ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

佐保神社と社市街地の成り立ち

2006年07月08日 03時28分44秒 | Weblog
佐保神社と市街地の成り立ち
 社の街のあるところは、昔、「広野(ひろの)」あるいは「涌羅野(由良野(ゆらの)」とよばれる原野で、北は御霊山(ごりょうやま)から、南は松尾あたりまで松林が続いていたようです。
 その松林一帯が佐保神社の境内だったようですが、松林を切り開いて、しだいに民家が増え、村落が形成されていきました。
 中世のころは、六日市に近在の人びとが生活物資を購入するために集まる門前集落だったようです。
 そのうち、佐保神社の境内から社村を割いたので、神社の境内は神域全体の西にかたよった形になっています。また、神社の境内の北側から、慈眼寺坊(持寶院あたり)の前の山林が開発されて、西浦町になりました。
 近世になると、社村は姫路方面から高岡、社、三草、鴨川を経て京都方面に通じる京街道にあたり、西国三十三カ所札所の遍路道の宿場としても栄えたようです。
 17世紀のはじめ、すなわち江戸時代のはじめには、すでに45軒の商人がいた記録があります。また、17世紀の末には、田町、上町、中町、下町などの町割りもできていました。
 18世紀の中頃には、在郷町として発達し、毎月4、9、14、19、24、29の六日に市がたてられ、店を構える商家が出現しました。
 18世紀末には、綿屋11、米屋9、古手屋6、油屋3、魚屋2、塩屋2、きせる屋2、炭屋2、布屋、たばこ屋、花屋、木綿屋、紺屋、鍵屋、扇屋、風呂屋、あめ屋、鍛冶屋、八百屋、表具屋がそれぞれ1という記録が残っています。
 屋号も、出水屋、東実屋、野間屋、三木屋、広野屋、平野屋、三草屋、奈良屋、家原屋、木梨屋、横谷屋、丹波屋、梶原屋、吉野屋、淀屋、福田屋、玉屋、大黒屋、万屋、那波屋、山田屋、隅屋、荒田屋、丸屋、山屋、本田屋などがあり、近世のはじめごろから社村は北播磨第一の在郷町に発達していました。
 屋号を見ると、商売を表すものもあれば、周辺の村の名も見られます。店の主の出身地を呼んだものでしょう。最近は屋号を余り耳にしなくなりましたが、屋号の方がすっきり分かる場合が多く、便利だつたのでしょう。年輩の方の口から屋号が飛び出すと懐かしい気持ちになりますね。(参考『新修加東郡誌』、『佐保神社誌』など)

写真は昭和の前半の頃の社の商店街の写真です。さて、場所はどこでしょう。ヒントは「社活版所」「井野雑貨店」「毛糸(丹波屋)」の看板やのぼりでしょう。時計店も見えますね。
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