♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■人々の罵倒 / 関根弘興

2021年07月31日 | Weblog

2021.2.13放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様はゴルゴタ「されこうべ」と名付けられた場所で十字架につけられました。

 聖書はイエス様の痛々しい 苦しみの姿を事細かく描くことよりも、イエス様こそ旧約聖書で預言された正真正銘の救い主であることを示すことに重点を置いて書かれています。


 兵士たちが、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたそのことも、兵士たちがくじを引いてイエスの着物を分けたということも、旧約聖書に記された救い主の預言の成就となる出来事でした。

 またイエス様に対して人々は容赦なく罵倒しました。道を行く人々は頭を振りながら、「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りてきて自分を救ってみろ !」と罵りました。またユダヤの宗教指導者たちは「他人は救ったが自分は救えない。十字架から降りてこい! 我々はそれを見たら信じるから。」とイエス様を嘲りました。

 しかし、こうした人々の罵倒さえも旧約聖書で記されていることの成就であったと聖書は教えるんです。詩篇の22篇には、

   私を見る者はみな 私を嘲ります。
    口をとがらせ 頭を振ります。
   「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。
    主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」 (7節、8節)

  このように書かれていることばの通りのことが起こったわけです。

 イエス様は神の本質を持っておられる方ですから、十字架から降りてご自分を救うこともできました。天の大軍団を招集して、敵対する人々を蹴散らすこともおできになりました。しかしそうなさいませんでした。

 なぜでしょうか。イエス様が私たちの罪を全て背負い十字架にかかり、罪のもたらす 罰を呪いを全て身代わりに引き受けてくださるそのことこそが神様のご計画だったからです。

 イエス様は人の救いの成就のために十字架への道に従順に従われました。それは私たち一人一人を愛しておられるからです。

 もしイエス様がご自分を救うために十字架から降りてしまったら私たちには救いがありません。イエス様を十字架上にとどめたのは、両手両足を貫いた太い釘の力ではなく、私たちを救わずにはおられないイエス様の愛の力だったのです。

      (PBA制作「世の光」2021.2.13放送でのお話しより)
 ***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■どくろと呼ばれる場所 / 関根弘興

2021年07月30日 | Weblog

2021.2.12放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

  イエス様はゴルゴタ「されこうべ」という何とも不気味な名前の場所で十字架につけられました。

 ところで不思議なことに、どの福音書もイエス様を十字架につけた時の生々しい光景は描写していません。ごく短く淡々と記しているに過ぎないんです。イエス様が両手両足を釘付けにされたことは、後に弟子のトマスがイエス様が復活されたことを信じることができず「私はその手に釘の痕に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じない。」と語っているので、イエス様が釘付けされたということが分かるんです。

 聖書はイエス様の痛々しい苦しみの姿を事細かく描くよりも、イエス・キリストこそ旧約聖書で預言された正真正銘の救い主であるということを示すことに重点が置かれ書かれているんです。ですから私たちは十字架の記事を読むとき、ただイエス様が苦しまれたということに心痛めて終わるのではなく、イエス・キリストこそ旧約聖書で預言されたまことの救い主であることを認めることが大切なんです。

 実はイエス様を十字架につけた兵士たちや十字架を眺めている人々の無自覚な行動の中に、旧約聖書の救いに関する預言が成就したのだということが記録されています。

 その一つは、兵士たちが没薬を混ぜたぶどう酒をイエス様に与えようとしたという記録です。実はこれは旧約聖書の詩篇69篇21節に、「彼らは私の食べ物の代わりに 毒を与え 私が渇いたときには酢を飲ませました。」という預言が成就したのだということを示しているんです。この詩篇の69篇は、神様に信頼する詩人が身内の者に裏切られた苦痛を歌った詩です。救い主の苦難を預言したものとして読まれてきました。旧約聖書を知っている人ならよく知られている預言で、それがイエス様の十字架において成就したのです。

 そして兵士たちがくじを引いてイエス様の着物を分けたという記録も出てきます。これもどうしても示さなければならないほどの重要な出来事とは思えませんね。しかし四つの福音書すべてがこの出来事を記録してるのです。なぜなら詩篇22篇(18節)に、「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。」とあるからです。その通りのことがイエス様の十字架において起こったのです。

