♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■空しいと思えるこの世にあって / 羽鳥頼和

2020年05月30日 | Weblog

2020/4/4放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」 平家物語の冒頭の有名な文章です。
 この「諸行無常」ということばについてある辞典は、「永遠に変わらないものはない」というもともとの仏教用語の意味を示すとともに、もう一つの意味として、「人生は儚(はかな)く空しいものであるということ」と書いています。聖書にも、この世の空しさを語っている書物があります。それは旧約聖書の伝道者の書です。今日はその伝道者の書の2章からお話しします。

 伝道者の書の作者はとても賢い王様だったようです。彼はある時、自分のこれからの人生 酒を飲んで喜び楽しもう、と決心をします。そして大きな仕事を成功させて自分のためにお屋敷を建て、ブドウ畑を造り、果樹園も造りました。彼は欲しい物はすべて手に入れることができました。しかし、自分のしたことを振り返ると、すべてが空しく何一つ自分の益となっていないことに気づいたのです。

 彼はこう言っています。
 「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。」(2章24節)

 そして彼はさらにもう一つのことに気づきました。
 このように人の人生を空しいものとしているのは主権者である神であると言うことです。(「そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」2章24節)

 そして彼は新しい結論を語ります。
 「実に、神から離れて、・・・、だれが楽しむことができるだろうか。」(2章25節)

 神がすべてのものを与えてくださるのです。その神から離れてしまっていては、すべてのことが空しいだけだ、と言うのです。確かにこの世が空しいのは、人が神から離れてしまっているからです。

 実は神から離れることこそ聖書の教えている罪の本質です。それで伝道者の書の作者はこのように語ります。
 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
     ・・・『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」(12章1節)

 創造者とは主権者である神のことです。神を覚える事が空しい人生を幸せな人生とする始まりなのです。

 ( PBA制作「世の光」 2020.4.4放送でのお話より )
 
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が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■足を洗われるイエス様 / 関根弘興

2020年05月29日 | Weblog

2020/4/3放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストが十字架につけられる前日、弟子たちと共に最後の晩餐の時を持たれました。ま、最後の晩餐といってもフルコースの豪華な食事をしたわけではありません。ちょうどこの時期はユダヤ最大のお祭りである過越し祭りの時で、みんなが過越しの食事と呼ばれる特別な食事をしたんです。過越し祭りとは、昔エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエル人の先祖たちが、神様のみわざによって奇跡的にエジプトを脱出できたことを記念するお祭りでした。彼らは急いでエジプトを脱出しなければならなかったので、パンを発酵させる時間などありませんでした。そこでパン種を入れずに焼いた薄いパンを食べたんですね。その出来事を思い起こすために、毎年、過越し祭りの時には7日間、種なしパンを食べることになっていました。イエス様も弟子たちと共にこの種なしパンの食事をなさったわけです。

 その時のことでした。イエス様は夕食の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い始められたのです。普通、足を洗うのは家に入るときしもべが行う仕事です。サンダル履きで外を歩いていたため、よごれた足を洗わせたわけですねえ。多分ここに集まった弟子たちも、すでに家に入るときには足を洗って入ったはずです。それなのにイエス様は食事の最中にわざわざ立ち上がり、上着を脱ぎ、腰をかがめて弟子たちの足を洗い始められました。

 ある方がこの箇所を読んで、「ああきっと弟子たちの中にものすごく足の臭いがきつい人がいて、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから仕方なく足を洗い始められたのさ。でも一人だけ洗うとその人を傷つけるからみんなの足を洗ったんじゃないか。」というような、まあなかなか豊かな想像力ですけども、しかし実際はそうではありません。ヨハネの福音書の13章1節にはこう記されています。
 「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」
 こう書かれています。イエス様は最後の最後まで愛を余すところなく注ぎ出すお方です。弟子たちのきたない足を洗い流す事の出来事の中に、イエス様の溢れる愛が現わされているんですね。そしてこの愛はあなたにも注がれているのです。
 
      (PBA制作「世の光」2020.4.3放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■信じるということ1 -わからないことがある / 大嶋重徳

2020年05月28日 | Weblog

2020/4/2放送
  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 今月はイエス・キリストの復活されたイースターを過ごしていきます。
 ヨハネ福音書には、「イエス・キリストの復活を信じない」と言うトマスという使徒が出て来ます。他の弟子たちが、「私たちは復活された主を見た」と喜ぶ中でトマスは言います。
 「私はその手に釘のあとを見、私の指を釘の所に差し入れ、また私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じません。」(参照ヨハネの福音書20章25節 )

