ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

社小学校の歴史(1)

2006年07月02日 06時26分25秒 | Weblog
社小学校

校長室の二つの額
PTAの仕事で、社小学校の校長室に入ったとき、「八城學校」(はちじょうがっこう)と書かれた額の字が目にとびこんできました。この字を書いたのは、明治の新政府で右大臣や太政大臣をつとめた三条実美(さんじょうさねとみ)です。この額は、古い木造校舎があった頃、西の校舎の2階講堂の正面右壁に掲げられていたという記憶があります。
 校長室には、この他にも「八城校」と書かれた大きな瓦や八城学校の校舎新築祝賀式典に参列した、当時の県令の式辞が表装されて額に飾られています。どれも社小学校の古い歴史を今に伝える貴重な品です。
 ここで、社小学校の創立の頃の沿革をみておきましょう。
 明治5年(1872)、「学制」頒布により、今の社小学校区には八つの学校が創設されました。社には、涌羅山一乗寺(持寶院西隣、明治維新の頃廃寺になった)を仮校舎として、知新校(温故知新)が設置されました。八つの学校というのは、知新校の他に、山国・松尾の報国校、田中・泉の潺湲校(せんかんこう)、鳥居・家原の静修校、西垂水の汲採校、窪田の南寿校、野村・貝原の河高校分校、上中・梶原・喜田の良秀校でした。
 明治8年、これらの小規模の学校を統合して、「八城学校」が設置されました。そして、明治12年に、社町下町(現在、明治館のある社市街地南端の場所)に八城学校の校舎が新築され移転しています。
翌年5月の校舎新築祝賀式には、当時の兵庫県令(今の知事)だった森岡昌純が参列し、式辞を述べました。森岡昌純(薩摩出身)は、播磨地方が飾磨県(明治4年~9年)だった頃から権令(県令)だった人です。
八城学校の名は、明治33年(1900)に社尋常小学校という名に改称さるまで使われていたようです。また、今の社小学校の位置に校舎が新築され、移転が終わったのは明治42(1909)年のことでした。
 写真は、旧本館木造校舎です。堂々たる建物です。小学生だったころ、この本館の床下を西から東まで通り抜けたことがあります。真ん中あたりが職員室になっており、床板の節穴から職員室を覗いた時のスリル感は忘れられません。また、床下には小動物の骨がたくさんあったことも鮮明に覚えています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐保神社(3)大石灯籠 | トップ | 板垣退助が社に来た »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事