♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して67年の
「世の光」を文字で 

■キリストにおいて赦された / 羽鳥頼和

2020年02月22日 | Weblog

2020/1/11放送

 世の光の時間です。羽鳥頼和です。
 私たちの語ることばが人を傷つけることがあります。今は意見・立場の違う人を誹謗中傷することがインターネットを使って簡単にできます。ヘイトスピーチということばは誰もが聞いたことのある身近な言葉となってしまいました。そもそも昔から噂話・悪口はやむことがありません。新約聖書の時代も現代とあまり変わらなかったのでしょう。新約聖書のエペソ人への手紙4章29節でこのように語られています。
 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

 確かに、人の成長に役立つことばを語る方がいいのです。でもついつい悪いことばを口にしてしまうのが私たちです。エペソ人への手紙はそのような私たちに、
 「主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」(エペソ人への手紙4章17節)と勧めています。
 更に、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」(エペソ人への手紙4章31節)と勧めています。

 これは理想論のように思えます。人は良いと思ってもそうすることは難しいのです。聖書はそのことを十分知った上で語っています。
 「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ人への手紙4章32節)

 なかなか人に親切にしたりやさしい心で赦すことができない私たちは、神に赦されていることを思い出さなければなりません。神はキリストの十字架の身代わりの死によって私たちの罪を赦してくださったのです。神の愛によって救われた私たちは、同じように神を愛しそして人を愛する者となるべきです。独り子を与えてくださった神の愛を忘れないでいましょう。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
  それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
            新約聖書ヨハネの福音書3章16節
 
  (PBA制作「世の光」 2020.1.11放送でのお話より ) 
 
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 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ 

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■知っているようで知らない / 関根弘興

2020年02月21日 | Weblog

2020/1/10放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様は地上の生涯の最後の一週間をエルサレムで過ごされました。イエス様のもとに、当時のユダヤ教の一派であったサドカイ人たちが神学論争を仕掛けにやってきました。

 サドカイ人たちは復活とか死後の命を否定していた人たちでした。彼らはイエス様にこう尋ねたんです。「先生。モーセは『もしある人が子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。ところで私たちの間に7人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男もそして7人までも同じようになりました。そして最後にその妻も死にました。では復活の際、彼女は7人の内の誰の妻になるのでしょうか。彼らはみな彼女を妻にしたのですが。」(参照マタイ22章24~28節、マルコ12章19 ~23節、ルカ20章28~33節 ) ま、こんな質問だったんです。

 サドカイ人たちは、「一人の女性が七人の兄弟全員と結婚した場合、復活が起きたら大混乱になる。復活した七人兄弟全員が一人の女性を自分の妻だと主張をして争奪戦が起こるではないか。だから復活などあるはずがない。考えるだけのバカらしいではないか。」と言ってきた訳です。きっと彼らは心の中で、「イエスよ。どうだ、参ったか。」と高笑いしたことでしょうね。

 するとイエス様は「<b>あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。</b>」(マタイ22章30節、参照マルコ12章25節、ルカ20章35-36節 )と言われたのです。

 サドカイ人たちは、自分たちこそ知識人であり、聖書を最もよく知っていると自負していました。しかしイエス様は、「あなたがたは知っているようで何も知らない」と言われ、「聖書も神の力も知らないからだ」と言われたのです。彼らは自分の理性こそが万能であるかのように考えているような人たちでした。

 しかし聖書の神様は、人間の小さな理性の中に閉じ込めることができるような小さな方ではありません。この世界を創造し、すべてをご存知で、何もないところからもすべてを生み出すことのできるお方です。だからこの方を信じ生きるとき、私たちの思いも理性も超えた永遠の希望が与えられて歩むことができる、とイエス様は約束されるのです。

     (PBA制作「世の光」2020.1.10放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


■ルカの福音書6 - 彼らではなく、わたしたち / 大嶋重徳

2020年02月20日 | Weblog

2020/1/9放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 ルカの福音書をご一緒に読んでいきたいと思います。ルカ福音書を書いたルカはパウロの弟子で、ルカが書いた『使徒の働き』の中で幻を見ます。マケドニア人が「マケドニアに来て欲しい」と叫ぶ姿が記されています。このマケドニア人の叫びがルカではないか、と推測されています。実は使徒の働きを読むと主語が「彼ら」「パウロ」となっている所と、「私たち」と記されている箇所があります。つまり書き手のルカがその場所にいて一緒に体験をしていることとなります。この変化の原因は、ルカ自身がこの旅の道中に加わったタイミングではないか、と指摘されるのです。マケドニア出身のルカがトロアスの港あたりで信仰を持った。そして「どうかマケドニアにも来てください」と言った後、ルカはパウロ一行と一緒にパウロとともに船に乗り込んだのではないか、そして「私たちは」とルカが語り始めた。ルカは自分のことを何ひとつ記しませんでしたが、ただここで一人のマケドニア出身の男に自分の姿を託したのではないか、という想像は当たっているように思います。

