♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエスを取り巻く連中 / 板倉邦雄

2024年11月30日 | Weblog

2024/08/24放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「イエスを取り巻く連中」という題でお話ししましょう。今日は、様々な思いを持ってイエス様を取り巻いている人々に注目したいのです。ヨハネの福音書の7章の25節からです。

 さて、エルサレムの都に集まった人々の中で、第一グループの人々はイエス様に対してこう言っていました。
 「この人はある連中が殺そうと思っている者ではないか。彼は公然と語っているのに、人々はこのことに対して何も言わない。役人たちはこの人がキリストであることを知っているのではなかろうか。私たちはこの人はどこから来たのか、知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は一人もない」

 この第一グループの連中はイエス様を客観的に見ているようです。イエス様がどこから来たかを知っていました。しかしイエス様がキリスト・救い主であることを知らなかったのです。

 次にイエス様はこの日も神殿の境内の中で教えながら叫びました。
 「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っている。そうだ、わたしは自分から来たのではない。わたしをつかわされた方、神様は真実である。しかし、あなたがたは父なる神を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方の元から来た者で、その方がわたしをつかわされたのである」

 私たちにとって知るということは単なる頭の知識ではないようです。相手の心を知り、理解し、分かってあげることではないでしょうか。それを聞いた人々の中でイエス様を捕えようと計画していた第2のグループの人々がいました。これがイエス様を取り巻く二番目の人たちでした。
 しかしこの時は誰もイエス様に手をかける人はいなかったのです。イエス様の時が来ていませんでした。

 しかし群衆の中の多くの人々、それが第三グループになりますが、イエス様のことを信じていた人々でした。「キリストが来てもこの人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」 イエス様を信じていたグループの人々は、すべてのユダヤ人が昔から期待した来たるべきキリスト以上の信頼と信仰をイエス様に対して抱いていたのです。

 私たちはこの第三グループに入りたいですね。私たちはイエスがキリスト・救い主であることを知っているのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.24放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■うわべで人を裁かない / 板倉邦雄

2024年11月29日 | Weblog

2024/08/23放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「うわべで人を裁かない」という題でお話しましょう。法律や規則というものは人のためにあることを忘れないようにしましょう。法律や規則のために人がいるのではありません。ヨハネの福音書の7章21節からです。

 さてイエス様は一つのわざのことを話し出しました。その一つのわざとはイエス様が、38年の間病気で悩み苦しんでいた人を安息日に癒やしてあげた事件ではないでしょうか。人々はそれを見て驚いただけではなく、安息日の律法を破ったとしてイエス様を批難したのです。
 モーセの十戒の四番目の命令に、「安息日をおぼえてこれを聖とせよ。何のわざもしてはならない」とあります。人を癒やすことは、「なんのわざもしてはならない」に触れたことになるからです。

 しかしイエス様は言われました。「モーセはあなたがたに割礼を施すことを命じたので、あなたがたは安息日にも人々に割礼を施しています」とイエス様はおっしゃいました。
 割礼とは、アブラハムの時代から神様との恵みの契約に入るしるしとして生まれたすべての男の子の肉体に施す手術のことです。モーセの律法にも命令されていました。ですから、「なんのわざもしてはならない」と命じられていた安息日にも割礼の儀式のわざが行われていたのです。
 「ところが、」とイエス様のことばが続きます。「もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうしてそんなに怒るのか。うわべで人を裁かないで、正しい裁きをするがよい」
 割礼を施すことも、病人を癒やして元気にすることも大事なことです。両方とも神様のわざであるからです。

 「しかしどっちがより大切ですか?」とイエス様は人々に質問しました。
 神の律法であるモーセの十戒は、何のために定められ命令されたのでしょうか。その目的は私たちが安全で安心な生活ができるためですね。車道に設置されたガードレールのようなものです。このガードレールを超えたら危険ですという表示です。私たち人間のために法律や規則が作られ定められているのです。法律や規則を守ることよりも大事なことがあることをイエス様は教えてくださいました。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.23放送でのお話しより )


