♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して67年の
「世の光」を文字で 

■人生を振り返って 2 -なぜ宣教師に? / 安海靖郎

2019年10月19日 | Weblog
2019/9/14放送

 世の光の時間です。安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は、私がどうして宣教師になり、インドネシアのボルネオ島に10年間奉仕するようになったかをお話しいたします。

 今から45年前のボルネオ島の奥地ですから、日本人も日本の食べ物も何もない未開地でした。。マラリヤやいろいろな熱帯病にもよくかかりました。でも楽しいこともありました。三人の子どもたちは二匹のオランウータンと一緒に育ちました。よく聞かれました。なぜ宣教師になったのか、どうしてボルネオ島の奥地だったのか。それは、日本で牧師になり忙しくしておりましたが、ボルネオ島カリマンタンの奥地のことを聞きました。村々がキリスト教になっていること。牧師が足らないのでめったに聖書のお話が聞けないこと。殆どの人は字の読めない人たちであること。だから日本からも宣教師を送って欲しいというのです。牧師の村々を巡り聖書を教え、一緒に質素な学校を作り、定着農業のための訓練所や牧師の養成所・神学校を建てました。それまで高床式のログハウスに住み、迷信と祈祷師が医療というような生活でした。それが変化してきました。小さな教会と手作りの学校を中心に、新しい一戸建ての家が並び、健康的な生活、教会を中心としたコミュニティーとなりました。聖書にあるイエス・キリストのことばの通りになったということができると思います。

 新約聖書 使徒の働き26章18節のことばです。
 「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」
  とあります。

 聖書のことばで心の目が開くように創造主なる神がはっきり分り、闇のように人の心を暗くする心の罪が赦され、キリストと共に生きる永遠のいのちを持って生きること、それはジャングルの奥地に住む人も、都会に生ける人にも、そしてあなたにも大変意義深いことではないでしょうか。

 (PBA制作「世の光」 2019.9.14放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■イエス様の栄光 / 関根弘興

2019年10月18日 | Weblog
2019/9/13放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様はすべての人を救いに導く救い主として来てくださいました。そしてついにイエス様は「わたしが栄光を受ける時が来ました。」(参照ヨハネの福音書12章23節 )と弟子たちに語られたのです。
 
 弟子たちは自分たちの国をローマの圧制から解放する救い主を求めていました。ですから遂にイエス様が大きなことを行う時が来た、と考えたのでしょう。
 しかしイエス様が言われた「栄光」とは、弟子が考えていた栄光とは全く違っていました。イエス様が「栄光を受ける時」とは何と壮絶な苦しみを受ける十字架によってもたらされる栄光だというのです。それは罪のないイエス様が人々の罪をすべて背負って、罪の罰を十字架の上でお受けになるということでした。

 罪のない神の独り子なるイエス様が人々の罪を背負うということ、これはどうして栄光なのでしょう。それは栄光ではなく屈辱ではありませんか。ですからそんな不条理はありません。イエス様もこうおっしゃっています。
 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」(ヨハネの福音書12章27節 )と。
 ま、これは十字架の苦しみを前にしたイエス様の苦悩のことばでもあるんですね。イエス様は十字架の苦しみを前にして、できればその苦しみを受けずに済むようにしてください、と祈らずにはいられませんでした。罪なき方が人々の罪を背負うわけですから、そこには私たちの想像をはるかに超える苦悩があったのです。

 しかしイエス様は続けて、「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」と言われ、十字架の道をまっすぐに進んで行かれました。イエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書 12章24節) とお語りになりました。これは単なる一般論ではありません。イエス様ご自身が一粒の麦となり、ご自分のいのちを懸けて救いのみわざを成し遂げることによって私たち一人ひとりに豊かな実を結ばせくださるという壮絶な約束のことばなのです。

 イエス様の栄光は、自分のいのちを捨てることによって成し遂げられる永遠の救いを完成する、という事でした。それほどまでに一人ひとりはイエス・キリストによって愛されているということなんですね。
     (PBA制作「世の光」2019.9.13放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

■十戒 -自由への励まし 122 欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年10月17日 | Weblog
2019/9/12放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒第10の戒めは「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。

