♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して66年の
「世の光」を文字で 

■一歩踏み出す勇気 / 関根弘興

2019年04月19日 | Weblog
2019/3/15放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストがエルサレムにあるベテスダという池に行かれた時のことでした。この池の回りにはたくさんの病人が集まっていました。そこに38年もの間、病気にかかっている人がいました。イエス様は、こう質問されたんですねえ。「良くなりたいか?」 しかしこの病人は、即座に「はい、良くなりたいです。」とは答えせんでした。彼は今まで何をやっても無駄だった、いつも期待しては裏切られた、というそんなことの連続だったのだと思います。でもイエス様はこの人に、「起きて床を取り上げて歩きなさい。」とお命じになったのです。ただ目の前にいるこのイエス様のことばに従って、彼は自らの足に力を入れて立ち上がっていきました。すると何と、この人の病は癒され、歩けるようになったんです。イエス様のことばをただ聞くだけで終わったら何も始まりません。そのことばに従って生きてみよう、そのことばの通りに一歩踏み出してみよう、という勇気が必要なんですね。

 旧約聖書に、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民のことが出ています。モーセに導かれて彼らはエジプトを脱出し、神様が約束してくださった土地を目指していきました。いよいよ約束の地に入ろうとする時、ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。しかし大きな問題がありました。この時期のヨルダン川は水が岸いっぱいに溢れて流れていたのです。その時神様はモーセの後継者となったヨシュアに、主の契約の箱を担ぐ祭司たちを先頭に渡らせなさい、と言われたんです。そして先頭の祭司たちが川を渡ろうと足を水に一歩浸した時、何と川の水が堰止められ、人々は全員無事に川を渡ることができたんですねえ。

 この奇跡的な出来事は旧約聖書のヨシュア記という所に書かれています。彼らはまず川が堰止められてから渡ったのではありません。周りの状況が変わってから従おうと考えた訳でもありませんでした。神様の命令に従って川に足を一歩踏み出した時に水が堰止められたんです。信仰に生きる醍醐味というのはここにあるんですねえ。目の前の状況は何も変わっていなくても、聖書の約束のことばを信頼して一歩踏み出していく。その時に神様のみわざを見ることができるんです。信仰に生きるとはほんの少しの勇気と冒険心が必要なんですね。

     (PBA制作「世の光」2019.3.15放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

■十戒 -自由への励まし100 / 大嶋重徳

2019年04月18日 | Weblog
2019/3/14放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第八戒には、「盗んではならない。」(出エジプト記20章15節、申命記5章19節)とあります。「盗んではならない。」という戒めは、どのような自由への道しるべを指し示しているでしょうか。

第八戒「盗んではならない。」の反対を「盗まないこと」ではなく、聖書は、「自分の手をもって正しい仕事を する」ことだと語ります(参照 エペソ人への手紙4章28節)。
 自分の手を持って正しい仕事に仕えることができたならば、この世界で盗まない社会・奪われない社会が形成されていきます。

 しかし、困っている人は受けるだけで良いのでしょうか。そんな事はありません。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒の働き20章35節)と聖書は語ります。もし今、困窮の中にあえいでいる人も、またそれでも自分の手にある何かを誰かのために使っていく必要があるのです。人は誰一人、受けるだけの存在になることはないのです。何かをしてもらって笑顔で「ありがとう」と感謝のほほ笑みを返すことも与えることになるのです。

 日本語の「お互いさま」ということばは良いことばだなあと思います。人は受けるだけになっていくとき、そこに卑屈な感情も生まれていきます。人間はお互いに愛し会う、与え合う、譲り合う、赦し合うことが大切なのです。今まで誰かのものを盗んでいた自分の手を使って、誰かに与えていく人生を歩いていくときに、何かを略奪することにも豊かに生きる人生が始まるのです。たとえ今日が寝たきりの一日であったとしても、誰かのお世話になっていたとしても、大胆に受け取り大胆にその感謝を相手に表し、そして誰かにしてもらったように愛を表していくのです。

 全員が自分の手をもってなすときに、そこには受ける人、与える人という構造が形を消していきます。自分の手によってという姿勢は、受けるだけの甘いの構造やいかに受けられるかだけに集中する思考停止状態を自覚させてもくれるのです。自分がすべてをやらなければ・・・、肩に力が入っている人もリラックスしましょう。私たちはすべてを背負うことなどできません。最終的には神様がすべてをなされるのです。神様は神様の所有された世界を維持しておられ支配しておられるのです。その神様のお働きにお委ねしながら「お互い様」と生きていきたいものです。