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■律法を行う者は一人もない / 板倉邦雄

2024年11月28日 | Weblog

2024/08/22放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「律法を行う者は一人もない」という題でお話ししましょう。
 律法とは、神様から与えられた法律です。一般に法律とは私たち人間が作った法律ですね。世界の法律の基礎にモーセの律法が用いられているようです。今日は、モーセの律法を与えられているのに一人もその律法を守ろうとしないことを批難するイエス様のことばです。ヨハネの福音書7章19節からです。

 さて、イエス様のユダヤ人たちに対する批難のことばが続きます。
  「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それなのに、あなたがたのうちには、その律法を行う人が一人もない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」

 イエス様の教えに対し、「この人は正式な学問をしてないのに、モーセの律法の知識をどこで学んだのだ」と人々は批難していましたね。
 批難している人々は正式にモーセの律法を学んだ人々でしょう。しかしながら、素晴らしいモーセの十戒は「絵に描いた餅」であり何の役にも立ちませんでした。

 「あなたがたのうちには、モーセの十戒を行う者が一人もいない」と彼らはイエス様に批難されていたのです。
 なぜなら、目の前にいる神の子イエス様を殺そうと思っていたからです。「あなたは殺してはならない」とはモーセの十戒の第六番目の戒めです。人を憎んで殺そうと思う人は、すでにこの六戒だけではなく十戒すべてを破っているのです。飲み水に一滴の青酸カリが入れば飲み水全体を飲むことはできないのです。

 さて翻って、私たちも神の律法を犯しているのではないでしょうか。「罪とは、不法である」と聖書は規定しています。ですから私たちも神の律法を破る罪人です。神の律法の代表であるモーセの十戒は三つの 領域すなわち分野の罪を犯してはならないように命じています。

 まず法律的な罪です。「殺すな」「盗むな」「偽証するな」。次に道徳的な罪です。「父と母を敬え」「不品行をするな」「人のものを貪るな」。そして三つ目は宗教的な罪です。「偶像を崇拝するな」であります。

 私たちもこの三つの領域で罪をおかす罪人ではないでしょうか? 「律法を行う者は一人もない」のであります。私たちは、神に対しても、人に対しても、そして自分に対しても罪深い者なのですねえ。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.22放送でのお話しより )


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■イエスの教え / 板倉邦雄

2024年11月27日 | Weblog

2024/08/21放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「イエスの教え」という題でお話ししましょう。ヨハネの福音書7章14節からです。

 さて、仮庵の祭も半ばになった頃です。イエス様はエルサレムの神殿に上り、全国から巡礼に来た人々に教えられました。
 するとユダヤ人たちは驚いて互いに言ったのです。「この人は正式な学問をしたこともないのに、どうして律法の知識を持っているのだろうか。」
 「律法の知識」というのは旧約聖書全体の知識ということです。モーセの律法の書、預言書、そして詩書という三部作からなる旧約聖書をイエス様は人々に語り、教えたからです。

 イエス様はエルサレムの都で旧約聖書の正式な学問を学ぶことはありませんでした。しかし旧約聖書の知識を豊かに持っていたのです。
 その理由をイエス様は次のように言いました。
  「わたしの教えはわたし自身の教えではなく、わたしをつかわした方、神の教えである」

 イエス様の教えは自分をこの世に遣わした天の父なる神様の教えであって自分の考えや思想ではない、と言っているのです。
 イエス様は神から遣わされた神のひとり子です。ですから、父なる神そのものの教えを具現するのは朝飯前のことでした。

 そしてこう付け加えます。
  「自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされた方の栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない」

 イエス様の33年間の生涯、特に最後の3年間の公生涯は、父なる神様の栄光と素晴らしさを求める生涯でした。その生涯は真実の生涯であり、偽りのない生涯だったのです。まさに神様の教えを信じ、神の教えに従っていました。

 イエス様の教えがこの21世紀の現代に至るまで私たちにとって有益であるということは何を意味しているのでしょうか。それは、イエス様の教えが、時代を超え、また民族を超え、文化を超え、真実なものであり、偽りのないものだからです。その根拠はイエス様が天の父なる神様のみこころをひたすら実践していたからです。