      (PBA制作「世の光」2021.2.12放送でのお話しより)
 ***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■クレネ人シモン その後 / 関根弘興

2021年07月29日 | Weblog

2021.2.11放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストは十字架を背負い、道の途中で何度も何度も倒れては立ち上がり、容赦の無い兵隊の罵声を浴びせられながら歩いて行かれたことでしょう。

 その時でした。ローマ兵は一人の男を無理やり引っ張ってきて、イエス様の十字架を背負わせたのです。その男はシモンという名のクレネ人でした。

 実はこのシモンについてはどの福音書を見ても、イエス様の代わりに十字架を担いだことしか書かれていません。しかしマルコの福音書には、このシモンがアレキサンドルとルポスとの父である、とわざわざ記しているんです。ですからこの福音書を読んだ人たちの多くがシモンの息子であるアレキサンデルとルポスという兄弟をよく知っていたということになりますね。

 後に新約聖書の多くの手紙を記したパウロがローマの教会に宛てた手紙にこんな一文が記されています。

「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」
            (ローマ人への手紙16章13節 新改訳第三版)

 ここに出てくるルポスが、十字架を担いだシモンの息子ルポスではないかと考えられるのです。つまりイエス様の十字架を背負ったシモンの息子ルポスが、今はローマにいるそのお母さん、つまりシモンの奥さんですよね、その奥さんがパウロを世話していた人だというわけです。このことを考えると、シモンがエルサレムで十字架を無理やり吸わされた出来事が後に家族がクリスチャンになっていく大きな転機となっていったと考えられるのです。

 シモンは最初、自分の身の不運を嘆いたかもしれません。しかし十字架を背負わされたシモンは傍らを歩いておられるイエス様を見ながら、「このイエスとは一体何者なんだろう。大きな罪を犯したようには見えないし、罵られても嘲られても憎しみの眼差しを向けるわけではない。一体どういうお方なのだろう。」 そんなふうに考えたでしょう。彼は十字架につけられたイエス様の姿をじっと見つめていたのでしょう。十字架でイエス様が言われたことばを耳にしたはずです。それにイエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、「この方はまことに神の子であった。」というのを聞いて、シモンも同じような思いを持ったに違いありません。そしてイエス様を救い主として信じ、信仰が家族にまで広がったとも言えるのです。

 人生最悪の日が救い主に出会う日となっていったのですね。

      (PBA制作「世の光」2021.2.11放送でのお話しより)
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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■クレネ人シモン / 関根弘興

2021年07月28日 | Weblog

2021.2.10放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様は自分が磔にされる十字架を背負い、処刑場まで歩いて行かれました。その道はその後、「悲しみの道」ヴィア・ドロローサと呼ばれるようになりました。約1 km ほどの道です。イエス様は十字架を背負い、道の途中で何度も何度も倒れては立ち上がり、容赦のない兵隊の罵声を浴びせられながら歩いて行かれたことでしょう。

 その時でした。ローマ兵は一人の男を無理やり引っ張ってきて、イエス様の十字架を背負わせたのです。その男はシモンという名のクレネ人でした。クレネは北アフリカの地中海に面した都市でした。そこにはユダヤ人も多く住んでいました。

 このシモンという人はクレネ近郊の田舎に住んでいたようでした。彼は念願かなってエルサレムに巡礼のためにやってきました。ちょうどその時、年に一度の最大のお祭りの過ぎ越し祭の時でしたので、世界中のユダヤ人たちがエルサレムに集まってきていました。
 しかしシモンが町に入ると、過ぎ越しの祭りのせいだけではない、異様な雰囲気に満ちていました。野次馬が溢れ、罵声が飛び、涙する者もあり、そこでとんでもない光景を目撃したのです。それは、何度もよろめき倒れながら十字架を背負う男の姿でした。もちろんシモンにはそれが誰なのかわかりません。せっかくエルサレムに来たのに見たくないものを見てしまったと思ったかもしれません。

 その時、突然、ローマ兵がシモンの腕をつかんで引きずり出し、「おいお前。イエスの十字架を代わりに背負え」と命令したのです。彼は、なんて運が悪いんだ、と思ったに違いありません。しかしローマ兵に逆らうことなどできません。周りの人目を考えてみてください。十字架を背負っている人をどんな目で人は見るでしょう。「ああきっとあいつも悪いことでもしたのではないかあ。きっと何かの罰を受けてるに違いない。」 彼は必死で、私は何の関係もありません、と説明したかったに違いありません。

