♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して67年の
「世の光」を文字で 

■さあ、再建にとりかかろう / 福井 誠

2019年09月18日 | Weblog
2019/8/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。
 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。ネヘミヤ記2章18節から 「さあ、再建にとりかかろう」と題してメッセージをお伝えいたします。

  そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また王が言ったことばを彼らに告げた。すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。


 ネヘミヤ記に入りました。イスラエルの民はバビロンからの帰還を許された時に、何度かに分けて帰還しています。最初の第一陣は、紀元前538年、ゼルバベルによる帰還で、彼らは神殿を建て直しました。続く紀元前458年、エズラが率いる第二陣が帰還し、再建された神殿を中心とする礼拝の復活が行われました。今日の箇所では紀元前445年、ネヘミヤが神殿再建の後にエルサレムの事情を耳にして第三陣の帰還を決意した時のお話ですね。というのはエルサレムの神殿は再建されたものの、町の再建は全く手付かず、荒れ果てたまま、という事情がありました。第一陣が帰還してからも90年以上もの歳月が流れていたというのに、物不足や妨害により町の再建は全く進んでいなかったのです。その事情を悲しんだネヘミヤが、そこに自分の使命があることに気付いて立ち上がっていきます。しかし彼には王に仕える者としての務めがあり、彼はその仕事を辞めると切り出すこともできずに悩んでいたのです。

 祈るネヘミヤに神様が動き出します。神様は王様がネヘミヤの心を理解し、エルサレム再建のためにエルサレムへ戻ることを許すようにしてくれました。さらに王様はネヘミヤが必要とするものを備えてくれたのですね。こうしてネヘミヤによるエルサレムの町の再建事業が始まります。神様はその人の志をよしとするときに、不思議にも物事が整えられていくものなのですねえ。

 神様は恵み深いお方であり、必要なものは備えてくださる方です。もし何かに使命感を感じて神様と共にこれを成し遂げようと思っているなら、どんな難しさがあっても諦めてはなりません。神様が道を開いてくださいます。淡々と神様の働きに取り組んで参りましょうね。

 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.8.14放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■命にいたる悔い改め / 板倉邦雄

2019年09月17日 | Weblog
2019/8/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「命にいたる悔い改め」という題でお話ししましょう。

 私たちは使徒ペテロの巡回伝道を見てきました。キリスト教にとって大事な教理になっています「命にいたる悔い改め」についてお話ししましょう。使徒の働き11章に入ります。

 さて、「命に至る悔い改め」 このことばの背景ですが、ペテロがローマの軍人コルネリウスの家に行って伝道しましたね。ペテロは巡回伝道の報告もあり、エルサレム教会へ帰りました。するとペテロを咎めて言いました。「あなたは割礼のない異邦人たちの所へ行って食事を共にしたというじゃないか。」 


 「割礼のない異邦人」とはどういうことでしょうか。ユダヤ人の先祖アブラハムは主なる神様を信じて義、罪はない、と認められました。そしてしるしとして割礼を受けました。すなわち神と結びつき、罪が赦され、きよめられ、神の家族となり、神の恵みと祝福を受けたしるしが割礼だったのです。ですから、「割礼のない異邦人」とは罪を持った汚(けが)れた人、神様と結びついていない人のことです。そのような異邦人と食事を一緒にするとは言語同断だったのです。

 ところが、ペテロから、異邦人コルネリウスと人々の回心を聞いた時、「神は異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになったのだ」と神をほめたたえたのでした。

 そこで、命に至る悔い改めとは聖書では三つの要素があります。
 まず第一は、理性において考え方だ変わることです。私たちは一本の弱い葦ですが、考える葦ではないでしょうか。 次に、感性において自分の罪や悪を嘆き悲しみ悔いることです。そして第三に、意志において生き方を変えて神様を信じて生きてゆこうと決断することなのです。

  聖書のことばです。
 「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。
 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

       イザヤ章55章の6節と7節

  (PBA制作「世の光」2019.8.13放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■モーセの焦りと高慢 / 岩井基雄

2019年09月16日 | Weblog
2019/8/12放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二月曜日の今日は、旧約聖書のモーセ生涯から、「モーセの焦りと高慢」について学んでみましょう。

