♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■いなくなった / 福井 誠

2016年06月30日 | Weblog
2016/6/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「いなくなった」です。それでは第一サムエル記9章3節から読んでみましょう。
 「あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。そこでキシュは、息子サウルに言った。『若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。』

 サムエル記の登場人物はサムエルからイスラエル最初の王様サウルに替わって行きます。イスラエルの国も他国並に王政を導入することになって、王様が選ばれることになったのですねえ。今日の箇所はその経過が描かれている所です。

 ところが面白いですね、王様の選びは、「あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。」から始まるんです。王様選びのための選挙戦が開かれるのでも、有力者が飛び出て来るのでもなく、雌ろばの行方不明がきっかけとなって預言者サムエルがサウルという人物と出会い、神様に命じられるままに王に任じていくのですねえ。言い方を変えれば、神様が背後で動いて雌ろばを隠して神様のシナリオ通りにサウルという人物が選ばれた、という書き方です。

 最近私は思うのですが、一所懸命人間的に画策したことがうまくいかず、何の意図もせずに状況に任せたことがうまく動いていくことがありますねえ。不思議だなあと思いますが、人生にはよくあるものです。けれども聖書は、日常の細やかな事柄に目に見えない神の御手の導きがあって物事が動いているのだ、とはっきり語っていますねえ。神様は実に身近な存在です。何か空高く遠い所におられる存在に思っている方は多いかもしれませんね。しかし神様は私たちのそば近くにおられて私たちの人生に関わっておられるお方です。実は会社や家庭といった身近な所で起こることもすべては神の御心の中で起こっており、一つ一つ偶然ではないのです。

 雌ろばがいなくなったことがサウルを王とするための神のご計画であったように、日常性の中に神のわざはなされていきます。

 実に信仰を持つことは毎週日曜日礼拝に出かけることや聖書を読み祈ること以上のものですね。それは日々の生活の隅々に神の支配と祝福が及んでいるとして生きていくことに他なりません。神様を身近に感じ、神の恵みを味わう人生を歩みたいものですね。
 
(PBA制作「世の光」2016.6.30放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■再びシナイ山で / 板倉邦雄

2016年06月29日 | Weblog
2016/6/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 「人生は繰り返すことはできない。しかしやり直すことはできる。」ということばを耳にします。

 さて主なる神様はモーセに言われました。「あなたは前のように石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが腹を立てて砕いた初めの板にあったことばを再びその板に書くであろう。あなたは朝まで準備して、朝の内にシナイ山に登って山の上でわたしの前に立ちなさい。」(出エジプト記34章1節、2節参照)

 そこでモーセは前のように石の板二枚を切って作り、朝早く起きて、主なる神様がモーセに命じられたようにシナイ山に登りました。(34章4節参照)

 時に、主なる神様は例によって雲の柱の中をエレベーターのようにしてシナイ山頂に降り、モーセと共に山頂にたちました。(34章5節参照) この出来事から約1400年後、人の子となられたイエス・キリストと共にモーセとエリヤがヘルモン山頂(※イエス・キリストの変貌の山の候補の一つ)に降られましたねえ。

 さて主なる神様は主の名を宣教されました。すなわちご自身がどのようなお方であるかをモーセに宣べ伝え教えられたのです。それはこれから頑固なイスラエルの国民を40年の荒野で神様を礼拝しながら彼らを約束の地まで導き上ってゆくためでした。主なる神様はモーセの前を過ぎながらご自分のことを次のように宣べ伝えられたのです。(34章5節参照)

 主なる神は憐みあり、恵みあり、怒ること遅く、慈しみとまことの豊かな神、慈しみを千代まで施し、悪と咎と罪とを赦す者。しかし罰すべき者をば決して許さず、父の罪を子に報い、この子に報いて三、四代に及ぼす者。(34章6節、7節参照)

 モーセは急いで地にひれ伏し礼拝し答えました。「ああ主よ、私がもしあなたの前に恵みを得ますならば、頑なな民ですけれども、どうか主が私たちの内にあって一緒に行ってください。そして私たちの悪と罪とを赦し、私たちをあなたのものとしてください。」(34章8節、9節参照)