 しかし確認しておくべきことは、私たちの持つ欲望は神様が造られた大切なものです。睡眠欲も食欲も性欲もまた必要なものです。しかし問題は、私たちがふさわしいものを求めることができなくなっていることに自覚できていないことなのです。

 新約聖書には、イエス様に自分の財産の調停を求める一人の人が出てきます。ここでイエス様はその人だけではなく、そこにいる全ての人に顔を向けて、「どんな貪欲にも注意してよく警戒しなさい。」と語られました。イエス様は、注意し警戒すべき問題は財産それ自体にあるのではなく、人間の心の中にある貪欲こそが問題の根幹にあることを見抜いておられたのです。

 ここで「注意し警戒しなさい」と言われたのは、私たちが注意し警戒するべきことだと自覚していないと、自分が貪欲に陥っている事が分からなくなってしまうからです。なぜなら、人の貪欲さは人によってそれぞれその傾向が現れる場所が違うからです。自分はあんまり欲しいものが無いのよね、と思っていても、貪欲さがお金に現れる人ばかりではありません。人から受ける賞賛に現われる場合もあります。もっと誉めて欲しい、あるいは車や家などの所有への意欲が現れる人や、学歴に貪欲が現れることもあります。また人から羨ましがられるようなステータス、結婚相手がいることに貪欲が現れる人もいるでしょう。組織や人やコントロールすることのできる権力に貪欲が現れる人もいます。もっと人の上に立ちたいという思いです。あるいはもっと自分を愛して欲しいと願う感情が貪欲になることもあります。時には本当は欲しいと思っていなくとも誰かが持っているなら自分も持っていないと恥ずかしい、と欲しがる気持ちを抑えられない場合もあるでしょう。

 十戒の第10の戒めはあなたの心の深いところにあるあなた特有の貪欲のかたちに気が付くように促します。そしてそこに注意を払っていきなさい、そうでなければ気が付かない内にそこから私たちの罪は始まっていくのだ、と語りかけるのです。あなたの欲しがってしまうものは何ですか? その感情に神様がどのように今日向き合うように語りかけられているでしょうか。

    ( PBA制作「世の光」2019.9.12放送でのお話しより )

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■心に留められる / 福井 誠

2019年10月16日 | Weblog
2019/9/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがありますね。今日も聖書を開いてまいりましょう。ヨブ記7章17節から「心に留められる」と題してメッセージをお伝えします。

 「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。

 ヨブ記を読み始めています。ヨブは神に祝福された人ですが、ある日、何もかも失ってしまう実に不幸な状況に陥っていきますね。

 はじめヨブは神を信じる者らしく困難にあっても神も人も恨まず、毅然としてその苦しみを受け入れる実に立派な態度を取っていました。

 ところが彼の友人が彼の痛みを慰めるためにやってきてあれこれ語り合っていくうちに、ヨブの心の中のドロドロとした本音が次々と吐き出されていくのです。何ともその本音を聞いていると私にはまるで自分のことばのように思えて来るところがありますねえ。

 実は私ごとですが、30代の頃、アトピー性皮膚炎となって不自由な時を過ごしたことがあります。皮膚が炎症を起こし、皮がむけ薄くなって、夏場は目の周りの薄くなった皮膚に汗が染みて痛痒い。髪の毛も剥がれ落ちた皮膚で粉を吹いた状態になり、おまけに風邪をこじらせ長引き、まるで屍のように感じる重たい身体を引きずって、すべての時の動きから取り残されていく自分を感じる。そんな思いにさせられたことがありました。すべてに対して否定的な思いになっている自分がいましたね。望みもなくあっという間に一日が過ぎ去ってしまう。だから神に毒づいてそして諦めムードになってしまう。そんなことがあったのです。

 しかし今ヨブの格闘を思うとその時の大切さが分りますね。つまりヨブは諦めては居ませんね。彼は単純に神に毒づいているのでもなく、ましてもう神を信じないと人に毒づいていくのでもないのです。ヨブは神との論じ続け、ある意味で神にどこまでもしがみついているのですね。大切な点です。

 神にしがみついて祈り続ける者を神は拒まれることはありません。実際、神は後に丁寧にヨブに答えています。神は誠実なお方で期待を裏切ることのないお方です。神は私たちを心に留め、耳を傾けるお方です。神を信頼しましょう。