    ( PBA制作「世の光」2019.3.14放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



■主は生きておられる / 福井 誠

2019年04月17日 | Weblog
2019/3/13放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むごとに不思議にも自然と養われていくものがあるものです。では今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はサムエル記第一25章34節から「主は生きておられる」と題してメッセージをお伝えいたしましょう。

 「イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。

 ダビデはサウルの娘を娶り、サウル王の義理の息子となっていましたが、サウル王の敵意から逃れるために荒野を転々と放浪する日々を送っていました。しかし彼に付き従う者は600人。実に多くの必要を満たすために彼は何かをしなくてはなりませんでした。そこでダビデは、かつてナバルという人物に恩を売ったことを思い出します。金持ちの農夫であった彼を守ったのでその御礼を求めたのです。

 ところがナバルはダビデを相手にもしませんでした。ダビデを逃亡した奴隷と呼び、ダビデの家来を追い返してしまうのです。 恩を仇で返され、動機も誤解され、存在すら軽んじられるいたたまれないものがありますねえ。このような無礼には仕返しをする十分な理由があると思うものでしょう。ダビデは部下に剣をつけさせ、ナバルの一家を皆殺しにしようと出かけます。しかしナバネの妻アビガイルの機転でダビデはそのような悲惨な復讐をとどめられることになるのです。

 ここで私などは考えるのです。結局、人間、サウルもダビデも五十歩百歩、同じだなあ、と。サウルはダビデに対する嫉妬心に振り回されていましたが、ダビデも自分を軽んじる相手に我慢がならず、怒りを燃やしています。しかも暴力によって相手に思い知らせてやろうとしているのです。ダビデが神に愛されたのはサウルよりも人間的に質が良かったからだと言うわけではないのでしょう。

 ただ良かったとすれば、アビガイルの機転に神の存在に気付いたことでしょう。自分の傲慢さに歯止めをかけようとしている神に心を向けたことです。弱い罪人の私たちの人生に最善を望まれている神がおられます。その神様の助けと恵みによって品位ある人生を歩ませていただきたいものです。

 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.3.13放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

■散らされる教会 / 板倉邦雄

2019年04月16日 | Weblog
2019/3/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「散らされる教会」と題してお話ししましょう。
 教会とは建物のことではなくイエス・キリストを信じて集まっている人々のことです。

 さて、サウロという宗教指導者であり当時の最高議会の議員を中心にしてエルサレム教会に対する大迫害が始まりました。その時、キリスト信徒たちはユダヤ・サマリヤ地方へ散らされていきました。使徒の働き8章の続きです。

 さて、散らされていった人々は神のことばを述べ伝えながら巡り歩きました。迫害という試練によって散らされるという過酷な状態になりました。しかしその困難にもめげることなく、神のことばという種を行く先々で蒔いたのです。伝道者パウロのことばを思い出しますねえ。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
      ローマ人への手紙8章(28節 口語訳聖書)の聖書のことばです。(8:28)
  この散らされた人々の中にピリポという人がいました。ピリポはエルサレム教会で選ばれたいわゆる教会の執事でした。ピリポはサマリヤの町へ散らされて行きましたが、サマリヤの人々にイエス・キリストを宣べ伝えました。更にピリポは穢れた霊に取り憑かれた多くの人々から悪霊を追い出しました。更に、足の不自由な人やハンデのある人々を癒したのです。サマリヤの人々はイエス・キリストの話を聞こうとピリポの所に集まってきました。そしてサマリヤの町にキリストの教会が生まれることになったのです。

 私たちは復活されたイエス様が弟子たちに語ったことばを思い出したいのです。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒の働き1章8節 口語訳聖書)
 この復活のイエス様の約束が、サウロの迫害によりキリストの教会が散らされることによって、ユダヤとサマリヤ全土に教会が実現して行ったのです。