 私たちにも「彼ら」とは言えない大切な存在がいます。「彼らがね」という場合、そこにはある距離があります。しかし「私たち」という響きには一緒にいる人たちを他人ごとだとは考えられない近い距離感があることが分ります。ルカにとって自分の故郷、それはとても「彼ら」など言えない家族がいたでしょう。友達がいたでしょう。その人たちにどうしても伝えたいイエス・キリストとの出会いがありました。

 私は今、埼玉県の川口市の教会で牧師をしています。ここに教会が生まれるようにと願った教会草創期の方々がおられました。ルカはマケドニアに来てくれたパウロ一行とともに故郷にイエス・キリストを伝えた後、同じように自分の故郷に伝えたいと願う人たちがいることを思ったとき医者をやめてその人たちにイエス・キリストを伝えていきたいと願ったのです。この番組もまたそうです。今日にそう来ることのできない方々がおられる。ラジオだったら聴くことができるという方々にイエス・キリストのことを紹介したいと願う人たちが起こされました。日本にいる人たちを決して「彼ら」などとは言えない、「私たち日本人」と日本語でイエス・キリストのことを伝えたいと願って今もラジオ番組「世の光」をお届けしています。

 ぜひあなたもこの「私たち」に加わってくださいませんか。一人でも多くの方に、このキリストとの出会いを体験していただきたいのです。

    ( PBA制作「世の光」2020.1.9放送でのお話しより )

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<p>さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。</p>
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 このサイトは URL名として<FONT SIZE="4"><B>   http://yonohikari.biblica.info </b>  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。</font></p>

 


■力から力へと進み / 福井 誠

2020年02月19日 | Weblog

2020/1/8放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇84篇7節から「力から力へと進み」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「彼らは力から力へと進み シオンで神の御前に現れます。
 
 1節を読むと、こうあります。

 「万軍の【主】よ あなたの住まいは なんと慕わしいことでしょう。
 詩人は歓喜に溢れて神をたたえていますね。神がおられる神殿に住み、いつも神をたたえることができる人は幸いである、と。

 しかし神様を喜ぶなど、信仰を持っていればこそのことであって、信仰を持っていない人からすれば実に不思議なことではないでしょうか。なぜ神の存在がそんなに喜ばしいことなのか、何を思ってそんなに詩人は神に感謝しているのか、考えさせられるところですね。

 詩人は言います。

 「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり 心の中に シオンへの大路のある人は。」(5節) 
 言ってみれば、神を力のよりどころとし心から神とともに歩んでいる人は幸いだ、ということでしょう。

 そして6節。

 「彼らは涙の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とします。」とあります。
 大事な部分ですね。「涙の谷」 詩人は社会には厳しい現実があることをよく分っています。ただ社会は厳しいのだと社会の悲惨な事柄や悲しいことばかりに目を向けていたら、その負のエネルギーによって押し潰される思いになるのではないでしょうか。そんな経験はないでしょうか。社会の闇に心揺さぶられて暗く沈んだ思いになってしまう。・・・私もよく経験することです。

 しかし世の中がどうであれ、そのような希望を失わせる世から目を転じて神に心を向けるなら、そこには違う世界が開けます。何の祝福もないと思われる状況にあっても、平安と恵みを約束してくださる神に目を注ぐなら、私たちの心は晴れやかになることでしょう。そのような状況を克服するのみならず、さらに祝福の場とすることができる希望すら与えられるのです。だからこそ、神に目を注ぐことは素晴らしい、とたたえるんですね。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.1.8放送でのお話より )

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■エルサレム会議(その一)/ 板倉邦雄

2020年02月18日 | Weblog

2020/1/7放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
  今日は「エルサレム会議(その一)」ということでお話ししましょう。
 使徒の働き15章に入ります。