 モーセの執り成しでイスラエルの人々はやり直すことができたのですね。私たちもイエス様の執り成しでこの人生をやり直すことができるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.6.29放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■主の祈り - 55 アーメン / 大嶋重徳

2016年06月28日 | Weblog
2016/6/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。

私たちはこれまでイエス様が教えてくださった主の祈りから、祈りとは何か、キリスト教信仰とは何か、ということをずっと考えてきました。そしてこれからも祈る事を大切にして行きたいと思います。そのために大切にしておかなければならないことは何でしょうか。

 ハイデルベルク信仰告白という信仰をいい表したものに、祈りについて書かれています。問い117 「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには何が求られますか。」
 答え 「第一に、ご自身をみことばにおいて私たちに啓示された唯一のまことの神に対して、この方が私たちにお命じになったすべての事柄を私たちが心から恋い求めるということです。

 ここで記されているのは、聖書こそ私たちの祈るべきお方を知る唯一の道筋であるということです。祈りのそばにおいておくべきものがある。それは聖書です。主の祈り自体が聖書のことばであるように、主の祈りを深く理解するためにも、祈りとは何かをまた聖書全体から学ばないといけません。

 聖書には主の祈りのほかにも実にいろいろな祈りのことばが記されています。アブラハムの祈り、ダビデの祈り、パウロの祈りがあります。イエス様が十字架の上で祈られた「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。」というのは詩篇20篇2節の引用です。これはイエス様が普段どれほど聖書にある詩篇のことばを大切にして祈っていらっしゃったかということを意味しています。私たちはとっさの時には普段のものしかできません。ぎりぎりの時に聖書の中の祈りが出て来るということは、通常の生活でどれほど聖書のことばが浸み込んでいたかを表わされています。

 ボンフェッファーというナチス・ドイツと闘い抜いたドイツの神学者はこう語ります。 「もし悪魔が彼の信仰を無理にもぎ離そうとする時には、彼はこの聖書を読み祈ることに逃れこむ必要がある。もし祈ることができなくなるような状態が襲ってきたら、聖書を読んで思い巡らすという事をもって始めなければならない。」
 つまり、もしあなたが祈ることができなくなった時、何が何でも聖書に行けと語るのです。そして私たちは聖書に喰らいついていくとき、聖書は私たちを祈りに向かわせてくれるのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.6.28放送でのお話しより )

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■主の祈り -55 アーメン / 大嶋重徳

2016年06月28日 | Weblog
2016/6/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。主の祈りは、「アーメン」ということばで祈ります。

 そして主の祈りは「アーメン」ということばで終わります。確かにその通りです、と言うことばと共に私たちは祈りを終えるのです。アーメンとはキリスト教信仰にとって終わりのことばです。

 私たちも人生を終える日が必ず来ます。私たちは「アーメン」と言ってその人生を終えたいと思うのです。「私の人生は本当にその通りだった。確かに間違いはなかった。」と。「神様が私の祈りを間近で聞いてくださり、イエス・キリストにお会いして、罪赦され、復活のいのちをいただいた人生はアーメン・その通り、間違いのない人生だった。」と言いたいと思うのです。

 しかし私たちは一日を終える時でさえ、本当はあのようにしなければ良かった、間違いだらけの一日だった、と疲れ切ってしまうことがあります。ですが、そんな時に覚えておいていただきたいのは、一日の終りに、主の祈りを教えてくださったイエス・キリストのアーメンの声が私たちの祈りと共に聞こえて来るということです。

 聖書の創世記では、すべての創造を終えられた神様は、「見よ、非常に良かった。」と言われて、神様は安息の七日めを休まれました。それと同じように、私たちのつたない1日の労働を終えて布団に入った時、父なる神様は「非常に良かった」と言ってくださり、イエス・キリストはそれに「アーメン」と言ってくださるのです。

 そしてそれは私たちの人生の最後においても同じです。私たちの罪深い毎日はどこを見ても非常によくないものでした。しかしイエス・キリストは私たちの人生を非常に良いものにしてくださった。イエス・キリストと共に生きる私たちを父なる神様は非常に良かったと言ってくださった。その時に、私たちの人生を非常に良かったと言うことができるのです。