 私たちとキリストの教会の使命は何でしょうか。それは聖霊様の力を受けてそれぞれが散らされた場所でキリストの証し人となることなのです。
 
  (PBA制作「世の光」2019.3.12放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

■父ヤコブの葬儀 / 岩井基雄

2019年04月15日 | Weblog
2016/3/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 第二週の月曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生について学んでいます。2011年3月11日の東日本大震災から今日で8年目を迎えました。今なお苦しみや痛みを抱え、涙が止まらない方も少なくないのではないでしょうか。ヨセフもまた自分の愛する父ヤコブの死を経験しました。若い時にエジプトに奴隷として売られてきたヨセフは、青年期の大切な時期を父と共に過ごすことができませんでした。自分の実の母ラケルの死と別れも幼い時に経験していたのです。しかし7年に及ぶ大飢饉のゆえ、父たちがエジプトへと来た後、父の晩年を共に過ごし、その死を見届けたのです。

 ヤコブは生前ヨセフにこう誓わせていました。「私は間もなく死ぬ。私がカナンの地に掘った私の墓の中に、そこに私を葬なければならない。」と。創造主なる神様に信頼し歩み抜いたヤコブは、死をも恐れず、葬りを指示していました。エジプトにでは無く、神の約束の地へと遺体を運び、祖父アブラハム、父イサクが眠る墓に葬って欲しいとの願いでした。それは地上の生涯を終えた後、神のもとに戻るその信仰の告白でもあったです。エジプトにおいてもヤコブは神様の約束を握り締め、神のもとに戻るということを子や孫たちに示したのです。

 ヨセフはエジプトの王に、父を葬るためにイスラエルに上る許可を得ます。そして父の遺体を伴い、ヨセフは一時懐かしい約束の地・故郷イスラエルへと戻ることができたのです。

 聖書はこう語っています。
 「それで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともに、ファラオのすべての家臣たち、ファラオの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、ヨセフの家族全員、彼の兄弟たちとその一族が上って行った。
      旧約聖書 創世記50章7節、8節

 それは神様に栄光を帰し、神様に信頼を置く者には地上の生涯を超える栄光の生涯が待っていることを証しする荘厳な葬儀でした。私たちも死を恐れる必要がありません。神様に信頼を置き、救い主イエス・キリストを信じる者には永遠の希望・いのちが約束されているからです。まことの希望に生きる人生がキリストにあってあなたにも用意されているのです。
 
  (PBA制作「世の光」 2019.3.11放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***




■聖別のためのささげ物 / 羽鳥頼和

2019年04月13日 | Weblog
2019/3/9放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書 出エジプト記29章から、祭司の任命をする時に行う儀式・祭司の任職についてお話しします。祭司は神に仕え、神に命じられることを行います。祭司の重要な働きは神と人との間に立って両者の関係を整える事です。実際に祭司のすることで最も重要なことは、神に捧げ物やいけにえを捧げることでした。そのような祭司の任職式に行うことは、すべて神が命じられた事でした。

 神の前に出る祭司は、まず自分自身が神の前に出ることができるように幕屋の入口で身をきよめます。次いで、身体を水で洗い、それから祭司の服を着ます。この祭司の装束もすべて神が定められたものでした。そしてその祭司の頭に油を注ぎます。次に、祭司を聖別するための捧げ物を捧げます。聖別するとは、この世から切り離して神のために特別なものとすることを意味しています。祭司の任職式は7日間行われました。その期間は毎日、罪のきよめの捧げ物が捧げられました。

 任職式で祭司を聖別する捧げ物は三つの種類がありました。まず罪のきよめの捧げ物。これは祭司に任命される者の罪をきよめるための捧げ物です。任職式の7日間、毎日捧げられたのがこれです。続いて、全焼の捧げ物。これは祭司が神のために働くことを示す捧げ物です。そして交わりのいけにえ。これは神と祭司との良い関係を確認するいけにえです。神との特別な関係に入るための重要なものです。

 祭司は神によって選ばれ、聖別された特別な存在です。神と人との間をとり持つ重要な働きをしました。任職式においてこのような祭司の重要性がしっかりと確認されるように、神が祭司の任職式を定められたのです。神の命じられることに無駄なこと意味のないことはないのです。
 
