♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■強がりと勇気 / 関根弘興

2017年06月30日 | Weblog
2017/6/30放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを最初に紹介いたしましょう。新約聖書 第二コリント12章9節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
  ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


 パウロという人が記したことばです。

 私が高校生の時ですけど、カンフー映画が流行りました。ブルース・リーという人の映画を私はよく見に行ったんです。朝から夕方まで映画館に入り浸って何度も繰り返して見る訳ですねえ。するといつの間にか、自分がまるで映画の主人公になったかのような気分になって来るんです。中身は全く変わっていないのに、ただ映画を見続けたら自分がまるで強くなったかのような気がして来るから不思議ですよねえ。ま、勘違いというものです。でも、人は同じような勘違いをときどきするんです。

 例えばほんの少し力を持つと、また成功をおさめると、自分がまるで別人になったかのように錯覚するんです。時には急に威張り出したり、高慢になったりすることもあります。でも、私たち人間はほんの少しの間も息を止めることさえできない弱い存在ですね。明日のことさえ分からないんです。まして、命の終わり、死というものの前ではなす術を知りません。「いや俺は大丈夫」と豪語しても、「俺は誰の世話にもならない」と言っても、結局人は弱くもろい存在なんですねえ。

 だから強がりではなくて永遠の励ましと支えがどうしても必要なんです。本当の勇気というものは自分をいかに強く見せるかという振る舞いにあるのではありません。自分の本当の姿、弱さを持ち明日のことすらも分からない存在なのだということを素直に認めることから実は始まるんです。

 パウロという人は「私は誇ることがあるとするなら弱さを誇ろう」( 2コリント 12章9節参照)と言いました。しかし大胆に「私はどんなことがあっても勇気を失いません」( 2コリント 4章16節参照)とも語った人物でした。なぜでしょう。それはイエス・キリストこそが自分の弱さを覆ってくださる方であることを知っていたからです。

 大変有名な讃美歌の中に「主、我を愛す」という讃美歌があります(讃美歌461番、新聖歌505番、讃美歌21-484番)。「主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」とあるんですね。私たちの勇気はキリストの恵みと愛によって覆われていることから来るんですね。

 (PBA制作「世の光」2017.6.23放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし- 17 / 大嶋重徳

2017年06月29日 | Weblog
2017/6/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第二戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記 20章4節)とあります。

ある教派において、「偶像を造ってはならない」は第一戒に組み込まれ、第二戒は「神の御名をみだりに唱えてはならない」となっています。その後、順次ずれて行きます。しかしその他の教派では偶像礼拝の禁止を独立して第二戒と数えました。

 第一戒と第二戒が一つになる問題点は、偶像礼拝の危険を自覚し、偶像礼拝とは何かという問いを徹底して考える機会を弱めてしまうことです。この区分の違いは一見ほんのわずかな違いのように見えます。しかし、歴史の中で聖画や聖像が作られ、礼拝の手段、礼拝の対象になっていきました。また20世紀のドイツにおいては、ナチス・ドイツにおいて神格化されたヒトラーの偶像性を見抜きそのナチスと戦うことができたのは第二戒を大切にしてきた教会でした。ほんの小さな違いと思えることであっても、時代を経ると大きな違いをもたらすということがあるのです。ほんの些細なことをどうして目くじら立てるのかと思えることに、実は信仰の戦いをしている場合があることをキリスト者は注意して見ておかなければなりません。もしそこを譲ってしまうならば後世に残る歴史的な敗北に繋がるということは決して少なくないのです。

 最後に、第二戒は一つの約束を私たちにもたらします。それはこの戒めを守るものには千代に及ぶ恵みがあるということです。第二戒の戦いは子孫の事を考える事を促します。私たちに委ねられた子どもたち・孫たちの世代も安心して信仰の告白をすることのできる社会となるように彼らの世代を守る戦いとなるのです。次世代が神を神とする信仰告白をすることで命の危険に曝されることが無いように、私たちの世代は千代の恵みを受け取る戦いをなしておきたいのです。そしてやがての日、「おじいちゃんはな、あの時代にきちんと戦ったんだぞ。」と言えるように第二戒の戦いを戦い抜きたいと思います。これは千代に渡って自由に生きるための戦いなのです。

 来月からは第三戒に移っていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2017.6.29放送でのお話しより )

