♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■終わりの日に備えよ / 板倉邦雄

2017年10月31日 | Weblog
2017/9/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「終わりの日に備えよ」という題でお話ししましょう。

 私たちは夕日を見ると明日は晴れだと天気を予測して準備をします。さてイエス様は終わりの日の前兆とご自分が再びこの世に来て神の国を樹立することを語った後で、人々にこのように語り続けました。
 「あなたがたが放縦--やりたい放題--や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その(終わりの)日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その(終わりの) ---イエス・キリストの再臨の日でもあるのですが--- は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。
                  ( 新約聖書 ルカ福音書 21章34節、35節 )

 私たちは人生の終わりの日に備えなくてはなりません。それは神の子イエス様が迎えに来る日でもあります。そのためには絶えず目を覚まして祈り続ける人生であるように、とイエス様は勧めました。イエス様のことばを聞いて祈る生活、それが目を覚まし、人生の終わりの日に準備することなのです。なぜなら、私たちは放縦や深酒による泥酔、この世の患いによって心が鈍くなって眠ってしまうからです。眠ってしまったら、終わりの日が突然来てイエス様が迎えに来たのにイエス様の前に立つことはできませんねえ。眠りこけているからです。私たちの人生の終わりは思いがけない時、罠のように襲われるからですね。

 この終わりの日は私たち一人ひとりの人生の終わりの日だけではありません。この宇宙とこの世界の終わりの日でもあり、イエス様が実際この世に来られ、神の国の支配を始める日でもあります。それがいつであるかは天地の創造主である神様だけが御存知です。私たちはただ人生の終わりの日に備えることが、実はこの世界の終わりの日に備えることになるのです。

 聖書のことばです。
 「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。・・・夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
      ローマ人への手紙13章11節から13節

   (PBA制作「世の光」2017.9.26放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■喜んで自分をささげた大山捨松 / 岩井基雄

2017年10月30日 | Weblog
2017/9/25放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 歴史の中を歩んだクリスチャンから学ぶ第四週の月曜日、今日は大山捨松を学びましょう。安政7年、1860年、会津藩の国家老の娘・捨松は8歳で会津戦争の不発弾処理をし、義理の姉が目前で死亡、捨松も大怪我をします。降伏後、捨松は函館の沢辺琢磨の元に里子に出されます。坂本竜馬のいとこ沢辺琢磨は既にキリスト教の洗礼を受け、ハリストス正教会の最初の信者でした。11歳の捨松は兄に同行し岩倉使節団に参加し、渡米します。この時6歳の津田梅子とは生涯使命を共にします。捨松はコネチカット州のベーコン牧師宅に預けられ、なお聖書を学び、彼から洗礼を受けます。進学したヴァッサー大学で人気者の侍の娘・捨松は美貌と知性でも人々を魅了します。卒業後は看護婦養成学校に通い、上級看護婦の免許を取得。アメリカ赤十字社に強い関心を寄せます。明治15年、22歳で帰国した捨松は日本赤十字社の設立や女子教育に専心したいと願いましたが、彼女たちの職場はなかったのです。ちょうど陸軍伯爵・大山巌が後妻を探していました。語学に堪能な捨松は最適でした。しかし薩摩出身の大山を会津の山川家は受け入れません。反対の中、二人は結婚し、鹿鳴館で盛大な披露宴を催し、その後もそこで活躍する捨松は「鹿鳴館の華」と呼ばれます。

 ある日、東京病院を見学した捨松は看護婦がおらず病院の世話をする雑用係の男性に衝撃を受けます。日本初のチャリティー・バザーを鹿鳴館で開き、看護婦養成学校を設立した捨松は津田梅子の女子英学塾設立も全面的に支援し、多くの慈善事業を行います。様々な誤解も受けた捨松でしたが、傷ついた人々や立場の弱い女性たちにキリストの愛を豊かに注ぎ、自分も与え続けたのです。

 聖書のことば

 「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
         新約聖書 使徒の働き 20章35節

   PBA制作「世の光」2017.9.25放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■さばく神の本当の思い / 羽鳥頼和

