♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して70年、
PBA『世の光』を文字で 

更新予定

2020年09月17日 | Weblog



  しばらく 更新できません。

  過去ログを開いていただきながら気長にお待ちくださいますように。 

 

   


■イエスについていくということ / 羽鳥頼和

2020年09月12日 | Weblog

2020/7/18放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 イエスが語られることばは優しく愛に満ち溢れています。しかしイエスは時々、それは厳しすぎるのではないか、と思うようなことを言われることもあります。今日はイエスの厳しいことばを聞きたいと思います。

 イエスは御自分が十字架で殺されることを覚悟してエルサレムに向かって歩み始められました。このときイエス自身は大きな決意をもってエルサレムに向かって歩みを始められました。しかし弟子たちはイエスが苦しみを受けるなどとは全く思っていませんでした。むしろ英雄であるイエスとともにエルサレムに行くことを誇らしく思い、喜んでいました。そのような中でイエスは弟子たちに厳しいことばを語られました。

 まず、「どこにでもついて行きます」と言う弟子に「人の子には枕する所もありません」と、イエスについて行くなら過酷な状況になることを教えられました。

 次に、「父を葬ってから従います」という弟子には、「あなたは神の国を言い広めなさい」と言い、そして「家族に別れを告げさせてください」という弟子には、「神の国にふさわしくありません」と言いました。この二つのことばは、神の国の福音を宣べ伝えるために家族のことを捨てなさい、と言っているように聞こえます。しかしイエスはずうっと両親を敬うように教えておられました。ですから、自分の親を捨てなさいと命じているのではありません。ここでイエスが教えようとされていることは、イエスの弟子となって人々に福音を宣べ伝えるには覚悟が必要であるということだったのです。

 弟子の一人のペテロは、すべてを捨ててイエスに従いました。するとイエスはペテロの家に行かれました。そしてペテロの家族はイエスを信じたのです。イエスのことばを思い出します。

 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

                   (マタイの福音書 6章33節 )

 すべてを捨てて主に従うとき、主はその人にすべてを与えてくださいます。

  ( PBA制作「世の光」 2020.7.18放送でのお話より )
 
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■人の無力さ / 関根弘興

2020年09月11日 | Weblog

2020/7/17放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様が逮捕される前、オリーブ山のふもとにあるゲッセマネという所に行かれ、これまで弟子たちが見たことのない苦しみの形相でイエス様は苦しみ悶えながら祈られました。
 「父よ、できますならばこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(参照 マタイの福音書26:39 、マルコの福音書14:36、ルカの福音書22:42  )と祈られたのです。

 「この杯」とは、自らが人の罪を背負い十字架について罰せられるということです。罪のない神の子イエス様が神様に呪われた者となるということ程大きな矛盾、大きな悲劇はありません。もしここでイエス様が、こんなに苦しんで何の得があろうか、そうだ、やっぱり十字架にかかるのはよそう、と言って放棄したなら救いの道は全く失われてしまいます。ですからゲッセマネのこの祈りは人として来られたイエス・キリストの最大の霊的な戦いだったのです。

 一方で、弟子たちはどうしていたでしょう。弟子たちはイエス様が悶え苦しみながら祈っている時、何と眠ってしまった、と書かれているんです。それも三度も繰り返し眠り込んでしまったんですねえ。夜ですから疲れていたのかもしれません。あるいは、人は極度の恐れと緊張が続くと、それを和らげるために眠ってしまうことがあると言われるんです。ま、ともかく祈ろうとしても眠ってしまう。この繰り返しが弟子たちの姿でした。

 そんな弟子たちにイエス様は、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。」(参照 マタイの福音書 26:41、マルコの福音書14:38  ) こう言われたのです。確かに心に燃えるような思いがあっても、実際に体が動かないっていうことってありますねえ。弟子たちはイエス様の悶え苦しむ姿を見て、ああ自分たちもイエス様のために祈らなくてはいけない、と心が燃えていたはずです。しかし眠いこけてしまったんですねえ。この弟子たちの姿は一体何を教えているんでしょう。