 では良き一週を祈ります。
 (PBA制作「世の光」2019.9.11放送でのお話より )

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■ペテロの救出 / 板倉邦雄

2019年10月15日 | Weblog
2019/9/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「ペテロの救出」という題でお話ししましょう。
 エルサレム教会ではペテロのために熱心な祈りが捧げられていました。ヘロデ・アグリッパ1世が教会の指導者ヤコブに続き今度はペテロを捕え、民衆の前で処刑しようとしていたからです。使徒の働き12章の続きです。

 さて、ヘロデ王が公開処刑をしようとしていた前日の夜のことでした。ペテロは鎖につながれ、二人のローマ兵士の間に置かれて眠っていました。処刑の前の晩、眠れるとはすごいなあと思います。番兵たちは戸口で牢獄を見張っていました。要するに、ペテロは自分では逃げられないし、外部からの救出は全く不可能な状況でした。

 所が、主なる神様の使いが突然、ペテロのそばに立ったのです。光が獄中を照らしました。兵士たちは逃げ出したか、その場で卒倒してしまったかのいずれかでしょう。神の御使いは「早く起き上がりなさい」と言うと、鎖がペテロの両手から外れて落ちました。ペテロには神の御使いの仕業が現実のこととは考えられませんでした。ただ幻を見ているように思われたのです。ペテロは神の御使いについて行き、第一、第二の番所を通り過ぎ、エルサレムの街に抜ける鉄の門の所まで来たのです。すると鉄の門がギーーッとひとりでに開いたので、門を出て一つの通路に進んだ途端に神の御使いはペテロを離れて去って行きました。

 その時ペテロは我に帰って言いました。「今初めて本当のことが分かった。主なる神様が御使いを遣わしてヘロデ王の手から、またユダヤ人たちの計画していたあらゆる災いから私を救い出してくださったのだ。」

 ペテロの救出劇はまことに不思議でドラマチックでした。その背後には教会の信徒たちの熱心な祈りがペテロのために主なる神に捧げられていたことを忘れてはなりません。

 聖書のことばです。
 「(神の)御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。
    ヘブル人への手紙 1章14節

  (PBA制作「世の光」2019.9.10放送でのお話より )

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■寄留者として歩む モーセ / 岩井基雄

2019年10月14日 | Weblog
2019/9/9放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二月曜日の今日はモーセの生涯について学んでみましょう。

 エジプトの王宮で育ち40歳となったモーセでしたが、神の民ユダヤ人(として)の自覚と使命の焦りからエジプト人を殺害してしまい、それが露呈するとミデヤンの荒野に逃れました。そこでモーセは、ある羊を飼う女性たちと出会い、彼女たちを助けたことがきっかけとなり、その中の人の一人の女性と結婚し、ミデヤンで40年を過ごすことになるのです。

 聖書はこう語っています。
  モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。
    旧約聖書 出エジプト記2章21節、22節

 モーセは自分も異国にいる寄留者だと自覚していました。それが息子の名前となるのですが、息子の名前を呼ぶたびに、彼は自分の立ち位置を自覚したことでしょう。このゲルショムという名前の語源的な意味はヘブル語のガーラーシュに由来するもので、「押し出された者」という意味があります。「引き出された者」という意味のモーセが、「押し出された者」という意味の名前も長男に付けることも意義深いことですよねえ。この名前の両方には神ご自身によって引き出され、また押し出されたという自覚、すなわちエジプトにあろうとミデヤンにあろうと、神の民としての自覚を持ち、寄留者また旅人として神と共に歩むとの意識をモーセが持っていたことを示しているのはないでしょうか。

 本来の帰るべき故郷として天を仰ぎ、神の約束を握り締めていたモーセは、人生を神と共に歩んだことでしょう。どんな中にあってもモーセは神の主権、神の御手を認めていたのです。

 私たちもまた神の愛に生かされ、地上のどのような苦難の中にあっても天の神様の約束を信じて歩ませていただきたいと願います。

 聖書のことば
 「これらの人たちはみな、信仰の人として・・・地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
   新約聖書ヘブル人の手紙 11章13節

 神と共に歩む人生は、目に見えるものに左右されず、真実と永遠の宝に心をとめて歩む人生なのです。あなたも神と共に人生を歩んでいきませんか?