2017年10月28日 | Weblog
2017/9/23放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。先週に引き続いて旧約聖書のエゼキエル書からお話しします。エゼキエル書はユダの国がバビロンに攻められている頃、エゼキエルに与えられた神のことばが記されています。今日はそのエゼキエル書の21章で語られていることをお話します。

 神は、ユダの人々が行なっている偶像崇拝などの罪を改心して神を信じるように語り続けておられました。しかしユダはそれでも神に逆らい、神の言うことを聞きませんでした。21章では神の裁きを切れ味鋭い剣に喩えて語っています。

 裁きの剣は鞘から抜かれ、罪ある者にその刃を向けます。その刃は神の意のままに罪ある者に向けられます。罪ある者は誰もその剣から逃れることはできません。そして神はユダを裁くためにバビロンを剣として用いられます。

 ユダはそんなことがあるはずが無いと言いますが、神はバビロンを用いてユダを滅ぼされます。神は何と厳しく恐ろしい方でしょう。しかし、神の厳しい裁き、神の厳しさの背後には、どうしてもユダを失いたくないという神の思いが隠されています。神はユダの人々を愛しておられます。そして何とか立ち返って欲しいと願っているのです。

 このような強い神の愛は私たちにも向けられています。新約聖書ヨハネの黙示録3章19節に、その神の思いが記されています。
 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 
 続けて神は言われます。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3章20節)

 神は私たちと食事をしたいと切に願っておられます。聖書において食事とは、互いに信頼し、愛し合っている者たちがする最高の交わりです。そして戸をあけるとは心を開いて神を信じ受け入れることです。

 明日は日曜日です。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。
 
(PBA制作「世の光」 2017.9.23放送でのお話より )
 
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■最もよきものを与える神様 / 関根弘興

2017年10月27日 | Weblog
2017/9/22放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
私たちはすぐに失望してしまう弱い者であり、神様を信頼して祈り続けることがなかなかできないものだなということを感じることがありますね。

 イエス様はこう話されました。ルカの福音書の11章11節から13節
 「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
 このように書かれています。

 ここで魚(うお、さかな)の代りに蛇、卵の代りにサソリが出てきます。マタイの福音書を読みますと、もう一つ、「パンの代りに石を与えることがあるだろうか」とも記されているんですねえ。このリストは何だと思いますか? 実はこれは似て非なるもののリストなんです。魚と蛇はどう見ても似ていないと思いますよね。でもひょろ長い蛇に似ているような魚はいますよね。また卵とサソリは似ても似つからないように思いますが、石がゴロゴロしているパレスチナの地方ではサソリが丸まっていると卵のように見えるんです。子どもが間違ってそれに触れて刺されてしまうということがあるそうです。また石は遠くから見たらまるでパンのように見えますね。つまりイエス様は、あなたがたの求めに対して、似てはいるけれどあなたがたに害を加えるような偽物を与えるようなことは天の父なる神様は絶対になさらないんですよ。それどころか神様は良いものだけを与えてくださるんですよ、と教えたんです。そして神様が与えてくださる最も良いものは聖霊だ、とここで書かれています。私たちに与えられる素晴らしい約束は、神様が私と共にてくださるという約束なんです。神様が私と共にてくださるという事が実現するためにはどうしたらいいでしょう。それは聖霊が与えられるということを通して実現するんです。

 イエス様はこうおっしゃいました。
 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ 14章16節 )

 神様は決して似て非なるものを与える方ではなく、正真正銘の、神われらと共にいる、ということを味わい生きる生涯を与えてくださるのです。

 (PBA制作「世の光」2017.9.22放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし 29 / 大嶋重徳

2017年10月26日 | Weblog
2017/9/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは、人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第三戒は「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節、申命記 5章11節)と命じていて、神様には名前があり、私たちはその神様の名前を呼ぶふさわしい呼び方があるのだと教えています。