 それは人はどんなに燃える思いがあってもイエス様が完成してくださる救いのみわざには何一つ手助けになるようなことはできない、ということなんです。イエス様の飲もうとする杯はイエス様以外には受け取ることのできない杯であり、人はそれに何も付け加えることができません。永遠の救いを達成してくださる方はイエス様以外に誰もいないのです。

      (PBA制作「世の光」2020.7.17放送でのお話しより)
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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


■ルカの福音書24 -思い巡らす時間 / 大嶋重徳

2020年09月10日 | Weblog

2020/7/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。


 羊飼いがマリヤとヨセフの夫婦の所にやってきて、天使が野原で自分たちに告げた事をマリアに伝えました。すると「マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」(ルカの福音書 2:19)とあります。


 マリヤは約1年前に、突然の御使いガブリエルの訪問から始まって、ずーっと深く思い巡らしました。一つ一つのことを全て心に納め、思いを巡らしたのです。忘れないように、この出来事の意味は一体何か、と考えたのです。


 ここに私が牧師としてみなさんに対しての一つの願いがあります。私たちは今日も忙しく日々を過ごしています。今年は新型コロナウイルスのことでも沢山心配し不安になりました。朝起きて電車に乗って職場に行く、あるいは子どもたちのご飯を作って気が付くともう昼のご飯の時間になる。ほっと一息つくと晩ご飯の準備。子どもたちもまたそうです。朝早く学校がある。部活があり塾がある。あまりにも忙しい。しかしいつもの日常だけではありません。マリヤに起こったたように突如考えもつかなかったような事が私たちの生活に起きます。病気であったり事故であったり、人間関係のトラブルに巻き込まれます。


 この羊飼いの知らせを周りの人たちは聞いて「驚いた」(ルカの福音書 2:18 )、とあります。これは心に納め思いを巡らすとは逆のことです。驚くというのは大きな反応はします。話題にもあげるでしょう。しかしその事の意味を問わないまま次に行くのです。なぜ自分の人生にこの出来事を神様は起こされたのだろうか、このことの意味を問わないまま走り続けてしまうのです。


 そこで今日のこのマリヤの反応です。「しかし」とルカが記したのはそのような対応とは違う態度をマリヤは取ったのです。そこをルカは記そうとしました。

 「しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

これらのことをすべて」とは自分が救い主を身ごもるようになってからの1年あまりの出来事をすべて、という意味です。その一つひとつを手に取るように思い出していたのです。私たちにはそのように静かに思い巡らす時間が必要です。意味を問い、しかも神様に意味を問う時間です。この時間こそ疲れあなたの心を休め、あなたの心を平安にしてくれます。ぜひそのようなマリヤの過ごした時間をあなたも今日一日の中で持っていただきたい。そのように思います。

    ( PBA制作「世の光」2020.7.16放送でのお話しより )

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■捨てられた銀 / 福井 誠

2020年09月09日 | Weblog

2020/7/15放送
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがありますね。今日も聖書を開いて参りましょう。今日はエレミヤ書6章29節、30節から「捨てられた銀」と題してメッセージをお伝えいたします。
 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。
 溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。
  彼らは捨てられた銀と呼ばれる。【主】が彼らを捨てられたのだ。

 「ふいご」とありますが、皆さんは古代のふいごを実際に見たことがあるでしょうか。私は何年か前にイスラエルのヘブライ大学の発掘調査に参加して、そこでまだイスラエルでも四つしか発見されていない石でできたふいごを見つけたことがあります。それは大きな丸い臼のような石で、真ん中が窪んでいました。おそらくその石に獣の皮を膨らむような形でかぶせて、上から圧縮空気を噴き出す装置にしたわけですね。