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■私が復讐する / 福井 誠

2017年06月28日 | Weblog
2017/6/28放送

 いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「私が復讐する」です。 それではエゼキエル書25章14節を読んでみましょう。
 「わたしは、わたしの民イスラエルの手によってエドムに復讐する。わたしの怒りと憤りのままに彼らがエドムに事を行なうとき、エドムは、わたしが復讐するということを知る。

 これまでエゼキエル書はエルサレムを中心とする神のメッセージを直接的にまた比喩的に取上げてきました。それはエルサレムの滅亡を告げるものとなっていますね。

 今日の25章から32章まではエルサレムを囲む周辺諸国に対する預言となっています。アモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ツロ、シドンといった周辺諸国に対して語りかけているのです。確かに神はイスラエルだけの神ではなく、全世界を支配しておられる神ですね。イスラエルだけを愛しているのではなくて、全人類を愛しておられる神です。神の目も心も世界の国々に及び、神は口を開かれるのです。

 そしてこの箇所には実は周辺諸国がイスラエルを神の選びの民とは認めず軽蔑していた背景がありますね。そしてバビロン帝国がエルサレムを包囲した時に、彼らはイスラエルを助けようとせず、むしろバビロン帝国の攻撃を助け、更にはどさくさに紛れてエルサレムを略奪した背景があります。正しい神はそのような周辺諸国の横暴を決して許されない、と語っているのがこの箇所ですね。

 実に人間というのは攻められている時には八方塞がり、もう叩かれっ放しでどうにもならないということがあるものです。これは横暴だ、不正だ!、と訴えても、それは取上げられない。復讐心を燃やして復讐したくてもできない。まさに力ずくでねじ伏せられることがあるものですね。

 しかし神はそのような横暴を決して許されません。神は真実で正しいお方です。神は度を過ぎたことを許されないし、度を過ぎたことがなされればそれを取り戻してくださるお方だというのです。不条理な思いに置かれたり、不正の中にねじ伏せられているように感じる時は、そこで腐り切ったりせずに、復讐するは我にあり、と語る神の解決に期待したいものですね。神は真実なお方だ、と信頼して歩ませていただきたいものです。

(PBA制作「世の光」2017.6.28放送でのお話より )

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■戦争に出ることのできる者 / 板倉邦雄

2017年06月27日 | Weblog
2017/6/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「戦争に出ることのできる者」という題でお話ししましょう。
 戦争に出ることのできる者は聖書では20歳以上と定められています。

 モーセに導かれて荒野の40年の旅をしてきたイスラエルの人々は今、ヨルダン川の東、モアブの平野に宿営のテントを張っていました。主なる神様はモーセにもう一度命じました。「イスラエルの人々の全会衆の総数をその父祖の家に従って調べなさい。特にすべて戦争に出ることのできる20歳以上の者を数えなさい。」(民数記26章2節参照)

 第一の理由は、淫らな事件を引き起こし伝染病にかかり2万4000人の成人がなくなり、病気になっている人がたくさん生じたからでしょう。

 第二の理由は、40年の荒野の旅路をして参りまして二人を残して新しい世代の人々になっていたからでした。二人とはカレブとヨシュアであり、他は一人も残っていませんでした。ですから人々の数を数える必要があったのですね。

 そして第三の理由は、ヨルダン川を渡り新しい指導者ヨシュアのもとで戦いをしてゆかなければなりませんでした。ヨルダンを超えれば第一の関門であるエリコの城壁がイスラエルの人々の前に立ち塞がっているのです。どうしても戦いに出ることのできる20歳以上の人々を数えて訓練していく必要があったのではないでしょうか。

 そして数えられた12部族の総計は60万1,730人が戦いに出ることのできる20歳以上の人々の数だったのです。(民数記26章51節参照)

 さて、20歳以上の人とはこの世界では成人とみなされます。人生の様々な戦いに耐えることができる人、家族のために人々のためにそして自分のために戦うことのできる人です。そして何よりも主なる神様のために戦いに出ることのできる人ではないでしょうか。生活の戦い、人間関係の戦い、病気と死との戦いの背後にある敵との戦いにおいて、そして信仰による戦いに勝利しなければなりません。

 聖書のことばです。
 「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
        エペソ人への手紙 6章12節(口語訳聖書)