 実は聖書で名前を呼ぶというのは重要な意味があります。世界が創造された時、神様は人間に動物たちの名をつけると言う事を任されました。アダムは動物たちに、「君はキリン、君は猫。」と名前をつけたのです。親が子どもに名をつけるように、名をつけるとはそのいのちを愛し、成長を見守る役割があります。人間は世界に満ち溢れる生き物のいのちを管理する使命があったのです。

 しかし人は神様の前に罪を犯し、その管理する使命と責任を見失ってしまいました。見失うだけではなく、神のようにこの世界を支配するようになったのです。しかしそのような私たち人間の前に、神様は今一度出て来てくださって、私たちの名前を今日も呼んで、私たちを神様に託されている使命と責任の中に生きるようにと招いていてくださっているのです。

 旧約聖書では、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と、神様がご自分のことを自己紹介される箇所があります。世界を造られた神様の名前のそばに私たちの名前があることを恥ずかしいなど思われない神様です。むしろこの神の名の隣に私たちの名があることを喜んでくださる。「大嶋重徳の神」と私の名前を入れることも許してくださる神なのです。あなたのことをどこに出しても恥ずかしくない我が子だと世界中にご自分のことを明らかにしながら、私たちの名を紹介してくださるのです。それゆえ私はふさわしい生き方をして行きたいと願うようになるのです。神様に託された、名を付けるという仕事をきちんと果たしていきたいと思うのです。

 だからこそ私たちは毎週の礼拝において神様と出会うことをやめてはいけません。礼拝に出る事をやめる時、私たちはふさわしい神の名の呼び方を忘れて、自分勝手な生き方をしてしまいます。礼拝において賛美をし、祈りを捧げ、神様のことばを聞くときに、神の名を知るという偉大な賜物を神様から与えられた事と神様から名を付けるという世界を委ねられた強い自覚を私たちは与えられるのです。私たちは礼拝から神の名を名乗る民として出発するのです。

  ( PBA制作「世の光」2017.9.21放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■今日から後、私は祝福しよう / 福井 誠

2017年10月25日 | Weblog
2017/9/20放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠です。今日のバイブル・メッセージは「今日から後、私は祝福しよう」です。ハガイ書2章19節を読んでみましょう。
 「 種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。

 ハガイが預言したのは紀元前520年頃のことです。この時代はバビロニア帝国に替わってペルシャ帝国が最も影響力を及ぼす国となっていました。そしてペルシャ帝国は、前のバビロニア帝国と違って民族の独立自治を認め、ユダヤ人が自分たちの故郷エルサレムに帰って神の神殿を再建することを許しました。つまり、ペルシャ帝国の支配によってバビロン捕囚が終わり、たくさんのユダヤ人が、自分たちの国を再建するためエルサレムを目指して帰ってきた時代です。

 その様子は旧約聖書のエズラ記に詳しく記されています。彼らはエルサレムに帰るやいなや、礼拝を再開し、翌年には神殿の礎を築きました。ところがその地に住み着いていた人々の反対運動が起こって、工事は約16年に渡って中断してしまうのです。放置された神殿の土台は土をかぶり雑草に覆われてしまいました。ユダヤ人はエルサレムに帰っても、これが関の山、と国を再建することを諦めてしまうのです。

 そこに預言者ハガイが現れ語りかけます。「今強くあれ、仕事に取りかかれ」と。大きな事業である国の再建も小さく始まったに過ぎない。どんな困難も乗り越えて最後まで完成させようと。ちょうどこの預言が語られたのは今の太陽暦に直すと、11月から12月にかけた時期、これからの大きな収穫に期待が寄せられる時期でした。つまりハガイは、収穫は自然の恵みであると同様に、私たちの労の豊かな実りも主の祝福にあることに心を向けさせているのです。神が祝福するのだから必ずうまくいく、と言うわけですね。

 信仰は語りかける神のことばがその通りであると受けとめて生きることに他なりません。神は約束されたことを破られることはありません。ドタキャンされることもありません。たとえ時間がかかっても、必ずその約束通りに物事を実現してくださるお方です。

 ぜひそのような信仰に立って人生に希望を持って前向きに歩んでいきたいものですね。
(PBA制作「世の光」2017.9.20放送でのお話より )