 シモンにとってこの突然の出来事は、栄(は)えあるエルサレム巡礼が最も惨めな人生最悪の日になってしまったと思えたに違いありません。しかし十字架につけられたイエス様を見たとき、最悪の日が救い主に出会った栄えある日と後に変えられていくのです。

      (PBA制作「世の光」2021.2.10放送でのお話しより)
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■悲しみの道 / 関根弘興

2021年07月27日 | Weblog

2021.2.9放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今週は、イエス様の十字架への道、ということでお話をしています。

 イエス様は当時の宗教家たちの妬みによって、総督ピラトのもとで裁判を受けることになりました。再三、ピラトは「イエス様には罪は見当たらない」と宣告していたのですが、群衆は納得しませんでした。そしてピラトは、ヘブル語でガバタ「敷石」と呼ばれる場所で裁判の席に着いたのです。
 
 群衆は「イエスを十字架につけよ」と口々に叫び始めました。

 そしてついにピラトは、イエス様を十字架につけるために引き渡したのです。

 イエス様は自分が磔けになる十字架を背負い、処刑場まで歩いて行かれました。その道はその後、「悲しみの道」ヴィア・ドロローサと呼ばれるようになりました。約1キロほどの道です。

 十字架は約4.5メートルの縦の棒と2メートルぐらいの横棒を別々に運び、処刑場で組み合わせることになっていました。囚人が担ぐのは横棒だけであったと言われていますが、横棒だけでも4、50 キロはあったのではないかと思います。

 考えてみてください。イエス様は前日の夜逮捕され、合計で6回もの審問を受けられました。一睡もされていなかったでしょう。そして残酷な鞭打ちによって背中はザクロのように割れ、血だらけです。その背に重い十字架を背負って歩いて行かなければならないのです。荊棘(いばら)の冠を被せられた頭からは血が流れていたことでしょう。どんなに屈強な男でも肉体的にはもう限界を超えている状態だったでしょう。

 私が高校生の頃、ドロローサという歌を教会でよく歌いました。こんな詞です。

 私の罪のために 重い十字架 負わされ
  嘲る人の中を 耐えて行かれたイエスよ
      ドロローサ ドロローサ
  私の胸の中に 刻まれた主の十字架 
  いばらの冠つけて 祈られる主の姿
      ドロローサ ドロローサ 登って行く道

 イエス・キリストが歩まれたこの悲しみの道は一体何の為だったのでしょう。

 聖書はこう教えています。 第2コリント5章21節

 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」

 私たちのために歩まれた悲しみの道ドロローサだったのですね


      (PBA制作「世の光」2021.2.9放送でのお話しより)
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■十字架への道 / 関根弘興

2021年07月26日 | Weblog

2021.2.8放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 教会のシンボルマークは十字架です。それはイエス・キリストが十字架につけられたことに大きな意味があったからです。今週は、このイエス様の十字架への道をお話しましょう。

 もちろんイエス様は十字架につけられるような悪いことは何一つなさいませんでした。しかし当時のユダヤの宗教家や最高議会の議員たちは、何とかしてイエスを死刑にしたいと願っていました。イエス様が自分を神の子キリスト救い主だと公言し、彼らの偽善や形式主義を厳しく批判なさっていたからです。彼らはイエス様をでっち上げの宗教裁判にかけて、神を冒涜している罪で死刑に値するという判決を下しました。彼らは自分たちでイエス様を石打ちの刑にすることもできましたが、それでは不十分と考え、当時ユダヤ地方を治めていたローマ総督ピラトのもとにイエス様を連れて行き、ローマの死刑方法である十字架刑を要求したのです。

 総督ピラトは彼らがイエス様に対して激しい妬みを持っていることに気づいていました。そしてイエス様にはローマの法律に照らしても死刑に値する罪を見いだすことはできませんでした。ですからピラトは「この人は何の罪もない。この人を十字架につける理由や原因は何もない。」と三度も繰り返して宣言していたのです。また過ぎ越し祭りの時には犯罪人の一人に恩赦を与える習慣がありました。そこでイエス様を恩赦の対象にしようと提案したのです。

