♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■まことの光への招き / 岩井基雄

2021年03月31日 | Weblog

2020/10/7放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

  今日も旧約聖書のモーセの生涯から学んでみましょう。 昨日は聖書が語る神様がエジプトを裁かれた時の神の招きを考えました。エジプトに対する神の裁きは全部で十ありますが、今日は七から九番目です。先の六つの裁きによって、全てに主権を持つ神様のわざが見事に現され、エジプトが偶像視していたものに神の裁きが下ったのです。 

 第七の裁きは未経験の規模の雷と雹でした。天候を司る神々に豊作を祈っていたエジプトの農作物が大打撃を受けたのです。 この裁きは災害が先に予告され警告されていました。それを聞き入れたエジプト人は被害に遭わなかったのです。半信半疑でも神の言葉に従った者は守られました。神のことばを聞かなかったエジプトの王は、「今度は私が間違っていた。【主】が正しく、私と私の民が悪かった。」(出エジプト記9:27)と告白します。 しかし、災いが去るとまた心を頑なにしたのです。

 第八の裁きはイナゴの大群でした。 先の裁きを免れた農作物も想像で絶する大軍の前にはひとたまりもありませんでした。 エジプトでは、この飛ぶイナゴは偶像視され、礼拝の対象でした。しかし、そのイナゴが大切な農作物を食べ尽くしたのです。エジプトの王は、「どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、【主】に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」(出エジプト記10:17 )と語ります。 そこで神は強い風でその大群を追い払われましたが、王はまたもや心を頑なにしたのです。 

 第九の裁きは暗闇でした。それは人の交わりを完全に遮断する暗黒でした。聖書はその裁きについてこう語ります。 
 「人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。」
        旧約聖書 出エジプト記10章23節 

 光が失われたエジプトでしたが、神の民のところには光があったのです。何という憐れみでしょうか。神の民も愚かさを抱えたままでした。しかし、神は民を憐み、光を与え、導き続けられたのです。闇や裁きはエジプトに対するまことの光への招きだったのです。
 あなたも招かれているのです。 


  (PBA制作「世の光」 2020.10.7放送でのお話より ) 
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、 
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ 

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■主権者である神の招き / 岩井基雄

2021年03月30日 | Weblog

2020/10/6放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日は旧約聖書のモーセの生涯から学びましょう。

 聖書が語る神様は異教に満ちたエジプトを十の不思議なわざで裁きました。その最初はエジプトのいのちであるナイル川が血に変わり、次にはそこから偶像でもあったカエルが大量に這い出しエジプトを苦しめ、三つめブヨという害虫による裁きでした。それらはエジプトとその偶像に対する神の裁きでもあったのです。そしてこの三つ目以降は、エジプトで魔術を行う呪法師たちも行うことができない、まさに神業でした。

 今日学ぶ三つも神の裁きのわざです。第四の裁きは蝿とも訳されるアブという昆虫の害でした。次々にいのちが誕生するように見える昆虫は偶像視されたのです。しかしアブによってエジプトは荒れ果ててしまいました。第五の裁きは疫病でした。その疫病はエジプトが偶像視した牛を含む家畜たちに害を与えたのです。しかし神の民イスラエルの地は守られ、アブも疫病も襲わなかったのです。第六の裁きは種物でした。かまどの煤(すす)によって人や家畜に害を与える膿みのです腫れ物となりました。エジプトの呪法師たちはそれを除くどころか自分たちもその腫物に侵され、モーセの前に出ることもできなかったのです。

 聖書が語る神様の圧倒的なわざがこの三つの裁きによって示されました。しかしモーセの祈りによって問題が解決すると、エジプトの王はなおも心を頑(かたく)なにし、奴隷状態としていた神の民イスラエルを解放しなかったのです。

 神はモーセを通して王にこう語りました。
 「今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。
 ・・・わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」
       旧約聖書 出エジプト記 9章14節、16節

 あらゆる出来事の背後に全てに主権を持つ神様の御手がありました。そしてすべてが真実な神様を知るための招きであり、神のみわざが世界に現わされるためでした。私たちも心からへりくだって、主権者である神様のもとに行きたいと思います。あなたも神様に愛され、招かれているのです。