 (PBA制作「世の光」 2019.3.9放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***




■「38年の苦しみ」/ 関根弘興

2019年04月12日 | Weblog
2019/3/8放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストがユダヤ人の祭りの時期に、エルサレムに行かれた時のことでした。エルサレムの中にあるベテスダという池に行かれたのです。この池の回りにはたくさんの病む人が集まっていました。町中が祭を祝って喜びに満ちているときにも、この病人たちは祭に出席することも祝うこともできず、病み疲れて横たわっていたんです。なぜなら、この池の底からは地下水が間欠泉のように湧き出ていたようで、時々水が動いたんですね。人々はそれを主の使いが水を掻きまわしているからだと考え、いつしか、水が動いた時最初に入った者は癒される、という言い伝えが生まれていたんです。ですから多くの病人がこの池のそばに集まって、水が動くのをじっと待っていた訳です。

 そこに38年もの間、病気にかかっている人がいました。このベテスダの池にイエス様は来られ、この38年も伏せっている人にこう質問されたんです。「よくなりたいか?」 しかしこの病人は即座に「はい、良くなりたいです。」と答えませんでした。彼はこう言ったんです。「池の中に私を入れてくれる人がいません。いつも他の人が先に入ってしまうんです。」と。つまり、今まで何をやっても無駄で、いつも期待しては裏切られることの連続だったんでしょうねえ、最後のよりどころであったこのベテスダの池にやって来ても、彼には一番最初に池に飛び込む力も助けてくれる人もいませんでした。ですから病が癒されることなどありえない、無理だ、と投げやりになっていたのだと思います。彼の思いは、良くなりたいと願っても無駄ですよ、自分ではどうすることもできないし、助けてくれる人もいない。もう諦めるしかないんです、と言わんばかりの態度でした。でもこの人の置かれた状況を考えたら何だか分るような気がしますよね。絶望の中で生きることすら諦めかけているかのようなこの人に、イエス・キリストは「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われたんです。彼はイエス様のことばに驚きました。でもイエス様のことばにすべてをかけて自らの足に力を入れたんです。すると何と、彼は立ち上がることができるようになったんですねえ。

 実はこのことは、私たちがイエス様のことをただ聞くだけではなく、そのことばに従い、一歩踏み出すという信仰の姿を教えてくれるものになったんですねえ。

     (PBA制作「世の光」2019.3.8放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

■十戒 -自由への励まし99 / 大嶋重徳

2019年04月11日 | Weblog
2019/3/7放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第八戒には、「盗んではならない。」(出エジプト記20章15節、申命記5章19節)とあります。では第八戒が語る「盗んではならない。」という戒めは、どのような自由への道しるべを指し示しているのでしょうか。

 聖書では「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。 」(エペソ人への手紙4章28節) (新改訳聖書 第三版)と語っています。
 
 十戒「盗んではならない」という勧めに立って盗まない・盗まれない社会になるために聖書は、自分の手を持って正しい仕事をしなさい、と語ります。盗むことの対義語は盗まないことではなく、自分の手で正しい仕事をすることなのです。

 自由に生きる権利を盗まれている人々の中で私たちはしばしばこう考えます。大切だということはよく分るけど、きっと自分以外の誰かがやってくれるだろうと。しかし盗まない社会形成のために大切な事は、あなたが自分の手であなたのできる正しい仕事をしなさいと語るのです。つまり誰かものすごくお金のある人がするのではなく、時間の余裕のある人がするのではなく、自分の手でつまり私たちの持っている時間・体力・考える力・祈る時間・捧げる献金を分け合うことなのです。十戒第八戒「盗んではならない」社会の実現のために一番の問題は、それほど大切ならば自分じゃない誰かがするよという姿勢なのです。盗まない社会を阻むのは無関心でいる私たちの姿なのではないかと思います。もし私たちが何が大変なトラブルに巻き込まれて、あるいは家族の中にとても痛みのある出来事があるときに、誰も助けてくれず誰も自分に関心を払ってくれないとしたらどれだけ悲しい思いをするでしょうか。ある人が言いました。愛の反対は憎しみではない、無無関心だ、と。

 神様は今日も神の手をもって正しいことをなそうとしておられます。そしてその神の手はあなたの手を用いて神のわざをなされることがあるのです。あるいはあなたが誰かから助けられた優しい経験、不思議な経験もまた、神の伸ばされた手のわざによるものです。

 今日私たちは十戒第八戒の戒めに従って、誰かが困っている姿に手を差し伸べてみたいと思います。あるいはその手を組んで自由を盗まれている誰かのために祈りたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2019.3.7放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