  (PBA制作「世の光」2017.6.27放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■日本で最初の女医 荻野吟子 / 岩井基雄

2017年06月26日 | Weblog
2017/6/26放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいます。

 今日は日本で最初の女医として愛を届けた荻野吟子について学んでみましょう。吟子は1851年、嘉永4年、今の埼玉県熊谷市で名主の五女として生まれました。16才の時、望まれて、稲村貫一郎と結婚しますが、夫からうつされた病気が基で離婚をします。上京し治療を受けますが、その時受けた屈辱から女医となり、同じ思いに苦しむ女性を救いたいと決意するのです。24才で今のお茶の水女子大学の1期生として入学。主席で卒業し、不思議な導きで私立医学校・好寿院に特別に入学。男子学生に混じり、いじめや苦労を通りつつも優秀な成績で終了、東京府に医術開業試験届を提出しますが、前例が無いと2年続けて却下されます。埼玉県でも同じ結果でした。しかし彼女は諦めません。33才でついに他の女性3人と共に前期試験を受け、吟子だけが合格。後期試験にも合格し、東京湯島に産婦人科・荻野医院を開業。34歳にして近代日本初の女医となったです。様々な学びの中で人生を深く考え、聖書にも触れていた吟子は35才の時、海老名弾正牧師からキリスト教の洗礼を受け、クリスチャンとなります。女性の立場を尊び愛を注いだイエス・キリストの姿が吟子の心を捕えて離さなかったのです。その後、吟子は婦人矯風会にも参加し、廃娼運動にも取り組みます。苦しみの中を通る女性たちの権利と心を守り、医療を通し神様の愛を届け続けたのです。39歳の時、新島襄から洗礼を受けた志方之善(しかたゆきよし)と再婚します。クリスチャンの理想郷をとの夫の夢から極寒の北海道に渡った二人は、多くの苦難を通りつつも神様の愛を伝え、また医療にも従事し、夫が天に帰った後も医療の現場に立ち続け、愛と癒しを多くの人に届けていったのです。

 聖書のことば
 「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
  新約聖書 ペテロ第二の手紙 1章5節から7節

  PBA制作「世の光」2017.6.26放送でのお話しより)

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■悲しみを見つめて / 羽鳥頼和

2017年06月24日 | Weblog
2017/6/24放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書の哀歌という書物からお話ししようと思います。

 哀歌は悲哀の哀、哀れむ歌と書きます。この書物はエルサレムが破壊され滅ぼされたことを悲しんでる歌を記しています。その哀歌の1章を見てみましょう。

 1章では神の都エルサレムを女王に喩えています。
 「ああ、かつて人々で賑わっていたエルサレムは、ひとり寂しくすわっている。諸国の中でも大いなる者と言われていたのに、今や彼女は未亡人となってしまった。彼女は悲しみに暮れているが、誰も慰めてくれない。それどころか友達は彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。彼女の内に住んでいた者たちは悩みと苦しみの内に異国に捕らえ移されてしまった。神を礼拝する所であった彼女は、うっかりさびれて神を礼拝する者がなく、悲しみに沈んでいる。」(1~4節参照)

 このようにエルサレムに起こった悲劇を覚えながら、更にこのように語っています。
 「私たちが神に背いたので神は私たちを悩まされた。私たちは神に対して多くの罪を犯した。私たちが苦しみを受けるのは当然だ。」(14節、20節参照)

 エルサレムが滅ぼされたのは自分たちの罪のためであると認めています。哀歌は単なる嘆きの歌ではありません。哀歌は悲しみを見つめながら神に捧げられた祈りです。それは人々がこのような悲劇を引き起こしたのが自分の罪であることを認めて自分の罪を悔い改め神に立ち帰ることを求める祈りです。

 悲しみについて新約聖書 コリント人への手紙第二7章10節はこのように教えています。
 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
 自分の罪を悲しみ神に救いを求めることこそ神の御心に沿った悲しみです。世の悲しみは失望・絶望をもたらし死をもたらします。罪を悲しみ神に立ち帰ろうと決心をする人を神は救ってくださいます。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2017.6.24放送でのお話より )
 
