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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■人の悪を帳簿に記入しない愛 /水谷 潔 

2025年08月30日 | Weblog

2025/5/31放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。
 
 今日も新約聖書コリント人への手紙第一13章から「愛とは何であるか」をお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節は愛についてこう記しています。

 「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」

 聖書は愛について、「人がした悪を心に留めず」と記しています。今日お読みした聖書の「心に留める」というこのことばには「ある事柄を忘れないために帳簿に記入する」という意味があります。
 
 たとえば、話していると突然、「あっ、あなたの今言ったことばで傷ついた」と言ってカバンから帳簿を出して開きます。そして、「何月何日、○○さんからこんなこと言われて私は傷ついた」と記帳するのです。しかも、その帳簿を普段から持ち歩いていて、時々取り出して開いて読み返すのです。
 ま、「どれだけ性格悪いの」と思うかもしれませんが、果たしてこれは他人事でしょうか。実際にカバンから帳簿を取り出して開いて記帳することはないでしょう。でも心の帳簿にしっかりと書き記して、時々読み返しているということはないでしょうか。

 人の心とは矛盾したものです。忘れたらいいものをわざわざ忘れようとしないものです。「忘れたいけど、忘れられない」のではないです。「忘れてなるものか」「忘れたら損だ」「恨む権利を放棄したくない」 そんな思いを心に抱きながら、それが自分を苦しめます。「憎悪系執着」とでも呼ぶべき矛盾した心理が私たちの内側にはあって、それはなかなか克服しがたいものです。

 でも神様はそんな私たちを愛し、克服できるように助けてくださいます。たとえあなたが人の悪をいつまでも忘れようとせず苦しんでいるとしても、神様はそのままのあなたを愛しておられます。その神様の愛は、捨てがたい怒り・憎しみ・恨みを氷が溶けていくように次第に溶かしてくださいます。
 神様を信じ、神様の愛を受け、「人がした悪を心に留めず」と聖書が語る愛にあなたも生きてみませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.31放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■心にナイフを持つことのない愛 /水谷 潔

2025年08月29日 | Weblog

2025/5/30放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。

 今日も新約聖書コリント人への手紙第一13章が記す「愛とは何であるか」についてお話しします。
 新約聖書コリント人への手紙第一13章5節には愛についてこう記されています。

 「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」

 「愛は苛立たない」と聖書は言います。ここでの苛立ちは何に対してでしょう。「苛立たず」の直前には「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」とあります。

 私たちは時に親しいからと言って愛を名目にして、礼儀に反することをしてまで誰かに対して自分の利益を求めます。しかし相手が自分の思い通りにならないと苛立ちます。ここでの苛立ちは、そうした苛立ちです。相手の事を思っての苛立ちではありません。相手が自分の思い通りにならないから発する苛立ち、自分中心の苛立ちです。

 どうでしょう、親子、夫婦、親友、恋人など、親しい関係、愛の関係の中でこそこうした苛立ちって生ずるのではないでしょうか。

 実は今日お読みした聖書の「苛立つ」というこのことばには「ナイフの刃先」という意味があります。「ナイフの刃先」のように敏感に反応して相手を突き刺すというニュアンスを持つことばなのです。思い通りにならない相手にすぐ報復しようとして、ナイフのように心を尖らせる苛立ちを意味するわけです。

 もし私たちの心に本当の愛があるならば、相手が思い通りにならなくてもそう簡単に苛立つことはないでしょう。聖書が記す愛は「心にナイフを持つことのない愛」です。その愛は、思い通りにならない現実の相手を受け止める余裕を心に生み出します。

 聖書は愛について「苛立たず」と記します。愛する相手が自分の思い通りにならないときこそ愛は試されます。苛立ちが込み上げてきたときこそ今日の聖書のことばを思い起こしてください。そして、苛立ちを押さえつけるのではなく、神様の前に認めて、神様に助けていただき、その苛立ちを手放していきましょう。

 神様を信じ共に歩むなら、神様はあなたを苛立つことのない愛の人へと造り変えてくださいます。


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.30放送でのお話しより )


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■どこまでも相手本位の愛 /水谷 潔

2025年08月28日 | Weblog

2025/5/29放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。
 
 今日も新約聖書コリント人への手紙第一13章から、「愛とは何であるか」をお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節は愛についてこう記しています。

 「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」

 愛は「自分の利益を求めない」と聖書は言いますが、これは自分の利益を相手より優先しないということです。愛は相手を自分の利益の手段とはしません。愛とは相手のために自分が犠牲を払って利益を図ることです。

