2021.2.13放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス様はゴルゴタ「されこうべ」と名付けられた場所で十字架につけられました。
聖書はイエス様の痛々しい 苦しみの姿を事細かく描くことよりも、イエス様こそ旧約聖書で預言された正真正銘の救い主であることを示すことに重点を置いて書かれています。
兵士たちが、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたそのことも、兵士たちがくじを引いてイエスの着物を分けたということも、旧約聖書に記された救い主の預言の成就となる出来事でした。
またイエス様に対して人々は容赦なく罵倒しました。道を行く人々は頭を振りながら、「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りてきて自分を救ってみろ !」と罵りました。またユダヤの宗教指導者たちは「他人は救ったが自分は救えない。十字架から降りてこい! 我々はそれを見たら信じるから。」とイエス様を嘲りました。
しかし、こうした人々の罵倒さえも旧約聖書で記されていることの成就であったと聖書は教えるんです。詩篇の22篇には、
私を見る者はみな 私を嘲ります。
口をとがらせ 頭を振ります。
「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。
主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」 (7節、8節)
このように書かれていることばの通りのことが起こったわけです。
イエス様は神の本質を持っておられる方ですから、十字架から降りてご自分を救うこともできました。天の大軍団を招集して、敵対する人々を蹴散らすこともおできになりました。しかしそうなさいませんでした。
なぜでしょうか。イエス様が私たちの罪を全て背負い十字架にかかり、罪のもたらす 罰を呪いを全て身代わりに引き受けてくださるそのことこそが神様のご計画だったからです。
イエス様は人の救いの成就のために十字架への道に従順に従われました。それは私たち一人一人を愛しておられるからです。
もしイエス様がご自分を救うために十字架から降りてしまったら私たちには救いがありません。イエス様を十字架上にとどめたのは、両手両足を貫いた太い釘の力ではなく、私たちを救わずにはおられないイエス様の愛の力だったのです。
(PBA制作「世の光」2021.2.13放送でのお話しより)
***
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。