ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

終戦記念日の忠魂碑

2010年08月15日 11時35分04秒 | Weblog
 8月15日(日)、65回目の終戦記念日です。
 朝のウォーキングでは、いつも忠魂碑の前で護国の英霊の御魂に感謝と祈りを捧げますが、今日は特別な思いをもって忠魂碑にお参りしました。
 加東市社の市街地の南端の明治館(旧加東郡公会堂)の敷地の一角に社の忠魂碑があります。この忠魂碑は旧社町(昭和の合併前の社町、今の社小学校区域)出身兵士の慰霊碑です。この歴史ブログでも紹介してきましたが、ここに再度紹介します。


 周囲を玉垣で囲み、その中に、大きな自然石で組んだ約2・5メートルの台の上にさらに高さ約2メートルの3本の石碑が聳えています。
水平に伸びた松の枝のために正面から見ると、碑が隠れてしまっていますが、中央の忠魂碑は大正15年3月、両側の碑は昭和28年建立と刻まれています。
中央の「忠魂碑」の揮毫は陸軍大将、川村景明とあります。川村大将は薩摩出身の陸軍軍人で、日露戦争では鴨緑江軍司令官として奉天会戦などで活躍した人物です。日露戦争後は子爵となり、大正4年には元帥、その後在郷軍人会会長をつとめています。大正時代のはじめには、全国的に忠魂碑建設ブームが起こりましたが、川村大将は多くの忠魂碑の揮毫をしています。
 両側の碑には英霊のご尊名が刻まれています。明治10年の西南戦争から大東亜戦争まで、祖国のために戦って戦陣に散った英霊の数は、240柱余りにのぼっています。ちなみに、各戦役の数は以下の通りです。西南戦役(4)、日清戦争(5)、日露戦争(7)、日独戦役(第一次大戦2)、満支事変(31)、大東亜戦争(195)。
 
 以上ですが、大正15年(1926)建立ですから84年、昭和28年(1953)再建から57年が過ぎました。戦中は、地元社町の帝国在郷軍人会の主催による慰霊祭や戦勝祈願祭などが行われてきた場所です。私の母方の2人の叔父の名も刻まれています。また、この歴史ブログで紹介してきた出征兵士や戦死された英霊の名前もあります。この英霊の尊い犠牲の上に戦後の日本があるのです。忘れてはならない記憶。この碑の前に立ち、祈りを捧げ続けることが戦後を生き継いでいる者の責任だと思っています。
 今朝も蝉の鳴き声だけが耳に入ってきました。
コメント
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