(PBA制作「世の光」 2019.9.9放送でのお話より )
 
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■人生を振り返って 1-信仰のはじめ / 安海靖郎

2019年10月12日 | Weblog
2019/9/7放送

 世の光の時間です。おはようございます。安海靖郎(あつみ・やすお)です。随分久しぶりにこの番組でお話をさせていただきます。

 実は今週と来週で私にとって最後の担当となります。この9月で満77歳になり、これを区切りに引退させていただくからでございます。62年前に信仰を持つに至ったいきさつをお話ししてお別れとしたいと思います。

 私はキリスト教とは関係のないサラリーマンの家庭で、5人兄弟の末っ子として生まれました。中学2年生の時、友達に誘われて初めて聖書の話を聞きました。そこで聞いた一節が深く心に残ったのです。新約聖書ヘブル人の手紙9章27節のことばです。
 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」というのです。

 その頃、父方の祖母と母方の祖父が続いて亡くなり、死についていろいろと考えている時でした。人はみな死ぬ。死んだらどこへ行くのか。良い人も良くない人もみんな同じなのか。毎晩のように考えていました。答えはありませんでした。

 この聖書のことばを聞いて何か心の中で納得がいき、聖書は誰も教えてくれなかったことを言っている、と心を惹かれ、それから真剣に聖書の話を聞くようになりました。

 中学3年生の夏に、那須温泉でのバイブル・キャンプに行きました。そこで旧約聖書のモーセの十戒についての優しい説明を聞き、びっくりしました。

 その5番目の「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト記20:12 、申命記5:16、マルコの福音書7:10、 10:19、ルカの福音書18:20、エペソ人への手紙6:2 )と、祖父、祖母、目上の人をも敬うことだ、と言うのです。そうしていない自分を見透かされているように思いました。それをきっかけに初めて自分の心の中にある罪ということが分りました。

 そこからイエス・キリストが十字架にかかり、人の罪を赦し、きよくしてくださるっていうことに納得し感動しました。イエス様を信じた時の心の喜び感激は今も続いています。

 あなたもこのイエス・キリストを信じる信仰の喜び感動を体験してください。

 また来週はなぜ私がインドネシアに宣教師となってボルネオ島の奥地に10年間奉仕したか、そんなお話をさせていただきます。

 (PBA制作「世の光」 2019.9.7放送でのお話より )
 
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■一粒の麦 / 関根弘興

2019年10月11日 | Weblog
2019/9/6放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様はすべての人を照らすまことの光として来てくださいました。そして弟子たちと共に約三年間各地を回り、多くの人を癒し、人々を励まし続けて行かれました。そしてついにイエス様は弟子たちに、人の子が栄光を受ける時が来ました、と語られたんです。イエス様はご自分のことを「人の子」と言われることがよくありますが、これは旧約聖書のダニエル書という所からの引用した表現なんですね。

 ダニエルという預言者がある時、幻を見ました。荒々しい獣のような王たちの支配が続いた後に、柔和な人の子のような方が天の雲に乗って来られ、主権と光栄が与えられて、すべての民を支配するようになる。そしてその御国は永遠に滅びることがない。ま、そのような幻を見たんです。

 イエス・キリストはご自分こそがこのダニエルが預言した人の子なのだと言っておられるんですね。ですから、イエス様が「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われるのを聞いてダニエル書を良く知っているユダヤ人たちは、このイエス様こそダニエル書に書かれている「人の子のような方」、これから私たちの国を再建してくださる救い主だ!と思ったことでしょう。もちろん弟子たちも、いよいよイエス様が王様になって世界を支配する時が来た。さあ自分たちを支配しているローマを倒すぞ! そんな思いを持ったことでしょう。しかしイエス様は、「まことにまことにあなたがたに言います。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし死ぬなら豊かな実を結びます。」と語られたんです。

 イエス様が「わたしが栄光を受ける時が来た」と言われたのは、この世の戦いに勝利して世界の王様になるということを意味していませんでした。ご自分がすべての人の身代わりとなって十字架で命を捨てることによって多くの人々に豊かないのちを与えることができるようになる。それこそがイエス様の受ける栄光だと言われたのですね。

