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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

明治橋

2006年07月21日 15時21分40秒 | Weblog
明治橋から社を見る

 この写真は、社市街地の北を流れる千鳥川に架かる明治橋の北詰から社方面を写したものです。昭和前期の写真だと思いますが、はっきりとした年代はわかりません。
 頑丈そうなコンクリート製の橋脚が6本ほど見えます。橋の上には自動車が一台走っています。向こう岸には、なだらかな上り坂が続いています。これが社市街地に入っていく道で、今も変わりがありません。当時は国道旧175号線がなかったので、この県道一本が南北を結ぶ主要道路だったわけです。
 赤岸には大きな松や黒々とした林が続いています。右の方は善龍院の林で、左の方は観音寺から御霊山の林でしょう。
 
  
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昭和12年の秋祭:上組太鼓と人々

2006年07月21日 06時08分41秒 | Weblog
上組の太鼓屋台

 この写真には「昭和12年10月16日祭礼上組屋台」と書き込まれています。
昭和12年(1937)といえば、中国大陸での戦争が拡大していった時代ですが、佐保神社の祭礼はこの年も行われたんですね。
 佐保神社の宮元である社の氏子は、「上組」と「下組」の二つの組を構成し、太鼓屋台を奉納しいます。上組の区域は、ほぼ現在の社一区、二区、三区になります。
 写真には、中央に上組の屋台が、そしてあと二つの屋台も写っています。上組屋台であることは、飾りの鯱(しゃち)でわかります。屋台の前に勢揃いしているのは上組の役員さんや若い衆でしょう。前列左端に若き日の藤本豊治氏(のちに社町長)の姿が見えます。
 この時代の佐保神社の秋祭では屋台の宮入とともに奉納相撲大会が盛大に行われていたようです。ある日記によれば・・・、
 昭和9年10月16日の本宮の日は、雨がしとしと降ってきて、すでに出水や下組の屋台は出ているのに上組の屋台は10時頃になっても動こうとしていなかったとあります。その後、法蓮寺で昼食、郡公会堂で休憩、午後1時前に宮入を、二時に無事終了したようです。相撲大会は河合が優勝、五時半に終了。翌17日に花を集めに行き、その日のうちに「帳破り」をし、皆で威勢よく酒を呑み、肉を食べて午後3時に解散した、とあります。昭和6年の日記にも同じようなパターンで祭礼から「帳破り」が行われていたことが記されています。昭和13年の日記では、相撲大会が近来にない大盛会だつたようで、参加も加西郡(現加西市)、加東郡(現加東市と小野市域)から13組が出場したとあります。
 私は昭和40年代に中学生時代を過ごしましたが、当時は、佐保神社境内の相撲場で加東郡中学校対抗相撲大会が開催されていました。この日に向けて校内で相撲大会をし、選手を選んで練習を重ねて出場しました。当時は知りませんでしたが、伝統の行事だったんですね。今は相撲場はありません。そして相撲大会もなくなり、剣道大会が行われています。
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