 「アーメン、その通りです。」 私たちには偽りがあれども神様のことばには偽りがありません。この確かさに人生を置いた私たちの人生はアーメン、と私たちは自分の終わりの時を「アーメン」と言うことができるようになったのです。そして世界の終わりの時においても私たちは全員で「アーメン」とその完成の日を迎えたいと思うのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.6.28放送でのお話しより )

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■真理はあなたを自由にする / 関根弘興

2016年06月27日 | Weblog
2016/6/27放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストはマタイの福音書11章28節で、「すべて疲れた者、重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。わたしはあなたがたを休ませます。」と語られました。
 
 この「休ませる」ということばには二つの意味があります。
 一つは、満足を与えるという意味です。イエス・キリストは人生に充足を与える方だという訳ですね。
 そしてもう一つは、開放するという意味です。
 ある時、鳩が足に釣り糸を絡めているのを見つけました。近寄ろうとすると逃げてしまうんです。やっとの思いで捕まえて絡まった糸をほどき、傷を消毒してあげました。そしてそっとその庭におきますと、いつの間にか鳩は飛んでいってしまったんです。あの鳩はもし私と出会わなければ命がなかったかもしれませんね。釣り糸が足に絡まって自分の力では飛べないくらい衰弱していたからです。でも絡んでいた糸を取り除いたら、自由に羽ばたいていったんです。

 キリストは私たちを自由にしてくださる解放者です。私たちを縛っている様々な束縛から解放してくださいます。罪責という束縛を解き、赦しを与え、過去の様々な後悔・不安の中に生きるのではなく神様に愛されてるものとして立ち上がって歩めるようにしてくださるんです。

 国立国会図書館の東京本館には「真理が我らを自由にする」というヨハネの福音書8章32節のことばが刻まれています。このことばが国会図書館の設立理念となったんですね。国会図書館のホームページには設立の趣旨の中に、真理に基づかない政治が悲惨な結果を生じさせたということからこのことばが掲げられた、と書かれています。しかしそれは政治の世界だけではありません。真理に基づかない人生も決して良い結果を生みませんよね。

 それでは真理とは一体何でしょうか。イエス・キリストはヨハネの福音書14章6節で驚くべきことを語られました。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
 イエス・キリストは、「わたし自身が真理そのものだ」と言われたのです。ですからイエス・キリストを知ることは真理を知る事です。そして真理なるイエス様を知ることによって私たちは自由になるんですね。

  (PBA制作「世の光」2016.6.27放送でのお話しより)

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■ソロモンの神殿建設 / 羽鳥頼和

2016年06月25日 | Weblog
2016/6/25放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日はソロモン王が神殿を建てたことについてお話しします。

 旧約聖書の歴代誌第二の3章にはソロモンの神殿建設の概要が記されています。ソロモンはまず神殿を建てる場所を定めました。それは父であるダビデが指定した所でした。そしてそこは神がダビデにご自身を現わされた場所でした。

 ソロモンは場所を定めると、そこに礎を築きました。その広さは長さおよそ26メートル、幅がおよそ9メートルでした。

 その礎の上に神殿は建てられました。神殿の前面に、長さが神殿と同じ幅で玄関があり、その高さはおよそ13メートルでした。玄関の内側には純金をかぶせました。神殿の全体は高価なもみの木材で覆い、それにも良質の金をかぶせました。神殿の内部にも金をかぶせ、その壁には神の臨在を表すケルビムという翼を持った像が刻まれました。更に、神殿の奥に、至聖所という特別な部屋を造りました。その広さは、縦横ともにおよそ9メートルで、神殿の幅と同じでした。そこにたくさんの良質の金をかぶせました。そしてこの部屋には両側の壁いっぱいに翼を広げたケルビムの像を置きました。その部屋の仕切りとして青、紫、紅および白亜麻布の垂れ幕を造りました。そしてソロモンは神殿の本堂の前の左右に二本の柱を立てました。彼はその柱にそれぞれヤキンとボアズという名をつけました。それは、神がその力をもって建てられる、という意味でした。

 ソロモンが作った詩が詩篇127篇にあります。その1節にこのようにあります。
 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
 