■主が彼とともにおられた / 福井 誠

2019年04月10日 | Weblog
2019/3/6放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むごとに不思議にも自然と養われていくものがあるものです。では今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はサムエル記第一18章14節から「主が彼とともにおられた」と題してメッセージをお伝えいたしましょう。

 主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。

 サムエル記に入り、しばらくイスラエルの英雄となったダビデの物語を見ていきます。ダビデはイスラエルの強敵ペリシテの兵士ゴリアテと一騎打ちをし、これを倒して一躍有名人となり、サウル王の家来として召し抱えられることになりました。しかしこれがダビデの波乱万丈の人生の始まりでした。ダビデはみなに注目され、もてはやされる人になりましたが、実際には召し抱えたサウル王の嫉妬を買い、試練の人生へと迷い込んで行くのです。イスラエルの王サウルはダビデの登場により自分から人気が失われたことを意識するようになり、ダビデに嫉妬心を燃やします。それは殺意を抱くことに深いものでした。

 人に妬まれ、殺意まで抱かれているなどとても耐え難いことですね。どんな花道を与えられたとしても、そんな敵意に曝された人生などまっぴらごめんだなと私は思います。実際サウルはダビデにいきなり槍を投げつけて壁に突き刺してやろうとするほどに敵意をむき出しにするのです。そしてサウルはいつもダビデが失脚することばかり考えて行動しました。

 けれどもサウルの行動はいつも逆の効果をもたらしました。ダビデはそのたびに人々の愛と尊敬を受けるようになるのです。不思議なものですねえ。聖書は、それは主が共におられたからである、と語ります。神様がダビデをサウルの敵意から守られたのです。

 さてダビデはいいなあ、自分はむしろサウルだなあ、と思われますか? 確かに私たちも嫉妬心に囚われて振り回されてしまうことが多いものですね。しかし、大切なのはそのような不憫な自分の現実を素直に認めて、神の恵みを求めることでしょう。神にえこひいきはありません。素直に助けを求める者には豊かに恵みを注いでくださるお方です。神は良き方です。今日も主に信頼しましょう。では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.3.6放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

■教会荒らし / 板倉邦雄

2019年04月09日 | Weblog
2019/3/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「教会荒らし」と題してお話ししましょう。

 現代では車上荒らしということばを耳にします。キリストの教会荒らしと言えばサウルの名前があげられるでしょう。使徒の働き8章に入ります。

 さてサウロはステパノを殺すことに賛成の票を投じました。サウロは若くしてユダヤ最高議会の議員でした(※使徒26章10節からの推察)。しかもパリサイ派という分離主義者の熱心な信徒でもありました。モーセの律法を忠実に守ろうとしていました。神は唯一であると固く信奉していたのです。ところが最近エルサレムに登場したナザレのイエス派はとんでもないことを主張していました。特にステパノという信者は最高議会の議場で、イエスが神の右に立っておいでになるのが見えるなどとほざいたのです。ナザレ出身の大工のせがれが神の子であり神などとは唯一の神に対する冒涜であり、不敬罪に当たりました。若き熱血漢サウロはステパノ処刑の責任を買って出たのです(※推察)。

 ところがステパノを処刑する処刑の現場でサウルは耳をふさぎたくなるようなステパノの祈りを耳にします。「主イエス様。どうぞこの罪を彼らに負わせないでください。」(参照 使徒7章60節) この「彼ら」の中にサウロも入っていたからです。なぜステパノは赦す祈りをすることができるのだ? その事がますますごサウルの心に憎しみと悔しさを増幅させていったのです。

 その日エルサレムにある教会に対して大迫害が起こりました。その指導者は言うまでもなくサウロです。サウロは部下たちを連れて家々に押し入り、男や女を引きずり出し、縄にかけて次々に牢獄に引き渡し、死に至らせました(参照 使徒8章1-3節、使徒22章4節)。そして改宗を迫ったのです。信徒たちの集まる会堂・集会場を荒らしまわり、集会ができないようにしてしまいました。

 後日、サウルは回心してキリスト教の伝道者になります。教会荒らしをしていた頃を振り返りながらこう語りました。「私はキリスト信徒たちを罰し、無理やりに神を汚すことばを言わせ、彼らに対してひどく荒れ狂って苦しめました。」(参照 使徒26章11節) サウルの回心のきっかけは、実はステパノの祈りだったのですね。
 
  (PBA制作「世の光」2019.3.5放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***