不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和5年-陸軍の宿営①

2008年12月13日 06時43分55秒 | Weblog
 昭和5年(1930)の秋、陸軍歩兵第39連隊が宿営することになり、社町長から関係の区長宛に宿営要綱が送られています。通知、要綱を読むと、兵隊の宿営をどのように受け入れていたのかがよく分かります。


昭和五年十月十七日
          社町長  石井市太郎

社 関係部落区長殿廠

 軍隊宿営ニ関スル件通知

首題ノ件ニ関シ歩兵第三十九聯隊ヨリ依頼有之候条此段及通知候也
来ル十一月二日夜左記要領ニ依リ別紙ノ如ク屋下ヲ利用スル露営ヲ実施致シ度ニ付キ及御依頼候也
追テ十一月二日午後一時迄ニ設営隊ヲ貴役場宛ニ派遣スベキニ付キ御多忙中甚ダ御迷惑ニ候ヘドモ其時迄ニ露営ノ為利用シ得ヘキ住宅内、土間並ニ納屋内、土間其ノ他雨露ヲ凌ギ得ヘキ土間等ヲ御調査ノ上各家屋ニ対スル人員ノ分配予定馬繋場鞍置場砲廠ノ準備並ニ給養ノ準備ノ為□カレ度ク旁々及御依頼候
尚各部隊人馬数標準表左記ノ通リ候

 宿営並ニ給養要綱

一、人員
一、人員ハ住宅内土間 納屋内土間其ノ他雨露ヲ凌ギ得ル土間ヲ使用シテ露営ス
二、土間ノ広サノ標準ハ将校一名一坪下士卒一名半坪トス
三、各家屋ニ対スル人員分配ハ舎営ノ如ク分散宿営ヲ避ケ利用シ得ヘキ土間ノ許ス範囲ニ於テ勉メテ分隊(下士一卒八乃至十名)以上ヲ標準トシテ配宿ス但シ止ムヲ得ザレバ実ニ僅少ナル人員ニ区分スルコトヲ得
四、聯隊本部、大隊本部、大隊経理室、大隊医務室、中隊事務室ハ他ノ部隊ト同一土間ヲ使用スルコトヲ避クルヲ要ス

                             つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうすぐ義士祭-加東赤岸の観音寺

2008年12月10日 05時46分24秒 | Weblog
 加東市社の市街地(商店街)に「義士祭」の幟が目立つようになりました。今年は忠臣蔵の映画などでおなじみの義士の衣装にちなんだ幟のデザインになっており、白黒のシンプルなものですが逆に目立っています。
 さて、加東市家原の旧国道175号と社環状線の交差点は「赤岸」と呼ばれています。この地名「あかぎし」は「あこうぎし:赤穂義士」がなまったものといわれています。この地に大悲山観音寺があるのですが、この寺は「赤穂義士四十七士の墓」があることで知られています。
 四十七士の墓は東京芝の泉岳寺、赤穂の花岳寺が知られていますが、この観音寺にも三つめの四十七士の墓があるのです。墓と言っていますが、正確には石碑で、義士の150回忌にあたり、家原浅野家の祈願所であった観音寺に石碑を建てて供養しようとしたものです。旧赤穂藩の領地が多かった旧加東郡(現加東市、小野市)をはじめ、寄附は北播磨一円からあったということです。
 12月14日の義士祭は父親の代も、そして私たちの代も保育園の頃からお参りして甘酒をいただき、中学時代は刃傷を知らせた早籠にちなんだ駅伝大会に出場し、町役に出るようになってからは法要やたき火、くじのお世話などをさせていただいています。この義士の石碑建立の趣旨は義士の忠義、精忠の志を忘れず称えて続けていこうというものです。郷土にそうした歴史的精神を伝え続ける場所、祭があることを嬉しく思います。
 この歴史ブログでも平成18年7月4,5日に観音寺と赤穂義士について詳しく紹介していますので、一度覗いてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和5年-衛生週間講演会への出席願い

