♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して68年の
「世の光」を文字で 

■十戒 -自由への励まし124 欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年10月31日 | Weblog
2019/9/26放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒第10の戒めは「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。

 しかし欲求それ自体が罪ではありません。食欲も睡眠欲も性欲もまた人が生きていくために神様が創造された非常に良い欲求です。食欲・睡眠欲を私たちが失うことになれば、健康を失い、病気になってしまいます。私たち人間は、神様が造られたようにふさわしく欲求しないといけない存在なのです。しかし今、人間の欲望は罪とけがれの中に堕落してしまいました。人間の最初の間違った欲望は、エデンの園で受けた「神のようになれるよ」という誘惑に対して、「ああ自分は神のようになりたい」と求めたことから始まりました。人間の陰謀すら伴う欲しがる感情のもとにあるのは、「神のようになりたい」という感情です。つまり、神のように思いのままに振る舞いたい、世界を・人を思いのままに支配したい、という思いが次々と妄想を生み出し、策を練り、欲しい気持ちに没頭する生活を生み出していくのです。この誤った欲望こそ私たちの犯してしまう罪の出発点となってしまうのです。

 このようなはじめの失敗をしたからこそ、私たちは欲望の行き先を考える必要があります。私たちが幾ら自分の人生に多くの物を手に入れたとしても、私たちは死んだ後までその手に入れたものを持っていくことはできません。死は私たちの人生を冷静にしてくれます。これを手に入れたからといって何があるというか。このように終わりの日から人生を問うとき、私たちは人生を足し算ではなく引き算で考えるようになっていきます。私たちはあれがあれば幸せ、これがあれば幸せ、と足し算で人生を考えやすいものです。その足りない何かを求めるために、私たちは盗みをなし、人を殺し、嘘をついてしまうのです。しかし終りの日から人生を問い直すとき、あれがなくても幸せ、これがなくても幸せ、と人生を引き算で考えることとなるのです。その時に私たちがどうしてもあれがなければならないと思い込んでいたものが、実は最後的な観点からすると取るに足りないものを必死に求めていたのではないか、という冷静さが与えられるようになるのです。

 今日、あなたの人生で多くのものを失ったとしてもなお生きていける本当に必要なものをあなたは持っているでしょうか。神様こそ、あなたにそれを与えることのできるお方です。

    ( PBA制作「世の光」2019.9.26放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■どんな益があるというのか / 福井 誠

2019年10月30日 | Weblog
2019/9/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがありますね。今日も聖書を開いてまいりましょう。ヨブ記21章15節から「どんな益があるというのか」と題してメッセージをお伝えします。
 「全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。
    どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。



 ヨブと友人たちの議論もだんだん煮詰まってきていますねえ。そしてヨブは、まず自分の言うことよく聴くように頼んでいます。ヨブは杓子定規に物事を見たりせず、自分の信仰を認め、悪人呼ばわりすること止めるように語っています。身体が弱り、心が弱っている時には、あれこれ言われたくない、むしろ受け止めて理解して欲しい、というのが私たちの自然な気持ちでしょう。

 そこで、ヨブの言いたいことはこうでした。悪者の栄光は一時である、そんなことはわかっているのだ。けれども社会は様々な矛盾を含んでいて、要領の良い悪者が社会を支配し、貧しい者、力なき者が虐げられていく。神が彼らを罰することもなく、彼の財産は増え、子孫も栄えていく。そんな私たちの信仰が否定される状況がある中で、私たちは苦しむことがあるのではないか、と。

 確かにヨブが語る通りの面もありますね。しかしヨブは悪者と同じような考えに陥っていますね。悪者は、全能者は何なのか、なぜ私たちは彼に仕えなければならないのか、私たちが彼に祈ってどんな利益があるのか、と考えます。つまり悪者は損得で物事を考えて、得することがなければ神を信じる意味などない、と考えます。しかし神を信じていても苦しい時に神を信じる意味はないと、考えてしまったら、それは悪者と同じことでしょう。

 信仰者は、良い目見たさに神を信じているわけではありません。神を信じるのは、ただ私たちを愛しておられる神がおられる、という現実のゆえにです。腐ってしまいそうなことは五万とある世の中で、そのような事柄に振り回されない、神の存在をただ認めて喜んで行く信仰を大事にしたいものですね。