 私たちの人生の目的も神様の栄光を現わし、神様を喜ぶ生涯でありたいものです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.21放送でのお話しより )


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■あの人はどこにいるのか / 板倉邦雄

2024年11月26日 | Weblog

2024/08/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「あの人はどこにいるのか」という題でお話ししましょう。自分たちにとって大切な人であるならば、その人を捜し回ることは当たり前のことです。その人が自分たちにとって待ちに待った救い主であれば、なおさらのことですね。ヨハネの福音書7章10節からです。

 さてイエス様は自分の兄弟たちの勧めを断ってガリラヤに留まっていました。ところが自分の兄弟たちが仮庵の祭にユダヤに行った後で、イエス様は人目を忍んで密かに祭りへ行かれたのです。

 ところで、ユダヤのエルサレムの都では、年に一度の仮庵の祭でごった返していました。世界中からユダヤ人たちが巡礼の旅をしながら祭りのために都に集まっていたのです。イエス様にとっては二度目のエルサレム訪問となりました。
 一回目の時に、イエス様の言動を知っていたユダヤ人たちは、今年の祭りにもイエスという人物が来ているのではないかと思い、口々に「あの人はどこにいるのか」「あの人を知らないか」と言いながらイエス様を捜し回っていたのです。

 「あの人」とはイエス様を捜し求める人々にとっては、自分たちが待ちに待った「キリスト」「救い主」ではないか、という意味が込められていたのではないでしょうか。ダビデのような王様であり、私たちの愛する祖国をローマ帝国から解放する人、そしてモーセのような預言者であり、外国人のヘロデ王の圧政から自由にする人、そのような「あの人」を、祭りに来た人々はイエス様の中に求めていたのです。
 しかも、祭りに集まった群衆の中にはイエス様についていろいろと噂が立っていました。ある人々は「あの人は良い人だ」と言い、他の人々は「いや、あれは群衆を惑わしている」と言っていました。しかし、ユダヤ人たちの指導者たちを恐れて、イエス様のことを公然と口にする者はいなかったのです。

 さて翻って私たちはこの三者のうちの誰でしょうか? 「あの人はどこにいるのか」とイエス様を捜し求める人ですか? 「あの人はただのいい人だ」と言う人でしょうか? それとも、「いや、イエスは人々を惑わす人だ」と言う人でしょうか? 一番最初の人、イエス様を捜す人になりたいものですね。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.20放送でのお話しより )


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■わたしの時はまだ来ていない / 板倉邦雄

2024年11月25日 | Weblog

2024/08/19放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしの時はまだ来ていない」という題でお話ししましょう。
 「わたしの時はまだ来ていない」とは、イエス様の兄弟たちが、「ユダヤで仮庵の祭があるのでこんな田舎に引っ込んでいないで、みんなの前に自分を公に現わした方がいいのではないか」と言った時のイエス様の答えでした。ヨハネの福音書7章6節から9節です。

 さて、この「わたしの時はまだ来ていない」というイエス様の答えには二つのことが考えられます。
 一つは、「わたしがユダヤの仮庵の祭に行く時はまだ来ていない」という意味に取れます。
 もう一つは、イエス様がユダヤに行き苦難を受けて十字架にかかる時はまだ来ていない、と取ることができます。

 イエス・キリストの時、すなわち神の時というものは神の素晴らしさがもっとも現わされる時であり、私たちにとっても最善の時である、ということです。

 しかしイエスの時と比較して、「あなたがたの時はいつも備わっている」とイエス様は兄弟たちに答えました。
 兄弟たちの時はいつも用意され準備されているのです。イエスの兄弟たちを含め誰もが祭に行くのも行かないのも自由であり、祭に受け入れられ、祭は多くの人々を待っていました。
 一方、イエス様にとっては自分を殺害しようとするユダヤ人たちが祭で待ち構えていたのです。しかし、イエス様の十字架の死はこのことばの一年後でした。ですから、「わたしの時はまだ来ていない」とイエス様は言われたのです。