2008年12月09日 05時48分11秒 | Weblog
 昭和5年(1930)、衛生健康週間の講演会への出席について、念押しの通知が社町長から区長宛に発せられています。講演だけではなく、余興として浪花節や漫才も準備してあるところなど、いつの時代もこうした行事への出席促進について主催者側は苦労していたことがよく分かります。


  昭和五年十一月七日
            社 町 長
 社区長殿

  衛生健康週間講演会通知方依頼

首題ノ件ニ関シ先般各戸ニ配布セシ「宣伝ビラ」ニモ記載シ置キ候ヘ共モ念ノ為メ「歩行」ニ今晩ノ公園及余興ニ浪花節万才ノ在ル事知通方相成度
 追記
  是候共モ各戸一名ヅツ出席セラルル様特ニ御配意相煩シ度

      記
講師  家原博士及小牧技師
浪花節 万才ハ県ヨリ出張ノコト
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大深山東福寺で護摩焚

2008年12月08日 06時09分11秒 | Weblog
 12月7日(日)、加東市松沢の東福寺で護摩焚が行われました。午後一時過ぎから護摩焚き、火渡りの行事が行われるということでしたが、私は同じ時刻に別の会場での行事があり、残念ながら護摩焚きを見ることはできませんでした。
 昼前に参拝すると、地元松沢の皆さんが参拝者にぜんざい、関東煮、抹茶のお接待をして下さって、心も体もほかほかと温まりました。また、早めに参拝された方々や地元の方々からお寺や護摩焚きのお話を聞くこともできました。
 東福寺は大深山(おふかさん)と呼ばれ昔から有名なお寺で、松沢の西の大深谷にあります。昼前でしたが山から冷たい空気が降りてくるという感じで、日が当たり始めたのが11時過ぎだったということでした。谷筋の一本の道は嬉野へ、そして山国へと通じていて、そういえば、山国の東の道標に「大深山」という文字が刻まれていたことを思い出しました。
 境内には山門、本堂のほか、福寿堂などがあり、本堂の前に護摩焚きの準備がされていました。福寿堂内には西国三十三番の霊場巡りができるようになっていましたが、元は山門から一列に並んでいたということでした。本堂の山側は岩壁が高く切り立っていて、細い滝が落ちていました。
 護摩焚きの時間が近づくにつれ、参拝者が続々と増えてきました。来年は行事が重ならないようにと祈りながら寺の坂道を下りました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年-県会議員選挙の心得に関する講演会

2008年12月07日 05時54分15秒 | Weblog
 昭和2年(1927)の夏、県会議員選挙の心得に関する講演会の開催についての通知が出ています。
 大正14年(1925)に普通選挙法が成立し、翌15年には府県制の改正が行われ、県会議員選挙の選挙権および被選挙権も大きく拡大しました。それまで制限があった納税要件が廃止されて、満25以上の男子に選挙権が認められました。
 普通選挙法の下では、戸別訪問の禁止など、選挙の方法も大きく変わり、兵庫県では昭和2年にこの法律の下で初めての県会議員選挙が行われました。その時の選挙に関する心得についての講演会の通知です。


社通一第二一八〇号
   昭和二年八月二十六日
              社 町 長
 区長殿

  後援会開設ノ件

来ル三十一日午前九時社町公会堂ニ於テ県会議員選挙心得ニ関シ社警察署長ノ講話有之候間有権者全部参会可致様御伝達相成度今回ノ選挙ハ選挙法改正後最初ノ事ニ候間違反者ヲ出スガ如キコトナキ様心得サセ度候ニ付無洩御通達相成度及通知候也
 追テ不参者ハ次回ニ於ケル他町村ノ講話会ニ出席可致様御取計相成度
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和4年-県社佐保神社例祭の案内

2008年12月06日 06時14分21秒 | Weblog
 戦前の社区の文書綴には、毎年、佐保神社(加東市社)の例祭の案内通知が綴じられています。その形式、文面は毎年変わりませんが、今日は昭和4年(1929)のものを紹介します。