 ところが私たちは、「相手のため」と言いながら自分の利益を求めてしまい、しかもそれに気付かないことがあるものです。

 ある母親が子育てに行き詰まり、涙ながらにこう語るのをお聞きしたことがあります。「子どものため、子どものためと言いながら、結局は自分のためだったのです。良い子になって欲しかったのではなく、自分が良い子の親になりたかったのです。だからいつも本人の意志ではなく、母親である自分の意向を押し付けてきました。自分の思い通りの子どもにして自分がよく思われたかっただけなのです。」

 「あなたのためなのよ」「おまえのために言っているんだぞ」 そんな親や大人や先輩たちのことばに嘘臭さを感じたことはないでしょうか。 「それって本当は自分のためだろ」って、心の中で思ったことってないでしょうか。
 自分自身が語ってきた「あなたのため」は本当にそうだったのでしょうか。相手を自分の思い通りにしようとして、そう言ってしまったってことはないでしょうか。

 愛だと信じてきたものがそうではなかったと示されるのは悲しいことです。しかしその悲しみは希望に満ちた悲しみです。なぜなら、悲しみの中、偽物を捨ててこそ本物を手にすることができるからです。

 聖書は愛について、「自分の利益を求めず」と教えます。聖書が記す愛は「どこまでも相手本位の愛」です。自分のための相手ではなく、相手のための自分です。
 そのような愛は、誰よりも神様の中にあります。神様はそのような愛で私たちを愛しておられます。神様と出会い、その愛を受け、同じ愛で身近な人たちを愛してゆきませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.29放送でのお話しより )


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■礼儀に反することで人を試さない愛 /水谷 潔

2025年08月27日 | Weblog

2025/5/28放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。

 今日も新約聖書コリント人への手紙第一13章から、「愛とは何であるか」についてお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節は愛についてこう記しています。

 「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」

 聖書は愛について、「礼儀に反することをせず」と記しています。
 「親しき仲にも礼儀あり」と言うように、親しい間柄でも礼儀を守らなければ相手に不快感を与え、愛の関係に亀裂を生じさせかねません。
 逆に「無礼講」ということばもあります。上下関係がなく礼儀を守らなくてよいというルールで催す宴会のことを無礼講と言います。そこには、親しくなっていけば礼儀を守らなくてもよいんだという考え方があるようです。

 ま、そこで考えてみましょう。ラジオの前のあなたは、親しくなればなるほど相手が失礼な振る舞いや要求をするようになり困惑した、ということがないでしょうか。

 礼儀に反することをしてどの程度受け入れてもらえるかで相手の愛を試そうとすることがあります。そして、失礼が受け入れられることで愛を実感するということがあります。
 しかしそれを愛と呼んでいいのでしょうか。それは愛ではなく、むしろ、「甘え」と呼ぶべきではないでしょうか。

 甘えとは自分の利益の要求です。甘えと愛とは一見似ていますが、愛とは正反対の自己欲求です。それは愛というより欲でしょう。似ているからこそ取り違えやすいものです。 
 大人になる前は甘えが許されることで愛されているんだと実感してきたかもしれません。 大人になってからは甘えさせてあげることが愛なのだと考えてきたかもしれません。

 しかし聖書は愛について、「礼儀に反することをせず」と語ります。それは言い換えれば、「礼儀に反することで人を試さない愛」です。親しい関係の中でこそ礼儀を重んじたいものです。礼儀を重んじるなら甘えは消えていき、愛に向かっていくでしょう。聖書の語り掛けを受けて、甘えではない本当の愛に歩んでゆきましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.28放送でのお話しより )


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■上からにならない愛 /水谷 潔

2025年08月26日 | Weblog

2025/5/27放送

 「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。

 新約聖書コリント人への手紙第一13章は、私たちに「愛とは何であるか」を教えてくれます。新約聖書コリント人への手紙第一13章4節をお読みします。

 「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

 「愛は自慢せず、高慢になりません。」と聖書は言います。「自慢せず」とは相手に対して自分の優越性を示さないことでしょう。今どきのことばで言えば「相手に対してマウントを取らないこと」でしょう。「高慢になりません」は「上から目線にならない」「上からものを言わない」と言い変えると分かりやすいでしょうか。

 愛は自分を上にして相手を下にはしません。自分の方が上だから教えてやろう助けてやろうではないのです。
 むしろ自分を下に置いて相手に仕えようとします。

 聖書にはイエス・キリストが弟子たちの足を洗ったという記事があります。イエス様が歩まれた新約聖書の文化では、家に入るとき汚れた足を洗うのが習慣でした。
 しかし当時、人の足を洗うというのは奴隷の仕事でした。しかも外国人奴隷の仕事とされていました。社会の最下層の人たちがすることをイエス様は進んでされたのです。ですから弟子たちは慌てふためきました。
 弟子たちの足を洗った後にイエス様は、「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と命じられました。イエス様は自ら愛の模範を示されたのです。