 そして、人々から憎まれ殺されるその理由をイエス様はこのように語りました。「この世があなたがたを憎むことはあり得ない。しかし、わたしは憎まれている。わたしが世の行いの悪いことを証ししているからである」
 イエス様の兄弟たちはこの世と仲良くしていましたのでこの世から憎まれることはありませんでした。しかしイエス様はこの世の悪を断罪していたのです。ですからこの世からは憎まれました。

 さて、聖書の中に、「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのだから」ということばがあります。私たちの前にはいつも時が用意され準備されているのです。その時を悪のためではなく神の時として生かしてまいりましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.19放送でのお話しより )


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■本当の豊かさは満ち足りる心に / 水谷 潔

2024年11月23日 | Weblog

2024/08/17放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。 

 「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く。」 これは19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウエルのことばです。『幸福について』という題名の書物に書かれている名言です。この書物の中でショーペンハウエルは、人の財産についての満足は「分数」のようだと説明しています。どれだけ持っているかという所有が分子で、どれだけ欲しいかという要求が分母だと言うのです。

 たとえば分母が100万円の人は100万円あれば大満足ですが、分母が1億円の人は100万円を持っていても何千万円も持っていても不満で、もっと欲しいと思うわけです。そして海の水を飲めば飲むほど喉が渇くように、持てば持つほどもっと欲しくなるのが富というものです。

 分数の分子が増えると、一緒に分母も増えていきます。ですから、どんなに大金を手にしても満足できなくて、もっと欲しいと思います。多くを与えられても心満たされることがない、って何という不幸でしょう。人間の欲望には際限がないと言われますが、その通りでしょう。

 持てば持つほど欲しくなってしまう私たちに対して聖書はこう語り掛けています。新約聖書のテモテへの手紙第一 6章6節をお読みます。

  「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です」

 と。

 「満ち足りる心を伴う敬虔」が本当の満足を私たちに与えます。神様を信じ、神様と共に歩み、聖書のことばに歩もうとする敬虔な生き方、それが私たちに「満ち足りる心」を与えます。敬虔な歩みは私たちを、小さなことにも感謝し与えられているもので心満たされるように造り変えてゆきます。分数で言えば、分子が増えても分母が大きくならず、心満たされて歩むことができる自分へと変えられていくのです。

 多くを持ちながら心満たされることのない人生と、多くを持たなくても心満たされて歩む人生、どちらが幸せでしょうか? 
 新約聖書のテモテへの手紙第一 6章6節は言います。

 「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です」

 ラジオの前のあなたも聖書の記す神様を信じて、満ち足りる心をもって毎日を送りませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.17放送でのお話しより )


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■教会の鐘の音は希望の響き / 水谷 潔

2024年11月22日 | Weblog

2024/08/13放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。 

 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」 これは平家物語の書き出しのことばです。お寺の鐘の響きは趣のあるものですが、以前私は、お寺の鐘の響きと教会の鐘の響きを比較する文章を読んだことがあります。それは昔活躍されたある日本人牧師が記したものです。

 その概要を私なりのことばでお伝えしますと、お寺の鐘は外から打つのでゴーンという憂いのある響きがする。一方、教会の鐘は内側から鳴らすのでカーンという明るい響きがする。そのようにイエス・キリストを救い主として内側に迎えるなら変わることのない希望が与えられます、という内容です。

 教会の鐘の響きは私たちに希望を感じさせるものですが、もし私たちが自分の外側に希望を見出そうとするならどうでしょう? 希望を持てるときもあれば持てないときもあるでしょう。なぜなら、私たちの外側は常に移り変わっていくからです。

 しかし、いつも変わることなく希望を与えてくださるイエス・キリストが私たちの内側にいらっしゃるならどうでしょう? イエス様が教会の鐘のように内側から私たちに働きかけてくださるなら、私たちは外側の状況に影響されることなく、いつでも希望を響かせることができるのではないでしょうか。

 新約聖書のローマ人への手紙10章11節は、こう記しています。
  「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』」

 「この方」とはイエス・キリストです。イエス様に信頼するなら失望はありえません。失望しそうな状況が訪れても、失望で終わることはないのです。試練や苦しみの真ん中にあっても、ご自分を信頼する者にイエス様は希望を与えてくださいます。