 さて、エルサレム教会のある人たちがユダヤからシリヤのアンティオキヤ教会へ下ってきました。そしてアンティオキヤ教会の信徒たちをつかまえては、「あなたがた(※異邦人クリスチャン)も旧約聖書のモーセの律法に従って割礼を受けなければ救われない。水の洗礼だけではだめなのだ。」と説得していました。割礼とはユダヤ人のすべての男性が受ける儀式のことです。

 そこでパウロやバルナバとエルサレム教会の人々の間で激論となりました。少なからぬ紛糾と論争が生じたのです。パウロとバルナバは、イエス様を信じて洗礼・バプテスマを受ける者は誰でも救われる、と主張したのはもちろんです。そこで両者が平行線をたどり、らちがあきませんでした。そこでアンティオキヤ教会はパウロとバルナバその他数人の長老たちがエルサレムに上ることになりました。エルサレム教会にいる使徒ペテロやヤコブ、ヨハネたちやエルサレム教会の長老たちと、異邦人が---外国人のことですが---割礼を受けるか受けないかという問題について協議し、決着と神のお心を求めるためでした。パウロとバルナバ、アンティオキヤ教会の代表の長老たちは教会の信徒たちに見送られてサマリヤを通ってサマリア教会を訪ね、異邦人たちの改宗の様子を詳しく説明すると、全ての兄弟姉妹たちは大いに喜び、主をほめたたえました。サマリア教会はかつて執事のピリポが開拓した教会でしたね。そしてエルサレム教会へ着くと、パウロとバルナバそしてアンティオキヤ教会の長老たちは、教会の信徒たちまた使徒のペテロ、ヤコブ、ヨハネたち、エルサレムの長老たちに迎えられました。そしてエルサレム教会でも神様がパウロとバルナバと共にいて働きをなされたことをことごとく報告したのです。

 ところが厳格なユダヤ教のパリサイ派からキリストへの信仰に入信した人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきだ!」と主張したのです。 つづく。

  (PBA制作「世の光」2020.1.7放送でのお話より ) 

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■偉大な主の愛に生かされる / 岩井基雄

2020年02月17日 | Weblog

2020/1/6放送

 世の光の時間です。明けましておめでとうございます。 岩井基雄です。
 この新しい年も、どうぞ宜しくお願いいたします。
 
 第一月曜日の今日は、詩篇111篇から、「偉大な主の愛に生かされる」恵みの人生に心を留めてみましょう。

 皆さんはどのような思いや祈りでこの一年を始めましたか? 人生には様々な課題がありますねえ。聖書は私たちに様々な課題の深刻さ以上にすべての主権を持つ神様の偉大さと愛に心を留めるようにと招いています。

 今日の詩篇の前半をお読みします。
 「【主】のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に 尋ね求められるもの。
   そのみわざは威厳と威光。 その義は永遠に立つ。
   主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた。
   【主】は情け深く あわれみ深い。
            旧約聖書 詩篇111篇 2節から4節

 この奇(くす)しい神のみわざとは、エジプトで奴隷状態だった神の民を助け出されたわざを指しています。実際の神の民は様々な問題を抱え、不平や不満に満ちていました。それでも神は情け深く憐れみ深いゆえに、彼らに必要なものを与え、約束の地へと導かれたのです。

 続く7節には、「御手のわざは真実と公正 そのすべての戒めは確かである。それらは世々限りなく保たれ 真実と正しさをもって行われる。」とあり、神様の真実さと恵みは民の愚かさに妨げられずに注がれていくことが強調されています。

 さらに9節には、「主は 御民のために贖いを送り ご自分の契約をとこしえに定められた。」とあります。この贖いと契約は、神の民のエジプトからの救出にとどまらず、彼らの罪のゆえにバビロン捕囚となった状態からの回復、そして救い主キリストによる罪の赦しのすべてが含まれている壮大な神の御計画を示しています。それゆえ私たちは、どのような状況の中にあっても恵み豊かな神様の偉大さと真実さに心から信頼し、正しく恐れ従うことができるのです。

 最後にこの詩篇は次のように歌っています。
 「知恵の初め それは【主】を恐れること。 これを行う人はみな賢明さを得る。 主の誉れは永遠に立つ。
            詩篇 111篇10節

 この新しい年もあなたを愛してやまない神様の偉大さと真実さに心を留め続け、まことの知恵と賢明さを与えられて、永遠の誉れを目指して歩みませんか? 主はあなたを愛しておられるのです。
 
  (PBA制作「世の光」 2020.1.6放送でのお話より ) 
 