 エジプトの王は、増え広がるユダヤ人(イスラエル民族)を恐れ、男子の赤子を殺すように命じましたが、モーセは両親の知恵と神様の憐れみによって守られ、両親のもとで育てられました。それは神様への信仰と信頼を幼い時から学ぶ恵みとなりました。その後、王宮で成長したモーセでしたが、彼には神の民としての自覚があったのです。

 ある時モーセはユダヤ人たちの苦役を見、ユダヤの一人をエジプト人が打っている所を目撃します。心を痛め、周りに人がいないことを確認すると、エジプト人を打ち殺し埋めたのです。いつかユダヤ人たちを助けたい、自分の力と立場でできることは何か、とモーセは求めていたのでしょうか。しかし後日、二人のユダヤ人たちが争っている所に出会い、それをも収めようと悪い方を諌めた時に彼から思いがけないことばが返ってきました。聖書はこう語っています。
 彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。
   旧約聖書 出エジプト記 2章14節、15節

 モーセは良かれと思ったでしょうか。しかし人のいのちを軽んじるだけではなく、自らの手でユダヤ人を救おうとした思いの背後には、モーセの焦りと高慢が隠れていました。すべてのことを御存知の神様の前に隠すことのできるものは何もありません。人に知られる以上に神様に知られていることを心に留めるべきでした。そして神様の御心を求めて行動するべきだったのです。すべてを知ったエジプトの王はモーセを殺そうと探します。しかし神である主はモーセがエジプトから逃れることを許し、彼を守るのです。

 私たちも自らの内側にある高慢や傲慢と向き合い、自分の罪を認め、神様の憐れみと赦しの中を歩ませていただきたいと願います。神様はあなたを愛し、あなたの罪を赦そうと待っていらっしゃるからです。
 
(PBA制作「世の光」 2019.8.12放送でのお話より )
 
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■キリストの再臨の時までに / 羽鳥頼和

2019年09月14日 | Weblog
2019/8/10放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 イエス・キリストは人を救うために罪を犯しておられないのに十字架で死んでくださいました。そして聖書で預言されていた通り、キリストは三日目によみがえり、それから天に帰られました。天に帰られたキリストは再びこの世に来られます。その事をキリストの再臨と言います。

 再臨の時、キリストはすべての人を裁かれます。新約聖書マタイの福音書25章にはこのキリストの再臨の時の裁きについて教えられています。

 再臨されたキリストは栄光の裁きの座に着かれます。そして全ての人をはっきりと二つに分けられます。キリストはすべての人を神の国に入ることのできる人と神の国に入ることのできない人に分けられるのです。

 神の国に入ることができる人はキリストによって救われた人です。その人は永遠のいのちを与えられ、永遠に神の国に住むことができるのです。

 一方、神の国に入ることができない人はどうなるのでしょう。その人たちは永遠の刑罰、永遠の燃える火の中に入れられると教えられています。キリストの裁きによって人は消えてなくなってしまうのではありません。永遠に苦しみ続けるというのです。何と恐ろしいことでしょう。

 このようにならないためにはどうしたらよいのでしょう。イエスは言われています。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1章15節) キリストの再臨は間もなくです。キリストが再臨される前に救い主イエス・キリストを信じましょう。

 キリストは更に、再臨までの日常生活、生き方についても教えられました。救われた人はキリストを愛するように隣人を愛しなさいと勧められたのです。隣人を愛するとは、例えば空腹な人に食べ物を与えるとか、困っている人を助けるという具体的なことなのです。このように人が人を愛することができた時、そこに神の国が実現するのではないでしょうか。

 明日は日曜日です。キリストによるすばらしい救いをいただくために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.8.10放送でのお話より )
 
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■商売人を追い出されたイエス / 関根弘興

2019年09月13日 | Weblog
2019/8/9放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様の生涯は四つの福音書に記されていますが、特にイエス様の地上での最後の一週間のことを詳しく記しているんですね。