  (PBA制作「世の光」 2020.10.6放送でのお話より ) 
 
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■わざわいを思い直された神 / 羽鳥頼和

2021年03月27日 | Weblog

2020/10/3放送
世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 イエス・キリストは、預言者は自分の故郷では尊ばれない、とご自分が故郷の人々に信じてもらえないことを語っておられました。
 キリストの以前にも、預言者が故郷の人々に尊ばれずに殺されそうになった出来事が旧約聖書に記されています。

 その預言者とはエレミヤという人です。南王国ユダのヨシヤ王の時代に、神殿から律法の書が発見されました。その律法の書に記されている神の教えを知ったヨシヤ王は宗教改革を行いました。預言者エレミヤはその改革に協力したのです。エレミアは人々に語りました。
 「神はあなたがたに、『わたしの契約を聞き守り行え』と語っておられる。しかしあなたがたは神に行き従わず、他の偶像の神々に従っている。それで神は言われる。『わたしは災いを下す。その時、わたしを呼び求めてもわたしは聞かない。』」

 ある時、神は故郷のアナトテの人々がエレミヤを殺そうとしていることを教えられました。アナトテの人々はエレミヤに非難されたことに怒ったのでしょう。神は「わたしがアナトテの人々に災いを下す」と言われました。ところが聖書には、神がアナトテの人々にその災いを下されたことが記されていません。ただその後70年以上経ってバビロンから帰還した人々のリストの中に、アナトテの人々が128人いたことが記録されているのです。

 神は災いを思い直されたのではないか、と私は思います。旧約聖書ヨエル書2章13節のみことばを思い出したのです。

 「神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」

 アナトテの人々は神を再び信じて従うようになったのだと思います。聖書はキリストの故郷の人々もキリストを救い主と信じたことを語っています。

 さて、この番組、『世の光』は10月5日月曜日からメッセンジャーが週替わりでメッセージをお届けするようになります。どうぞお楽しみに。


   ( PBA制作「世の光」 2020.9.26放送でのお話より )
 
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■朝明けのよろこび / 関根弘興

2021年03月26日 | Weblog

2020/10/2放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 今日は旧約聖書の詩篇30篇5節のことばを最初に紹介しましょう。 

 「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」

  これはイスラエルの国を統一したダビデが、大きな病であったか、または死の危険に見舞われるという、そんな経験を通して記したことばです。 

 人が自分の一生を全うして行くとき、順調な時もあれば逆境の時もありますね。 何が起こるかわからないのが人生です。 私たちは自分にとって、あって欲しくないもの、無くなって欲しいもの、そのようなものに時には助けられて生きている、という事実があるのではないかと思います。

 考えてみれば、誰もが苦悩が無くなればいいと思いますよね。 でもそうすると、すぐに自分の限界を忘れて調子に乗ってしまうことも多々ありますね。

 ダビデはこの詩篇の中でこんなことばを記しています。 
 「私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』」(6節 新改訳聖書2017)

 ダビデは自分の人生が順調に行っている時には自信に溢れていました。 成功、地位、名誉を手にして、私が揺るがされるはずがない、と自負していたのです。 しかし、人生に突然の困難な出来事が襲ってきました。彼はもう私は神様から見放されてしまったのではないか、そんな思いを持ったのです。 しかしその時、彼は真剣に心を開き、神様に祈り叫ぶ者となっていきました。 ダビデは逆境の中で改めて、神様の助けが必要であることを自覚していったのです。

 聖書が教えている神様は、この世界を創られ、永遠の存在者であり、何もない無から有を生み出すことのできる神様です。この方に向かって私たちは叫び求めて行くのです。 

 神様は私たちの叫びにどのように答えてくださるでしょう。苦難の中で神様に向かって叫び祈り求めて言ったダビデは、夕暮れがあっても必ず朝がくる、涙が宿ってもその後に喜びの叫びがある、と頷くことができたのです。私たちも同じように、「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」と告白し、歩んでいきたいものですね。

      (PBA制作「世の光」2020.10.2放送でのお話しより)
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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■ルカの福音書35 / 大嶋重徳

