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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエスの証は真実である / 板倉邦雄

2025年04月30日 | Weblog

2025/1/22放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「イエスの証(あかし)は真実である」という題でお話ししましょう。

 主イエス様はご自分のことを「世の光」と紹介しました。
 「わたしは世の光です。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう。」(ヨハネ8章12節参照)
 すなわち、ご自分を証ししたことになります。

 それに対し、イエス様に反対していたパリサイ派の人々がイエス様に言いました。
 「あなたは、自分のことを証ししている。あなたの証しは真実ではない。」

 この批判に対するイエス様の答えを今日見ていきましょう。ヨハネの福音書8章13節からです。

 まず、イエス様の証しは真実であることの理由は、イエス様は自分がどこから来て、またどこへ行くのかを知っていたからでしょう。
 目的地のない旅ほど空しく淋しいものはありません。しかしイエス様は自分がどこから来てどこへ行くかを知っていましたので、ご自分が何者であるかを知っていました。すなわち、「わたしは世の光です」と自分を証しすることができたのです。

 次に、イエス様の証しは真実であるもう一つの理由は、イエス様の裁きは正しかったからです。
 なぜならイエスは一人ではなく、「わたしを遣わされた方」父なる神がイエス様と一緒にいたからです。
 モーセの律法でも「二人の証人の証言は信じるに値する」と言われています。イエス様の証しは父なる神から来ていたからです。
 これほど真実な証しはありません。

 そこで反対者は笑いながらイエス様に尋ねました。「お前の父はどこにいるのか。」

 それに対してイエス様は答えます。
 「あなたたちは、わたしも、わたしの父も知らない。わたしを知ればわたしの父も知るだろう。」

 反対者はさらに、「あなたの父はどこにいるか?」とイエス様に尋ねました。
 しかし彼らは目の前に父なる神の子キリストがいるのを見ているのに見えないのです。
 何という傲慢さ、何という無知でしょうか。身近にいる息子を軽蔑する人々は息子の父親の元へ行くことはできません。

 イエス様は言われました。
 「わたしは道であり、真理であり、いのちである。だれもわたしによらないでは、父の元に来ることはできない。」と。

 いのちの光である神の子イエス様に手を取られて天の父の元に私たちは行くのです。
 イエス様の証しは真実であり、真理なのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.22放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■わたしは世の光である / 板倉邦雄

2025年04月29日 | Weblog

2025/1/21放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「わたしは世の光である」という題でお話ししましょう。

 ヨハネの福音書の特徴の一つは、イエス様がご自分を様々なものに例えて紹介していることです。今日は、「わたしは世の光である」とイエス様はご自分を紹介します。ヨハネの福音書8章12節です。

 イエス様はご自分を「世界の光」に例えました。
 光は1秒間に30万キロ走ります。光によって昼と夜とが分かれます。光は私たちにとって、安全と健康を与えてくれます。また、暖かさや美しさを感じさせてくれますね。何よりも、光はいのちの力を注いでくれます。

 イエス様は世の光ですから、私たち信じる人々に安全と健康を約束し、恵みの暖かさによる喜びや希望や感動を与えてくださいます。そして何よりもいのちの光、未来や死と死後まで照らして突き抜ける光です。

 次にイエス様は続けて言われます。
 「わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう。」

 闇の特徴は迷いと不安でしょう。山のキャンプでナイトハイクをした時、暗闇の中で迷い、不安になった経験がありました。

 第二に闇は危険と災いでしょう。停電になり、街灯も消え、真っ暗な道を自転車で帰宅した時、障害物にぶつかったことがありました。

 そして何よりも、闇は生きとし生けるものを吞み込むような死の力を持っていないでしょうか?

