♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■アレオパゴスでの説教(その一) “知られざる神” / 板倉邦雄

2020年03月31日 | Weblog

2020/2/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
  今日からギリシャの都アテネのアレオパゴスの評議場で語られたパウロの説教をお話しします。使徒の働き17章です。「アレオパゴスでの説教(その一)“知られざる神”」という題でお話しします。

 さてパウロはアレオパゴスの評議場の真ん中に立って語り始めました。
 「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ています。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろな神々を、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がつきました。」
    (参照 使徒の働き17章22節、23節 口語訳)

 まずパウロの説教は、アテネの人々が宗教心に富んでいることから始まりました。それは知っている神々をすべて祀っていることと、もし万が一知らない神があったら大変だ、と「知られざる神」という祭壇を奉納している点です。ギリシャのアテネの人々も本当の神を求めていたのではないでしょうか。

 パウロの説教は続きます。
 「この世界と、世界の中にある万物とを造った神は、天地万物の創造主であるから、私たちの手で造った神殿や宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もないのです。」
 (参照 使徒の働き17章24節、25節 口語訳)
 次にパウロの説教は、天地万物の創造主である神を語りました。太陽と月と星を造られた神、そしてこの地球を造られ、その中に鳥や魚や動物、植物や花を造られた創造の神を語りました。そのような創造主に人の手で作った宮などに住んでもらうことは当然できませんでした。

 そしてパウロの説教はさらに続きました。
 「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのです。」
  (参照 使徒の働き17章25節、26節 口語訳)
 第三に、創造主なる神は私たちを造り、いのちを与え、万物を私たちに管理するように任せてくださったのです。私たちにいのちと息、すなわちスピリットと万物をお与えくださったのは神です。そして私たち人類の歴史を導いてくださっている摂理の神様だ、と語っているのです。

 私たちも知らずに拝み求めているまことの神を知りたいのです。

  (PBA制作「世の光」2020.2.18放送でのお話より ) 

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、 
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■人を癒し導き、招くキリスト / 岩井基雄

2020年03月30日 | Weblog

2020/2/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 岩井基雄です。
 第三月曜日の今日は、「人を癒し導き、招くキリスト」の姿を一緒に考えてみましょう。

 私たちは多くの病を経験しますねえ。病さえ無くなればと願うのですが、病を通して教えられることも少なくありません。すべての主権を持つ神様は、病を癒すこともお出来になりますが、癒されない現実の中にも神様の恵みや招きがあることを心に留めたいと願います。

 キリストがこの地上を歩まれた時代、悪しき霊が人を悩ませ病を与えることがありました。キリストは悪しき霊を追い出し、人を癒すと共にその権威を弟子たちにも与えたのです。弟子たちは時に人を癒しましたが、どうしても彼らには癒せない病気の子がいたのです。そのことをキリストに訴えたとき、キリストはこう招きました。
 「その子をわたしのところに連れて来なさい。
     新約聖書 マルコの福音書9章19節

 キリストは人々の不信仰さを嘆いた後、その子をご自身のみ元に連れてくるように命じました。そして両親が心からキリストに信頼することを促したのです。

 彼らは叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(24節)と。

 問題を抱える中、不安を抱えたまま神様に信頼するようにとのチャレンジは私たちにも与えられているのです。どのような状況でも神様に信頼し、自分の抱える問題をキリストの元に持っていくようにあなたも招かれているのです。

 キリストはその子から悪しき霊を追い出し、見事にその子を癒しました。後で弟子たちは、「なぜ自分たちにはできなかったのか」と尋ねます。するとキリストは、「この種のものは、祈りによらなければ、」(29節)と答えました。この出来事は弟子たちへの招きでもあったのです。彼には癒せなかったことを通し、弟子たちもまことの祈りを学ぶよう教えられたのです。

 キリストは私たちが自分たちの何かに信頼することをやめ、神ご自身に信頼し、キリストに自らを委ね、その問題を持ってキリストご自身のもとに来るように、と招いています。キリストはあなたにも、「問題をわたしのところに持って来なさい。わたしがまことの慰めと平安とそして勝利を与える。」とあなたを招いているのです。あなたも、今通っている問題また病を抱えたまま、キリストの元に行きませんか? キリストがあなたに本当の慰めを与えるのです。

  (PBA制作「世の光」 2020.2.17放送でのお話より ) 
 
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■神の定めた「宥(なだ)めの日」 / 羽鳥頼和

2020年03月28日 | Weblog

2020/2/15放送

 世の光の時間です。おはようございます。羽鳥頼和です。

 天皇が即位をされた時、大嘗祭が行われました。大嘗祭は宗教儀式なので国家行事ではなく皇室の行事として行われました。大嘗祭は人によって定められて人によって整えられてきた宗教行事です。

 さて今日は旧約聖書のレビ記の16章で神が定められた「宥(なだ)めの日」という宗教儀式についてお話したいと思います。

 「宥め」とは、神に罪を赦され清められるために行う儀式のことです。神はその日に以下のようなことを行うように命じられました。
 イスラエルの暦の第七の月の十日に、イスラエルの民のすべては断食をして式に臨みなさい。の儀式を取り仕切る祭司たちは、まず自分の罪をきよめるために罪のきよめのささげ物をささげて自分自身をきよめなさい。それから祭司は全ての人々のために罪のきよめのささげ物をささげてすべての民の罪をきよめなさい。それから大祭司が雄山羊二匹を取り、一匹に手を置いて罪を告白して生きたまま荒野にそれを放つ。こうして大祭司は最後に、もう一匹を罪のきよめのささげ物として屠(ほふ)って、その血を持って聖所の一番奥の部屋に入ることができる。

 大祭司が聖所の一番奥の部屋に入るのは、きよい神に会う、と言うことでした。宥めによって罪が赦されてきよめられることによって、人は神にお会いすることができ、神を礼拝することができるのです。

 新約聖書のヘブル人への手紙では、イエス・キリストが私たちの大祭司として十字架でご自身を罪のきよめのささげ物としてささげ、救いを成し遂げられた、と教えています。イエスがすでに成し遂げてくださったので、もう罪のきよめのささげ物をささげる必要はないのです。ただ十字架によって救いをなされたイエス・キリストを、救い主また神の御子と信じれば人は神の救いに入ることができるのです。

 明日は日曜日です。救い主イエス・キリストを礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2020.2.15放送でのお話より )
 
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■ツァレファテのやもめ / 関根弘興

2020年03月27日 | Weblog

2020/2/14放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様がエルサレムにある神殿の中の外庭に座っているときでした。その近くには献金箱がありました。そこに貧しいやもめがやってきて、当時の貨幣の最小単位であるレプタ銅貨を二つ投げ入れたんです。その中にすべてを神様に委ねて生きるという姿がありました。実はこれと似た話が旧約聖書に出てきます。預言者エリヤとツァレファテのやもめの話なんです。

 エリヤの時代に大飢饉が起こりました。エリヤは神様の命令に従って川のほとりに行き、しばらくの間そこで生活していました。でも食べ物がありません。しかし不思議なことに朝と夕方、カラスがパンと肉を運んできたというのですねえ。神様がエリヤを養ってくださったわけです。ところがしばらくすると川の水が枯れてしまいました。すると神様は、「エリヤよ、行ってそこに住め。わたしはそこのひとりのやもめに命じてあなたを養うようにしている。」と言われたんです。そこでエリヤはツァレファテの村に行くんですねえ。するとそこに着くと一人のやもめに出会いました。エリヤが、水と一口のパンを持って来てください、と言うと、やもめは、「私の家には一握りの粉とほんの少しの油が残っているだけです。私と息子はそれを食べてから死のうとしているのです。」と言うではありませんか。するとエリヤは「恐れてはいけません。まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。」と言ったんですねえ。ま、なんてエリヤはずうずうしいのだろうと思いますよね。でもエリヤは続けてこう言ったんです。「飢饉が終わるまであなたの瓶の粉は尽きず壷の油はなくならないと主が言っておられます。」 こう語ったのです。やもめはエリヤのいう通りにしました。つまり自分の人生を神様の約束にかけたわけです。すると不思議にもその時から、粉も油も尽きることがなく、エリヤとやもめと息子は飢饉を生き延びることができたというのですねえ。(参照 列王記第一17章1~16節)
 実はこれは大変有名な旧約聖書のお話です。このツァレファテのやもめもレプタ銅貨二枚をささげたあのやもめも、同じように自分には何もないけれど、その何もない自分を神様に委ねて歩もうという信仰の姿を表しているんですね。その姿を神様は求めておられるのです。

