ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

よく晴れた朝-青野原駐屯地遠望

2017年03月14日 04時41分47秒 | Weblog
 3月7日(火)、よく晴れて凛とした朝の空気に包まれながら、朝のウォーキングでお参りした大師殿(加東市社の持寶院)から西を望むと、青野原台地の陸上自衛隊青野原駐屯地の建物が朝の光に白く光って見えました。
 加古川の河岸段丘の中位台地面にある加東市社の市街地から西側の低位の平地には、田圃や県の総合庁舎、大型商業施設、新しい住宅などが点在しています。その向こうに加古川が流れ、さらに青野原台地が地平線のように広がっています。駐屯地の建物群は青野原台地の東端に位置し、天気のよい日には台地と台地の間に遮るものがなく、よく見えます。
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いい月夜でした

2017年03月13日 05時17分58秒 | Weblog
 

 夕方、外に出てみると、東の空低く、民家の屋根の上に黄色く円く光る月が浮かんでいました。満月のようです。昇ったばかりの月は本当に大きく見えます。
 8時過ぎに外に出ると、月は夜空に高く光っていました。その光に照らされて、夜の空に飛行機の航跡が白く浮かび上がっています。それはまるで定規で引いた2本の直線のようでした。いい月夜です。
 
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昭和5年-社町消防組が赤岸川原で消防演習

2017年03月12日 04時52分15秒 | Weblog
 昭和5年(1930)、社町消防組の秋季演習の観覧案内が当時の社区長の「雑書綴」に綴じられています。
 実施日時は10月12日午前8時、場所は「家原赤岸河原」となっています。社町(旧社町、現在の社小学校区)の北部を流れる加古川の支流、千鳥川の川原です。赤岸の地名は、赤穂義士が訛ったものといわれており、この地に赤穂義士の墓碑がある観音寺があることに由来するとされています。
 組頭は黒石丑吉。消防組は町の火消しとして訓練を重ねていたことが分かります。その伝統が現在の加東市消防団に引き継がれています。
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金屋谷池の堤で朝日を拝む

2017年03月11日 04時49分11秒 | Weblog
 

 3月に入り、寒暖を繰り返しながら、いよいよ春が近づいていることを感じます。9日の朝、社中央公園のステラパークから金屋谷池の堤へと歩いていると、東の空に朝日がまばゆく光りながら昇ってきました。
 円形のステラパークの外縁に立つポールが池の水面に映り、まるで港の風景のようにも見えます。
 加古川の東側の河岸段丘の中位、嬉野台地の西端に位置するこの堤からの眺望は素晴らしく、西側に向かっては、北から南へ180度視界がひらけ、加古川の向こうの青野原台地が地平線となって、さらに遙か遠くの姫路方面が見渡せます。一方、東は嬉野台地が広がり、その上には空が広がっています。朝日はもちろん、夕日の絶景スポットになっています。
 社中央公園は池の堤の傾斜を利用した芝生公園で、市街地の真ん中にあるという便利さから、いつも子供や家族連れの姿があります。もうすぐ桜の季節です。今年も美しい桜が楽しみです。
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三木翠山の描く小寺彦兵衛翁-播州針の元祖

2017年03月10日 05時11分00秒 | Weblog
 資料を整理していると、播州針の元祖、小寺彦兵衛翁の肖像画が掲載されているパンフレットが出てきました。これは、昨年の5月30日に開催された兵庫県釣針協同組合の定時総会に際し、同組合相談役の土肥芳郎氏が提供されたもので、カラー印刷で表紙に彦兵衛翁の肖像画、裏表紙には翁の頌徳碑修復記念の写真などが掲載されています。また、見開きの中には、夢の中に出てきた翁が釣針製造の技術を土佐から持ち帰り、地元に広めた経緯を語る形で歴史が紹介されていました。
 日本一の釣針製造を誇る兵庫県。その主産地は加東市をはじめ北播磨です。その元を辿ると、小寺彦兵衛翁につき当たります。加東郡下久米村(現加東市下久米)の庄屋だった小寺彦兵衛さんはきびしい年貢の取り立てに対して庄屋として抗しきれず、四国に渡り、土佐で釣針製造の技術を身に付け、その技術を故郷に持ち帰って村人に惜しみなく伝えました。これが今日の播州針の産地形成の淵源になったというわけです。
 その彦兵衛の「伝える」精神は加東市のマスコットキャラクターである加東伝の助に引き継がれています。
 さて、このパンフの表紙の肖像画は、加東市出身の日本画家、三木翠山によるものとは驚きました。下久米の山本登氏(元山本製針株式会社社長)より譲られたと解説に記されています。三木翠山については、3年前にこの歴史ブログでも紹介しましたが、当時姫路市立美術館で開催された翠山展の図録による解説をもとに紹介したものを再掲します。