 しかし、イエス様を信じて従う者は決して闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つのです。

 「この世は闇」とよく言われますが、この世が不義と不潔な闇の状態だからでしょう。神の正義と神の聖潔から離れているからでしょう。神を離れたこの世は「闇の世」であると聖書は呼んでいます。

 しかしイエス様は世の光です。ですから、イエス様を信じ従う人は決して闇の中を歩くことがありません。私たちの人生の足元を照らす光です。私たちの人生の道を照らす光でもあります。慰めと希望の光です。死と死後の闇をも照らす光ではないでしょうか。
 そして永遠のいのちへと導く光なのです。

 聖書のことばです。
 「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です」  詩篇119篇105節


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.21放送でのお話しより )


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■わたしもあなたを罰しない / 板倉邦雄

2025年04月28日 | Weblog

2025/1/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしもあなたを罰しない」という題でお話ししましょう。
 前回のお話を覚えていますか? イエス様が、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの姦淫の女に石を投げつけるがよい」と言われました。今日はその続きです。ヨハネの福音書8章9節からです。

 さて、このイエス様のことばを聞いていた群衆は、年寄りから始めて一人びとり出て行き、罠を仕掛けた政治指導者も宗教指導者もいなくなり、ついにイエス様と姦淫の現場で捕まった女だけが残りました。
 イエス様のことばは闇に輝く光のようですね。人々の良心を照らし、一人一人を罪人に置いたのです。私たちに見えないものを見えるようにしてくださいました。

 かがんで地面に物を書き続けておられたイエス様はゆっくりと身を起こされ、独り残った女に言われました。
 「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか?」

 女は言いました。「主よ、だれもいません」

 大きな石を取り除けると虫たちが一斉に光から逃げてゆくように、良心を咎められた人々はいなくなりました。心のやましい人はイエス様のことばにいたたまれなくなったのです。特に、イエス様を罠に掛けようとした人たちは慌てふためいて立ち去って行きました。
 すなわち、この女の罪を裁く人は誰もいなかったのです。私たちの罪を最終的に裁くことができるのは天の父なる神様のみです。私たちの罪は天の法廷で裁かれることになります。

 するとイエス様は女に言われました。
 「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」

 イエス様は姦淫の罪を肯定しているわけではありません。今後は同じ過ちを犯さないように戒めていることからもわかります。罪を認めて、罪を改めて生きて欲しい、と女に自由と将来を与えました。

 それは主イエス様は、これからこの女の罪と罪の刑罰を十字架の上で償うからです。神の律法である石打ちの刑をこの女の身代わりとなって受けてくださいました。ですからこの女の罪をイエス様は赦すことができるのです。

 ですから私たちも、この女のようにイエス様の御前に残り、罪の赦しのことばをいただきたいのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.20放送でのお話しより )


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■「諦める」と「委ねる」 / 水谷 潔

2025年04月26日 | Weblog

2025/1/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 日本語には「諦める」ということばがあります。「諦める」といいますと、何か願ってきたことを断念すること、目的のために積み上げてきた努力をやめてしまうことなど、マイナスに受け取られがちですよね。
 しかし本来はそうではないようです。「諦める」の語源は昔のことばで「明らむ」、つまり「明らかにする」というふうに考えられています。そしてこの「諦める」は仏教の教えから来ていて、「物事の本質を明らかにすること」を意味します。その結果、自分ではどうしようもないことを事実として受けとめるわけです。ですから、「諦める」とは必ずしもマイナスではなく、理にかなった賢明な判断となる場合もあるわけです。

 実は聖書には、この「諦める」と似ているようで少し違うことばが登場するんですよね。それは「委ねる」ということばです。旧約聖書の詩篇55篇22節のことばをお読みします。

 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」

 私たちの人生は大なり小なり何かの重荷を負いながら歩んでいくようなものです。しかしその重荷がとても負いきれない場合もあります。負ってみたものの、途中から負い切れなくなってしまうこともあります。

 そのような私たちに聖書は、負い切れない重荷を、諦めて下ろすのではなく神様に委ねましょう、と語り掛けます。神様が自分に替わってその重荷を負ってくださる、と言うのです。そのようにして神様は、負いきれぬ重荷に苦しむ私たちが倒れてしまわぬよう支えてくださるのです。