     (PBA制作「世の光」2020.2.14放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■今日、御声を聞くなら / 大井 満

2020年03月26日 | Weblog

2020/2/13放送

  世の光の時間です。今月、木曜日のメッセージを担当しています東京にある板橋教会の牧師、大井 満です。

 新約聖書にこんなお話があります。イエス様が十字架につけられるためにエルサレムに向かっておられた時、エリコという町を通過されました。そこにザアカイという名前の人がいました。ルカの福音書19章に書かれています。ザアカイの仕事は取税人で、当時ユダヤを占領していたローマ帝国の手先として税金を徴収する仕事を請負っていた人です。エリコの町は交通の要衝で、多くの商人たちが行き交う町でしたから、この町でローマの権力を傘にきて税金と彼の取り分を徴収していると容易にお金が貯まります。しかし、お金が貯まるのと反比例するように友人を失っていく、そういう経験をしていたでしょう。そんな彼でしたけど、主イエスがエリコの町にいらっしゃると聞いて、一目イエスを見たいと思いました。ザアカイは背が低かったので、イエスを見るために木に登りました。その木の下をイエスが通りかかられた時、驚くべきことが起こりました。何と木の上からただイエスの姿を見おろしていたザアカイを見上げて主イエスが語りかけられました。
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカの福音書 19章5節)
 驚くべきことです。主イエスはザアカイの名前をご存知で、しかも彼の家に泊まる計画を立てておられたというのです。ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた、と6節に書かれています。

 お金で結びついてる仲間はいても、心を開いて互いに信頼できる友人がいなかったザアカイにとって、とてつもなく嬉しいことだったに違いありません。ザアカイは主イエスをお迎えし、それまでの生き方を変える、と約束しました。

 イエス様は私たち一人一人のことをその心の中までよくご存知です。そればかりでなく私たちを愛し、私たちの人生を良い方向に作り変えたいと考えてくださっています。ヘブル人への手紙3章15節に、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」と書かれています。イエス様をお迎えする用意はできていらっしゃいますか?

    ( PBA制作「世の光」2020.2.13放送でのお話しより )

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■私の足のともしび、私の道の光 / 福井 誠

2020年03月25日 | Weblog

2020/2/12放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇119篇105節から「私の足のともしび、私の道の光」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」
 
 詩篇119篇は実に長いですねえ。全部で176節。しかしよく見ると、それぞれ8節からなる22の詩で構成されています。ヘブル語の原語で読むと、それはイロハ歌になっていますね。つまり最初の8節の塊はアルファベットのアーレフで始まるもの。次の塊はベイト。次はギメル、とヘブル語のアルファベット順に冒頭の文字が揃えられた詩となっています。そして長いのですが、これら22の詩全体に渡って主のみことばがテーマとなっていますね。ですからおおよそすべての節に主のみことばもしくはその代用となることばが使われていて、それが何でありそれが私たちの人生にどのように影響するかを語っていますね。

 例えば、神のみことばは、宝である。歌である。蜜である。光である。と言ったようにです。今日読んだから105節は、「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」と語っています。みことばは私たちの人生における指針だというのです。

 というのも、学校教育で私たちは数学や国語、理科、社会等の教科教育を受けても、人生の指針となる教えをじっくり学ぶことはありません。友人や先生方から間接的断片的に何かを聞き知ることはあっても本格的な教えはおそらく教会に通わない限り、無いものでしょう。教会は神のみことばを人々に語りますが、それは私たちにどのように人生をきよく保ち、罪から自分を守るかを教えてくれます。また疲れたり悲しんだりするときの希望の持ち方を教え、さらに人が持つべき人生の高い志を諭してくれるのです。

 ぜひ教会で私たちの人生の歩みのともしびであり光である神のことばに触れていただきたいと思います。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.2.12放送でのお話より )

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■アテネの人たち / 板倉邦雄

2020年03月24日 | Weblog

2020/2/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
  今日は「アテネの人たち」という題でお話ししましょう。

 ギリシャのアテネはオリンピックの発祥の地として有名です。アレキサンダー大王を生み出し、世界の哲学の地でもありますね。今日はギリシャのアテネが偶像に溢れた都であったことをお話ししましょう。使徒の働き17章です。

 さてパウロはアテネでシラスとテモテの二人を持っていました。二人が来るのを待っている間、パウロはアテネ市内を散歩していました。ところが、どこへ行っても様々な偶像の神々が祭られているのを見て驚きながら次第に心の中に憤りを感じ始めました。ギリシャ神話に出てくる神々を思い出せばいいのです。ゼウスの神、ギリシャの最高の神です。語る神ヘルメス。海の神ポセイドン等々が祭られていました。そこでパウロは待っている間も、安息日には会堂に行って信心深い人たちと論じ、週日の日には広場へ出かけていって、そこで出会う人々を相手に論じ合ったのです。人生の真理を見出そうとする多くの哲学者を輩出したギリシャの人々、その人々が沢山の偶像の神々を作り出し神話を輩出していきました。そのギャップにパウロの心は憤りを覚えたのではないでしょうか。ギリシャの人は自分たちが考えられるだけの神々を祭り、もしかしたら知られていない神がいるかもしれない。うっかり忘れた神はないだろうかと心配になり、「知られない神」という神まで祭っていたのです。さらに、アテネに集まる人々は多くが金持ちの貴族や漁師のような人々でした。仕事は奴隷に任せて自分たちは広場に集まったり、アレオパゴスの評議場で新しい教えや珍しい考えを聞いたりすることが大好きで、興味を持って毎日を過ごしていたのです。ですからパウロの宣べ伝えているイエス・キリストの十字架と復活に興味を持ったのは当然でした。アテネの広場にいる人々はパウロをアレオパゴスの評議場へ連れて行き、「君の語っている新しい教えがどんなものか知らせてもらえないか」とリクエストしたのです。

  (PBA制作「世の光」2020.2.11放送でのお話より ) 

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■神の救いと祝福 / 岩井基雄

2020年03月23日 | Weblog

2020/2/10放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第二月曜日の今日は、旧約聖書のモーセの生涯から神様の救いと祝福について学んでみましょう。

 神の民イスラエルは、エジプトにおいて奴隷状態の苦役を経験しました。しかし神様はご自分の民をあわれみ、モーセをリーダーとし、そこから出て行く使命を与えます。けれども、エジプトの王がそれを受け入れるとは到底思えません。しかし、全ての主権を持つ神様は、モーセにこう語ったのです。
 「わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。
        旧約聖書 出エジプト記3章20節、21節

 神様は大国エジプトを数々の奇跡をもって打たれ、エジプトで苦役を強いられ何の報酬も得られなかった神の民がエジプトの人々から宝や財宝を受けて出ていくことになる、というのです。 このあと約束通り神様は、エジプトを不思議なわざの数々で打ち、多くの偶像の神々に満ちた国で、創造主であり主権者である神様の栄光を現わされました。神の民の苦しみをすべてご存知の神は、主権を持って勝利と祝福を民に与えたのです。私たちの人生にどのような苦難やうめきがあろうとも、神様はその全てをご存知です。そして神様の主権と祝福はどんな苦難が満ちる状況でも逆転の勝利を与え、私たちの思いをはるかに超えた祝福と宝を豊かに与えてくださることができるのです。 神の民がエジプトの人々から好意を得て、宝を得て出ていくということも不思議な祝福ですねえ。神様に従いつつ、まわりの方々に真実と愛をもって仕えていくこと、そこに神様の祝福が待っていることを私たちも心に留め、神と人の前に誠実を尽くしたいと願います。

 聖書のことば
 「神と人の前に好意を得、聡明であれ。
  心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
  あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。
  主があなたの進む道をまっすぐにされる。
        旧約聖書 箴言3章4節から6節
 
 どのような苦難があろうとも、あなたとともにいてくださる永遠の神様を信じて力強く歩みませんか?