 しかし宗教家たちに扇動された群衆は、「イエスではなくバラバを釈放しろ。イエスを十字架につけろ!」と激しく叫び立てていきました。

 結局ピラトは民の声を恐れ、これ以上の混乱を恐れていました。そこでイエス様を十字架につけるようにと引き渡してしまったのです。

 十字架刑は非常に残酷な処刑方法です。両手と足を太い釘で十字架に打ち付け、死ぬまでそのままの状態に放置するのです。数時間もの間、想像を絶するような激痛に耐え続けなければなりません。ですから早く死ねるように十字架刑の前には囚人を徹底的に痛めつけても良いという習慣すらありました。イエス様は鞭打たれ、茨の冠を被らされ、十字架を背負い、処刑場に向かって行ったのです。

      (PBA制作「世の光」2021.2.8放送でのお話しより)
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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■いつもあなたがたとともにいます / 福井 誠

2021年07月24日 | Weblog

2021/2/6放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はマタイの福音書28章20節から「いつもあなたがたとともにいます」と題してメッセージをお伝えいたします。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 マタイはイエスの受難を詳しく書き上げた後、さらにその後のエピソード・復活について書き進めています。この箇所を読んでいて驚くことは、復活後のイエスの第一声が「おはよう」であったことです。実に奇妙な感じがしませんか? 英語で言えば、ハロー hellow 。十字架というあまりにも重々しい出来事があった直後なのに、イエスは何食わぬ顔で現れ、弟子たちに「おはよう」と声をかけられたんですねえ。確かに目的を持って十字架にかかられたイエスならではの第一声なのかもしれませんね。

 ともあれ復活したイエスは三つのことをなさいました。権威の宣言、命令、そして約束です。

 まずイエスはご自分に、全ての権威が与えられている、と宣言されました。
先にマタイはイエスを、ユダヤ人の王として、地上のヘロデ王の権威に優る王として描きました。その王は何と十字架につけられる結末を迎えたわけですが、それで終わりではありませんでした。イエスは復活によってヘロデ王に優るどころか、死後の世界も含めた全ての権威に優る万物の支配者であることを示されたのです。

 そのお方が命じられることは二つ。バプテスマを施すことと教えることです。バプテスマはキリストに従って生きることを人に決意させることでしょう。そして教えるというのはそのようにキリストを信じた者がキリストに従う人生を歩むように支えることです。

 そして最後に、イエスは人々に、世々いつまでも共にいてくださる、と約束していますねえ。

 さて私がしている聖書通読ブログ音声版では明日からマルコの福音書に入ります。ぜひ続けて聞いていただいて、イエスが共にいるという約束によってこの世には恐れるものは何一つないことを知っていただきたいと思います。


 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.2.6放送でのお話しより )


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■本当に神の子であった / 福井 誠

2021年07月23日 | Weblog

2021/2/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はマタイの福音書27章54節から「本当に神の子であった」と題してメッセージをお伝えいたします。

 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」

 イエスはユダヤ式の裁判を終えた後、ローマ式の裁判を受けるためローマ総督に引き渡されました。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、死刑執行はローマ総督の命令がなくては行えなかったのです。そこでイエスはローマ帝国への反逆者として訴えられていますね。

 しかしローマ総督のピラトはイエスが死刑に値するような人間ではないことなど百も承知のようでしたねえ。ですから、なんとかイエスを助けようとするのですが、結果的に「十字架につけろ!」と叫び続けるユダヤ人の圧力に押されてイエスの死刑執行を認めていくのです。

 27節からはイエスが十字架につけられていく実に痛ましい記録です。イエスは皇帝の紫色の礼服を模した緋色のマント、王笏の代わりとなる葦の棒、そして茨の冠を被らされ、散々からかわれた後、無制限に鞭を打つローマ式の鞭打ち刑を受けています。それはイエスの肉を裂き、骨を砕く、拷問に等しい刑でした。イエスは精神的にも肉体的にも極めてどん底、極限の苦しみにあったと言えるでしょう。