 「あなたの重荷を私に委ねませんか? わたしがあなたを支えるから。」 神様は、聖書のことばを通じてそう語り掛けておられます。

 あなたの重荷を負ってくださりあなたを支えるこの神様を信じてみませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.18放送でのお話しより )


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■苦難が生み出す失われぬ希望 / 水谷 潔

2025年04月25日 | Weblog

2025/1/15放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。
 
 人生には苦難がつきもの、と言いますがどうでしょう。もし苦難の中にあっても失望せず希望を持って歩めたら、と願いませんか? 聖書はそのような希望を語っています。新約聖書ローマ人への手紙5章の3節から5節をお読みします。

 「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 聖書は、苦難さえも喜ぶ、と言っています。苦難それ自体は喜べませんが、神様を信じる者にとっては喜ばしいものを生み出すという意味で喜べる、というのです。

 まず、苦難は忍耐を生み出します。この「忍耐」ということばは、「苦しいことを我慢する」という消極的な意味ではなく、「苦難に向き合い、乗り越えていく」という積極的な姿勢を意味します。

 次に、忍耐は練られた品性を生み出します。「練られた」とは、金属の精錬に使われることばで、苦難の火によって品性が純粋になっていくことを意味します。

 最後に、練られた品性が希望を生み出します。練られた品性を持つことで、人は神様にある希望を持つことができるのです。

 さらに聖書は、「その希望は失望に終わることがありません」と約束します。

 なぜ試練は、忍耐と練られた品性を経由して、失われることのない希望を生み出すことができるのでしょう? 
 聖書は言います。

 「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 そうです。試練から希望が生み出される理由は神様の愛です。

 あなたも神様を信じ神様の愛が心に注がれるなら、苦難の中にあっても失われることのない希望に歩むことができるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.15放送でのお話しより )


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■相槌とトンチンカン / 水谷 潔

2025年04月24日 | Weblog

2025/1/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。
 
 えー、日本語には刀をつくる刀鍛冶に由来することばが多くあります。「相槌を打つ」や「とんちんかん」といったことばはその代表と言えるでしょう。日本刀は主に二人の職人で作るのですが、師匠が槌で鉄を打つ合間に弟子が息を合わせて打ちます。これが「相槌」です。そこから、相手の話にタイミングよく応答することを「相槌を打つ」と言うようになりました。
 しかし相槌のタイミングが悪いと、「トンチンカン」と、ずれた音がします。そのことから辻褄が合わないことや間の抜けた言動を指すことば「とんちんかん」が生まれたのだそうです。大切なことは師匠と弟子の息があっていること、タイミングよく打つことのようです。

 このことは神様と人間の関係に似ています。旧約聖書の伝道者の書3章11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」ということばがあります。神様のなさることは信じる者にとってはベストタイミングなんだ、と聖書は語り掛けます。神様は名刀を作る刀鍛冶のように最善のタイミングで信じる者の人生に働きかけてくださいます。

 神様は聖書のことばを通じて時に叶った語り掛けをくださいます。祈ればふさわしい時に応えてくださいます。必要な時に大切な人との出会いを与えてくださいます。より豊かな人生を願ってベストタイミングで人生の転機を与えてくださいます。

 しかし、人間の側は時に「とんちんかん」です。待ちきれず勇み足をすることもあれば、タイミングを逸して後悔することもあるでしょう。それでも神様は忍耐をもって共に歩んでくださいます。共に歩もうとする者をタイミングよく「相槌」を打てる者へと成長させてくださるのです。そして、名刀を作るように素晴らしい人生を一緒に作り上げてくださるのです。

 旧約聖書 伝道者の書3章11節は言います。
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

 ラジオの前のあなたもこの神様を信じて共に歩みませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.17放送でのお話しより )