 三木翠山は明治16年(1883)、兵庫県加東郡社村の田町(たまち)生まれで、現在の加東市社の田町通りが生まれ故郷です。
 翠山は幼少の時から絵を描くことが好きで、加東郡上福田村の内、木梨村の三木南石に絵の手ほどきを受け、紺屋だった三木家の養子になっています。明治33年に京都に出て、竹内栖鳳に入門し本格的に絵の修行をしたと伝えられています。大正2年(1913)には、第7回文展に初入選(「朝顔」)し、それ以後、文展、帝展などの常連作家となり、竹内栖鳳の助言で美人画の創作に取り組み、次々と名品を発表、翠山の美人画は人気を博し、京都画壇に確固たる地位を築きました。

 それにしても小寺彦兵衛翁を郷土出身の著名な日本画家である三木翠山が描いた肖像画。豪華な取り合わせですね。
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朝の光の大師殿と日本一の木像大師像

2017年03月09日 05時11分18秒 | Weblog
 

 8日(水)、朝日が昇りまぶしい光が広がるなか、ウォーキングで大師殿(加東市社、持寶院)にお参りしました。
 大師殿の西にあった納骨堂が撤去され、西に広がる田園と青野原台地、中国山地の山々を一望できるようになりました。
 大師殿は朝の光に包まれ輝いています。そして、堂内には日本一とよばれる木像の弘法大師さんがお座りになっています。毎朝のウォーキングではこのお大師さんの前に座り、手を合わせて祈ります。朝の静寂の中でお大師さんの大きな眼を見つめる一時に心が静まります。南無大師遍照金剛。
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北播磨の小学校校歌調べ-うれしの生涯大学大学院

2017年03月08日 04時30分28秒 | Weblog
 7日(火)、兵庫県の地方高齢者大学である、うれしの学園生涯大学(県立嬉野台生涯教育センター)の4年制大学講座と大学院の修了証書授与式が行われ、出席しました。
 そこでいただいた大学院講座の活動記録集の中に、「ふるさと再発見」のテーマで地元北播磨の小学校の校歌調べを通して、歴史や文化を探ろうという活動がありました。
 別冊の「校歌一覧」を見ていて驚きました。北条小学校(加西市)の校歌の作曲者が信時潔となっているではありませんか。昭和13年(1938)制定で、作詞者は河井酔茗。調べてみると有名な詩人でした。信時潔は「海道東征」、「海ゆかば」の作曲者で有名です。すごい作詞者、作曲者であることに驚きました。
 この校歌は戦争末期に歌われなくなり、戦後10年ぐらい経て復活したとのことでした。なぜ、歌われなくなり、また、復活したのか。いろいろ想像してしまいますが、詳しく知りたいものと思いました。
 他にも詩人阪本遼の作詞(東条東、東条西、下東条、小野の各小学校)がありました。また、作曲者には元東条町長の井澤文太郎氏の名前も多く見られました。校区の歴史や自然のみならず、ゆかりの人物のことも知ることができ、価値ある調査だと思いました。
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昭和20年-嬉野(海軍療品廠工場)出役一覧表

2017年03月07日 05時23分25秒 | Weblog
            

 今日も昭和20年(1945)の社区(現加東市社)の参考綴に綴じられている当時の勤労動員一覧表を紹介します。
 この一覧は3月以降、4月から5月はじめにかけての「嬉野出役」のもので、「第二海軍療品廠工場」と書いてあります。療品廠工場とは、海軍で使用する医薬品・医療機器の製造を行う工場のことだそうですが、嬉野にあったのでしょうか。それとも造られようとしていたのでしょうか。
 一覧表には、社区の各組別に出役の人名が克明に記入されています。八組(現在の社3区中田町町内会)の欄には、父の名前や町内の人の名前がありました。
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昭和20年-「うづら野渋谷隊へ出役一覧表」

2017年03月06日 05時56分39秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和20年(1945)の5月から7月にかけての鶉野(現加西市)への勤労動員の一覧表を紹介します。
 社区(現加東市社)の20組が5月から7月にかけて約10~20人が割り当てられています。一覧表には、各組の出役の人の名前が小さな字でぎっしりと書き込まれおり、その中には私が小さい頃町内に居られた方の名前もありました。70年余りが過ぎた今、鶉野飛行場跡は戦争史跡として整備されることになりましたが、当時、近隣の町や村からも勤労動員によって多くの人が出ていたことを示す記録も未来に伝えていくことは私達の責任だと思っています。
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昭和20年8月-終戦直前の鶉野出役記録

2017年03月05日 05時19分09秒 | Weblog


 昨日に続いて、昭和20年(1945)の8月、終戦直前の鶉野出役の記録を紹介します。これは当時の社区(現加東市社)の「参考綴」に綴じられているもので、社区の20区の組每に8月5日から10日までの間に鶉野(現加西市)に勤労動員に出た人の名や人数が記録されています。
 「うづらの橘部隊」への出役で女性の名が目立ちます。まさに終戦直前のことでした。
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昭和20年-鶉野(飛行場)出役の記録

