♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■何で系図かかれているの? / 関根弘興

2021年05月31日 | Weblog

2020/12/7放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストの誕生を記念するクリスマスが近づいてきましたね。そこで今週はイエス様の誕生にまつわる聖書の箇所を紹介し、お話をいたしましょう。

 イエス様の生涯は新約聖書の四つの福音書に記されています。新約聖書はマタイの福音書から始まっています。でも1ページ目を開くと、そこには私たちがほとんど聞いたことのない名前がたくさん出てきます。系図が書かれているのですねえ。ある人は、名前ばかりが出てくるものですから読む気をなくしてしまった、と言われる方もいるくらいです。しかし、私たちはこの系図から素晴らしいニュースを知ることができます。

 その第1は、系図によって イエス・キリストの誕生は歴史上の事実であったということが分かるんです。

 おとぎ話の場合は普通、系図などを載せる必要がありませんねえ。「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに行きました」というような具合で話が始まるわけです。子供たちにおとぎ話をする時に、西暦何年何月何日、何々という場所に何々家出身の何々という名前のおじいさんとおばあさんがいました。・・・ ま、そんな風には話しませんよね。 なぜなら、おとぎ話は歴史の事実ではないので、はっきりとした時間や場所や系図を書く必要がないからなんです。

 しかし、福音書を記したマタイもルカもイエス様の生涯を書くとき、系図を記しています。それは福音書の読者に大切な前提を教えようとしているからです。つまり、これから紹介するイエス様は決して空想や夢物語の中の架空の人物ではありませんよ。歴史の中に実存された方であり、この福音書に記録されている通り、語り、歩み、行った方なのですよ、と言っているわけです。そしてこの系図があるからこそ、旧約聖書で預言された通り、イエス様が来てくださったということの証拠にもなるわけですね。

 神様が何千年も前から約束してくださった通り、イエス様は来られたのだ。神様の大きなご計画によってまことの救い主が来てくれたのだ、ということを示すために記されて行きました。

 それでは系図を見るとさらに何がわかるのでしょう。それはまた明日お話をいたしましょう。 


      (PBA制作「世の光」2020.12.7放送でのお話しより)
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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■ミカ書 1章 すべての民族よ、聞け / 福井 誠

2021年05月29日 | Weblog

2020/12/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はミカ書1章2節から「すべての民族よ、聞け」と題してメッセージをお伝えいたします。

 すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ。【神】である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。


 今日からミカ書に入ります。このところ短い小預言書が続きますので 、どんどん旧約聖書を読み進んで行けるような気がしますね。ぜひこの続きは私の「パスターまことの聖書通読一日一生」で読んでみてください。インターネットで「パスターまこと」と検索すれば出てきます。

 さて、この預言書を書いたミカという人は紀元前8世紀ごろ、イスラエルで活躍した人です。当時、イスラエルは北側のイスラエルと南側のユダ、二つに分かれていましたのでミカは二つの国の首都サマリアとエルサレムに向けて神のメッセージを語り伝えました。その内容は、支配者、祭司、預言者の罪を非難し、来たるべき裁きの前に神に立ち返る悔い改めを促すものでした。

 というのも、当時のイスラエルでは悪い王様が政権を握り、子牛礼拝、バール[神]礼拝、その他、異教の国々の偶像礼拝が盛んに行われていました。また、人は自己中心となり、社会は貧しい人や弱い人が抑圧される堕落した状況がありました。

 そのようなイスラエルに、神は預言者エリヤ、エリシャ、アモスを遣わし、悔い改めを促すのですが、全く立て板に水、無駄な行為であったわけです。

 そこで神は、神に背を向け堕落の一途をたどるイスラエルにアッシリアを遣わし国そのものを滅ぼす警告を与えられるのです。

 今週は繰り返し語ってきたことなんですが、大切なのは神は滅ぼすことを良しとはしていないことですね。神は警告を与え、人が気づいて悔い改めることを望んでおられます。世の風潮に惑わされて、人間として生きるべき道があることを忘れてはいけません。人間として何が正しいか、いつも神の言葉に悟らされて歩みたいものですね。

 では良き一週を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2020.12.5放送でのお話しより )

  


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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■yono202■ヨナ書 4章 大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか / 福井 誠

2021年05月28日 | Weblog

2020/12/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨナ書4章11節から「おおきな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

 昨日の続きヨナ書最後の章を見て行きます。ヨナの宣教によりニネベの人々は悔い改め、結局ニネベは滅ぼされずに済みました。神は災いを思い直されたのです。そこでヨナは神と共に「良かったね」と喜ぶのかと思いきや、そうではありませんでした。 ヨナの心は複雑だったのです。

 というのも、悔い改めによって滅びを免れたアッシリアはいずれイスラエルの脅威となることは大いに予測されることでした。また警告した通りの事が起こらないというのは何とも面子に関わることだったのかもしれませんね。ともあれヨナは神に抗議し、ニネベがどうなるのか様子を窺い始めました。

 折しも、燦々と照りつけるパレスチナの太陽にいささか不愉快な思いを募らせていると、そこに神がトウゴマを備えて日陰を作られヨナの不機嫌を直そうとした、とあります。ヨナもうっかり神の手に乗っかって、「おっ、これから何か起こるのか?」と期待を募らせたようですね。

 しかし何も起こらずに一日が終わり、翌日そのトウゴマも枯れてしまいました。ヨナの怒りが絶頂に達した時に神が大切なことを語られます。人間というものは自分で労さず育てもしないものが失われるとそれを惜しむ。しかし、神は自分で労し育てたものを惜しんでいるのだ、と言うのです。 人は単純に損得の世界で生きているものです。しかし神は愛情の世界で生きているのです。ですから、1章のメッセージに戻りますが、神はだれひとり滅びることを望まれないし、悔い改める者をすべて受け入れ救われようとするのです。神は愛なのですね。自己中心な人間はなかなかこのような神の愛に到達できません。しかしこのような神の愛こそ人間の社会には必要とされているのです。

 では良き一日を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2020.12.4放送でのお話しより )

 

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■ヨナ書 3章 もしかすると、神が思い直して / 福井 誠

2021年05月27日 | Weblog

2020/12/3放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨナ書3章9節から「もしかすると、神が思い直して」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

 昨日の続き、ヨナ書3章に入ります。 魚に吐き出されたヨナは神様の勧めに従って素直に敵国アッシリアの首都ニネベ出て行きました。ヨナが吐き出されたタルシシュの海岸からニネベはおおよそ800キロです。当時の人たちの足では約1ヶ月かかる道のりでした。 ヨナの体は魚の胃酸に溶かされていたはずで、この期間に皮膚の回復が進んだとしてもその外観は変わり果てた姿になっていたことでしょう。 しかし、その姿そのものが神のことばの真実さを訴えることになったのではないでしょうか。

 ヨナは首都ニネベの広い土地をくまなく歩き回り、神がこの町を滅ぼそうとしていること、神を信じて悔い改めるべきこと、を語ります。 すると町中の人々が次々と悔い改めて神を信じるのです。王様すら、もしかすると神が思い直して憐れみその燃える怒りを収められ私たちは滅びないかもしれない、と語り、王服を脱いで荒布を着て灰の上に座って悔い改めの心を表明したのです。

 これによって神はニネベに下そうと考えていた災いを思い直されました。悔い改めたヨナを救い、悔い改めたニネベを救う。神はどれほど怒ったとしても悔い改めるなら思い直して憐れみ、赦してくださるというわけですね。

 新約聖書の使徒ペテロは、神は一人でも滅びることを望まず、すべて人が悔い改めに住むことを望んでおられる(ペテロの手紙第二3:9参照)、と語りました。

 パウロも、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテへの手紙第一2:4 )と語っています。 聖書は、清く正しい人生を生きることを勧めるよりも、まず悔い改めることを勧めています。そして、悔い改める者に神は憐み深い方であることを教えているのです。

 では良き一日を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2020.12.3放送でのお話しより )

 

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■ヨナ書 2章 私は主を思い出しました / 福井 誠

2021年05月26日 | Weblog

2020/12/2放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨナ書2章7節から「私は主を思い出しました」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。
  私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」

 昨日は神に逆らって逃げ出したヨナが神に捉えられて海に放り出されたお話で終わりました。今日はその続きですが、ヨナは大きな魚に飲み込まれて三日三晩その魚のお腹の中にいたと言います。 いったいどんな状況だったのだろうと思う所ですが、1891年、マッコウクジラに飲み込まれた船員の記録が伝えられています。

 それによると彼は意識不明の状態で鯨の切り裂かれた腹の中から発見されました。 クジラの胃酸で全身の皮膚が溶かされてただれていて、助けられて三日目に意識を回復したというのです。このような事件はその後も報告されていて、恐ろしいことですが決してありえない話ではなかったようですね。

 実際、ヨナ書の2章は、このお腹の中でヨナがどれほど苦しんだかが詩文形式で語られています。魚のお腹の中で水が取り囲み、海藻が頭に絡みつく。喉まで水が入ってきて、このままでは死んでしまう、と窮地に陥った状況で、彼は結局死を迎えた神に助けを求めたのでした。すると1章で学んだように、やはり神は愛ですね、神は自分に背を向けたヨナを憐れんでヨナを救ってくださったのです。神は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させてくださった、と言います。 

 始めヨナは敵国アッシリアの人間など神の裁きによって滅びればよいと思っていたのでしょうが、この経験を通してヨナは、アッシリア人も血の通った同じ人間、滅びて良いはずはないことを学んだと言えます。 大事な点ですね。人に対する愛は同じ人間としての弱さを意識するところに生まれるのです。

 では良き一日を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2020.12.2放送でのお話しより )


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■ヨナ書 1章 私は、主を恐れる者です / 福井 誠

2021年05月25日 | Weblog

2020/12/1放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨナ書1章9節から「私は、死を恐れる者です」と題してメッセージをお伝えいたします。

 ヨナは彼らに言った。
 「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、【主】を恐れる者です。」

 今日からヨナ書に入ります。まず主人公のヨナという人物ですが、彼は古代イスラエルの預言者でした。おおよそ紀元前8世紀頃、ヤロブアム2世という王様の時代に活躍した人と考えられています。その時代、イスラエルは勢いを増し、領土を拡大し繁栄を極めていました。 しかし同時にその北側にはアッシリアという大国が勢いづいていたのです。そして、いつイスラエルに攻め込んでくるのか、と脅威の存在になっていました。

 神はそのアッシリアに神のことばを伝えるようにヨナに命じられます。神がアッシリアの行いに怒りを燃やし滅ぼされようとしているので悔い改めるように、と警告させるためでした。

 しかし、ヨナはこれを拒否して逃げ出してしまいます。 イスラエルを愛するヨナにとって、イスラエルの脅威であるアッシリアなど警告を与えられずそのまま滅びてしまえば良い、と思われたのかもしれませんね。

 しかし、神の思いはヨナと異なっていました。神は如何なる悪者の滅びをも望んでおられなかったのです。神は、神に背を向けて逃げ出し命令に従おうとしないヨナを追いかけました。そして、船に乗り込みんだヨナに嵐を吹かせ、最終的にヨナは海に放り出されてしまうのです。

 ともあれ、この1章のエピソードの要点はすでにお話ししたように、私たちが信ずべき神様は如何なる悪者の滅びをも望んでおられないことにあります。太陽の光の恵みが良い人にも悪い人にも平等に注がれるように、神の万人に対する愛に偽りはありません。 たとえ悪い人であっても神は悔い改めと救いの機会を必ず与えてくださるのです。信ずべきは、このように人のいのちを尊ぶ神様だと言うことですね。

 では良き一日を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2020.12.1放送でのお話しより )


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■おまえは心の中で言っている / 福井 誠

2021年05月24日 | Weblog

2020/11/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はオバデヤ書 3節から「おまえは心の中で言っている」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。」
 今日はオバデヤ書を開きます。 リスナーの皆さんの中には、あまり読んだことがないな、と思う方もおられるでしょうね。旧約聖書の中でも最も短い預言書で、書いたオバデヤについてもあまりよく分かっていません。しかし聖書には何一つ無駄なことばはなく、私たちに重要な神のメッセージを伝えてくれていますね。

 オバデヤが語り伝えるのは、イスラエルの兄弟国というべきエドムという国に対する裁きです。それはイスラエルがバビロンに攻撃された時に、窮地に陥ったイスラエル人を見捨て、逃げてきた彼らを殺し、どさくさに紛れて財宝を奪う卑劣な行為を働いたためでした。戦乱の混乱にあっては誰も気に留めるものは無い、と考えたのでしょうか。 しかし、神は遠くから彼らの心の悪い思いを見抜いておられました。神は卑怯者のエドムを見過ごさず、あなたがしたようにあなたにもされる、と裁きを宣告されるのです。

 何か神様は怖いなあ、と思う方もいるかもしれませんが、逆にこれは悩みの中にある者にとっては慰めのことばですね。というのも、私たちの人生にはさまざまなことが起こります。時には自分の身から出た錆と言うべき失敗を味わうこともあるでしょう。そしてそのような惨めさに追い打ちをかけるようなことも起こるでしょう。そんなときに、「神様。いくら私が悪いとしても これは行きすぎじゃないですか」と思うこともあるのではないでしょうか。けれども神様に行き過ぎはありません。 もし行き過ぎがあればそれを正してくださるお方なのです。神様は信頼できるお方です。「過ちては改むるにはばかることなかれ」と言いますように、もし神の前に過ちを覚えることがあるなら、いつでも素直な心で自己を正したいものですね。
 
 では良き一日を祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2020.11.30放送でのお話しより )


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■クリスチャン小説家 大原富枝 / 岩井基雄

2021年05月22日 | Weblog

2020/11/28放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 私の担当の土曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は、小説家大原富枝について学んでみましょう。

 大原富枝は大正元年高知県(現)本山町に生まれました。小学校の校長であった父の教育の中、育ち、10歳で母の死を経験した富江は、その頃から心をことばで表現することの豊かさを知ります。15歳で高知女子師範で学び始めますが、18歳の時に結核を患い、長い療養生活を送ります。時代は戦争の只中でした。苦しい生活と療養で、幽閉にも近い生活を余儀なくされます。さらに家族や友人の死を次々に経験する中、なんとしても生き抜き小説家になることを決意します。戦争の終わる前に東京に出て本格的に作家活動に取り組みます。自らが通ってきたさまざまな悲しみをもことばで綴り、代表作『婉という女』が生まれます。 題材は土佐の山内忠義の家老野中兼山の娘・婉(えん)の生涯を描いたものです。兼三は手腕を発揮しますが弾劾を受け失脚し亡くなります。子供たちの中、唯一生き残った娘が婉でしたが、約40年間の幽閉を経験したのです。富枝は自らの悲しみの歩みもこの野中婉に重ねたのでしょう。

 多くの人々の悲しみをも描き続けた富枝でしたが、64歳の時に聖書が語る神様と出会い、キリストを信じ洗礼を受けます。ギリシャやイスラエルをも訪ね、『エルサレムの夜』、『アブラハムの幕屋』を出版します。人々の人生の中にある痛みを描きつつも、そこに示された恵みをも表し人々に届けて行ったのですね。

 晩年も多くの作品を世に届けていった富枝の文学館は彼女の故郷高知県本山町に建てられます。多くの悲しみを通った富枝の人生はキリストの十字架から注がれる慰めによって支えられていたのかもしれませんね。

 聖書のことば

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」

    新約聖書 ペテロ第一の手紙2章24節、25節

   (PBA制作「世の光」 2020.11.28放送でのお話より ) 


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東海福音放送協力会へのお問い合せは、 
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ 

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■宮きよめとキリストの権威 / 岩井基雄

2021年05月21日 | Weblog

2020/11/27放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 金曜日の今日は昨日に引き続きマルコの福音書から学びましょう。
 今日は宮清めとキリストの権威です。

 実を結んでいないイチジクの木を裁かれた後、キリストが向かったのは神殿いわゆる宮でした。そこは神への賛美や礼拝、祈りが捧げられるべき場所でした。しかし、キリストが見たのは、人々が欲望のままに叫び物を売り買いする場面だったのです。

 確かに神を礼拝するためにお金をユダヤの貨幣に両替したり礼拝のための規定に沿って整えられた動物をそこで購入する必要はありました。しかし人々は、礼拝と祈りの場所を商売の道具として用い、お金を儲ける場所にしていたのです。

 その実情を目の当たりにされたキリストについて聖書はこう語っています。

 イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
   新約聖書 マルコの福音書11章15節、(16節)

 そしてキリストはこう叫びました。

 「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
         マルコの福音書11章17節

 キリストの言動は人々を驚かせました。しかし、それは神の民自身が神の前になすべき正しい行動でした。それらが示されたなら、人々は神の前に自分たちの罪を悔い改めるべきだったのです。

 ところが、祭司長たちや律法学者たちはこのキリストの言葉を聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたのです。 それは群衆が皆、キリストの正しく権威ある教えに驚嘆していたからでした。彼らはキリストの影響力を恐れ、妬んだのです。彼らの姿はあの裁かれたイチジクの木に象徴されていました。弟子たちが後でそこを通ると、その木は根本から枯れていたからです。

 キリストは本来、神の宮であるべき私たちの心をも清められます。 私たちの心の中にもキリストの権威をもって追い出していただくべき欲望や自己中心的な罪はないでしょうか? 私たちも悔い改めの実を結び、まことの祝福の中を歩ませていただきたいと願います。神様はあなたを愛し、あなたをも悔い改めへと招いてくださっているのです。 

   (PBA制作「世の光」 2020.11.27放送でのお話より ) 


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■平和の王の入城と賛美 / 岩井基雄

2021年05月20日 | Weblog

2020/11/26放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。木曜日と金曜日はマルコの福音書から学びましょう。今日は平和の王の入城と賛美についてです。 

 キリストが地上を歩まれた当時の人々は、旧約聖書が預言する救い主メシアが来ると神の国イスラエルが再興され、旧約時代のダビデやソロモン王の時のような栄光が現されると信じていました。ローマ帝国がイスラエルを支配していたキリストの時代、人々はローマを打ち倒す王を待っていたのです。

 しかし、神様の計画は全く違いました。力強い軍馬ではなく平和を象徴するロバ、しかも子供のロバに乗った救い主キリストが人々の身代わりに十字架にかかることによってもたらされる神の国の樹立でした。それこそ真の神の国だったのですが、人々はまだそれを理解できませんでした。

 キリストがロバの子に乗りエルサレムに入城されるとき、いよいよローマを撃ち倒す時が来たのだと思い、彼らはこう叫びました。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
      新約聖書 マルコの福音書11章9節、10節

 人々は自分の上着や葉のついた枝を道に敷き、力の限り叫び喜んだのです。 しかし、この五日後の金曜日には多くの人々がキリストを、十字架につけろ、と叫ぶことになるのです。人々の心は自分たちの願望や欲望に満ち、本当の実を結んではいなかったのです。
 その民の心は、当時のエルサレムの宮の状態に顕著に現れていました。神を礼拝する場所が人々の欲望を表す場所になっていたのです。さらにエルサレムを出たキリストの行く手に民の実情を象徴する木がありました。それは遠くから見ると葉も多く勢いがあるように見えても全く実を結んでいないイチジクの木でした。キリストはその木に向かってこう言いました。

 「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」
  弟子たちはこれを聞いていた。
      マルコの福音書11章14節

 私たちの心も自分の都合によって神やキリストに対しての態度を変え、本当の悔い改めの実や真実の実を結ばない者となっては居ないでしょうか。神様は私たちの心をご覧になるのです。 

   (PBA制作「世の光」 2020.11.26放送でのお話より ) 


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