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■救うのは、何かではなく誰か / 水谷 潔

2025年04月23日 | Weblog

2025/1/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 溺れている人は「誰か助けてー!」と叫びます。「何か」ではなく「誰か」に助けを求めます。山で遭難したら救急隊員。いのちにかかわる病気や怪我なら医療従事者。私たちをいのちの危機から救ってくれるのは最終的には「何か」ではなく「誰か」です。
肉体のいのちの危機を救ってくれるのは物ではなく人です。
 では霊的ないのちの危機はどうでしょう? 聖書によれば、私たち人間は神様を離れ、神様に背を向けて歩んでいるために、神様が与えようとしている真(まこと)のいのちを失っています。神様といういのちの根源と断絶しているので霊的には死の状態にあるのです。生まれてからずうっと、いのちの危機にあるわけです。

 そのために神様と共に歩む喜び、平安、希望を失っています。それらを失った私たちの心の奥底にあるのは深い孤独、恐れ、そして空しさです。そこから救い出してくださるのは「何か」でしょうか? お金、趣味やレジャー、あるいは成功や自己実現でしょうか。それらは役立つでしょうが、一時的で限界があるのではないでしょうか。いわば対処療法のようなものに思えるのです。

 聖書によれば、この霊的ないのちの危機から救ってくれるのは、やはり「何か」ではなく「誰か」なのです。
 新約聖書 ヨハネの福音書14章6節をお読みします。

 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」

 イエス様は父なる神様と私たちを結び付けてくださる「道」です。「真理」が人となられた方です。真(まこと)の「いのち」を持っておられる方です。この方を信じることによって私たちは父なる神様との関係を回復し、真のいのちをいただけるのです。

 霊的な死から私たちを救うのは「何か」ではなく「誰か」です。それはイエス・キリストです。

 あなたもイエス様を信じて、真(まこと)のいのちをいただいて、喜びと平安と希望に歩みませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.16放送でのお話しより )


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■新しいいのちを内に宿して / 水谷 潔

2025年04月22日 | Weblog

2025/1/14放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 20年以上前のことです。私の妻はコーヒーが大好きで毎日飲んでいたのですが、妊娠すると一切コーヒーを口にしなくなりました。また知り合いの韓国人女性からは、妊娠をすると毎日食べていたキムチが嫌いになって、今度はラーメンを毎日食べたくなったと聞いたことがあります。
 これは妊娠初期に現れる「つわり」の症状の一つだそうです。新たないのちが内に宿ることで、食べ物についての好き嫌いが大きく変化することがあります。内に宿ったいのちが、そのいのちを宿した人に大きな影響を与えます。

 実は聖書も、新しいいのちが内に宿ることを記しています。新約聖書ヨハネの手紙第一5章12節はこう記しています。

 「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

 御子とは神様の独り子であるイエス・キリストのことです。聖書はイエス様を信じた者は新しいいのちを持つことを約束しています。
イエス様を信じることで与えられるのは永遠のいのち、真(まこと)のいのちです。肉体の死を超えて生き続ける永遠のいのちです。
 そしてこのいのちは宿したものに影響を与えて、その人を造り変えてゆくのです。時には短期間で別人のように変えます。また、時間をかけてゆっくりとその人を造り変えてゆきます。振り返れば以前の自分とは大違い、ということもあります。

 おととしのこと、あるクリスチャンカップルの結婚式の司式をさせていただきました。結婚式後の披露宴では新郎がこう語りました。「私の家族は先に母がイエス様を信じて救われました。母の変えられた姿を見て次に父がイエス様を信じました。以前の父はお酒を飲んで怒ってばかりでしたが、イエス様を信じてからは穏やかで家族思いの父親に変えられました」
 
 イエス・キリスト、神の御子を信じるなら、その人は新たないのちを持ちます。その新たないのちはその人を造り変えます。

 ラジオの前のあなたもイエス様を信じて新たな自分となって歩みませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.14放送でのお話しより )