 では良き一週を祈ります。
 (PBA制作「世の光」2019.9.25放送でのお話より )

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■虫に噛まれた王様 / 板倉邦雄

2019年10月29日 | Weblog
2019/9/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「虫に噛まれた王様」という題でお話ししましょう。

 今日は小さな虫に噛まれて息が絶えたヘロデ・アグリッパ王様のことをお話ししましょう。使徒の働き12章の続きです。

 さてペテロの不思議な救出劇の夜が明けると、兵士たちの間で、ペテロは一体どうなったのだ、と大変な騒ぎが起こっていました。ヘロデ王は頭にきて、「ペテロを探せ。必ず探し出して今日中に連行しろ。」と命令を下しました。しかしペテロを探し出すことはできませんでした。ユダヤの民衆の人気を取るための公開処刑の計画はおじゃんになってしまったのです。番兵たちの不始末に、番兵たちを処刑するように命じたのです。人の命を虫けらのように扱う冷徹なヘロデ王でした。

 それからヘロデ王はローマ総督の管轄地区である地中海沿岸のカイサリアに行き、そこにしばらく滞在していました。ヘロデ王がカイサリアに滞在していると聞いたフェニキア地方のツロとシドンの指導者たちは一同うち揃って王様を表敬訪問したのです。

 さて、定められたヘロデ王との面会の日がやってきました。ヘロデ王は王服をまとい、王座に座り、大演説をしたのです。集まった人々は口々に、「これは神の声だ。人間の声ではない!。」と叫び続けました。その時です。ヘロデの足元に一匹の虫が忍び寄っていました。チクリとヘロデ王の足を刺しますと、王はばったりと倒れ、息が絶え死んでしまいました。ヘロデ・アグリッパ一世は使徒ヤコブを処刑し、番兵をしていた兵士たちを虫けらのように殺害してしまいました。そして今度は、ヘロデ王が一匹の虫に噛まれ、息が絶え死んでしまったのです。

 人は生きたように死んで行くということですねえ。虫けらのように人を踏みつけた人は一匹の虫によって踏みつけられ、刺され、そして滅して行くのです。

 聖書のことばです。

 「心の高ぶりはすべて【主】に忌み嫌われる。断じて罰を免れない。
           箴言16章5節
               ヨハネの福音書20章29節

  (PBA制作「世の光」2019.9.24放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■ユダヤ人への愛のビザ発給 杉原千畝① / 岩井基雄

2019年10月28日 | Weblog
2019/9/23放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第四月曜日の今日は、ユダヤ人たちに懸命にビザを発給した杉原千畝(ちうね)について学んでみましょう。千畝は明治33年、1900年、岐阜県に生まれ、大学在学中に外務省募集の留学生試験を受けて合格します。そしてハルビン学院に留学し、ロシア語も習得。その学院でロシア語を教えるまでになります。当時の国際都市ハルビンで千畝はロシア人女性クラウディアと出会い、結婚し、彼女を通して聖書が語る神様と出会うのです。そしてキリストへの信仰を告白し、洗礼を受けクリスチャンになり、英語、ドイツ語、フランス語、特にロシア語に強い千畝は外交官の道を歩みます。優秀ゆえか千畝には日本軍部から、スパイになれ、との要請が幾度も来ました。しかしクリスチャンである彼は拒否し続けます。何度脅されても千畝は拒絶しました。すると次「杉原はロシアのスパイだ」とのデマを流され、遂に千畝は外務省もやめ、クラウディアとも離婚に追い込まれ、失意のうちに帰国します。しかし神さまの不思議な導きでクリスチャンである幸子さんと再婚し、外務省にも復帰します。モスクワ大使館で働きたいとの千畝の希望は通りませんでした。今度はソビエトがあまりに優秀な外交官杉原を拒否したのです。日本軍部、ソビエト政府どちらからも拒否される辛い時期を二人は通ります。やがてフィンランドでの勤務を経て昭和14年リトアニア共和国に赴任しました。ところが赴任してすぐ、リトアニアがソビエトに吸収合併され、領事館をたたんでリトアニアを出なければならなくなりました。しかしその期間こそ千畝が6000人のユダヤ人を救うことになるのです。神様への信仰を貫いた千畝と幸子は誠実さゆえに幾度も辛酸を舐めますが、その中で神様は二人を豊かに用いてくださったのです。
 