2021年03月25日 | Weblog

2020/10.1放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。

 今朝の聖書の箇所にはアセル族のパヌエルの娘で女預言者アンナと言う人が出てきます。女預言者という働きが実際はどのようなことをしたのか、彼女が何を預言したのかは記されていません。記されているのは、一緒に暮らした夫と死に別れ、84歳になっていたということです。 結婚期間7年の後に一人暮らしを続けていた女性でした。

 彼女は「宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた」とあります。「宮を離れず」とありますが、当時熱心な市民は朝の九時の祈り、昼の三時の祈りに仕事の手を止めて神殿に行き、祈りを捧げていました。アンナもまたそのように神殿に通う祈り手であったのです。

 しかも祈りに専念するために食を減らしたり、ある願い事のためには食事を断って祈ることもあった、と記されています。まさに生活まるごとで彼女は神様に仕えていたのです。

 私は牧師になって2年が経とうとしています。振り返って、私の心の支えになってきて下さった方々は誰かと言うと、「先生、祈っているよ」と朝の祈祷会に来てくださる高齢の方々の存在です。朝の祈祷会が始まるのは10時半です。 しかしもう9時半ごろから楽しそうにお喋りをする声がしています。賛美歌を並べて、座布団を並べて、祈祷会に来る他の人を待っていてくださる。「先生、早く来ちゃった」と毎週早く来ちゃう人生の大先輩が礼拝で私の背中をさすってこう言ってくださるのです。「祈っているよ」と。そのことばは決して口だけではなく確かに覚えて祈ってくださっている。 講壇に立つと、決まった席に必ず座っておられる方々の存在にどれだけの励ましと慰めを覚えてきたでしょうか。祈りに来る、礼拝に来る、このことがどれだけ当たり前のことではないか、ということを思います。歩いて教会に来るということがどれだけ大変なこととなっていくのか。私と同じように神殿の若い祭司たちはどれほどアンナに励まされたかと思います。早くに夫を亡くした女性にとって、どれだけの助言をアンナはしてあげられた(こと)でしょうか。

 歴戦の祈り手が教会にはとても必要です。 私もアンナのような歳の取り方をしたいと思います。神の前に進み出て、祈りに専念する老後、なんと尊い人生でしょうか。

 次回は11月2日から、続けてアンナのことを学んでいきたいと思います。  

    ( PBA制作「世の光」2020.10.1放送でのお話しより )

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■主であるわたしが語ったからだ / 福井 誠

2021年03月24日 | Weblog

2020/9/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。エゼキエル書26章14節から「主であるわたしが語ったからだ」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網干し場となり、二度と建て直されない。【主】であるわたしが語ったからだ。──【神】である主のことば。」

  ええ今日の箇所から28章までがイスラエルの近隣の国・ツロに対する預言となっています。それはパレスチナ北部の地中海沿いに位置する商業都市でした。その都市に向けて、紀元前586年、エルサレム陥落直後、神のことばが伝えられるのです。その内容は、ネブカドネツァルがその町を包囲しツロが壊滅的な打撃を受ける、というものでした。

 当日、ツロの人々はエルサレムを通る国際通商路において特別な通行税を課せられていました。 ですからエルサレムがバビロンによって滅ぼされた時に、その陥落を喜んだとされます。通行税の利権が自分たちに回ってきたからです。エルサレムに集中していたお金の流れは今度はツロという商業都市に流れ込み、ツロが豊かになるだろうというわけですね。

 しかしこのように自分の損得を考えて喜ぶツロを神は喜びませんでした。箴言には、「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、心躍らせてはならない。 【主】がそれを見て心を痛め、彼への怒りをやめられるといけない。」(箴言24章17、18節)とありますが、まさに神はツロの態度に心を痛められたのです。

 神はツロに裁きの宣告をされます。もはや原始的に網を打って漁をする以外に稼ぎの手段のない、そういう町になってしまう、と宣告されていますね。

 大切なのは生ける神の意志があるということです。しばしば人は商売敵が破れ去ると、そこに貪欲な夢を馳せることがあります。 次は自分の出番だと。そしてそのような人が現れると驚異を感じます。しかしどんなに時が味方しているようであれ、神がお許しにならなければ、そんな野心は露と消え去るものでしょう。なぜなら、「主であるわたしが語ったからだ」という生ける神の意志があるからです。実に恐るべき方は神様です。