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■セルフガソリンスタンドの秘密? / 水谷 潔

2025年04月21日 | Weblog

2025/1/13放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、今週番組を担当します、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 私は自家用車を持っていて、月に1~2度、近所にあるセルフのガソリンスタンドを利用しています。自分でタッチパネルを操作して、ガソリンの種類と給油する量を選び、自分の手で給油機を握り、レバーを引いて、と最初から最後まで全部自分で給油しているのだとずうーっと思ってました。
 ところがあるテレビ番組を観て、そうではないことを知って驚きました。実はスタンドのスタッフさんは車が来たのを確認し、安全のために給油するお客さんの動きを見た上で、ガソリンが出るように見えない所で操作をしてくれているのだそうです。

 セルフスタンドのスタッフさんは、私たちの目には見えないけれども私たちを見ていてくださり、必要なものを提供してくださるわけです。私はこのことを知って、驚きながら思ったのです。
 ああ聖書が記している神様も同じだなあ、と。なぜなら、神様も目には見えませんが存在しておられ、私たちを見てくださり、必要なものを与えてくださるからです。

 旧約聖書のヨブ記34章の21節にはこう書かれています。
 
  「神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。」

 神様の眼差しはいつも私たちに向けられており、私たちの歩みのすべてをご覧になっているのだ、と聖書は言います。それは監視カメラのようなものではありません。私たちを大切に思って下さる愛の眼差しです。

 一人で生きているようでも、いつも神様は共にいてくださいます。そして愛にあふれる眼差しで私たちのことを見てくださいます。さらには、私たちを愛し、ふさわしい時に必要なものを与えようと願っておられるのです。

 そうです。目に見えなくても神様はおられます。誰もいないと思っていても神様はあなたを愛の眼差しをもって見てくださっています。あなたもこの神様を信じ、この愛を受けて、神様とともに歩みませんか? 

 街でセルフガソリンスタンドを見かけたら、どうか今日のお話を思い出してください。


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■えぐり出して捨てなさい / 福井 誠

2025年04月19日 | Weblog

2025/1/11放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? この一週間、皆さんと新約聖書のマタイの福音書を読み続けることができました。皆さん、いかがでしたか? 聖書の面白さが分かり、マタイの口調が皆さんの耳に響いてくる、そんなことを願っています。
 では今日は、「えぐり出して捨てなさい」と題してお話を致します。新約聖書マタイの福音書5章29節からお読みします。

 「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方がよいのです。」

 今日は、「姦淫してはならない」 つまり性的な不道徳を戒める教えです。昨日は、「殺してはならない」という戒めを読みました。内容は違いますが考え方は同じです。
 いずれにしても外面的な行為ではない、内面的な思いの部分にまで深めてこの戒めを適用し理解していくのでなければ本当に理解したことにはならない、とイエスは言うのです。

 ですからイエスは、姦淫というのは、姦淫という行為ではなく情欲という思いを問題にするもので、そこまで人間の心のきよさを考えるのでなければ天の御国に入る心のきよさに生きる信仰には到達していないのだ、と言うのです。

 当時ユダヤでは姦淫の罪を犯した人は石打で処刑されました。ヨハネの福音書には、ちょうど姦淫の現場で捕まえられた女性についてイエスに死刑執行を求める律法学者たちのエピソードが記録されています。彼女は律法によればその場で処刑されるはずでした。ところがイエスは、「あなた方の中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と応答し、一人去り、二人去り、結局その女性はいのちを助けられるのです。

 この時に人々が問われたのは、彼らが人生のどこかでしでかした行為ではなく思いでした。結局、ゲヘナに投げ込まれるという重大な結果は思いに対するものであると言う理解が重要なのです。そしてこのような恐ろしい事態から逃れられない私たちには、神のあわれみと罪の赦しが必要だ、ということです。

 ぜひ教会でも詳しいお話を聞いてください。


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