(案内)
拝啓 時下秋冷之節 益々御清福奉賀候 陳ハ当神社例祭典来十月十五、十六日ノ両日間 如例執行仕候間御一堂賑々敷御参詣被遊候様御村内皆々様ヘ宜敷御鶴声被下度 且ツ祭礼人足 別紙切符之通リ御差シ向ケ方伏テ御依頼申上候
尚ホ 又
右十月十六日ノ例祭儀式ハ午前九時三十分執行仕候ニ付 何卒是非御参列被成下度御案内申上候                         敬具
 追伸 当日儀式参列員諸氏ノ御集合場所ハ加東郡公会堂ニ御座候条申添候也

 昭和四年十月九日
   加東郡社町
    県社佐保神社
       社務所

 社町区長殿


(別紙)
人足切符
一、例年通リ
 十月十五日  神式相撲場人足
 〃 十六日  々上 日役
 〃 十七日  跡片付ケ人足(各町一人宛)
右例年通リ御差向ケ被下度候也

 昭和四年十月十日
    県社佐保神社社務所
社町社区長殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和5年-敬老会への参加人数の報告督促

2008年12月05日 05時23分25秒 | Weblog
 「昭和4年4月 雑書綴 社町社」には、主に通知などの印刷物が綴じてありますが、なかに手書きの手紙類も丁寧に綴じられています。その一つに昭和5年(1930)3月18日付で、婦人会長から社区長宛の手紙がありました。
 社小学校で開かれる学芸会で敬老会を併せて開く予定になっているが、社地区のみ人数の知らせがないので困っているとの内容です。昭和5年3月に社町婦人会会則の原案が綴じられていますので、その直後の頃の手紙です。

冠省
来る二十一日午前九時から小学校で学芸会が開催されます 就いてはこの機械に社町婦人会事業として社町敬老会を開催する事になりまして それぞれ準備に着手し当日出席下さる おとしよりの人員も既に報告済になってゐます 独りおだけがまだ報告ありませんです
当日誠に粗末ですが敬老会員の方に粗菓を呈する事にあってゐますので おだけが漏れるのは遺憾に存じますので支給人員の御報告をお願ひ致します

 三月十八日   社町婦人会長  田中正一

社区長  肥田仙治 殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和4年夏-公会堂で活動写真会

2008年12月04日 05時04分10秒 | Weblog
 昭和4年(1929)の夏、元加東郡公会堂(現在の明治館)では活動写真会が相次いで開催されています。大正から昭和初期にかけて活動写真が普及し、公会堂はその映写会場として活用されていたことがよく分かります。2つの活動写真会の案内を紹介します。



 昭和四年七月三十一日
           社町婦人会長  田中正一

各部落婦人会長 殿

    行幸活動写真会開催ノ件

明八月一日午後七時から元郡公会堂に於て本県主催の行幸活動写真会が開催されますから貴御婦人方多数拝観されるやう御取計下さるやう願ひます
右御通知申し上げます

 二件
 来る八月十五日午前七時から社小学校で簡閲黙呼が施行されますから御参観相成るやう願ひます



 昭和四年八月一日
               社町長
社区長 殿

 衛生ニ関スル活動写真会通知

首題ノ件来ル八月五日別記要項ニ因リ映写相成候ニ就テハ貴部内一般ヘ無洩ク御通知ノ上可成多数繰合セ拝観相成度
時節柄悪疾伝染病発生ヲ防止シ得ル様致度此段及周知候也

 衛生活動写真会開催要項

一、時刻  八月五日午後七時開会  午後十時閉会
一、場所  元郡公会堂
一、講師  県衛生課員二名
一、主催  兵庫県
一、後援  社町


   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和4年-天皇陛下の兵庫県行幸

2008年12月03日 06時42分43秒 | Weblog
 昭和4年(1929)、昭和天皇は兵庫県下に行幸されました。行幸に関して、社町では国旗掲揚を通知し、赤十字社では鹵簿奉拝希望者の募集を行っています。
鹵簿(ろぼ)とは、天皇行幸のときの行列のことです。