 日本の柱も同じソロモンの気持ちを表していたのです。神が神殿を建ててくださった。神の働きに私は用いられたのだ。神に用いられたことをソロモンはそう感謝したのです。
 神は人を用いて素晴らしい働きをする方です。神はあなたにも良い働きをさせてくださいます。明日は日曜日です。まず神を礼拝するためにお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.6.25放送でのお話より )
 
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■植物のいのちを見つめた 宮部金吾 / 岩井基雄

2016年06月24日 | Weblog
2016/6/24放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。
世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の最後の金曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は宮部金吾について学んでみましょう。
 宮部金吾は万延元年1860年に関東武蔵の国に生まれます。札幌農学校二期生として学び、聖書に触れ、救い主イエス・キリストを信じます。そしてへ神様の創造物の一つである植物に心を留め、研究を続けたのです。1881年、明治14年、札幌農学校を卒業し、2年間東京大学の派遣の後に札幌農学校の助教授として働き、植物園の開設を命ぜられていきます。宮部は一貫して植物学の教育研究に専念し、その学問的領域は細菌学また植物病理学、植物分類学、植物地理学、樹木額、アイヌ植物学など実に幅広い分野にわたり、研究対象も陸上の植物にとどまらず海藻類にも及びました。とりわけそれまで詳細な調査研究が行われていなかった昆布については北海道の沿岸各地で実際に採取して観察を行いました。今から120年も前の開拓途上の北海道は想像もつかないような困難な旅だったでしょう。しかし彼の調査報告によって今までは十分に顧みられなかった存在に光があたり、豊かに用いられ現在に至っているのですね。それは彼の神様の信仰から生まれていったものだったと言うことができるでしょう。敬虔なクリスチャンとしても宮部金吾は、弱く小さな存在にも神様の愛が届くようにと、札幌独立教会の創立と維持発展に尽力していくのです。

 聖書のことば
 「 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。
         新約聖書ルカの福音書12章27節、28節

 どんな小さな存在も神様の前には決して忘れられていません。神様の創造の素晴らしい作品であるあなたも、神様は永遠の愛で愛し、慈しみ、そして豊かに用いてくださいます。

  (PBA制作「世の光」2016.6.24放送でのお話しより)

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■そこで主に祈った / 福井 誠

2016年06月23日 | Weblog
2016/6/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「そこで主に祈った」です。それでは第一サムエル記8章6節から読んでみましょう。
 「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。

 イスラエルの指導者サムエルは年老いて自分の息子たちを後継者としました。ところが息子たちは利得を追い求め、賄賂を取り、さばきを曲げる者たちでした。正義を守ることよりも私腹を肥やすことに心を向ける者だったのです。ですからイスラエルの長老たちはサムエルのしたことを不服に思い、この機会にイスラエルが他国並みに王政を取り入れて王様を立てることを望んだのです。

 もちろんサムエルはそれが気に入りません。ただサムエルの偉いところは、そこで神様に祈ったところですね。サムエルは何とか自分の息子に後を継がせようと頑張ったり争ったりせずに、自分のしたことも含めて正しいことを示される神様に求めて、何が正しいことであるか何が求られるべきことであるかを探ろうとしました。

 そのようなサムエルに神様は、民の声を聞き入れよ、と指示されました。確かに私腹を肥やすことに熱心な者を国のリーダーにするなど神様も望んでおられなかったのでしょうね。しかしイスラエルの民の要求の問題も同時に神様は示されましたね。他国並みに王制を取り入れることは結果的に主を退けることになる、と。つまり物事を正しく導くのは王様ではなく目に見えない神様です。サムエルの息子は確かに指導者にふさわしくはなかったかもしれませんが、完全な人、完璧な指導者などいないのですね。求めるべきものは天地万物を支配しておられる唯一まことの神様、正しい神様の導きですね。国を正しく導いてくださるようにという神様への祈りです。

 人は誤り易く限界を持つものです。不完全で自己中心な罪に満ちた者ですね。それなのに人間は悲しいかな、弱さを持った人に頼ってしまいやすいものです。そういう矛盾があることを心得ておきたいものですね。そして完全な導きを与えてくださる神様にこそ信頼し、神の与えられる祝福の中に歩ませていただきたいものです。