 イエス様はエルサレムに入り、神殿へと向かいました。その神殿の一番外側の庭には大勢の両替人や商売人がいました。なぜ神殿の庭に両替人がいたかというと、ユダヤ人の成人男性はみな神殿の維持管理のために神殿に税を納める決まりがあったんです。そしてわざわざ一般に流通しているお金を神殿用の特別な銀貨に両替して納めなければなりませんでした。もちろん手数料を取られて両替する訳です。また神殿に捧げる牛や羊や鳩を売る商売人たちもいました。神殿に捧げる動物は完全で傷がなく汚(けが)れが無いものでなければならない、そう決まっていました。もし神殿に捧げる動物を自分で連れてきた場合は検査を受けるために検査料を払わなければなりませんでした。そしてもし不合格だったら神殿で代りの動物を買わなければなりません。ですから結局、神殿で売られている検査済みの動物や鳥を買ったほうがいい、買わざるを得ないような仕組みができていた訳ですね。それをいいことに商売人たちは一般の市場よりはるかに高い値段で動物を売りつけていました。もちろんこうして集められたお金は神殿の維持管理のために用いられていきましたが、彼らは神様に捧げる動物を利用して大きな利益を得ていた訳です。

 イエス様はその光景をご覧になり、「あなたがたは神殿を強盗の巣にしている。」と激怒し、両替人たちや商売人たちを追い出してしまわれました。礼拝の場はお金儲けの場ではありません。しかし当時、両替人も商売人も神殿にはなくてはならない存在でした。でもイエス様はそれらを追い出してしまった訳ですよね。それはこれからはもはや神様を礼拝するために神殿に特別な動物を捧げなくても、特別なお金を両替しなくても良い時が来るということを示されているのです。なぜならイエス様は私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださいました。不完全な動物の犠牲ではなく、完全なイエス様ご自身が私たちの罪を背負い、罪の贖いを成し遂げてくださいました。私たちはこのイエス様によって、神様の前に特別なものを差し出さなくても今、自由に礼拝し祈ることができるものとされているんですね。

     (PBA制作「世の光」2019.8.9放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

■十戒 -自由への励まし-117  偽証してはならない / 大嶋重徳

2019年09月12日 | Weblog
2019/8/8放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。

 十戒第九戒は「隣人に対し、偽証してはならない。」(申命記 5章20節 新改訳第三版、参照出エジプト記20章16節)とあります。

 さて、以前に考えたなぜ人は嘘をつくのだろうか、という問いに戻りたいと思います。なぜなら幾ら愛のことばを語り合おうとも偽りの証言を許さない社会になるように努めたとしても、依然として自分自身の本当の姿は嘘をついてしまう弱さを抱えたままだからです。この嘘をつく自分の弱さについては、今だここで解決を見ていません。

 先日、私は自分のしたある出来事について、どうしたらごまかせるかと必死に考え込んだことがありました。そして最もらしい嘘をつこうと考え始めた自分がいることに気が付き、ハッとしたのです。そして自分がなぜそのようにしたのか、ということを考えると、結局の所、今まで築き上げてきた信頼、人間関係、自分への評価を失うことへの恐怖があったのです。その人たちの前で恥をかきたくないという思いが嘘をつこうという思いになりました。

 人が嘘つく時、そこには嘘をついてでも失いたくないものがあります。キリストが十字架にかかられる直前、キリストの弟子ペテロが「私は誓ってイエス・キリストなど知らない」と嘘をつきました。ペテロは目の前で殴られ罵られ惨めな姿でいるイエス・キリストを自分の信仰の対象とし、「あなたもあの仲間だ」と思われることを恥ずかしく思ったのです。しかしペテロはその後、キリストの十字架の愛と赦しに出会います。その時に自分の嘘をつく弱さを知っていてずっと前に弟子として選んでくださったイエス様の愛の計画、選びの計画を思う時、その愛に圧倒されることとなります。やがてペテロは自分が嘘をついたこのエピソードをいろんな所で話しました。そして聖書に記されたのです。

 キリストの十字架こそ嘘をつき隠しながら生きる苦しみから私たちを解放してくれます。キリストの十字架の圧倒的な愛と赦しの前に立つ時、嘘をついてまで失いたくないと握り締めていたものがそれほど大したものではないことに気づかされるのです。そしてイエス様の十字架の苦しみ、人から受けられた恥を思う時、私たちは人の前で一時の恥をかくことも恐れなくなります。なぜならキリストの十字架は嘘をついた自分をも赦し、弱さを知っていて選んでくれた神の愛の現れだからです。この十字架の赦しを得て、私たちは真実を語る自由を手に入れたいと思います。
 