 さて、このふいごは金属を溶かし、貴重な貴金属を取り出すために用いられました。神様はふいごのイメージを使って、当時のイスラエルの民に激しい火のような試練を与えて、その人間性を試されたのだけれども、それは無駄だったと言います。

 箴言には、「愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦と一緒についても、その愚かさは彼から離れない。」(箴言27:22)ということばがあります。

 人間の愚かさ、罪深さは根深く、それを取り除くことはできない。もはや罪まみれの人間は矯正し得ないので、捨てられた銀とするしかない、というわけですね。

 けれども、これでは先週まで読んできたイザヤのメッセージといささか矛盾しています。先週は、神様は過去の罪過ちをすっかり忘れてくださる愛の方だとお話ししました。しかし、ここではだめなものはだめ、と切り捨てる神様の姿が描かれています。

 けれども聖書を一面で捉えてはなりません。聖書は断片的にではなく全体を通して理解しなくてはなりません。神様はそのような言い方をしながら悔い改めを求めておられるのです。まだ読み始めたばかりのエレミヤ書、ぜひ最後まで読み続けて、エレミヤが語る神の愛の深さを知っていただきたいと思います。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.7.15放送でのお話より )

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■神のみ心なら / 板倉邦雄

2020年09月08日 | Weblog

2020/7/14放送
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神のみ心なら」という題でお話ししましょう。

 神を信じるキリスト信徒はしばしば、「神の御心なら」と言います。神の御心が天で行われるようにこの地上においても行われることを私たちキリスト信徒は願っています。私の人生であっても実は神の人生だからです。使徒の働き18章です。

 さてパウロの伝道チームはコリントでの1年半の伝道を終えて、シリアのアンテオケヤ教会に向けて帰ることになりました。第二回の伝道旅行も3年になります。紀元50年から53年頃と言われています。それから一行は小アジアのエペソに着きました。今回の伝道旅行でパウロが1番目の伝道地として願っていた町でしたねえ。しかし聖霊に禁じられたのでパウロとシラスそしてテモテの一行は北上してトロアスの港町へ行きました。そこでヨーロッパのマケドニヤから来た医者のルカに出会いまして、マケドニヤに渡り、ヨーロッパ伝道を3年することになったのです。ピリピ、テサロニケ、そしてコリントの教会が設立されました。そして第2回の伝道旅行の帰途に於いてパウロは念願のエペソの町に来たのです。志を持ち願い続けるならば、どんな遠い回り道をしても神は実現してくださるのです。「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」と箴言(16:3 口語訳)にあります。パウロはエペソの町で直ちに会堂に入って神のことばを語り、ユダヤ人たちと論じあいました。エペソの人々はパウロに、もっと長い間滞在してくれるように願いました。しかしパウロは、「神の御心ならまたあなたがたのところに帰ってこよう。」と言い、聞き入れませんでした。そしてエペソの港からシリヤに向けて船出したのです。

 私たちの人生は一寸先は闇です。何が起こるか私たちにはわかりません。しかし、神の御心ならあのこともこのこともできるのです。

 聖書のことばです。
 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。
 ヤコブの手紙4章15節

  (PBA制作「世の光」2020.7.14放送でのお話より ) 

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■「主」という神の御名 / 岩井基雄

2020年09月07日 | Weblog

2020/7/13放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 第二月曜日の今日は旧約聖書のモーセの生涯から神の御名について学んでみましょう。先月はモーセの挫折を学びました。神はモーセをリーダーとし、奴隷状態であった神の民をエジプトから脱出させる道を開きます。しかしその道は平坦ではなく、エジプト王は怒り、事態は悪くなり、神の民の悲しみと怒りはモーセに向かったのです。しかしその中でモーセは神に向かい、神に助けを求めました。その時、神が祈りの答えとしてモーセに与えたのは、神の約束と神の名前の確認でした。聖書はこう記しています。

 神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。
 ・・・
  今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。
 それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
       旧約聖書 出エジプト記6章2節、5節、6節

