ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

三木翠山の描く小寺彦兵衛翁-播州針の元祖

2017年03月10日 05時11分00秒 | Weblog
 資料を整理していると、播州針の元祖、小寺彦兵衛翁の肖像画が掲載されているパンフレットが出てきました。これは、昨年の5月30日に開催された兵庫県釣針協同組合の定時総会に際し、同組合相談役の土肥芳郎氏が提供されたもので、カラー印刷で表紙に彦兵衛翁の肖像画、裏表紙には翁の頌徳碑修復記念の写真などが掲載されています。また、見開きの中には、夢の中に出てきた翁が釣針製造の技術を土佐から持ち帰り、地元に広めた経緯を語る形で歴史が紹介されていました。
 日本一の釣針製造を誇る兵庫県。その主産地は加東市をはじめ北播磨です。その元を辿ると、小寺彦兵衛翁につき当たります。加東郡下久米村(現加東市下久米)の庄屋だった小寺彦兵衛さんはきびしい年貢の取り立てに対して庄屋として抗しきれず、四国に渡り、土佐で釣針製造の技術を身に付け、その技術を故郷に持ち帰って村人に惜しみなく伝えました。これが今日の播州針の産地形成の淵源になったというわけです。
 その彦兵衛の「伝える」精神は加東市のマスコットキャラクターである加東伝の助に引き継がれています。
 さて、このパンフの表紙の肖像画は、加東市出身の日本画家、三木翠山によるものとは驚きました。下久米の山本登氏(元山本製針株式会社社長)より譲られたと解説に記されています。三木翠山については、3年前にこの歴史ブログでも紹介しましたが、当時姫路市立美術館で開催された翠山展の図録による解説をもとに紹介したものを再掲します。

 三木翠山は明治16年(1883)、兵庫県加東郡社村の田町(たまち)生まれで、現在の加東市社の田町通りが生まれ故郷です。
 翠山は幼少の時から絵を描くことが好きで、加東郡上福田村の内、木梨村の三木南石に絵の手ほどきを受け、紺屋だった三木家の養子になっています。明治33年に京都に出て、竹内栖鳳に入門し本格的に絵の修行をしたと伝えられています。大正2年(1913)には、第7回文展に初入選(「朝顔」)し、それ以後、文展、帝展などの常連作家となり、竹内栖鳳の助言で美人画の創作に取り組み、次々と名品を発表、翠山の美人画は人気を博し、京都画壇に確固たる地位を築きました。

 それにしても小寺彦兵衛翁を郷土出身の著名な日本画家である三木翠山が描いた肖像画。豪華な取り合わせですね。
コメント
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