    ( PBA制作「世の光」2019.8.8放送でのお話しより )

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■神の目が注がれていたので / 福井 誠

2019年09月11日 | Weblog
2019/8/7放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。
 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。エズラ記5章5節から 「神の目が注がれていたので」と題してメッセージをお伝えいたします。

 しかし、ユダヤ人の長老たちの上には彼らの神の目が注がれていたので、このことがダレイオスに報告されて、さらにこのことについての返事の手紙が来るまで、彼らの工事を中止させることができなかった。
 
 エズラ記に入りましたねえ。少し背景を説明しておきましょう。紀元前582年(※B.C.586エルサレム陥落、B.C.582第三回バビロン捕囚) 、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れ去られました。それから約70年後、彼らは再び神の憐れみによってエルサレムに戻ることのみならずエルサレム再建を許されて懐かしき故郷に戻って来るのです。

 ところがエルサレムを長く留守にしていた間に、そこには他の民族が移り住み、その人たちによって彼らの再建工事は幾度も妨害され、なかなか進まない事態に陥りました。しかしそのようなイスラエルの民の心を励ますために、神は預言者を起こし遣わされるのです。預言者ハガイはその一人であり、聖書のハガイ書を書きましたが、そのハガイ書をエズラ記と一緒に読むとそのメッセージがよく理解されますね。

 ともあれ神は私たちに使命を与えておられますし、その使命に気付いて行動を起こす者にご自身のみことばをもって励ます助け手を遣わされるのです。しかし多くの人々はその使命を理解しようとまた見出そうともせずに、ぼーっと時を過ごしてしまっていることがあるでしょう。あるいは使命感を持っても様々な障害に志なかばの思いでいる人もいることでしょう。しかし志を持ったならば最後まで諦めないことです。使命感に立ったユダヤの長老たちを神が守られたように、私たちの上にも神が目を注いで物事が立て上がっていくように後押しされます。そのような神がおられることを覚えて自分に与えられた使命を発見し実現していく人生を歩みたいものですね。
 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.8.7放送でのお話より )

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■聖霊の賜物が注がれる / 板倉邦雄

2019年09月10日 | Weblog
2019/8/6放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「聖霊の賜物が注がれる」という題でお話ししましょう。

 聖霊とは、主なる神様とイエス・キリストから送られた人格と言い換えても良いでしょう。ギリシャ語ではパラクレイトスと言い、私たちのそばにいて助け慰めてくれる人という意味です。今日は聖霊の賜物のお話です。使徒の働き10章の続きです。

 さて使徒ペテロが外国人コルネリウスの家でイエス・キリストの話をしていますと、聖霊が降ったのです。外国人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て非常に驚きました。ですから聖霊は神とイエス・キリストのことばが語られる時に私たちに働かれ注がれているということが分りますね。現代では聖書の中に主なる神のことばとイエス・キリストのことばが書かれています。

 ではこの時コルネリウスの家に集まった人々に注がれた聖霊の賜物とは何だったのでしょうか。それは彼らが異言を語り始め、神を賛美したことです。異言とはこの世のことばではなく神の国のことばでしょうか。異言は初代教会において聖霊の賜物の一つでした。当時はその異言を説き明かすいわゆる異言の通訳者たちもいました。神を賛美し誉めたたえるのも聖霊の賜物です。教える賜物、祈りの賜物、と聖霊の賜物は様々です。

 さてそこでペテロは言い出しました。「この人たちが私たちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを受けるのを誰が拒み得ようか。」 こう言ってペテロはイエス・キリストの名によってバプテスマ・洗礼を受けさせたのです。

 私たちも主イエス・キリストを信じて心に受け入れるとき、キリストの霊である聖霊を受けるのです。同時に聖霊の賜物を受けるのですね。賛美や祈りを捧げるようになります。キリストをあかしするようになるのです。(これが)聖霊の賜物でなくて何でしょうか。

 聖書のことばです。
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

        使徒の働き 1章8節
 


  (PBA制作「世の光」2019.8.6放送でのお話より )