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■勇気を失いません / 関根弘興

2017年06月23日 | Weblog
2017/6/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
今日も聖書のことばを紹介いたしましょう。新約聖書 第二コリント4章16節
 「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 もう10年以上前ですけども、総務庁の事務次官をされていた方とお話をする時がありました。その時、この方がこんなことを言われたんですね。「これからの日本の課題は老い、ま年を取る、老いに対する回答を与えることです。」と言われたのです。「しかしそれを行政が力を尽くしてできることはありません。だから、これから日本においてはキリスト教の出番なんですよ。」とその方がおっしゃったんです。行政ではどうすることもできないけれどキリスト教、聖書の約束には解決がある、という風に言われたんですねえ。なぜなら聖書は永遠のいのちを約束しているのです。たとえ外なる人は衰えたとしても永遠に続く朽ちることのとない希望を持ちながら生きてことができると聖書は教えるわけですよね。

 冒頭に紹介したことばは、「私たちは勇気を失いません。」と、パウロがコリント教会に書き送った手紙の一文です。パウロという人の生涯は、迫害があり、理解されない苦労や様々な問題が矢のように襲う生涯でもありました。問題だけを見ていたら勇気が失せてしまいます、と書き送りたいほどだったでしょう。しかしパウロは様々なこんなにぶつかっても辛い状況があっても「私は勇気を失いません。」と記していったのです。
 なぜ「勇気を失いません」とパウロは言えたのでしょう。パウロが人よりも何十倍も健康だったからでしょうか? そもそもそんなひどい困難にも遭っていなかったのではないかとあなたは考えますか? でもパウロは健康的には慢性病を持っていましたし、命の危険に何度も立たされたことがありました。しかし彼は「勇気を失わない」と言ってるんですね。なぜなら、「わたしはあなたを離れず決してあなたを見捨てない」と約束されるイエス様の励ましと支えがあったからなんです。

 確かに外側の身体は年をとりますし弱ってきます。しかし内なる人は日々新たにされる、つまりイエス・キリストが共に歩む生涯は尽きることのない恵みと真実な愛をもって新しく造られていく生涯なんだ、と書いているんです。

 あなたもイエス様を信頼し、「私たちは勇気を失いません。」と語る者とされていきませんか?

 (PBA制作「世の光」2017.6.23放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし- 16 / 大嶋重徳

2017年06月22日 | Weblog
2017/6/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第二戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記 20章4節)とあります。

第二戒には戦いがあることを学んできました。キリスト教会はこの地上において旅人であると言われます。つまりこの世にあってこの世の者ならずという性格があり、神様の眼差しで世界を観ています。そして地上において偶像化する何かしらの権力に属することもせずに、ひたすらやがて完成する神の国を待ち望むのです。

 時に教会と国家の関係を声高に語ることは日本の宣教の前進を阻むものだという指摘をされることがあります。信仰とは心の内側のものであって、心の外の政治のことを言うべきではないと言われるのです。しかし第二戒は信仰を内側のものだとは言いません。神を神とする戦いを戦うことなく信仰を内面化させていくことは十戒の指し示す私たちの自由なる生き方の向きとは大きく異ります。

 こういうことは信仰を持っている人だけのことなのでしょうか。そうではないと思います。この切迫した時代の中で、時代の流れに流されていく訳にはいきません。第二戒の戦いを戦うことなく捧げている礼拝が日本の教会にあるのなら、その礼拝は私たちの都合の良い偶像を刻んでしまっていることはないか、ということをよく問い直す必要があるでしょう。第二戒はキリスト教会の中で、自らの信じやすい神を刻み始めていないか、という自覚も喚起させます。

 さらにこの第二戒の戦いを戦う場所は、私たちの主の日の礼拝だということを忘れてはいけません。イエスこそ主であり王であると高らかに告白するのは礼拝だからです。もし週ごとの礼拝が崩れてしまい、政治的なデモに出かけてしまうようになるのであれば、教会はその中心が崩れていきます。礼拝こそ私たちが神を神とするということを告白し抜く場所なのです。キリスト者において第二戒の戦いは祈りの戦いであり、神のことばによる戦いです。ぜひ礼拝に行っていただきたいと思います。礼拝こそが自由なる生き方へと解き放ってくれる場所であることを第二戒は思い起こさせてくれるからです。

  ( PBA制作「世の光」2017.6.22放送でのお話しより )

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■必ず生きる / 福井 誠

2017年06月21日 | Weblog
2017/6/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「必ず生きる」です。 それではエゼキエル書18章9節を読んでみましょう。
 「わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行なおう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。----神である主の御告げ。----