 つまり、イエス様の栄光は、自らが人々の罪を背負い、十字架で死なれ、復活されることによってもたらされる栄光でした。それは私たちに罪の赦しと永遠のいのちがもたらされる救いの道を開いてくださること。それこそイエス様の栄光だったんですね。

     (PBA制作「世の光」2019.9.6放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし121 欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年10月10日 | Weblog
2019/9/5放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒第10の戒めは「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。

 今、私たちの目の前には、私たちの生活に必要ですよ、と語る幾つものが提示されます。テレビではコマーシャルが流され、インターネットでは以前購入した物の傾向から、新しいこんな商品が出ましたよ、と自分の好みに合ったものがパソコンの画面に出てきます。

 十戒第10の戒め「欲しがってはならない」は、そんな私たちの現状に、あなたは本当は何が欲しいのですか?と問いかけてきます。あなたが本当に欲しがるべきものは他にあるのではないですか?とも問いかけて来るのです。そして私たちが普段人前に見せる事のない、自分の中にある欲望の正体と向き合いなさい、と語るのです。更に欲望の根底にある魂の渇きに気づかせてくれる戒めなのです。


 十戒第10の戒め「欲しがってはならない」はハーマドというヘブル語が使用されています。これは「むさぼる、貪欲」という意味があります。ただ単に「欲しい」という感情だけではなく、何かを手に入れるためには陰謀すら行う欲望を指すことばです。つまり内面の「欲しい」という感情によって沸き起こって来る「奪いたい」「自分のものにしたい」と考える強い感情を指すことばなのです。隣の家を奪いたい、隣の家の妻を手に入れたい、と画策する思いのことです。

 旧約聖書に出て来るダビデ王が自分の部下ウリヤの妻バテシェバを自分のものにしたいと思い、忠実な部下を戦死させるようにし向けた物語は陰謀を伴った欲望のすさまじい物語であると言えるでしょう。この欲望という人間の心は、まだ決定的な罪を犯していない、と私たちは考えるでしょう。しかしすべての犯罪はこの欲望を出発点にしています。私たちが人前でうまく隠れていると思いながら、私たちの深い罪の現実なのです。

 今日、あなたのコントロールしきれていないその感情を神様は御存知です。そしてその感情に気付いておられる神様が、あなたを更なる罪のぬかるみの中に陥らないように全力で守ろうとしておられるのです。むしろ十戒第10の戒めを通して、あなたが本当に求めるべきものはわたしなのだ、と神の愛が示されているのです。

    ( PBA制作「世の光」2019.9.5放送でのお話しより )

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■民の幸福を求める / 福井 誠

2019年10月09日 | Weblog
2019/9/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがありますね。今日も聖書を開いてまいりましょう。エステル記10章3節から「民の幸福を求める」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。

 今日はエステル記の最終章ですね。わずか3節。それはエステルの時代に起こったユダヤ人大虐殺の結末を描いています。ユダヤ人を憎み、ユダヤ人絶滅の法令を発布し実行するようにし向けたハマンは自ら滅び、ユダヤ人は自分たちを迫害する者たちを打ち倒す逆転の勝利をつかんでいくのです。図らずもこの困難の中でユダヤ人を牽引したモルデカイは、ペルシャの王クセルクセスの次の位に抜擢されていきます。

 しかしながら当時一体誰がこのような結末をはじめから予測し得たことでしょうか。誰も彼もが神の救いを求めつつも、巨大な国家権力の前に、自分たちも終わりだと考えたのではないでしょうか。

 エステル記の現代版であるアウシュヴィッツの惨事を逃れたコーリー・テン・ブームという人は、私たちが知っている神に知らない未来を託することを怖れてはならない、と語ったと言います。私たちに最善を為してくださる良き神に期待し続けることはとても大切なことです。神は闇から光へ、死からいのちへと導かれるお方だからです。

 しかしながら更に大切なのは、ただ神の憐れみによって九死に一生を得るだけではなく、神に与えられたいのちを生かすことでしょう。モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ることを使命としました。私たちにいのちが与えられているのは、我欲に満ちた自分自身のためにそれらを費やすためではありません。他者の幸福を求め、平和を語りもたらすためです。私たちのいのちも力も、そして能力も財力も、すべては他者の幸福と平和のために与えてくださっているもので、正しく用いていきたいものですね。

 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.9.4放送でのお話より )

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