東条ダム(鴨川ダム)の水が嬉野台地を潤している。このことを29年前に兵教大附属小の4年生の社会科の学習で探究しました。教材研究でダムから幹線水路を追ってバイクで走り回ったことで、私自身も驚きの連続でした。
この写真はその一枚ですが、嬉野の附属小学校の近くまで流れてきた水路が円筒の分水口でさらに分かれていくところを撮したものです。子ども達と一緒に見学しましたが、何せ、当時は「まむし危険」の立札が立っている藪の中で近づくのも危険でした。だいたい標高100メートルの等高線にそって水路が流れていました。
現在では、周囲は住宅地になっています。当時、ここが住宅地になることなど予想もしませんでした。私が中学生だった昭和40年代はじめ、この分水施設のもう少し手前の山で、キャンプをして、炊事の水は水路の水を使っていたことを思い出します。
この写真はその一枚ですが、嬉野の附属小学校の近くまで流れてきた水路が円筒の分水口でさらに分かれていくところを撮したものです。子ども達と一緒に見学しましたが、何せ、当時は「まむし危険」の立札が立っている藪の中で近づくのも危険でした。だいたい標高100メートルの等高線にそって水路が流れていました。
現在では、周囲は住宅地になっています。当時、ここが住宅地になることなど予想もしませんでした。私が中学生だった昭和40年代はじめ、この分水施設のもう少し手前の山で、キャンプをして、炊事の水は水路の水を使っていたことを思い出します。
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