 人生において神の意志を尊重する、そんなことは考えたこともない、という方もおられるかもしれませんね。 しかし、世の中の動きを注意深く見ながら悟りを得たいものです。

 では良き一週を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」2020.9.24放送でのお話しより )

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■惜別の言葉-1 / 板倉邦雄

2021年03月23日 | Weblog

2020/9/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は「惜別の言葉 その1」という題でお話ししましょう。使徒の働き20章の続きです。

 さてパウロはミレトスの港町から40 km 北にあるエペソの教会に使いを遣って、教会の長老たちを呼び寄せました。そしてパウロのところに長老たちが集まった時、パウロは彼らに最後の別れの言葉を語りました。
 「長老の皆さん。私が小アジアの地に足を踏み入れた最初の日以来、ユダヤ人の陰謀によって私の身に及んだ数々の試練の中にあって、主イエスに仕えてきました。」

 約二年に及ぶエペソ伝道を振り返っています。エペソ教会の長老たちは、伝道者パウロが(どれほど)苦難や悲しみ、試練の中で謙遜に主イエス様に仕えてきたか、よく知っていました。

 続けてパウロはこう語ります。
 「また、あなたがたの益になることは全て余すところなく話して聞かせ、教え、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと私たちの主イエスに対する信仰とを強く勧めてきたのです。」

 そうしたパウロの宣教の中心点は二つです。一つは、神に対する悔い改め。二つ目は、主イエス・キリストに対する信仰でした。

 神に対する悔い改めとは、神に対しその理性において自分の罪や過ちを認めること。そして心から謝罪し、意志において生き方を変える、と決心することです。悔い改めとは一言で言いますと、心と生活のお掃除と言っていいでしょうか。

 次に主イエスに対する信仰です。神の独り子である主イエス様が私たちの罪のために十字架で身代わりに罪の刑罰を受けてくださったのです。私たちの罪をご自分の命をもって償い、罪の奴隷から私たちを買い戻し、身受けしてくださり、自由にしてくださったのです。そのことを信じることです。

 家をきれいにするだけでは家を保つことはできません。誰が住むかということがもっと大切です。私たちは神に対して悔い改め、主イエス様を信じて、イエス様に住んでいただくことが大事なことです。

  (PBA制作「世の光」2020.9.29放送でのお話より )


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■龍馬暗殺に関わったとされる、今井信郎 / 岩井基雄

2021年03月22日 | Weblog

2020/9/28放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 第四月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は坂本龍馬暗殺に加わった今井信郎(のぶお)です。龍馬は慶応三年に京都大宮で暗殺されましたが、誰の実行かは今も不明です。しかし東京伝馬町の取り調べで、暗殺加担を自白した京都見廻組の今井信郎たちが有力です。幕府が治安維持のために新設したのが京都見廻組で,今井は剣の達人でした。自白した青年の命を奪うのは惜しい、と今井の助命嘆願に動いたのが西郷隆盛でした。一命を取り留めた今井は静岡に流されます。

 当時の静岡は敗退した幕府の武士たちが開墾を行っていました。明治5年に赦免された今井は、静岡直轄の八丈島などを経て明治12年に初倉村で第二の人生を始めます。元幕臣であった今井は村人から一目置かれ、農業を指導します。この時期に彼はキリストと出会うのです。
 
 静岡でのキリスト教の活動は明治4年、アメリカ人教師エドワード・クラークの赴任からだと言われています。まだキリシタン禁制が続く時代、旧幕臣たちはキリスト教を受け入れられず、宣教師たとちを切るために選ばれたのが今井でした。しかし聖書を開いた今井は内容が理解できず、宣教師暗殺を踏みとどまります。

 ある日、今井は取引のため横浜に向かい、現在の横浜海岸教会に入ります。攻撃の材料を得る目的でしたが、牧師の語る説教に驚きます。その教えがまさに正道だったからです。これは邪教ではない、と確信した今井は、静岡に帰るや否や地元の教会を訪ねます。そしてキリストを信じ、洗礼を受け、新しい命を得たのです。今井は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたキリストに人生の全てを賭けるということを決意します。彼から殺気や傲慢さが消え、農業指導では自ら肥桶を担ぐ野良仕事にも専念し、明治39年には初倉村の村長に就任します。78歳で召天するまで人々とともに歩み、キリストの愛を届け続けたのです。