 愛とは自分を低くして相手に仕えていくことです。
 聖書は愛について、「自慢せず、高慢になりません」と教えます。愛はマウントを取らず、上からになりません。愛は自分を低くして、相手に仕えます。そんな愛で周囲の人たちを活かしませんか? それは自分自身をも活かすことになり、幸せな人間関係、実り豊かな人生につながっていくのではないでしょうか。


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.27放送でのお話しより )


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■人の幸せを喜べる愛 /水谷 潔

2025年08月25日 | Weblog

2025/5/26放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。 愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。
 今日は新約聖書 コリント人への手紙第一13章から愛についてお話しします。新約聖書 コリント人への手紙第一13章4節をお読みします。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

 聖書は「愛は人を妬みません」と言います。妬みとは自分と誰かを比較することから起こります。あの人は持っているのに自分は持っていない。あの人はできるけど自分はできない。あの人はしてもらっているのに自分はしてもらっていない。そういう状況の中で妬みは生まれます。
 その人の幸せを一緒に喜ぶことができず、それどころかその人が幸せを失うことを願ってしまう感情、それが妬みです。羨ましがるのでも自分も同じようになろうと願うのでもなく、その人を自分と同じ立場まで引きずり下ろそうとする思い、それが妬みです。

 一方、本当の愛は妬みません。なぜなら愛とは相手の幸せを願うことだからです。自分にはないような幸せをその人が持っていても素直に喜べるのが愛です。ですから妬みと愛とは正反対です。妬みは人間が抱く感情の中で最も醜いものの一つかもしれません。そして自分を省みると失望してしまうかもしれません。

 しかし神様はあなたを失望させるために「愛は人をねたみません」と語り掛けているのではありません。愛に反する妬みを示すことで、愛は人の幸せを喜べることだとあなたに語り掛けておられるのです。そして自分にはない人の幸せを喜ぶことができるあなたになることを神様は願っておられます。

 では、どうすればそのような愛を持つことができるでしょう。神様の愛はあなたを造り変えます。神様と出会い、神様から受けたその愛で身近な人たちを愛そうとするとき、あなたは次第に妬むことがなくなるでしょう。人の幸せを喜べるあなたになっていきます。そしてそんな自分を喜べるようになります。

 神様と共に歩み、豊かな愛に生きる幸せな人生へ歩み出しませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.26放送でのお話しより )


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■信じていのちを保つ者 /羽鳥頼和

2025年08月23日 | Weblog

2025/5/24放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は、「信じていのちを保つ者」と題して新約聖書のへブル人への手紙10章からお話しをします。

 へブル書の10章39節にこのようにあります。
   「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

 この手紙を受け取った信仰者たちは迫害の中にありました。
 当時の信仰者たちは、キリストを信じて神の救いを知り、希望をもって信仰生活を送っていた時に迫害を受けました。そしてその迫害が長く続いていたのです。
 それでへブル書は、いつ終わるかわからない迫害の中にある信仰者に、苦難との厳しい戦いに耐えていた最初の頃のことを思い起こすように勧めています。

 迫害に耐えていた時、彼らは捕えられ投獄された人々を訪問して支援していました。また自分の財産が奪われてもそれを喜んで受け入れていました。
 それは自分たちの本当の朽ちることない財産は天に蓄えられていることを知っていたからです。

 迫害が続く中でも、なお神の救いが完全であり、神がすべての必要を与えて下さるとの確信をもって、迫害を忍耐することが大切であることをへブル書は教えています。
 そしてキリストが再びこの地上に来てくださり、正しいさばきを行ってくださることを信じるように勧めているのです。

 恐れるべきは迫害ではありません。本当に恐れるべきは神なのです。
 神は悪に対して怒られるお方です。神のさばきは恐ろしいものです。
 しかしキリストが十字架にかかって死なれたことによって信じる人の罪は赦されて、神の怒りは宥(なだ)められたのです。
 ですから、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのです。」

 今もキリストの十字架による救いを信じる者は、どんな苦しみの中にあったとしても、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じて永遠のいのちに生きることができるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.24放送でのお話しより )


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■キリストが再臨されるまで /羽鳥頼和

2025年08月22日 | Weblog

2025/5/23放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です 。
 今週は新約聖書へブル人への手紙からお話しをしています。
 今日はまずへブル書がここまで語っていたことを振り返りたいと思います。

 これまでへブル書で教えられてきたことは、キリストは神との契約の仲介者であり、今は天におられ、まことの大祭司として礼拝をつかさどっておられる、ということでした。そして、これらのことが私たちの救いなのです。