社通一第一三四五号ノ一
 昭和四年六月一日
           社 町 長

各区長殿

  行幸当日国旗掲揚ノ件

天皇陛下  本件ヘ行幸ニ付六月七日八日ノ両日各戸ニ国旗掲揚可致様御配意相成度此段及通知候也



昭和四年五月拾日
        日本赤十字社社町分区長
            石井市太郎
各区長殿
     鹵簿奉拝ニ関スル件

首題ノ件左記ノ通リ兵庫県支部ヨリ通牒之有候ニ付誠ニ多忙中ニハ候ヘ共モ一般ニ伝達相成度候
本月下旬  天皇陛下本県下ニ行幸被為在候節御道筋特定ノ場所ニ於テ本社々員鹵簿奉拝御差許ノ義申請中ニ付奉拝希望者ハ社員資格氏名ヲ本日十三日迄ニ御申出相成度候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年-陪審員制度

2008年12月02日 04時53分14秒 | Weblog
 来年5月に始まる裁判員制度に向けての準備が進められていますが、わが国では戦前に陪審員制度があり、大正12年(1923)に法律で定められ、昭和3年(1928)から実施されました。
 陪審員制度を実施するには陪審員を決めなければなりません。その候補者選出に関係する通知が昭和2年の「社町社 雑書綴」にあります。


          通 知 書

貴殿ヲ陪審員候補者抽籤ノ立会人ニ選定候条抽籤日ニ出頭相成度及通知候也

一 日時  昭和二年十一月十五日 午前九時
一 場所  当役場

 昭和二年十一月九日
          加東郡社町長  松本兼蔵

肥田仙治 殿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年-「明治節に於ける家庭行事」

2008年12月01日 05時52分53秒 | Weblog
 平成18年12月6日のこのブログで、昭和2年(1927)に制定された明治節(11月3日、戦後は「文化の日」)について取り上げましたが、制定後初めてその日を迎えるにあたり示された「明治節に於ける家庭行事」と題した印刷物の全文を紹介します。


 明治節に於ける家庭行事

本年三月三日発布になりました明治節御制定の詔書に

 朕カ皇祖考明治天皇盛大業夙ニ曠古ノ隆盛ヲ啓カセタマヘリ
 茲ニ十一月三日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰
 キ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

と仰せられました。即ち、明治天皇の御威徳を仰ぎ奉ること、前古未曾有の盛世を永久に記念する事との二が、この祝日を御制定に成った御趣旨であると拝察致します。而して、この事は既に久しい以前から国民一般の熱心に希望して居つたことで、之が実現を見ましたことは御同様誠に歓喜にたへぬ次第であります。従来、我邦の國祭祝日には各神社に於いて祭典を行ふ慣例でありますから、其の内之に関する規定も発表せられることと思はれますが、一般の家庭に於いても、例へば三月三日の雛祭、五月五日の端午の如く、年々この日に於いて、祭日にふさはしい行事が有つたならば、証書に臣民と共にと仰せられた 今上陛下の不快思召を徹底さする上に、一層の効果あることと思はれます。然るに、従来かやうな家庭行事はとかく贅沢になり易い傾きがあります。若しこの明治節に於ける家庭行事も、さういふ弊を伴ふ様になりましたなら、第一質素を以て御生涯を御一貫遊ばされた明治天皇の御趣意に反くこと甚しいのみならず、種々の悪結果を生ずることは、言ふまでもありません。又雛祭、端午等の行はれる春夏の候は、とかく浮かれ易い季節であります。世の中は、年中むづかしい顔ばかりして居つても窮屈に過ぎますから、時有つておもしろをかしく日を過すのも結構ですが、締る時には大に締らねばならぬことは勿論で有ります。然るに、十一月三日の明治節は、気候から言つても、暑からず寒からず、人心の最も引締る時で、明治天皇の御盛徳御遺業を追慕し奉るには極めて似合はしい時節であります。要するに、当日の家庭行事はその性質上、あくまで敬虔と質素を主とし、国民一般、何れの家庭に於いてもたやすく行はれる様にしたいと思ひます。







 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする