは私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださったのです。 

 続くイザヤ書53章5節には
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。

 実はこのグリューネバルトの十字架の絵は扉になっており、この十字架の絵を開くと、その裏にはもう一枚の絵があるのです。 そこには復活されたキリストの姿が描かれています。 その姿は十字架の姿とは全く違い、身体は白く輝き、力がみなぎっています。 顔もまた神々しく輝いています。

 これらの絵は修道院に附属した病院に飾られていました。 この絵を見て、入院している患者さんは自分の病と罪を担ってくださったキリストを覚え、キリストを信じることによって自分も救われ、永遠のいのちが与えられ、いつの日か復活の主と同じように栄光の姿が与えられる、との希望を持ったのです。

 キリストを信じる者はたとい死んでも復活することができるのです。 キリストの十字架は私たちに救いを与え、キリストの復活は私たちに希望を与えます。 

 ( PBA制作「世の光」2010.7.28放送でのお話より )

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■愛の極み

2010年07月27日 | Weblog
2010/7/27放送

 世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も爽やかに一日を過ごしていきたいですね。 

 新約聖書 第一ヨハネの手紙4章10節 
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 愛はですねえ、いつも愛する者のために犠牲を惜しみません。 その愛の極みはイエス・キリストの十字架の中に見ることができます。 神の愛はイエス・キリストの十字架を通して私たちに示されているのだ、と聖書は教えているんですねえ。

 十字架、それはむごたらしい処刑の道具です。 両手両足に釘が打ちつけられ、さらし者にされるんです。 十字架は、極悪人が向かう、人間の罪がもたらす最後の姿を象徴しているかのような、そんな場所です。 

 しかし聖書は、この忌まわしい十字架の中にこそ、「ここに愛がある」と語っているんです。 どういうことでしょうか。  

 イエス・キリストはこのむごたらしい十字架につけられました。 でもイエス・キリストの行動を記録した福音書を読むと、十字架につけられるような悪いことをイエス様は何一つなさいませんでした。 それどころかイエス様は病で苦しむ人を癒し、当時の社会から隔離されているような人を大切にし、罪人呼ばわりされている人たちの友となっていきました。

 そしてイエス様の語ることは、人を恐怖に落とし入れたり不安に陥れる、そんなことばではありませんでした。 慰めと励ましに満ちていました。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11章28節)と、人生の様々な重荷に喘ぐ一人ひとりに語っていきました。

 また、「人は、たとえ全世界を得ても、魂を損じたら、何の得になろうか。」(マルコ 8章36節参照)と、一人ひとりの存在がどれほど価値高いのかを語っていきました。

 ですからイエス様は社会から表彰されることはあっても、十字架につけられる理由など何一つありませんでした。

 しかし愛は決して犠牲を厭わないのです。 イエス・キリストは一人ひとりを愛しておられます。 だから人間が神様に背を向けて罪あるままに生きていくとするなら、それがどんなにその人の人生を失わせてしまうか、ということをご存知でした。 イエス・キリストは何と、人間の罪の結果がもたらす罰をあなたに代わってご自分で全て肩代わりするために十字架についてくださったのです。

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大いなる愛はない」(ヨハネ 15章13節参照)と聖書にあります。 十字架でいのちを捨ててくださるキリストの愛、これこそ愛の極みです。 そしてこの愛があなたに注がれていることをぜひ知っていただきたいのです。

 (PBA制作「世の光」2010.7.27放送でのお話しより)

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■千年は一日のよう

2010年07月26日 | Weblog
2010/7/26放送

 世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。

 ある方がですねえ、「15分イコール3時間」ということをおっしゃってまして、何のことかなあと思ったんですが、実はですね一日の内で紫外線が多いのは午前10時から午後2時までの間なんだそうですけれども、この間の15分は朝とか夕方の3時間分に匹敵するということで、それでその「15分イコール3時間」ということばをその方は使われたということなんですねえ。
 で、ちょっと思い出したんですけれども、聖書の中にですねえ、15分が3時間なんていうもんじゃなくて、こういうことばがあるんですねえ。 
 「この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(ペテロの手紙第二 3章8節)っていうことばがあるんですね。

 で、私たちは毎日こう時間に追われるようにして、そして時には電車が1、2分遅れても何かイライラしたりとかですねえ、まあせかせかしたりして、で、信号を待ちきれなくて飛び出すとかですね、そんな中でいるんですけど、でもこう「一日は千年のよう」って考えるとですねえ、神様の時というのはそんなせかせかしたものではなくって、私たちは永遠というその流れの中で実は生かされている、生きている。 特にイエス・キリストを信じる者は滅びることがなくって永遠のいのちを持つっていうふうに言われておりますから、私たちは永遠というそういう視点でですねえ毎日毎日を送るときに、そんなに本当はせかせかしたりイライラしたりしなくても済むのではないか、というふうに思うんですね。 