 キリストが十字架で死ぬことによってこの神との契約は成立したのです。この契約によって私たちは神との信頼関係を持って、神に近づき礼拝を捧げることができるのです。

 ここまでへブル書で教えられてきたことで分かることは、私たちの救いのために神がすべてのことを完璧に成し遂げて下さったということです。
 神はキリストを遣わしてくださいました。神の御子であるキリストは、神のしもべとして十字架ですべての人の罪を負って死んでくださり、救いを成し遂げて下さいました。
 そして神は、十字架で死んだキリストをよみがえらせてくださいました。今も生きておられるキリストは神への礼拝を司(つかさど)っておられます。その礼拝によって私たちは神との親しい関係を保ち続けることができているのです。

 そしてへブル書は地上の信仰者に救われた者の生き方を教え、励ましと勧めをこのように語っています。

 「キリストが再び地上に来られた時に、神の救いは、必ず完成するとの希望を持ちましょう。その時まで、私たちは、ともに集まり、神に礼拝をささげましょう。また私たちはいつでも愛と善行を行うように互いに励まし合いましょう。」

 私はコロナ禍にこのへブル書のことばに励まされました。キリストによる神の救いは完全です。救いの神はわたしたちが礼拝を捧げ、愛と善行を行うことができるようにいつも助けて下さっているのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.5.23放送でのお話しより )


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■聖なるものとされる /羽鳥頼和

2025年08月21日 | Weblog

2025/5/22放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。 
 昨日は、キリストの十字架と再臨によって成し遂げられる神の救いのことをお話ししました。
 今日はその続きとして、神の救いの恵みの一つである「聖なるものとされる」ことについて新約聖書のへブル人への手紙10章からお話しします。

 ちなみに、「聖なるもの」の「聖」とはバイブルの聖書の「聖」の字が使われます。聖なるものとされるということをへブル書から教えられましょう。
 
 へブル書の10章10節ではこのように語られています。
  「・・・イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」

 つまり、キリストの十字架によって、キリストを信じる者は聖なるものとされているのです。

 本来、聖なるものとはまことの神の他にはありません。神だけが聖なるものなのです。

 人は自分の力で聖なるものとなることはできません。人が聖なるものとなれるとしたら、それは聖なる全能の神によってしかありえません。聖なる神によってでなければ、人は聖なるものになれないのです。

 旧約聖書レビ記20章26節では、その聖なる神が、「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖であるからである。」と言われています。神は、人が聖なるものとなって、ご自分と信頼関係を持つことを心から願われているのです。

 「聖なるもの」とは、罪による汚(けが)れからきよめられて、永遠に神との正しい関係にあるもののことなのです。
 キリストの十字架を通して私たちを聖なるものとすることが神のみこころなのです。

 ですから、キリストを信じる者は罪を赦されて、聖なるものとして神と共に生きることができるのです。

 明日もへブル人への手紙からお話しします。明日もぜひ「世の光」をお聴きください。

 

 ( PBA制作「世の光」 2025.5.22放送でのお話しより )


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■キリストによる救い(十字架と再臨) /羽鳥頼和

2025年08月20日 | Weblog

2025/5/21放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 昨日は、キリストが仲介された「新しい契約」による神の救いについてお話ししました。

 今日は、キリストによる救いである十字架についてもう少し詳しく、そして、新たにキリストの再臨について新約聖書へブル人への手紙9章からお話しします。

 キリストは新しい契約の仲介者であると教えられていました。この新しい契約の内容は、神が一方的に約束して定められたもので、この契約によって私たちは神との信頼関係を築くことができるのです。

 普通、契約は当事者同士が契約を結ぶのですが、このキリストが仲介される新しい契約は遺言と同じであると教えられています。
 遺言は人が死んだときに有効になります。同じようにこの新しい契約はキリストの十字架の死によって有効になったのです。

 もともと旧約聖書で定められた神との契約は屠られた家畜の血を抜きにしては成立しませんでした。実際に契約を結ぶとき、その契約を結ぶ人々にその血がふりかけられることによってその契約は成立したのです。
 しかし今は十字架で流されたキリストの血によって私たちはきよめられて罪を赦され、この新しい契約に加わることができるのです。

 キリストは多くの人の罪を負うために十字架でご自分を献げ、救いを成し遂げられました。

 それだけではありません。キリストは十字架で死んだあと三日目によみがえらされ、天に帰られました。今、天におられるキリストは再び地上に来られます。
 それがキリストの再臨です。その時、キリストがまことの王として来られ、神の国がこの地上に実現するのです。これがキリストの再臨によって成し遂げられる神の救いです。

 キリストの再臨の時、神の救いは完成します。私たちは、キリストのような栄光ある姿に変えられて、神の御前で神を礼拝することができるのです。


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