 さて、信じるとは一体どういうことなのでしょうか。トマスのもとにイエス様が現れたのは復活後8日経ってからでした。他の弟子に現れた日から何と一週間の間がありました。「信じません」と言った瞬間に現れてくれて、「トマス、なぜ信じないのか」とトマスの事を叱りつけてくださったら、すぐ済む話だったと思います。この8日間、トマスは悩んだと思います。復活は本当なのか?と。

 先日、長い間信仰を持てずに教会に通っていた方が信じる決心をされました。「ずうっと信じられなかった理由は何ですか?」とお聞きすると、「一旦信じてもそのあと自分には疑いが生まれるんではないか、信じ続けていけるだろうか、という不安があった」とおっしゃいました。信じたあとは迷ってはいけない、疑ってもいけない、という誤った信仰理解があると思います。しかし私たちは信じたあとも迷うし疑うんです。それはそもそも信じるとは、迷う・疑う・分らないを含み込んだ事柄だからです。

 キリスト教信仰は「悟る」という言い方はあまりしません。しかも「神を悟る」とは決して言いません。なぜなら、もし神を悟り得るならば神を理解できた人間の方が神より上です。むしろ理解し得た神様は私たちの手のひらサイズの神になってしまいます。しかし「悟る」ではなく「認識する」でもなく「理解する」でもなく、クリスチャンは「信じる」ということばを使います。「信じる」ということばを使うとき、分らないことがあると言うことを含み込んでいます。信じるに当たって分らないことがあることは問題ではありません。分らないという問いを神様に向けて行くとき、実はすでに「信じる」という事が始まっているのです。ぜひ分らないことを含み込みつつ神様に問い掛ける、トマスのような悩む時間を過ごしていただきたいと思います。
 
    ( PBA制作「世の光」2020.4.2放送でのお話しより )

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■どちらかを愛して / 福井 誠

2020年05月27日 | Weblog

2020/4/1放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。
 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いて参りましょう。
  箴言18章21節から「どちらかを愛して」と題してメッセージをお伝えいたします。
  「 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

 今日は箴言の18章から愚か者を説明していることばを拾い読みしてみましょう。まず2節。「愚かな者は英知を喜ばず」とあります。つまり知恵ある人の声に耳を傾けません。そんな調子ですから6節、「愚かな者の唇は争い事に入って行く」 関係もない事に平気で口を出し、争い事に巻き込まれて痛い目にあると言うわけです。7節、「愚かな者の口は自らの滅びを招く」 ま、その繰り返しですね。あと先考えない発言によって自分で自分の首を絞める結果を招く訳です。さらに13節、(愚かな者は)「よく聞かないで返事をする」 つまり、人の話を聞かない、聞こうとしない、ということでしょう。結局、愚か者の根本的な問題は、自らを知者とうぬぼれること、人を敬わず人の話に耳を貸さないことにありそうです。そしてうぬぼれた心で自慢げに自分のうんちくを聞かせたがる。そのためにつまづく、危うさに満ちた隙だらけの者といえます。

 18章には、この愚か者とちょうど正反対と思われる悟りのある者についてもこう語っています。「彼の心は知識を得る」(参照15節)と。つまり、悟りのある者は物事をよく理解しようとする心をもって人の話によく耳を傾け、必要な知識を得ていく、と言うわけです。

 結局、人間はうぬぼれて人の話に耳を貸さないか、謙虚な心を持って人の話によく耳を傾けるか、いずれかです。そしてそれが決定的に人生を分けてしまうことがあります。

 著者は言います。 「 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」
 「どちらかを愛して」ということばが印象的ですね。舌が人生を二分すると言っているようです。けれども、すでにお話したように、著者は舌の前に、聞く姿勢を問題にしていました。愚かさに生きるか、悟りのある人生を生きるかはまさに何を話すかだけではなく、聞く姿勢にあります。謙虚な心で聖書を読んで、良い実りのある人生を歩みたいものですね。 

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.4.1放送でのお話より )

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■主は、心を開いて / 板倉邦雄

2020年05月26日 | Weblog

2020/3/31放送
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「主は、心を開いて」という題でお話ししましょう。