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■偉大な神が目を留める者 / 羽鳥頼和

2020年02月15日 | Weblog

2019/12/7放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は、神はどんな人に目を留めてくださるのかをお話ししたいと思います。
 
 神が目を留めるということは、ただその人を見るということではありません。この神の目は愛の眼差しです。神はその人を愛し、その人を救おうとされているのです。神の救いとは、その人にいのちを与え、幸せに生きることができるように、全ての必要を与えて、その人の全部を守り支えてくださるということです。それが神が目を留めてくださるということです。

 それでは、神のみことばに耳を傾けましょう。旧約聖書のイザヤ章66章2節で神はこのように語っておられます。
 「これらすべては、わたしの手が造った。
  それで、これらすべては存在するのだ。──【主】のことば──
  わたしが目を留める者、
  それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。

 まず神は、ご自分がすべてのものを造った創造主であり、すべてのものが神によって存在することを宣言しています。神はご自分が造られた私たちに目を留めておられるのです。

 先に述べたように、神が目を留める者とは、神が愛してくださり神が救ってくださる人のことです。神は、貧しい者、霊の砕かれた者、神のことばにおののく者を愛して救おうとされるのです。

 貧しい者とはどんな人でしょう。それは経済的な貧しさもありますが、心が貧しいのです。虚しさがあり、悲しみがあるのです。

 続く霊が砕かれた者とは、自分に悪いところがあることを認め、悪いところを改めるようとする人のことです。

 神のことばにおののくというのは、自分が正しくないために神を恐れながらも、神が言われていることを聞こうとする人のことです。そんな人を神は愛して救おうとされています。

 神はあなたに目を留めておられます。神はあなたを愛して救おうとされています。

 明日は日曜日です。救いの神に会うために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

  (PBA制作「世の光」 2019.12.7放送でのお話より ) 
 
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■イエスさまの系図からわかること / 関根弘興

2020年02月14日 | Weblog

2019/12/6放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 新約聖書の1ページ目にはイエス・キリストの系図が出てきます。あまり面白くない箇所ですよね。誰は誰の子で誰を生んで、という記事がずっと出てくるんです。イエス様の誕生を知らせるのにそんな長い系図を書かなくても良さそうなものですよねえ。でも敢えて系図が書かれているのには意味があります。

 日本のおとぎ話では、「昔むかしあるところに おばあさんとおじいさんがいまして」っていう所から始まりますよねえ。系図など書く必要がありません。なぜなら、おとぎ話だからです。でもイエス様の誕生は歴史の事実として記されているからこそ、どの国のどの町のどういう系図の中で生まれたのかをきちんと記しているわけです。そしてこの系図を読んでいくと、わざわざ14代ずつ三つの時代に分けて紹介されています。

 最初の14代はアブラハムからダビデまでです。アブラハムはイスラエルの先祖--父祖--ですね。そしてダビデは国を一つにまとめた名君です。イスラエルの歴史の中で最も右肩上がりの歴史です。


 そして次の14代はダビデからバビロン移住までが紹介されています。ダビデ王、それに続くソロモン王の栄華を極めた歴史から一転して下降線をたどり、自分たちの国が滅ぼされ、敵国であるバビロンに捕虜として連れて行かれてしまうという、どん底の歴史がこの14代でした。


 そしてその次の14代がバビロン移住からキリスト誕生まで、として紹介されているんです。バビロンから帰ってきたユダヤの人たちはもう一度国を再建しましたが、次から次へと他国に侵略され、遂にはイエス様がお生まれになった時代は王様の家系であっても特別な待遇があるわけでなく、一般庶民と変わらない人たちとなっていました。他国に支配され、夢も希望もないかのような時代を迎えていったのです。そんな最も暗い時代に、旧約聖書の預言通りに、ダビデの家系から救い主イエス・キリストはお生まれになりました。

 昔の栄華は誇ることができても、今を生きる力は湧いてこない。そんな一人一人のためにイエス様は来てくださったんですねえ。どん底にある一人一人に、希望を持てない一人一人のために、世を照らすまことの光としてイエス・キリストは来てくださいました。そしてイエス・キリストはあなたの暗闇を照らすまことの光として来てくださったんですね。

     (PBA制作「世の光」2019.12.6放送でのお話しより)

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■あなたの人生の光として/大嶋重徳

2020年02月13日 | Weblog

2019/12/5放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 町はクリスマス・イルミネーションの輝きに満ちています。なぜクリスマスは明るく光り輝いているのでしょうか。それはクリスマスに生まれたイエス・キリストが、「わたしは世の光です」と言われたからです。