 聖書のことば
   「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
              新約聖書ローマ人への手紙8章28節

 神様は全てをご存知で、全てを働かせて恵みを与えてくださいます。
 
 (PBA制作「世の光」 2019.9.23放送でのお話より )
 
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■賛美歌ものがたり『いつくしみ深き』 / アナウンサー 飛田紀代美

2019年10月26日 | Weblog
2019/9/21放送

 世の光の時間です。飛田紀代美です。土曜日はスペシャルバージョン。今日は賛美歌の生まれた背景をご紹介する賛美歌物語をお送りします。今日ご紹介する賛美歌は『いつくしみ深き』。キリスト教式の結婚式や葬儀で最もよく歌われる賛美歌と言ってもいいかもしれません。

 この賛美歌が日本に入ってきたのは明治時代のことでした。当時の西洋音楽の教科書には賛美歌のメロディーに日本語の歌詞をつけた歌が何曲も掲載されましたが、『いつくしみ深き』は明治43年発行の中学唱歌に「星の夜」という歌詞で掲載されました。その後、歌詞が口語体に直され、今は「星の世界」という題で小学6年生の教科書に載っています。

 この賛美歌の作詞者は1819年アイルランド生まれのジョセフ・スクライブン。大学を卒業して婚約しますが、結婚式の前日に婚約車がボートから落ちて亡くなったのです。失意の中、彼はカナダに渡って教師となり、貧しい人々を助けながら働きました。41歳である女性と婚約しますが、なんとその女性も結婚を前にして結核で亡くなってしまったのです。ジョセフの母は2度の悲劇に見舞われた息子のために心を痛めていました。その母親を慰めようと、彼は手紙に添えて一遍の詩を送りました。「お母さん、私は大丈夫です。このようにイエスさまに打ち明けて助けを頂いていますから。」 それがこの「いつくしみ深き」という賛美歌になりました。

 それではお送りしましょう。胡美芳さんで「いつくしみ深き」

   いつくしみ深き 友なるイエスは 罪、咎、憂いを 取り去りたもう
   心の嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ 負える重荷を

 新約聖書 マタイの福音書11章28節
   「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
      わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 (PBA制作「世の光」 2019.9.21放送でのお話より )
 
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■自分のいのちを愛するもの / 関根弘興

2019年10月25日 | Weblog
2019/9/20放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様は私たちが生きていく上で大切なたくさんの教えをお語りになりました。今日はその一つを紹介しましょう。

 ヨハネの福音書12章25節
  「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

 これはどういう意味なんでしょう。どうもこのことばを間違って受け取る人も多いんですね。それはここで使われている「愛する」と「憎む」ということばが私たちが日常で使う意味とは違う使い方がされているからなんです。ですからこの「愛する」と「憎む」ということばの使い方をまず知る必要があるんですね。

 例えばここに二つのものがあって、どちらか一つを私が選んだとします。すると、「選ばれた方は愛された。選ばれなかった方は憎まれた。」という言い方をするんです。

 私はウクレレが大好きなんですね。とても良いウクレレがここに2本あって、私はどちらも好きなんですが、どちらか一つを選んだ場合、私は選んだ方を愛し、選ばれなかったその方を憎んだ、ということになるわけです。

 それでは「自分の命を愛する」とはどのようなことを意味してるのでしょう。聖書の中では「自分を愛する」とか「自分のいのちを愛する」という言葉は二つの違う意味で使われているんです。

 一つはですねえ、自分が神様に愛され、神様に造られた尊い存在であるということを自覚して、自分のありのままを受け入れ大切にする、という意味です。そういう意味では私たちは自分の命を愛する者になるべきなんですねえ。

 しかしイエス様が言われたここでの意味は、もう一つの別の意味が実はあるんです。イエス様が言われた「自分を愛する」っていうのは、それは自分をいつも最優先にして生きるということ、何とかして自分を生かそう、人よりは自分が生きよう生きようとする生き方です。どうすれば自分が立派になれるか、どうすれば人に認められるか、どうすれば成功するか、どうすれば自分の利益になるのか。つまりいつも自分のことだけを考えてしまう、そんな生き方を指しているんですね。イエス様は、そのような生き方はかえって自分のいのちを失う結果になるのだ、とここで教えられたのです。