 私たちの心は開いたり閉じたりするようですね。主イエス様が私たちの理性と感性そして意思を開いてくださるのです。使徒の働き16章です。

 さて、「私たち」・・・パウロ、シラス、テモテ、そしてルカの一行はトロアスの港町を船出してサモトラケに直行し、翌日ネアポリスに着きました。そこから陸路でピリピへ行ったのです。ピリピの町はマケドニア地方第一の町で、ローマの植民都市でした。四人の伝道チーム一行はここに数日間滞在したのです。

 さて、安息日になったので、四人の一行はピリピの町の門を出て川のほとりに出かけていきました。日常、洗濯したり、野菜を洗ったりする人々が集まる川のほとりが祈りの場になっていたようです。そこでパウロたちは、川のほとりに集まってくる婦人たちに話をしました。

 するとテアテラ市の紫布の商人で、神を敬うリディアという婦人が熱心に聞いていました。主イエス様は彼女の心を開いてパウロの語ることに耳を傾けさせたのです。

 その後、リディアとリディアの家族一同もイエス様の名によってバプテスマ・洗礼を受けました。ピリピ教会の始まりです。

 さて、「主は心を開いて」ということばに注目したいのです。これを私たちは「信仰を持つ」と言います。確かに神を信じるのはこの私です。しかし主である神様を信じるように私の心を開いてくださるのも神です。私たちの心は理性と感性そして意志によって成り立っていると言われています。私の理性で理解し、感性で受け入れ、自由意志で決断できるようにしてくださるのは神が私の心を開いてくださった結果だ、と聖書は語っているのです。

 パウロは手紙の中でこう言いました。
 「信仰は聞くことに始まり聞くことはキリストのことばによる」(参照 ローマ人への手紙 10章17節)

 私も17歳のとき初めてキリストのことばを聞いて、神への信仰が与えられて行きました。私の心が天に向かって開かれた時です。天に向かって私たちの心が開かれる鍵は神様だけが持っているのです。そして神のことばを聞く者の心を神様が開いてくださるのです。


  (PBA制作「世の光」2020.3.31放送でのお話より ) 

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■小さな存在を支え続けた大原孫三郎 2  /  岩井基雄

2020年05月25日 | Weblog

2020/3/30放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 月の最後の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日も小さな存在を支え続けた大原孫三郎について学んでみましょう。

 かつては放蕩の限りを尽くしていた孫三郎でしたが、日本初の孤児院の創設者でクリスチャン石井十次との出会い、彼を通してキリストにある救い受け取ります。自らクリスチャンとなった孫三郎は自分にできる限りの愛を小さな存在に注ぎ、父から受け継いだ倉敷紡績の社員たちの労働・居住・医療環境を改善し続けました。そして会社の利益のほとんどを日露戦争などで増えた孤児を救うための支援に使ったのです。彼の口癖は、「わしの目は10年先が見える。」だったそうです。彼はキリストの愛を基盤として10年先、いや、さらに先を見て神の愛を表し続けたのです。それに先立ち彼は、工場内に尋常小学校を設立。さらに現在の倉敷商業高校をも設立し、働きながら学ぶ行員の教育を支援します。さらに学びたくても資金がない子弟のために大原奨学会を開設します。将来を見据えての人への投資も彼は大胆でした。

 後に大原美術管の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこの奨学金で学びました。児島虎次郎はベルギーの美術学校を首席で卒業。そのあとヨーロッパの各地で名画を見て回る中、スペインの画家・エルグレコ作の『受胎告知』という絵と出会い、感銘を受けます。法外な値段でしたが、孫三郎はその購入を助けるのです。美しいその絵には神の御子が人となられた恵みを語る御使い。そして母として用いられるマリヤの神への献身の眼差しが描かれています。この絵は後に大原美術館の代表的コレクションとなります。

 キリストの愛を通し倉敷を東洋の聖地にしたい、と考えていた孫三郎は、神の有り方を捨てたキリスト、その愛に応答する責任としての献身をその絵に見たのかもしれませんね。その絵の存在が倉敷への空爆を避けさせたとも言われています。

 聖書のことば
 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
   新約聖書 マルコの福音書 10章45節

 私たちもまた自分に与えられているものを他の人のために用いていきたいと願います。

  (PBA制作「世の光」 2020.3.30放送でのお話より ) 
 