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■神の裁きと憐み / 岩井基雄

2019年09月09日 | Weblog
2019/8/5放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 第一月曜日の今日は詩篇107篇の最後から「神の裁きと憐み」と題して神様の恵みに生かされる人生に心を留めてみましょう。

 神の民イスラエルが通った苦しみの一つがバビロン捕囚でした。バビロン捕囚とは神の民イスラエルが自分たちの罪のゆえに新バビロニヤによって滅ぼされ、捕虜として敵国に曳いていかれたことを示しています。しかしその地あって彼らは神様に向かい、約束の地に戻ることになったです。

 この詩篇107篇はバビロン捕囚から帰還した人々に対し、主が様々な恵みを示されたことに感謝を捧げるよう呼びかけています。それは民の罪への裁きを超える神様の憐れみと祝福が神様の民イスラエルに注がれたからです。神様は確かに私たちの罪を裁かれますが、その裁きの中にさえ神様の憐れみが満ちており、罪の悔い改めへと導かれる者に、思いをはるかに超える祝福と恵みを神様は豊かに与えてくださるのです。

 今日の詩篇をお読みします。
 「主は荒野を水のある沢に 砂漠の地を水の湧き上がる所に変え
  そこに飢えた者を住まわせる。 彼らは人が住む町を堅く立て
  畑に種を蒔き ぶどう畑を作り 豊かな実りを得る。
  主が祝福されると 彼らは大いに増え 主はその家畜を減らされない。

          旧約聖書詩篇107篇35節から38節

 聖書が語る神様は罪を裁かれますが、それは神を悔い改めに導くためであり、悔い改めた民を憐れみ、回復させてくださるからなのです。罪を認めるとき、赦しが私たちを待っています。そして荒野や砂漠のような地に神様は潤いと共に豊かな収穫を与え、神様の祝福によって神の民も家畜も増え続けることができたのです。その全てが神様の愛に基づいていました。私たちもまた様々な過ちや罪を犯してしまいますね。それゆえ神の裁きを受けるべき存在なのです。しかし神様はこんな罪深い私たちにその罪を認め、悔い改めるようにと招き続けてくださいます。

 聖書のことば
 「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。
  神よ あなたはそれを蔑まれません。

      旧約聖書 詩篇51篇17節

 神様はあなたの罪をすべて御存知で赦そうと待っていらっしゃいます。

(PBA制作「世の光」 2019.8.5放送でのお話より )
 
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■わざわいだ / 羽鳥頼和

2019年09月07日 | Weblog
2019/8/3放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 現代は災いの多い時代です。地震、津波、豪雨などの災害があちらこちらで起こっています。災いとは人を不幸にする出来事です。
 イエスは当時の宗教指導者たちに対して、「あなたがたは災いだ」と言われました。彼らが災害と同じように人々を不幸にする存在である、と厳しく叱責されたのです。なぜイエスは彼らにそんな厳しいことを言われたのでしょうか。聖書からその事についてお話しします。

 新約聖書マタイの福音書23章では、イエスは8回も彼らのことを「災いだ」と言われています。イエスはその中で彼らのことを「偽善者だ」と言われました。彼らは自分たちが立派な人物であると人々に認められようとして、自分たちの知識をひけらかしていたのです。それだけではありません。彼らは自分たちの厳しい戒めで人々をがんじがらめにしていました。その上彼らは、神の教えを正しく教える事をせず、かえって間違ったことを教えていました。そんな彼らのことをイエスは「お前たちには正義と憐れみと誠実さが無い。お前たちは内側は強い欲望と自己中心的な心で満ちている」と厳しく戒められました。

 イエスはどうして彼らをこれほど厳しく戒められたのでしょう。それは彼らが偽善者だったからです。イエスは他の人を不幸にする偽善を嫌われたのです。そこには彼らによって傷ついて救いを得ることができない人々のことを思うイエスの憐れみ深い愛の心があるのです。

 新約聖書マルコの福音書6章34節にこのようにあります。
 「イエスは・・・大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。

 イエスは人々を憐れみ、愛してくださっています。それで人々を救うために十字架にかかって死んでくださったのです。人はイエス・キリストの十字架によってのみ救いを得ることができるのです。

 明日は日曜日です。イエス・キリストの十字架の愛を知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.8.3放送でのお話より )
 
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