  (PBA制作「世の光」 2020.2.10放送でのお話より ) 
 
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■物のやりとりについて / 羽鳥頼和

2020年03月21日 | Weblog

2020/2/8放送

 世の光の時間です。おはようございます。羽鳥頼和です。


 今日は、人との物のやりとりについてお話ししたいと思います。物をやりとり、というと少し冷たい感じがするかもしれませんが、実際には、人にプレゼントをしたり、仕事やお付き合いの中でのお中元やお歳暮また災害の時の被災者への義援金や支援物資等があると思います。 新約聖書のピリピ人への手紙には、ピリピの教会の人々と宣教師であるパウロのいろいろな物のやりとりのことが語られています。

 パウロは「ピリピの人たち。・・・福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。」(ピリピ人への手紙4章15 節)と感謝をしています。

 この挨拶で気付くのは、パウロと教会の物のやりとりに於いて、パウロには福音の宣教の働きに教会と一緒に携わっているという意識があったということです。
 パウロはこの手紙の最初のところで、「 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」(1章5節)と言っているのはそのためです。

 さらにパウロは「私がテサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」(4章16節)と感謝しながら、「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのはあなた方の霊的な口座に加えられてゆく実なのです。」(4章17節)と言っています。

 パウロは教会からさらに贈り物を求めているのではなく、パウロへのささげものは教会の「霊的な口座に」蓄えられるのだ、と教えています。イエス・キリストの「自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(マタイの福音書6章20節、参照マタイの福音書19章21節、マルコの福音書10章21節、ルカの福音書18章22節 )ということばを思い出します。「霊的な口座」は天国にある口座のことだと思います。福音宣教の働きへの支援は天に宝を蓄えることになるのではないでしょうか。

 最後に、パウロはピリピの教会からの贈り物が「神が喜んで受けてくださるささげ物です。」(4章18節)と言っています。イエス・キリストに関わる物のやりとりは共に主の働きに携わることであり、天に宝を蓄えることであり、神が喜んで受けてくださるささげものです。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。

  (PBA制作「世の光」 2020.2.8放送でのお話より ) 
 
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■レプタ、二つ / 関根弘興

2020年03月20日 | Weblog

2020/2/7放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様がエルサレムにある神殿の中の外庭に座っている時でした。その近くには献金箱があり、イエス様は人々が献金箱へお金を投げ入れている様子を見ておられました。大勢の人が献金箱にお金を投げ入れていました。中には注目を惹くためにお金の袋をジャラジャラ鳴らしながら、俺はこんなに沢山献金するんだぞと言わんばかりに献金する人も中にはいたそうなんですね。

 さてそこに貧しいやもめがやって来まして、レプタ銅貨二つを投げ入れたのです。レプタというのは当時の貨幣の最小単位です。他の人が大金をささげているのに自分はこれしかささげることができないという申し訳ない思いや恥ずかしさをこの女性はもしかしたら感じていたかもしれませんね。

 しかしイエス様はこの貧しいやもめの姿を高く評価なさいました。そして彼女の信仰の姿は聖書の福音書に書き残される程に大切な姿として紹介されているんです。(参照 マルコの福音書 12章41-44節、ルカの福音書 21:1-4節)

 ではイエス様が称賛されたのは彼女のどのような姿だったのでしょう。それは委ねて生きるという姿がそこにあったからです。この女性は生活費の全部を投げ入れたと書かれています。これを読むと、クリスチャンになったら生活費を全部ささげなければならないのかと勘違いしてしまう人がおられるかもしれません。しかしイエス様はここで献金の額について教えておられるのではないんです。この献金に表された心、信仰の姿を教えようとしておられるんですね。

 この女性は生活費の全部をささげたと記されています。この「生活費」と訳されることばは「生涯」とか「人生」「生活」という意味もあるんです。つまりこの女性は、明日どうなるかわからないような、何もない生活の中にあって自分の生涯、自分の生活そのものを主に委ね差し出したということなんですね。「神様。私には何もありません。あなたに委ね、あなたにより頼む以外には生きてことができないのです。」という思いでささげたのですねえ。

 イエス様は山上の説教の中でこう語られていました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイの福音書 5章3節 )

 神様に信頼する以外にすべがないほど神様に人生を委ね、求めていくことの幸いを聖書は私たちに教えているんですね。


     (PBA制作「世の光」2020.2.7放送でのお話しより)

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