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■歴史に神のみわざを見る / 羽鳥頼和

2020年05月23日 | Weblog

2020/3/28放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は歴史についてお話したいと思います。テレビなどでは時代物、歴史物が人気です。歴史を趣味とする人は多いと思います。私も小学生の頃から歴史が好きで、大学の文学部の史学科に籍を置いていました。ところで、歴史を知る・学ぶことにどんな意義があるのでしょうか。聖書からその事をお話する前に、かつての西ドイツの大統領であったヴァイツゼッカーの語ったことをまず紹介したいと思います。ヴァィツゼッカーがドイツの敗戦40周年にあたって連邦議会で演説しました。そこで彼はナチスのユダヤ人大虐殺のことに触れてこのように語りました。
 「ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻み続けるでしょう。我々は人間として心からの和解を求めております。」
 そして彼は続けて語りました。
 「心に刻むというのは歴史における神のみわざを目の当たりにすることです。これこそが救いの信仰の源です。この経験こそ希望を生み出し、和解への信仰を生み出すものです。神のみわざの経験を忘れる者は信仰を失います。」

 ユダヤ人やヴァィツゼッカーのこのような、歴史を心に刻む、という考えは実は聖書に見られるものです。旧約聖書の詩篇78篇には、エジプトで奴隷だった民を神が解放し、荒野の旅を守り、約束の地に導き入れてくださった出エジプトの出来事が語られています。この出エジプトの出来事が語られる前に、神は歴史を語り伝える理由を教えておられます。
 「彼らがみな神に信頼し神のなさったことを忘れずに神の命令を守るためである。」(参照詩篇78篇7節)
 実は聖書はその全体を通して、すべての人にキリストの十字架による救いを語っています。このキリストの十字架こそ私たちが知るべき歴史的出来事です。

 明日は日曜日です。神のなさったキリストの十字架による救いを知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 ( PBA制作「世の光」 2020.3.28放送でのお話より )
 
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■消え去ることのないことば / 関根弘興

2020年05月22日 | Weblog

2020/3/27放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 私たちは皆、三つの終末・終わりの中に生きています。それはこの世界の終わり・終末、自分のいのちの終末、自分以外の人々のいのちの終末というこの三つの終わり・終末の中に生きている訳ですねえ。

 イエス様は終末の時代に生きる私たちに、マタイの福音書24章35節で
 「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
 とお語りになりました。
 イエス様は、「天地は消え去ります」と断言なさったんです。いつどんな方法で消え去るのか私たちにはわかりません。しかし、科学的に考えても太陽は約、・・・まあだいぶ先ですけど50億年後には寿命を迎えると言われますから、それまでには天地は必ず滅びてしまうでしょう。また、世界終末時計というものがありますよね。核戦争等による人類の終末を午前0時になぞらえ、その終末までの残り時間が大きな出来事がある度に発表されるわけです。何と今年のはじめには、終末まで100秒前だと発表されていました。実はこの世界はとても不安定で危うい中にいるわけですね。

 しかしイエス様は、「わたしのことばは決して消え去ることがない」と語られたのです。
 旧約聖書のイザヤ章40章8節というところで、預言者イザヤがこう言いました。
 「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。
 これはユダヤ人なら誰もが知っている有名なことばです。イザヤは「神のことばは永遠に立つ」と言いました。そしてイエス様は、「わたしのことばは決して消え去ることがない」と言われたんです。つまり、イエス様は、わたしのことばは神のことばそのものだ、と宣言されてるわけですね。だからこそイエス様のことばは決して消え去ることがないし、永遠のことばであり真理そのものなわけです。

 先ほど言ったように私たちは危うく移ろいやすいこの世界に住んでいます。しかしイエス様によって語られた一つ一つの約束のことばは決して消え去ることなく無効になることはありません。そのイエス様が、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人への手紙13章5節  新改訳第三版)と約束してくださっているのです。終末に生きる私たちにとってこれ以上の平安はありませんね。これで十分ではありませんか。
 
      (PBA制作「世の光」2020.3.27放送でのお話しより)

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■ルカの福音書 13 -ザカリア / 大嶋重徳

2020年05月21日 | Weblog

2020/3/26放送
  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 ルカ福音書を順番に読んでいます。今日の箇所には神殿で働く祭司のザカリヤという人が出てきます。天使ガブリエルの伝えたことばをザカリヤが信じることを拒みました。すると神様はザカリヤの人生に沈黙を強いられました。ザカリヤは突如、ことばが話せなくなったのです。