(PBA制作「世の光」2016.6.23放送でのお話より )

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■恵みを得させて / 板倉邦雄

2016年06月22日 | Weblog
2016/6/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 恵(めぐみ)という名前の人はたくさんいます。恵みに溢れた人生を歩んでもらいたいという親の気持ちが込められていますね。実は神の人モーセも、「神様。あなたの前に恵みを得させてください。」と祈りました。


 「主なる神様。あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
                  (出エジプト記33章12-13節 口語訳聖書)

 モーセは謙遜な心を持って祈っています。「恵みを得ていることはわかっていますが、もしあなたの前に恵みを得ますなら」と祈りかけていますね。そして三つのことを神様に願い求めました。

 第一に、「どうかあなたの道を示してください。私の道ではなく、あなたの道を示してください。私はあなたの示す道を歩みたいのです。」
 イエス様は弟子たちに言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ福音書14章6節 口語訳聖書) 
 イエス・キリストのことばを信じて従う人生こそ神が示しす神の道ではないでしょうか。

 次は、「あなたを私に知らせてください。」
 主なる神様を知ることは神様と交わることを意味します。神様と交わることは私たちが永遠のいのちを持つ神様を経験的に認識することになるのではないでしょうか?
 イエス様はこう言われました。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ福音書17章3節 口語訳聖書) 

 そして第三は、「この国民があなたの民であることを覚えてください。」と願い求めました。
 私たちは神様の自然の恵みの中で生かされています。同時に私たちがこの人生を生きていくためには生きる道が必要です。神の示してくださる道こそ私たちにとって目的と意味があるからです。そのためには、神の心と計画を知らなくてはなりません。

 聖書のことばです。
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
                詩篇119篇105節 (口語訳聖書) 

  (PBA制作「世の光」2016.6.22放送でのお話より )

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■主の祈り -54 アーメン / 大嶋重徳

2016年06月21日 | Weblog
2016/6/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。主の祈りは、「アーメン」ということばで祈ります。

 祈りにはいろんなスタイルがあります。大きな声で祈る人がいたり、膝をたたきながら、(あるいは)手を天にあげながら祈る人もいます。聖書の中にも胸を打ちながら祈る姿や衣を引き裂きながら祈るなど様々な祈りの姿が描かれています。

 私は祈りの途中に何度も「アーメン!」と言う人に出会ってびっくりした事があります。私の育った教会の背景にそのような祈りはなかったからです。しかしその時、驚きながらもとても心が暖かくなったことを思い出します。アーメンとは「確かにその通りです」という意味です。その方は私が為す祈りに、「確かにそうです。本当にそうです。」と深く同意しながら一緒に祈ってくださったことに心強さを覚えたのです。

 私たちは自分の祈りに自信をなくすことがあります。祈りのことばがうまく出ずに祈りながら落ち込むことがあります。また祈りながらも神様からの孤独を感じることもあるでしょう。しかしアーメンということばは一緒に祈る人を孤独にしません。「アーメン」と誰かが祈ってくれるそのことばによって、私たちは神様の前で一人ではないことを知らされるのです。あなたが祈っとその祈りを、私も心からその通りだと祈っているよ。・・・そう私たちは感じることができます。また、たとえ私が祈れない時であっても、聖霊なる神が深いうめきをもって執り成してくださると聖書は約束します。その時、アーメンということばだけ小さく言うだけで、聖霊なる神の執り成しの祈りに、アーメンと言うことができたのです。つまりアーメンとは究極に、祈りのことばなのです。そのような心強さがこのアーメンにはいつもあります。

 だからこそ私たちも誰かの祈りの傍(そば)でアーメンを言う者でありたいと思います。誰かを赦せなくて苦しんでいる人に、あの人を赦したいのです、アーメン。この世界にある悪から救い出してください、アーメン。様様、日ごとの糧を与えてくださいますように、アーメン。その時、私たちのアーメンは一緒に祈る人にとってイエス様が言ってくださっているアーメンのような響きをもって励ましと勇気を与えます。あなたはあなたのアーメンをもって執り成しの奉仕ができるのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.6.21放送でのお話しより )

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