2017年03月04日 04時44分18秒 | Weblog
              

 昨日のブログで、昭和20年(1945)8月、終戦直前の勤労動員関係の資料を紹介しましたが、その中に鶉野飛行場(現加西市)への出役の割当表がありました。
 今日は、その鶉野出役の昭和20年3月以降の各組(社町社区の20組)別に、日付、出役の氏名、のべ人数等が克明に記入された一覧表を紹介します。
 これは社町社区の「参考綴」に綴じられていたもので、父の名(藤本豊治)もその中にあるのを見つけました。
 戦局が厳しくなり、本土決戦が叫ばれるなか、鶉野飛行場へもこうして勤労動員が重ねられていたことを示す貴重な資料だといえます。
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昭和20年8月-鶉野飛行場など勤労動員割当表

2017年03月03日 05時13分21秒 | Weblog
 昭和20年(1945)の終戦直前の8月、本土決戦が叫ばれる中、鶉野飛行場(現加西市)などへの出役(勤労動員)に関する社区(現加東市社)の各組の員数割当表が当時の文書に綴じられています。
 鶉野(海軍)は橘部隊、出役は午前7時集合、法華口駅下車指定場所と書かれています。8月5日から10日まで、各組から数人ずつ計110人が割当られています。また高岡(陸軍)は鏑部隊、午前7時集合、高岡廠舎の裏門前。7月31日から8月2日まで同様に計112人の割当がなされています。朱書きで鶉野は「女でもよろしい」、高岡は「必ず男が出役すること」となっています。
 今、加西市では鶉野飛行場跡を整備しようとしていますが、当時、社区からも鶉野まで勤労動員として多くの人が出ていたこともこうした文書によって分かります。
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昭和20年-終戦直前の区会計監査

2017年03月02日 05時47分35秒 | Weblog
  

 昭和20年(1945)、終戦約一ヶ月前の7月18日、加東郡社町社区(現加東市社)では会計監査が行われています。その案内通知が区長から立会人に出されていますが、夜は空襲があるので昼間に開催すると書かれています。戦時下の緊迫したようすが伝わってきます。

拝啓
来七月十八日午後七時三十分社区公会堂ニ於テ本年度会計監査相受度候間何卒御出席被下度此段及御依頼候也
  昭和二十年七月十五日
          社区長   神崎壽景
          副区長   西村久夫
          会計部長  涌羅 梁

監査立会人
 岸野熊吉  殿
 神田榮太郎 殿
 林 佐二郎 殿
 肥田仙治  殿
 増田五助  殿

夜間ハ空襲ガ有リマスカラ
午後一時ノ集会ニ致シマス
 右御了承下サイマセ
      社区長
 各委員殿
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昭和20年10月30日の社区組長会-協議内容

2017年03月01日 04時40分57秒 | Weblog
 昨日は昭和20年(1945)の11月の社区組長会の開催通知を紹介しましたが、今日は同年10月30日に開かれた組長会の協議事項のメモを紹介します。
 終戦から2ヶ月余り。食糧の配給や公会堂の件など、日常の暮らしや町の事務については終戦の前とさほど変わらず行われていたことがうかがわれます。

 昭和二十年十月三十日組長会

△一、主要食糧配給人員申告ノ件(別紙参照)
(イ)十二月一日現在ニ於ケル受配者
(ロ)十二月六日限提出(米穀割当基準漁ハ別表ニアリ)
△二、農繁期米穀特配ノ件(一月分特配アリ)(但シ十六才以上六十才迄)
 十月末打切ノモノ---男 四、五〇〇瓦  女 二、五〇〇瓦
 十一月延長ノモノ---男(四、五〇〇 一、八九〇)計6、390瓦  女〃同断
  配給ハ---十二月ノ十四、十五、十六日頃  役場ヨリチケツト交付
△三、自家用味噌醤油用塩配給ノ件
 味噌一人当六九〇瓦  醤油 一人当 三瓩、〇〇〇瓦
  (味噌醤油自家用 人員ハ別表ニヨリ)
△四、家庭用塩購入券ノ件(従前ヨリ購入シタル販売店ヘ提出ノコト)
 十一月分ヨリ出ス 但シ十一月十二月ノ二ヶ月分ヲ同時ニ購入シ得ルト思フ
 一人当百八〇瓦
△五、債券ノ件
△六、公会堂守ノ件
 中村久次郎 小寺広□氏推挙
△七、選挙人名簿ノ件 男一、八九〇人 女 二、五〇〇人
 (A)九月十五日調査ノ名簿
 (B)十一月一日現在ノ調査名簿
 (C)九月十五日以後復員軍人軍属(外地居住民)等ノ補助名簿
△八、建築工短期養成所入所生徒募集ノ件(別紙)
 (別紙参照)
△九、租税配符ノ件
△一〇、松樹売却ノ件 内橋重太郎ヨリノ申出ノ件
△一一、開墾地ノ件---入植者募集ノ件(役場ヘ届出ノコト)
△一二、軍人遺家族育英事業ノ件 (波根氏) 中学・専門学校等ヘノ進学役場ヘ願出ノ件
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