 私たちのことばもまた神様から沈黙を強いられることがあります。教会の礼拝では礼拝者が沈黙する時間が多くあります。祈りと賛美を終えた後、説教中はまさに沈黙します。説教者だけが語ります。私たちは過ぎ去った一週間、余りにもしゃべりすぎたおしゃべりをやめて、神様の語りに耳を傾けるのです。私たちは余りにも自分のことばと自分の思いに集中しすぎていることがあります。自分の声しか耳に入っていないのです。その時には聞こえるべきものが聞こえていない。

 ラジオでメッセージをするための準備に於いて、私はひたすら神様の前に沈黙する時間を持ちます。ラジオの前の皆さんに神様が語ろうとされていることを聞くために、ひたすらに沈黙の努力をするのです。

 ザカリヤは神様の強いられた沈黙を数ヶ月間経験しながら、天使ガブリエルの伝えたことばの意味を想い巡らしたでしょう。天使ガブリエルに言ってしまった自分のことばの愚かさについても考えたでしょう。やがてエリザベスの妊娠が本当であったことがわかっていきます。しかしザカリヤの沈黙は継続しています。待ちに待った我が子の出産の時にもザカリヤは沈黙をしていなければならなかったのです。沈黙を強いられたところでザカリヤはどれだけ深く神様の計画を想い巡らしたでしょうか。神のことばを噛み締めたのです。

 あなたにも沈黙を強いられたと言える出来事があったでしょうか。何も言えなくなる。ことばが出ない。それは痛みの出来事であったかもしれません。ことばにするのが今でも難しい事柄かもしれません。どのように祈れば良いのか戸惑うような出来事だったでしょう。そのようなとき無理にことばにしなくても良いのです。明るく振る舞わなくても良いのです。神の前でただただ沈黙するだけで良いのです。沈黙の中で、主のなさることをじいっと見つめること、それがあなたにとって一番大切な祈りの時となるのです。自分のことばだけを連ねる祈りを止めて、沈黙の中で神のことばを待つ祈りを今日は持っていただきたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2020.3.26放送でのお話しより )

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■まっすぐな道を歩む / 福井 誠

2020年05月20日 | Weblog

2020/3/25放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。
 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いて参りましょう。
 
 今日は箴言11章20節から「まっすぐな道を歩む」と題してメッセージをお伝えいたします。 

 「心の曲がった者は【主】に忌み嫌われ、
   まっすぐな道を歩む者は主に喜ばれる。

 この11章、様々な格言が集められていて、まとまりをつけて読むのが難しいところですが、よく読んでみると、神の御前にあることを覚えて生きる者とそうでない者との違いが対比的に二行詩になって語られていますね。つまり心が天に向かって生きているのか、それとも地に向かって生きているのか、それではその違いの大きさがあると言うことです。

 例えば、神を仰ぎ、神の御前にあることを覚えて生きる者は、いつも人間が人間であること、つまり神に造られた非造物に過ぎない現実を心得て、謙遜に神を恐れて歩もうとします。この世のお金や物を追いかけるような生き方もしません。それらはむしろ神に分け与えられたものとして正しく用いていきます。そしてやがて神にお会いする日を覚えて神の裁きに備えられた歩み、正義に基づいた行動をしていくのですね。

 他方、神を認めずこの地上のこと、この世のことだけに目を向けて生きている人は、死んでしまえばそれまでという考え方て生きていきますね。大人の顔はしていてもお金を持ち、知恵を持ち、権力を持った子どもに過ぎない人生であったりします。子どもの感性で歳を重ねているいびつな大人にすぎなかったりする、と言うわけです。このようなことは学校の教科書では教えてくれないものです。聖書を読むというのはまさに人生を賢く生きる、人間が人間らしく成熟することを教えてくれるのです。悪しき者と正しい者との対比で、本当のところ人間はどのように生きるべきかを語る。この箴言は心して学ぶべきものというべきでしょう。そして神はまっすぐな道を歩む者を喜ばれ、また祝福してくださる。神の約束がちりばめられていることにも注意したいところです。ぜひ教会に行って、人間としての成熟を目指したいものですね。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.3.25放送でのお話より )

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