 皆さんの今年の一年はどのような一年であったでしょうか。一年を振り返るニュースを見ると心が暗く落ち込んでしまいそうにもなります。また忘年会で誰かの相談に乗ると、一気に暗い気持ちにもなってきます。そんなとき私たちは口にしがちです。「いつかは必ず良くなるよ。いつまでもそんな状態が続くわけじゃないから、うまくいかないときがあったら次はうまく行く時が来るから、いつかは必ず明るくなるよ。」と誰かを慰めながら自分の心を奮い立たせようとします。あるいは私も牧師として、「大丈夫です。今は闇でも、やがて光が差し込んできますよ。」と励ましそうになるのです。

 そのように誰かを慰めようとするのも間違いではないかもしれません。しかしイエス・キリストはすでに「わたし世の光です。」と、「あなたのそばにすでに来ている」と言れるのです。闇のように何も見えないと思えるところにわたしはすぐにいる。わたしについてくれば良いのだ、とおっしゃるのです。そうすればあなたが光の中に生きることができる、と告げておられるのです。闇はこれからも闇であり続けるかもしれません。しかしそこで私たちが耐え忍ぶことができるのは、闇がなくなるかわからないまま待ち続けるのではなく、闇の中に光であるキリストを見いだすことができるからです。

 キリストが生まれたあのクリスマスの夜、聖書の物語では夜空に天使たちの光が溢れました。孤独な貧しい夫婦の上に光が溢れたのです。社会的に居場所のない羊飼いたちに、「あなたがたのためのしるし」だと言われる救いの光が輝きました。三人の博士たちの前にも一つの星の輝きが行くべき場所を指し示したのです。

 今日、あなたのそばにも光がすでに来ているのです。目をじっとこらしましょう。そして聖書を読んでいただきたいと思います。光であるキリストが、あなたのそばにすでに来ておられる。その光はすでに輝いているのです。その光を見えなくしているのは、あなたの目が実は閉じてしまっているからかもしれません。閉じてしまっている目を開けたい。そこに「わたしは世の光です」と言われるキリストが、あなたの人生の光として今、あなたの目の前に立っていてくださるのです。

   ( PBA制作「世の光」2019.12.5放送でのお話しより )

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■私の魂を贖いだす/福井 誠

2020年02月12日 | Weblog

2019/12/4放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は詩篇49篇15節から「私の魂を贖いだす」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「 しかし 神は私のたましいを贖い出し 
    よみの手から 私を奪い返してくださる。」 

 詩篇49篇は詩篇の中でも「知恵の詩篇」と分類されるものですね。それは、「伝道者の書」のように教訓を提供しようとしています。神を信じるものだけにではない、すべての人が耳を傾ける価値ある重要なことを伝えようとしています。詩人は言います。
 「人は死ぬとき 何一つ持って行くことはできず
   その栄誉も その人を追って下ることはない。」(17節)
 何ともクールですねえ。どんなにあの人は勝ち組なんだと思われるような華やかな人生を歩み、出世をたたえられるようなことがあったとしても、人は死ねば犬猫と変わりなく塵と化すだけです。 何一つ自分が手にしたものをあの世に持って行くことはできません。人知れず苦労して積み上げてきたものも、みな泣く泣く後の人に譲っていくのです。そんな現実があると思うと、何とも人生は虚しいものですね。

 そこで詩人が語るもう一つのことばに耳を傾けてみましょう。詩人は言います。
  「 しかし 神は私のたましいを贖い出し 
    よみの手から 私を奪い返してくださる。」 

 聖書は、人間は死んだら塵と化して終わってしまうのではなくて、その先がある。この世をお造りになった神がおられて、その神が死の世界に呑み込まれた私たちを奪い返してくださると。神が私たちのいのちを拾い出し、神のもとに永遠に憩わせてくださるのだというのです。つまり人のいのちはこの地上で終わりなのではなくて、まだ続きがある。聖書は、これを知恵とせよ、と言っているのですねえ。

 となれば、まずその永遠のいのちをもたらしてくださる神を覚える事が今の世にあってはとても大事だということでしょう。地上の成功も大事ですが、単純に塵に帰る死に方で終わらせない神様がおられることを知る。そこに知恵ある生き方があります。 聖書を読み、神に近づく方法を知っていただきたいと思います。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.12.4放送でのお話より )

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