ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和8年-郷土出身兵の町葬 ⑤

2013年04月04日 04時56分11秒 | Weblog
 末永忠男さんの名前を忠魂碑(加東市社、明治館前の広場)脇の英霊碑の中に見つけました、満支事変の一番最初にその名がありました。郷土兵で最初の戦死だったのでは、と思います。
今日は町葬式場と参列者の配置図を紹介します。

 式場の正面と左右は幕で仕切られ、式場正面(東)に祭壇が組まれています。
 祭壇に向かって右に、委員長席、長机が置かれ、奧から、遺族、委員、僧侶、神官、赤心会席が並んでいます。
 机の前に二列で、前列に正斎主、後列に楽手席が6,7席置かれています。反対の左側には同じく長机が置かれ、県及び軍部その他参列者の席となっています。その机の前には一列で副斎主の席が置かれています。
 正面の祭壇に正対(西側入口側)して各種団体参列者の席が設けられています。
 右から天理教関係者2列-80人、婦人会3列-120人、女子青年団3列ー120人、有隣女学校1列-40人、女学校10列-400人、小学校16列-800人、涌羅野1列-40人、青訓青年5列ー200人、在郷軍人2列-80人、消防組7列-280人、戸主会10列-400人となっています。1列は40人で小学校のみ50人になっています。合計すると60列、約2500人という大きな人数になります。
 盛大な町葬が執行されたようです。
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