 しかしそれをはるかに上回る最大の苦しみは、イエスが、人だけではない、神に見捨てられる苦悩に落ちたことです。そこで、もし自分は神にも見捨てられたと思うような方がいるならば、イエスがあなたのかわりにその運命を引き受けてくださったことを覚えて頂きたいと私は思います。

 あなたに下されるはずの呪いはイエスに下され、イエスに下されるはずの祝福はあなたに下されるのです。あなたがそのことを受け入れて、神に従う人生をスタートさせるなら、神があなたの助けとなり、あなたの人生も変わることでしょう。

 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.2.5放送でのお話しより )


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■成就するためです / 福井 誠

2021年07月22日 | Weblog

2021/2/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はマタイの福音書26章56節から「成就するためです」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」

 ここからいよいよイエスの受難物語に入りますね。イエスの十字架の予告に始まり、一挙に最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ユダの裏切り、イエスの逮捕と大祭司カヤパの取調べ、そしてサンヘドリンの小委員会での裁判とマタイは書き進めていますねえ。そしてマタイは56節、すべてが聖書の語っていることが実現するためであったとまとめています。
 イエスの十字架の死は旧約聖書にあらかじめ予言されていたことでした。ユダの裏切りの箇所を読むと、ユダが計画的にイエスを不当な裁判に引き渡したようにも思われます。しかしユダのその計画もイエスはお見通しで自分の身を委ねたというわけですねえ。

 既に知っていながら自分の身に起こる危険を受け入れていくイエスの気持ちはどんなものであったのだろうかと思うところですが、イエスはこう祈っています。

 「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
                  (マタイの福音書26章39節)

 やはりイエスも生身の人間。そのような試練が来るのを耐えがたく思っていたようですねえ。

 けれども、イエスは神の御心に従っていきます。なぜでしょう。イエスの弟子ペテロはイエスのその従順の意味を解き明かしてこう語りました。

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」 (ペテロの手紙第一 2章24節 )と。

 イエスは、目的をもって、つまり人の罪が赦され新しいいのちが与えられるために進んでその苦しみを受けてくださったというのです。

 大切なのは、イエスのこの目的は達成され完了していることです。つまり私たちの罪もイエスは負ってくださったのです。イエスにある罪の赦しを素直に受けとめていきたいものですね。

 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.2.4放送でのお話しより )


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■わたしにしたのです / 福井 誠

2021年07月21日 | Weblog

2021/2/3放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はマタイの福音書25章40節から「わたしにしたのです」と題してメッセージをお伝えいたします。

 まことにあなたがたに言いますあなたがたがこれらの私の兄弟たちそれも最も小さい者たちの一人にしたことは私にしたのです

 昨日もお話ししたことですが、人はいつしか神の前に立たせられる時が来ます。今日はその続きで、人はそれまでどのような生き方をしたら良いのか、喩え話で教えられていますね。

 まず花婿を迎える十人の娘のお話、つまり賢い五人の娘と愚かな五人の娘のお話はまさに終末に備えるべきことを語っています。備えあれば憂いなしではありませんが、備える心を持った者とそうでない者との差は突然その日が来た時に明らかになるというわけです。

 次のタラントの喩え、また羊とヤギの例えは具体的にどのように備えるべきかを語っています。

 まずタラントの喩えは、神が私たちに与えて下さっているものを十分生かすべきことを教えています。いやー、私は人に比べたらあまり能力もないと思うし、十分生かしなさいと言ってもなぁ、と思う方もいるかもしれませんねえ。しかし神が与えてくださっているものは、何か優れた才能だけではなくて、時間やお金そして体も皆そうなのです。やがて神にお会いするその時、私たちは神に与えられたものをどのように用いたのか、説明を求められますね。

 またヤギと羊の喩えは、与えられている賜物は実は大それたものではなくてほんの小さなことであることに注意を向けています。例えば、愛の心を持って人に関心を向けること、気遣いしたり声をかけたりすることもそうなのです。しかも神によくやったと褒められて、いつそんなことをしたのだろうか、と自分でも些細なことと思うようなことであったりするのです。

 イエスは、あなたがたが最も小さい者たちの一人にしたことはわたしにしたのです、と語っています。小さな日常を大切に過ごしながら終末に備えて参りたいものですね。


    ( PBA制作「世の光」 2021.2.3放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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