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■人の子が雲に乗って / 板倉邦雄

2017年10月24日 | Weblog
2017/9/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「人の子が雲に乗って」という題でお話ししましょう。

 孫悟空が、きんと雲(うん)と言う雲に乗ってこの世界を飛び回る物語を読んだことがあります。「人の子」と自らを呼んだイエス様も雲に乗って再びこの世に来てくださると言うのです。

 さてイエス様はエルサレムの都の滅亡と宇宙とこの世界の滅亡を語った時、最後にこう言われました。「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マルコ13章26節、ルカ21章27節) 「だから、天変地異が起こり始めたらあなたがたは伏せている顔と体を起こして天を見上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからです。」(マルコ13章29節参照、ルカ21章28節参照)とイエス様は語りました。

 イエス・キリストの再臨はイエス様を信じて従う者たちにとって希望の光です。王の王また君の君としてこの世に来られるからです。そして神の恵みの国をこの世に実現するからです。この神の国を聖書はキリストの王国と言います。旧約聖書のイザヤ書にはこの王国の支配者は主なるイエス・キリストと描いているのです。人々は戦うことを止め、剣や槍を鍬に変えて働くのです。更に弱肉強食の世界は無くなります。狼と小羊が一緒に宿るのです。赤子はマムシの穴に手を入れても損なわれることはないのです。エデンの園の回復ではないでしょうか。当然、自然環境も良くなるので人々の健康もよくなり、寿命も長くなる、とイザヤは語っています。体の健康だけではなく心の健康もよくなるでしょうねえ。

 しかしながらイエス・キリストがこの世界に再び来られるという時は神の審判の時でもあると言うことです。キリスト信徒たちはこのように告白してきました。「主イエスは十字架にかけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。」(使徒信条)と。 私たちもキリストの王国を待ち望みながら、神の最後の審判を迎えたいものです。

   (PBA制作「世の光」2017.9.12放送でのお話より )

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■心の深みからの変化 / 岩井基雄

2017年10月23日 | Weblog
2017/9/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。今日は「心の深みからの変化」と題して一緒に考えましょう。

 イエス・キリストは人々の病を癒されました。すべてを創造された神の御子にとってそれはわけもないことであったでしょう。ゲラサという地に住んでいた男性は、悪しき霊によって心を縛られ、墓場に住んでいました。誰も鎖をもってしても彼を繋いでおくことができなかったのです。彼は鎖や足枷も砕き、夜昼と無く墓場や山で叫び続け、石で自分の身体を傷つけていたのです。何という痛ましい状況でしょうか。なぜそうなったのか聖書は明らかにしていませんが、彼の孤独と悲しみは壮絶でした。キリストがガリラヤ湖の反対側のゲラサにまで来たのはこの男性を解放するためでした。この男性が癒された後、即座に元に戻るのです。

 彼がキリストに出会った時、彼を支配する悪しき霊が叫びました。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。・・・どうか私を苦しめないでください。」(マルコ 5章7節)と。悪しき霊には神の子の真の力が分かっていたのです。悪しき霊でさえ、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」(マルコ 5章8節)とのキリストの命令に従わざるをえなかったからです。

 キリストにこそまことの主権と力があるのです。悪しき霊は2000匹の豚を道ずれにしてこの男性から離れます。豚の所有者たちは驚愕しますが、この男性がどれほどの支配を受けていたかということも表しています。一人の人が心の深みから癒され、解放され、救いを受けるということはどんな犠牲よりも重要なのですね。

 キリストはあなたをも、その悲しみや孤独、絶望やゆがみの支配から解放し救い出すためにこの地上に来られ、私たちへの愛を現わされました。それはあなたにも用意されているのです。あなたもこのキリストにある救いと解放を受け取り、本当の癒し、心の最も深いところの癒やしを受けとっていきませんか? 

 聖書のことば
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
               新約聖書 コリント第二の手紙5章17節

 神様はあなたを心から愛しておられ、あなたに本当の解放と癒しを与えようとしていらっしゃいます。あなたもキリスト者のもとにいらっしゃいませんか?