     (PBA制作「世の光」2019.9.20放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし123 欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年10月24日 | Weblog
2019/9/19放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものでなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒の第10の戒めは「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。

 新約聖書の中でイエス・キリストが次のたとえを話されました。
 
 「ある金持ちの畑が豊作であった。
  そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
  そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
  そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
  しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
  自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。

                 (ルカの福音書12章16-21節 新改訳第三版)

 この箇所は非常に文学的な表現を持っている箇所で、「私」ということばが繰り返し出てきます。また、「安心して食べて飲んで楽しめ」には接続詞が全くなく、自分の人生に酔っているような、畳み掛けるような表現がされています。貪欲とは「私の」財産、「私の」蔵、「私」をめぐる生き方です。しかし「私の」人生だ、「私の」財産だと、全て私を中心に考え、自分の人生を握りしめ、さあ食べて飲んで楽しもうとしている人生も、「愚か者よ。今夜お前の魂は取り去られる」と神が語られると私たちが欲しがってきたものを全て失ってしまう、というのは人生の厳粛な事実です。このイエスろキリストのたとえ話は、人生の最後の日を強く意識させられます。あなたがいろんな妄想をし、戦略を練り、手に入れようと画策して欲しがったものは、果たしてあなたが死んでもなお永遠に残るものなのか?と問いかけてくるのです。

 十戒第十の戒めは人生を終わりから見つめるようにしてくれます。それはあなたの人生に本当に欲しがるべきものなのですか? あなたの人生でそれを得るためにそれほど時間をかけるべきものなのですか? 私たちは人生の終わり、すなわち死を考えるときに、私たちの自分の力で手に入れたと誇ってきたものより、神様が与えてきてくださったものの方が豊かであることに気がつくでしょう。そして手に入れたと思ったものでさえ神様の与えてくださったものであったと気がつくのです。

    ( PBA制作「世の光」2019.9.19放送でのお話しより )

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■どこにいるのか / 福井 誠

2019年10月23日 | Weblog
2019/9/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがありますね。今日も聖書を開いてまいりましょう。ヨブ記14章10節から「どこにいるのか」と題してメッセージをお伝えします。
 「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。

 ヨブ記は非常によく構成が整った内容になっています。まずヨブが自分の信条を語り、三人の友人たちがそれぞれ、ヨブのことばに対して自分の考えを述べていく。そしてまたヨブが語り、三人の友人が語る。繰り返しの構造がありますねえ。その繰り返しを読んでいくのは結構忍耐を要しますが、そこに人間の人生を深く考えさせられる内容がありますねえ。

 ヨブは言いました。 「木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出しその若枝は絶えることがない。」(ヨブ記14章7節) 「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。」(ヨブ記14章10節)
  死んでしまったら全てが終わる。人間の人生の一つの現実が指摘されているようです。

 またヨブは言います。「あなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。・・・ ただ彼は自分の肉の痛みを覚えその魂は自分のために嘆くだけです。」(参照14章19節、22節 )

 確かに「神は愛だ。憐れみ深いお方だ。」と聞かされていても、いやそうでもない。神の愛と祝福を受けるには程遠い人間もいるのじゃないか、と思わされる現実があるものですね。神は正しい者を正しいとし、正しくない者を正しくないとする。そして所詮正しくないのが人間なのだから、正しくない人間同士で喰い合って生きていくほかはない。それが人間社会の現実だ。何とも望みのない悲しい気持ちになることもあるものですね。確かに正しい神と罪ある私たちという対比だけで物事を考えていたら、そこに救いはないでしょう。

 しかし聖書は私たち罪人の弱さをご存知で、私たちの側に立ち、神に執り成すキリストの存在があることを語っています。たとえ神があなたの罪を一つ一つ数え上げ、あなたの人生は神の罰で償う他はないのだと宣告されたとしても、その間に立って執り成してくださる救い主がおられることを明らかにしています。