 だからいつもどっかの生活の視点には、永遠ということをちゃんとこう(心に)留めておくことが必要だなあというふうに思うんですね。 

 で、「千年は一日のよう」とありますけど、面白くない生活だったら三日でも一週間でも長く感じますよね。 でも充実したものは、エッ?っという、アッという間に過ぎた!、っていうふうなそんなような。 私たちはその千年というふうな長い月日であったとしても年月であったとしても、ほんとにキリストにあって充実した一日であるならば、その一日一日がですね、本当にもう何というか、もうアッと言う間に過ぎてしまうような充実した日々を歩むことができる、ということを考えますとね、私たちは毎日毎日神様が与えられたその時その日にちを時間を大切にしながら充実した歩みをさせていただきたいな、とそう思います。

  ( PBA制作「世の光」2010.7.26放送でのお話しより)

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■思いっきり信じる

2010年07月24日 | Weblog
2010/7/24放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか。 山中直義です。

 神様を信じるというとき、私たちはつい恐るおそる信じるということがあるように思います。 神様を信じたい、神様が聖書で語っておられる約束を信じたい・・・・そう思いながらも、どこかで自分勝手な制限を設けながら、これは信じられる、これは信じられない、と分けてしまうことがあるのではないでしょうか。 旧約聖書創世記に登場するアブラハムという人物も、そんな制限付きの信仰を持っていた、と言えます。 

 ある時、神様はアブラハムに約束を語られました。 それは年老いたアブラハム夫妻に男の子が生まれるという素晴しい約束でした。 ところがアブラハムはこのことばを信じることができなかった、と言います。 

 創世記17章17節のことばです。 
 アブラハムはひれ伏した。 しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。 九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」 (新共同訳聖書)

 自分の年齢や状況、能力を考えた時、彼はどうしてもこのことばを信じることができず、つい笑ってしまった、というのです。

 私たちはどうでしょうか。 自分の常識や思いを遥かに超えているがゆえに、神様の素晴しい約束のことばをつい一笑に附してしまうということがあるのではないでしょうか。 信じやすいことだけを信じるというのは楽で簡単な行為です。 しかしそうやって制限を設けながら、恐るおそる神様を信じるところに本当の驚きや喜びはあるのでしょうか。 いや、そもそも神様の約束はいつも私たちの思いを遥かに超えた素晴しいものばかりだ、と聖書は繰り返し教えています。 

 制限を設けながら恐るおそる神様を信じる。 自分の信仰生活を振り返るとき、いつもそんな信じかたをしてきたことを思わされます。 しかし、そんな不信仰な私にも注がれ続けた神様の恵みと祝福を思い起こすとき、改めて思わされることがあります。 それは神様は全力で思いっきり信じるに価するお方だ、ということです。 

 いかがでしょうか。 人間の常識や思いで枠を作ってしまう信じ方、恐るおそる信じる信じ方ではなく、全力で思いっきり神様を信じてみてはいかがでしょうか。 神様は必ずあなたのその信仰を受けとめ、あなたの思いを遥かに超えた祝福を注いでくださいます。 

       (PBA制作「世の光」2010.7.24放送でのお話しより )

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■深みからの賛美

2010年07月23日 | Weblog
2010/7/23放送

 世の光の時間です。 お変わりありませんか? 岩井基雄です。 今日も旧約聖書の詩篇をご一緒に味わいたいと思います。 今日も詩篇の40篇です。 

 「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」 詩篇40篇3節

 歌や音楽が好きだという方は多いでしょうねえ。 美しい歌や心が洗われるような歌詞、ことばにできないような思いが歌われるとき、私たちの心は喜びを覚えます。 また教会で歌う讃美歌が大好きですという方によく出会います。 神様を讃美する歌は私たちの心と目を抱えている問題にではなく神様に向かわせるからではないでしょうか。

 この詩篇の作者ダビデは人生の中で多くの讃美を生み出しています。 それは彼が王様で多くのものに満たされていたからではありません。 彼の讃美の多くは人生の砂漠のような経験、悲しみや苦しみの中で歌われているのです。 心の深みから叫びとなって捧げられるような讃美こそ彼の口に与えられた新しい歌、神への讃美でした。 どのような苦しみや悲しみを抱えようとも神様に向かう彼の心には神への讃美が与えられたのです。 そしてそれは他の人々にも神を恐れる心、神に信頼する心を与えたのです。 