 キリストはあなたにも語ります。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
      ヨハネの福音書14章6節

  (PBA制作「世の光」 2020.9.28放送でのお話より ) 
 
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■『平安だ、平安だ』と言う神の民 / 羽鳥頼和

2021年03月20日 | Weblog

世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 私たちは今、世界規模の新型コロナウイルスの感染拡大の中にあります。このようなコロナ禍にあって、これは神による災いだという方があるかもしれません。聖書はこのような災いについて、何と語っているでしょう。

 まず神と災いの関係についてお話しします。

 旧約聖書 イザヤ書45章7節で神ご自身がこのように語っておられます。

 「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。」

 創造主である神は災いをもつくり出すお方です。しかし果たして神のつくり出す災いは私たちを困らせ苦しめて最後に滅ぼしてしまう無慈悲な神のわざなのでしょうか。いいえ、聖書は神のなさる災いには神の正しい目的があることを教えています。今日は、イスラエルの歴史を語っている旧約聖書エレミヤ書6章から、ユダの国を襲った災いについてお話しします。

 ここで語られている災いとはバビロンによる侵略です。バビロンはユダ王国の都エルサレムを包囲して滅ぼそうとしたのです。どうして神はこのような災いをユダの国にもたらしたのでしょうか。それはユダの人々が他の国の神々を崇拝し、神の命令に従わなかったからです。

 しかしユダを滅ぼすことが神の目的であったのではありません。神はエルサレムの町についてこう言われました。「エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」(8節)

 神は何とか人々を救おうとされているのです。神はあわれみ深く情け深いお方であり、何とか人を救おうとされるのです。ところがユダの指導者たちは国の存亡の危機にもかかわらず、「平安だ、平安だ。」と言っていました。神が、自分を見つめて自分の罪に気づいて悔い改めなさい、と語っているのに人々は自分のことを顧みず神を神としなかったのです。

 私たちは創造主なる神のみことばを聞いて神を信頼する者となりましょう。

   ( PBA制作「世の光」 2020.9.26放送でのお話より )
 
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■失敗から学ぶ / 関根弘興

2021年03月19日 | Weblog

2020/9/25放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 イエス様の筆頭弟子であったペテロはイエス様を三度も否定してしまうという大失敗をしてしまいました。私たちは失敗を重ねる度に自分の価値が減少すると思うことがあります。また失敗したら愛される資格も価値もなくなると思い込んでしまうこともありますね。しかし聖書の見方は違います。神様は私たちが弱く失敗しやすい者であることをよくご存知です。ご存知の上で、私の目にはあなたは高価で尊い、という眼差しを注いでくださっているのです。

 神様が求めておられるのは、私たちが何でも自分の力で完璧に行うことではありません。決して失敗しないようになることでもありません。むしろ私たちが失敗を通して自分のありのままの姿を知り神、様の恵みと導きが必要であることに気づいて、神様の愛の中に留まりながら神様と共に歩むことを願っておられるのです。

 イエス様はペテロの裏切りを見て態度を変えられたでしょうか? イエスのペテロに対する態度は急に冷たくなったとは聖書のどこにも書いてありませんね。イエス様はなおも、三度も自分を否定したペテロに愛を示し続けておられました。

 イエス様は、私たちが失敗したとき、責めるのではなく赦し、癒し、学ばせ、新たな出発ができるように備えてくださるお方なのです。イエス様はペテロが三度も否定することを始めから知っておられました。予めイエス様は、「ペテロよ、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。励ます者になりなさい。」と言ってくださっていたのです。

 ペテロは新しい歩みを始めるにあたって、そのイエス様のことばを思い出し、大きな励ましを受けたことでしょう。しかもイエス様はことばで語るだけではありませんでした。十字架にかかり三日目に復活したイエス様は、ペテロがそのことばの通りに生きていくことができるように支え、助け、力を与えてくださるのです。

 イエス様は私たち一人一人にも同じようにしてくださいます。私が失敗しても私の価値は変わることはないということを自らに言い聞かせながら、イエス・キリストと共に歩んでいくことにいたしましょう。

      (PBA制作「世の光」2020.9.25放送でのお話しより)
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