 大切なのはその救い主キリストを信じることでしょう。そこに人生の希望があるのです。

 では良き一週を祈ります。
 (PBA制作「世の光」2019.9.18放送でのお話より )

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■信じられない信徒 / 板倉邦雄

2019年10月22日 | Weblog
2019/9/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「信じられない信徒」という題でお話ししましょう。

 今日は信じられない信徒たちの話をしなければなりません。ことばを変えれば、私たち人間は見ないで信じることは難しい、ということでしょう。使徒の働き12章の続きです。

 さて、不思議な救出劇を経験したペテロは、夜中、信者であるマルコの母の家へ向かいました。その家には大勢の信徒たちが夜中なのに集まってペテロ先生のために祈っていました。ペテロ先生が助けられるように、ペテロ先生の命が守られるように、と熱心に祈っていたのです。ペテはマルコの家に着くと門を叩きました。門を叩く音がしたのでロデという女中が取りつぎに出たのです。
  「どちら様ですか?」
  「ペテロですよ。」

 ペテロ先生の声です。喜びのあまり門を開けるのを忘れて、みんなのいる家の部屋へ駆け込みました。
  「大変です。ペテロ先生が門の前に立っています。」

 すると人々は、「あんた気がおかしいんじゃないのか。」と皆が答え、誰も信じませんでした。「いいえ、確かにペテロ先生の声でした。間違いありません。」と言い張りました。

 すると人々は、「それは別の先生ではなくペテロ先生の御使いでしょう。」と誰も信じてくれません。

 ところが門を叩く音が家の中まで聞こえてくるので、こんな夜中に誰だ、ということになって門を開けると、なんとそこにペテロ先生が立っているではありませんか。人々は驚いて腰を抜かすほどでした。

 エルサレム教会の信徒たちはペテロ先生が助かるように熱心に祈っていましたね。しかしヤコブ先生の時も熱心に祈りましたがヘロデ王によって処刑されてしまいました。今度も駄目だろうなぁ、という思いをかき消すように、主なる神様の助けを熱心に最後の最後まで祈ったのです。祈りは聞かれました。しかしペテロを見るまでは信じられなかったのです。

 イエス様の復活を最後まで信じないで疑り深い弟子のトマスに対するイエス様のことばです。 
 聖書のことばです。
 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。
              ヨハネの福音書20章29節

  (PBA制作「世の光」2019.9.17放送でのお話より )

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■キリストの栄光の希望と愛 / 岩井基雄

2019年10月21日 | Weblog
2019/9/16放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三月曜日の今日は、キリストの栄光と希望についてご一緒に考えてみましょう。

  キリストは弟子たちに、ご自分が受ける苦難や死また復活を次々に予告なさった後、とまどう弟子たちの内三人を連れて山に登り、ご自分の栄光の姿をお見せになりました。聖書はこう語っています。
   「イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。
     新約聖書 マルコの福音書9章2節から4節

 その光景は弟子たちにとって素晴らしいものでした。ペテロはその記念として幕屋(※テントの家)を三つ造ろうと提案するのです。それはペテロの内側の混乱や恐れを露呈したものでした。しかし彼らにとって旧約の預言者エリヤや出金エジプトを導いたモーセが現れて栄光に輝くキリスト共に語る姿を目の当たりにできることは大きな祝福でした。死を越えるいのちの希望がそこに明らかにされていたからです。しかも彼らはその直後に父なる神の御声を聞いたのです。

 聖書はこう語ります。
 「そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。
  『これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。』
  彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。

          マルコの福音書9章7節、8節
  
 弟子たちにとって、この父なる神のことばは、先の出来事以上に大きな恵みだったことでしょう。キリストは父なる神の愛する御子であることを知り、そしてそのキリストのことばに従うことの恵みをも聞いたからです。キリストが父なる神の愛のことばを聞くのはこれが2度目でした。最初は荒野での誘惑を受ける前に。そして今回も十字架の受難を前にした時でした。苦難を通る前に父なる神はご自分の愛と恵みを明らかにしてくださいます。

 この愛と恵み、そして栄光の希望はキリストを通してあなたにも用意されているのです。あなたも神に愛されているからです。このキリストにある希望と愛に生かされてあなたも歩みませんか?
 
 (PBA制作「世の光」 2019.9.16放送でのお話より )
 
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