 お寺や教会の鐘の音を聴くことがあったら、ぜひ今日のお話を思い出してください。イエス様を救い主として心に迎えるなら、内側から希望の響きを放つ人生が始まります。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.13放送でのお話しより )


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■争いの道具から平和の道具に / 水谷 潔

2024年11月21日 | Weblog

2024/08/15放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。 

 今、海外の方々に日本刀が大人気だそうです。日本刀を鑑賞することができる博物館が日本には幾つかあるのですが、そこには海外から多くの方が訪れています。使われなくなった昔の武器が美術品として評価され、今もそれを造る職人がいるというのは世界的に見ても極めて珍しいことだそうです。さらに近年は日本のアニメに登場する日本刀に魅了される海外の方も増えているのだとか。

 かつて人を傷つけ命を奪っていた日本刀は、今や美術品として海外の人たちを惹きつけています。人と人とが争うための武器は国を超えて人と人を結び付けるものへと変えられたのです。

 このニュースを知った時、私は一つの聖書のことばを思い出しました。それは旧約聖書イザヤ書2章4節です。

  「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。
   彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。
   国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」

 預言者イザヤは、神様の審判によって最終的にこの地上から戦争がなくなり、武器は不要となり農具に打ち直される日がやって来ることを語っています。

 実はこの聖書のことばは国連本部の広場に置かれたモニュメントの一つに記されています。神様が最終的に実現してくださる全世界的な平和は国際社会の理想でしょう。

 その一方で、聖書は「平和をつくる者は幸いです」(マタイの福音書5:9、参照ヤコブの手紙3:18)と人間の側が平和を実現していくべきことも記しています。神様が実現してくださる最終的な平和を思い見ながら、私たちが戦争のない世界の実現に向かって一歩でも前進することを神様は願っておられるのでしょう。

 人が傷つけ合う道具であった日本刀は国を超えて人を結び付ける美術品となりました。そして聖書は、人の命を奪ってきた武器がいのちを育て、人を活かす農具に打ち直される日が来る、と語っています。

 今日は終戦記念日です。

 「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。
  国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」

 この聖書のことばを胸に、国際社会の平和を、戦争のない世界の実現を願い、祈ってみてはどうでしょう。


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.15放送でのお話しより )


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■手のひらにあなたの名を刻む神 / 水谷 潔

2024年11月20日 | Weblog

2024/08/14放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。 

 時々高齢のクリスチャンから、もし自分が認知症などで記憶を失って神様のことを忘れてしまったらどうなるんだろう、という心配の声をお聞きします。きっと、信じてきた神様の記憶が消え去ったら、救われていることも取り消しになるんじゃないか、と心配になさっているんでしょう。
 そんなとき私はいつもこう答えています。「大丈夫ですよ。記憶がなくなっても あなたの信仰はなくなりませんし、救いも取り消しにはなりません。あなたが神様を忘れても 神様はあなたを決して忘れてはいませんから。」

 旧約聖書イザヤ書49章15節にはこう書かれています。
  「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
   たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」

 母親が自分の乳児であるわが子を、お腹の中のわが子を、忘れることなどあり得ないでしょう。たとえ母親がわが子を忘れることがあったとしても神様はあなたを忘れることはない、とおっしゃいます。

 さらに続く16節にはこう書かれています。
  「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」

 これは例えなのですが、神様の手の平には、救われた 神の子となった者の名前が記されているんです。いや、記されているのでなく刻まれている、というのです。それはインク書きでなく入れ墨です。インクなら消えるかもしれませんが、入れ墨ですから絶対に消えることがありません。

 聖書が記す救いというものは人間側の記憶の有無に左右されることではありません。ただただ信じた者の名を手のひらに刻む神様の側に救いの確かさはあるのです。

 神様が手の平に名を刻むかのように忘れることがないのはその愛のゆえです。母親がわが子を思うその愛に勝る愛で 神様はあなたを愛しておられます。その愛のゆえに神様はあなたを救ってくださるのです。そして、この愛のゆえにその救いは取り消されることがないのです。

 ラジオの前のあなたもこの神様の愛を受けとめて歩みませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2024.8.14放送でのお話しより )


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