 神がモーセに与えたのは問題の解決の道でもなく方法でもなく、神がどういう存在なのかと言うことでした。しかしそこにこそ問題の本質的な解決がありました。神は主というご自分の名前を繰り返しモーセに語ります。それはかつてミディアンの荒野で燃え尽きない柴を通してモーセを使命へと招いた時に語られた神の名前でした。「存在」をも意味する主という名前は神がすべての主権を持ち、力ある存在であることの確認でした。神の苦しみをもすべて知る神ご自身が神の民を導き、救い出す、との約束を確認したのです。そしてモーセと民に、その約束をしっかりと握り、立ち上がっていくことを求められたのです。

 すべてのことに主権を持つ神様はあなたと共におられます。あなたもまた今あるところで、すべての主権を持つ神ご自身に信頼し、神の約束を握り締めて立ち上がっていくことができるのです。

 聖書のことば
  【主】の御名をほめたたえよ。
  主の御名だけがあがめられる。
  その威光が 地と天の上で。
        旧約聖書 詩篇148篇13節

  (PBA制作「世の光」 2020.7.13放送でのお話より ) 
 
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■パートタイムの信仰 / 羽鳥頼和

2020年09月05日 | Weblog

2020/7/11放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 随分昔、アフガニスタンで働いていた友人から、イスラム教の信仰は毎日の生活であり、信仰はその人の生き方だ、と言われました。その時、私はそれを聞いて、私の信仰は日曜日に教会に行く時だけだと気づかされました。私は自分の生活を反省しました。私は日曜日だけのクリスチャンだったのです。いわばパートタイムの信仰だったのです。聖書の中にも私のようなパートタイムの信仰の人々がいます。

 今日は旧約聖書の列王記第二の14章に出てくるパートタイムの信仰だったアマツヤという人のことをお話しします。

 アマツヤ父はユダの国の王でしたが、家来によって暗殺されてしまいました。アマツヤは父の死後に王となりました。アマツヤは神の命令に従う気持ちがありましたが、完全には神の命令を守り行うことをしませんでした。むしろ彼は自分の父に倣って、国民に偶像崇拝をやめさせることをしなかったのです。それでユダの国中で偶像崇拝が行われ続けました。

 アマツヤは強くなると、まず父親を暗殺した者たちを殺しました。その時、彼は神の教えに従って暗殺を行った本人だけを処刑してその子どもたちには手を出しませんでした。この時はまだ神の命令を守る気持ちがあったのでしょう。

 ところが強くなるにつれ、アマツヤはだんだんと高慢になり、神よりも軍事力を頼るようになっていきました。アマツヤはエラム人との戦いに勝利すると、さらに今度は北のイスラエルに戦いを挑みました。

 ところが、アマツヤはイスラエルに打たれてしまいました。そして勝利したイスラエルに都エルサレムの神殿と王宮の宝物蔵のすべての宝、そして人質を略奪されてしまったのでした。

 信仰はパートタイムではいけません。フルタイムの信仰でありたいと思います。へりくだって、いつも神を信じている者となりましょう。

  ( PBA制作「世の光」 2020.7.11放送でのお話より )
 
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■ゲッセマネの苦しみ / 関根弘興

2020年09月04日 | Weblog

2020/7/10放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。
 イエス様は最後の晩餐の席で弟子たちに様々な教えや約束をお語りになった後、弟子たちのためにまた後にイエス様を信じようになる一人一人のためにお祈りなさいました。祈り終えると弟子たちと賛美の歌を歌ってからオリーブ山のふもとにあるゲッセマネという所にやってきました。それも夜、あたりはまっ暗闇に包まれていたことでしょう。

 ゲッセマネとは「油絞り」という意味です。オリーブ山その名の通りオリーブの木が沢山ありました。オリーブの実から油を絞りとる場所がゲッセマネな訳ですねえ。そこにやってくると、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを連れて園の奥に入っていかれました。そして彼らに「目を覚まして一緒に祈っていなさい」(参照 マタイ26:38、マルコ14:34、ルカ22:40)と命じ、少し離れた所で祈り始められたのです。