 さらにこの新しい歌・讃美が今なお私たちの心を神様へと向かわせ、感謝と信頼へと導き、本当の喜びによる満たしへと招くのです。 この詩篇はこう続いています。 

 「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。」  詩篇40篇4節

 自らを誇り、成功に酔い、高ぶる者、また時には偽る者、にではなく真実な神様に信頼することがどれほど素晴らしいことかをダビデは歌っています。 あなたが今どのような苦しみの中に置かれていたとしても、神への讃美を心の深みから捧げ、真の喜び、信頼へと向かうものとさせられていきませんか? 新しい歌、神様への讃美は、あなたの人生を新しい幸いなものへと変えてくださるのです。 

 それではまた聴いてください。

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■神が愛してくださった

2010年07月22日 | Weblog
2010/7/22放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。 今日のバイブルメッセージは「神が愛してくださった」です。 それでは第一ヨハネの手紙4章11節から読んでみましょう。

 「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 皆さんは自分の身近な人に、こんなところがあるのか、と気づかされたり発見したりということはありませんか? こんな優しいところがあるんだなあとか、一緒にいると見えてくる所があるものですよねえ。

 神様も架空の存在ではありませんから、実は一緒にいると、それ以上に味わい深いところが出てきます。 聖書の中に「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」(詩篇 34篇8節)と言われているように、神様というのは一緒にいることでますますそのすばらしさを知る、発見することができる、奥の深いお方なのです。

 そこで先週は、神は真実である、偽ることがない、ということをお話ししましたが、今週は、神は愛であることを教えられたいと思います。 日本語では愛という一文字。 しかしその意味合いは使う人々によって様々ですねえ。 ギリシャ語では愛ということばは三つのことばに区別されています。

 一つはエロスの愛。  有島武郎(ありしま・たけお)という作家が、それは奪い取る愛であると、うまく訳しました。 なるほど、何でもかんでも自分のものにしてしまう愛、こういう愛し方は私たちの日常生活の中には良く見られるものかもしれませんねえ。 

 そして二つめにフィレオという愛。 相互通行の愛だとか、見返りを期待する愛だとか、言われます。 あなたの愛が続く限り私も愛する、というものです。 こういう愛でくっつきあった関係は長続きしないことでしょう。 

 そして最後に、アガペーという愛。 これは一方通行の愛、無条件の愛、与え尽くす愛、と言われるものです。 ヨハネが「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」ということばで使っているのはアガペーです。 真実な神様、ことばに偽りのない神様は、与え尽くす愛で愛してくださった、というのですね。 実際それは私たちの罪の赦しのためにイエスを犠牲にされたイエスの十字架の死によく表されている通りだというのです。 あなたに対しても心を配り、与え尽くす愛を注いでおられる神様がおられます。 あなたもその神様を信じて神の愛に守られた人生を歩んでみませんか? 

  ( PBA制作「世の光」2010.7.22放送でのお話より )

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■一番偉い人

2010年07月21日 | Weblog

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2010/7/21放送

 世の光の時間です。 いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。 

 ある時、イエス様の弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いだろうか、と議論したことがありました。 弟子たちは皆、自分は偉くなりたい、という気持ちを持っていたのです。

 最近、自己啓発ということばを聞くことはありませんか? 自己啓発セミナーとか、本屋には自己啓発というコーナーがあったりします。 自己啓発とは、自分をより高い段階に上昇させようとすること、つまり、より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方、そしてより高い人格の獲得を目指すことを言います。 そのような自己啓発がブームになっているということは、多くの人がイエス様の弟子たちと同じように、自分は偉くなりたい、と思っていることの表れと言えるでしょう。 

 偉くなりたいと思っている弟子たちにイエス様は、本当に偉い人は人を支配するのではなく、へりくだって謙遜になり、そして人に仕える者になれる人ですよ、と教えられました。 そして、誰が一番偉いのか、教えられました。 

 「しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」(ルカの福音書 22章27節)と言われたのです。 

 弟子たちはこの時、気づきませんでした。 弟子たちの内で彼らに仕えていたイエス様こそ一番偉いお方であることを。 このあとすぐイエス様は十字架につけられてしまいます。 イエス様のへりくだりと謙遜と仕える姿を最も良く表わされたのがこの十字架です。 

 ピリピ人への手紙2章6節から8節に
 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とある通りです。 

 イエス・キリストは私たちを救うために、罪のために死なれました。 正しい方が私たちの身代わりとなったのです。 イエス・キリストの十字架によって私たちは救われて、神の恵みに生きる者となれるのです。 

 一番偉いお方であるこのイエス・キリストをあなたの救い主として信じましょう。 

( PBA制作「世の光」2010.7.21放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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