   PBA制作「世の光」2017.9.18放送でのお話しより)

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■ぶどうの木イスラエル / 羽鳥頼和

2017年10月21日 | Weblog
2017/9/16放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。先週に引き続いて旧約聖書のエゼキエル書からお話しします。エゼキエル書は、ユダの国がバビロンに攻められている頃、バビロンに強制的に連れて行かれてしまったエゼキエルに与えられた神のことばが記されています。今日はそのエゼキエル書の17章で語られていることをお話しします。

 神はエゼキエルに、ユダのしていることが神への反逆であり、そのために神の裁きがユダにくだり、ユダが滅ぼされることを語るようにと言われました。それはまず喩えで語られました。ユダの国のことを良い地に植えられたぶどうの木に喩えています。そして当時の二大強国であったバビロンとエジプトを二羽の大鷲に喩えました。その喩えは歴史的事実に基づき、ユダの本質を語るものでした。実際の出来事はこうです。ユダの王エホヤキンがバビロンに連行されてしまいました。バビロンは彼の代りに出てゼデキヤを王にしました。最初、ゼデキヤはバビロンの言いなりなっていました。しかし、ユダの国が力を回復して来ると、ゼデキヤ王はバビロンを裏切り、もう一つの大国エジプトと友好関係を結ぼうとしました。神はご自分との関係を良くしないでバビロンやエジプトなどこの世の権力に頼ってばかりいるユダを責められました。そんなユダをぶどうの木に喩えているのですが、このことで私はイエス・キリストのことばを思い出しました。

 イエスは言われました。
 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父(である神)は農夫です。[わたしの枝で]実を結ばないものはみな、父(である神)がそれを取り除き、・・・刈り込みをなさいます。」(ヨハネ 15章1節、2節)
 実を結ばないものは神によって切り落とされてしまうのです。

 それでイエスは更に言われました。
 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ 15章5節)

 イエスに繋がるとはイエス・キリストを救い主であると信じることです。明日は日曜日です。イエス・キリストに繋がるために、お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。
 
 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

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■求め、捜し、たたけ / 関根弘興

2017年10月20日 | Weblog
2017/9/15放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
  今日は最初にイエス・キリストが語られたことばを紹介いたしましょう。
 ルカの福音書11章9節と10節
 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 この、「求めなさい」、「探しなさい」、「たたきなさい」、ということばは「求め続けなさい」、「探し続けなさい」、「たたき続けなさい」という継続を示すことばなんです。一度で諦めずに継続的に執拗に祈り続けることが大切だと言うんですね。

 しかし私たちは祈り続けることをやめてしまうことがよくあるものです。その理由の一つは、神様は現実の生活に関わりのない方だと思ってしまうことがあるからなんです。神様が実際の私の生活と関わりが無いと考えたら、神様に祈り求めようとはしませんね。神様に祈るのは特別な時だけで、あとの普段の生活には関係ありません、となってしまうからです。

 また神様にお祈りすることは高尚なことなので日常生活のささいなことまで祈るものではないと考えている人もいます。でもイエス様は「日ごとの糧を今日も与えてください」と祈れ、と教えられました。神様は私たちの具体的な生活の中で御わざを行なってくださる方でもあるんです。

 またある方は神様の力を過小評価しているということもあります。私たちは時々、神様を自分の小さな小さな理性という箱の中に閉じ込めてしまうのです。そして神様だって無理ですよ、神様だってこの問題は解決できないでしょう、と勝手に決めつけてしまうことがあります。


 私は牧師をしていて何度もそんなことはもう無理だと思わされる出来事に遭遇しました。そして失望し諦めてしまうこともあったのです。しかし聖書の神様は、全知全能なる神様です。私たちにとって、不可能だ、と思えることでも神様の目から見れば問題の数ではありません。だからイエス様は、「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。そうすれば見出し、開き、与えられるんですよ。」と語られました。祈り続けることができること、それは何と大きな恵みでしょうね。

 (PBA制作「世の光」2017.9.15放送でのお話しより)

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