 この弟子たちはイエス様の素晴らしいにみわざをいつも身近で見ていましたので、イエス様と一緒ならどんな事は起こっても怖くないと思っていたでしょう。しかし弟子たちがこの時に見たものは、これまでとは全く違うイエス様の姿でした。イエス様は悲しみもだえ始められたのです。そして「父よ、できますならばこの杯をわたしから過ぎ去らせてください」(参照 マタイ26:39、マルコ14:36、ルカ22:42)と祈られたのです。

 「この杯」とは自らが神様の裁きを受け、十字架について罰せられるということです。ご自分がすべての人の身代わりとなって罪に定められ、神様に呪われた者になるという苦しみの杯でした。罪のない神の子イエス様が神様に呪われた者なるといこと程そんな大きな矛盾、それは大きな悲劇です。「できれば、わたしから過ぎ去らせてください」と必死で祈る程の大きな苦しみでした。

 きっとサタンはこうささやいたことでしょう。イエスよ、なぜすぐに心変わりしてしまうような人間のために自分が呪われなければならないのだ。罪を背負って十字架につくなんて、ただの犬死だぞ。人の罪を背負うなんてバカなことを考えるのはよせ。

 しかし一方でルカの福音書には、御使いが天からイエスに現れてイエスを力づけた、と書いてあるのです。人々を救おうとする神の御心がなるのか、神が勝つのかサタンが勝つのか、その分岐点となったのがこのゲッセマネの苦しみの祈りだったんですね。

      (PBA制作「世の光」2020.7.10放送でのお話しより)
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■ルカの福音書23 -飼い葉桶で出会う / 大嶋重徳

2020年09月03日 | Weblog

2020/7/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。

 神の子はきたなく臭いのする飼葉桶に産まれました。このことは今日私たちに何を教えるのでしょうか。それはこの地上に生まれたキリストは人間的に綺麗に着飾った所に産まれるのではない、ということです。キリストはきたなくくさい臭いのする飼葉桶で産まれてくださった。この事実を前にするとき、今日、私たちとの関係が生まれます。なぜならば私たちの本当の姿は実は飼葉桶のようによごれていると言うのが本当だからです。

 私たちの心の中は誰にも見せることのできない心の飼葉桶を持っています。キリスト教会とは綺麗に着飾ってイエス・キリストに出会う場所ではありません。キリストが人間を待っている場所は飼葉桶のような汚い場所で、あなたを待っているのです。あなたが誰にでも見せることのできる綺麗な、あなたの作り込んだ場所ではキリストに出会うことができません。まだ自分はいいクリスチャンになったと思っているところで、キリストと出会うことはできません。

 かつてユダヤ人の先祖たちはアブラハムもモーセもダビデもまたみんな羊飼いでした。その荒野で羊を飼いながら自分の罪深さを知って来た民だったのです。しかし、いつの間にか神を知っていると言いながら、羊飼いをバカにし、見下し、そして救い主を探し当てることのできない信仰に陥ってしまいました。

 しかし神様は今日、あなたの持っている飼葉桶のある、あの誰にも言うことのできないあの場所で、あなたと出会おうとされています。あなたがキリストと出会うのはあなたの飼葉桶のある場所です。それは人間と関係のないものではない、主が私に知らせてくださった、あなたのためのしるしなのです。そこはだめな心のままです。罪に穢れた心のまま、あなたが何にも着替えることもしなくていい場所です。そこに神様がおられる。その時、私たちのよごれた場所に光が差して来ます。よごれた私たちの人生に光が射すのです。

 イエス・キリストは私たちの罪をすべて背負い、十字架にかかられ、私たちは今、穢れたまま開き直る人生からも解放されていくのです。今日、ぜひあなたの一番よごれた場所で、眠っておられるキリストと出会って欲しいと思います。その場所で神様はあなたをずっと待っておられるのです。

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