 これまでの流れで言えば、ここもエルサレムの滅亡、エルサレムに対する裁きを語っている所ですね。しかしこの箇所は、ユダヤの歴史をよく理解していないとその面白さが分りません。日本人には字面を読んで終わってしまいそうなところですね。

 18章の最初にはまず、父が酸いぶどうを食べたので子どもの歯が浮く、と当時ユダヤ人の間ではよく知られた格言が取り上げられています。面白いことわざですね。つまり父の行為は子どもに影響するという、いわゆる連帯責任を覚えさせることわざで、エルサレムが裁かれて罰せられているのも、それは今の自分たちではなく自分たちの先祖が神に背いた罪によるものなのだ、と考える人たちがいました。いわゆるバビロン帝国に攻められて悲惨な捕囚の不運に晒されているのは先祖たちの罪のためで、自分たちの問題ではない、というわけです。

 そこでエゼキエルはイスラエルの王国の歴史を取上げて三代にわたる王様の実例を示し、人が滅びるのはその人自身の罪のためだということを教えています。具体的にその王様はヨタム、アハズ、ヒゼキヤですが、ここにはその名前は出てきません。けれどもイスラエルの人々はこの18章を読みながら、神様に従順で祝福されたヨタム王、そしてその息子アハズ王は神様に不従順で呪われたこと、更に孫のヒゼキヤは神様に従順で宗教改革者ととなり祝福された王様であったことを思い出す訳です。つまり次の世代に父親の呪いが伝わることはない、神は人それぞれに行動の責任を問い報いを授けたことを思い出すわけですね。

 エゼキエルは生い立ちに縛られる者は誰一人おらず、それぞれ今自分がどう生きるか、その思いと行動に神の目は注がれている、と語っています。神のみ教えに心から忠実な人は正しい人で必ず生きる、必ず祝福を受ける、というのが聖書の約束です。人は先祖の罪から自由であるばかりか、自分の過去からも自由になれます。その約束に信頼して歩みたいものです。
 
 (PBA制作「世の光」2017.6.21放送でのお話より )

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■神のために熱心な人 / 板倉邦雄

2017年06月20日 | Weblog
2017/6/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神のために熱心な人」という題でお話ししましょう。

 神のために熱心な人は多くの人のために罪の贖いをするのです。罪の贖いとは、罪の償いをすることによって罪を赦す行為をすることなのです。

 さて、モーセとイスラエルの全会衆は、神様の天幕の入口で悲しみで泣いていました。多くの人々がモアブの娘たちとの淫らな行為に耽(ふけ)って感染症のために病み、苦しみながら死んでいったからです。そのような中、今度はジムリというシメオン族の長老が一人のミデヤンの娘を連れてきて、兄弟たちの間で淫らな行為に耽ったのでした。人々が神様の前で亡くなった人々のために嘆き悲しんでいると言うのに、不埒な悪行三昧をジムリと仲間たちはしていたのです。

 それを認知した祭司ピネハスは会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、ジムリ長老の後を追いかけました。そしてジムリとその女の腹を突き通したのです。こうして多くの人々を苦しめ悩まし傷つけた疫病は止んだのでした。(民数記25章7、8節参照)

 主なる神様はモーセに言われました。「祭司ピネハスは自分のことのようにわたしの憤りと激しい怒りをイスラエルの人々の内に表した。そしてわたしの怒りをイスラエルの内から取り去ったのだ。だからわたしはわたしの怒りと憤りによってイスラエルの人々を滅ぼすことはしなかった。それゆえあなたは宣言しなさい。主なる神は平和の契約を彼に授ける。平和の契約は彼と子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であってイスラエルの人々のために罪の贖いをしたからである。」(民数記25章10~13節参照)

 主なる神様のために熱心であった人、それは平和の君と呼ばれた大祭司イエス・キリストではなかったでしょうか。不信仰に汚れた私たちの身代わりとなって十字架の上で神の怒りと憤りを受けて死んでくださいました。私たちのために罪の贖いをして、私たちの罪を赦してくださったのです。

 イエス・キリストのことばです。
 「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」 マタイの福音書26章27節と28節(口語訳聖書)
  (PBA制作「世の光」2017.6.20放送でのお話より )

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 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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