モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(女はみなこうしたもの)K.588
指揮:ジェームズ・レヴァイン、演出:レスリー・ケーニヒ
スザンナ・フィリップス(フィオルディリージ)、イザベル・レナード(ドラベッラ)、マシュー・ポレンザーニ(フェルランド)、ロディオン・ポゴソフ(グリエルモ)、マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)、ダニエル・デ・ニース(デスピーナ)
2014年4月26日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2015年 3月WOWOW放送録画
ジェームズ・レヴァインが復帰したシーズン、「ファルスタッフ」とともに上演したものである。どっちも大人の男女のコメディで、こういう機会にふさわしいとはいえる。ただこの二つとも作品としては苦手で、この「コジ」も舞台でも映像でも何回か見てはいるのだが、それほど楽しんだという記憶はなかった。
でも今回は少しちがった感があった。楽しかったというほどではないにしても。
友人である男二人の恋人は姉妹で、いかに愛しあっているか、また相手のの貞節を信頼しているかを自慢しあっているところに、年配の知恵者(ドン・アルフォンゾ)がからかい半分で、姉妹の貞節ぶりに「賭けを」しかける。男二人が戦争に行ってしまうことにして、変装した二人を姉妹に近づけ、ちがう相手に言いより、結果どうなるかということである。そのしかけ、顛末では小間使デスピーナが大活躍をする。つまりスワッピングと不倫の賭けということで、ある程度人生経験を積んだレベルの話として(少なくとも日本では、そして私も)受け取られてきた。ところが、どうも原作の設定ではかなり若い世代の話らしく(こういうのは旧い文学作品ではよくある)、今回の演出では衣装、身振りなど含め、よりスピーディでコミカルになっている。もっとも衣装、装置は現代ではない。
それを支えているのはなんといってもレヴァインの指揮で、ためらわず振幅の大きい音楽を鳴らし、歌手たちに思い切った歌と動きを促がしている。
あらためて考えると、この賭けでは友人の恋人を落とせるかどうかだが、二人ともそうなってしまっては恋人もお金もそして友人も失うわけで、不自然なものなのだが、それでもどうなるかという好奇心、そして始まってみれば、これは姉妹も同様だが、欲望をすべて断ち切ることはできないといところのスリルを音楽もあわせてどう楽しむか、ということになる。
そう考えれば、フィナーレの大人の結末というところからの解釈だけではつまらなかった話もちがって見えてくる。そういう男女の性衝動に強い関心をもち、音楽の上にもそれは出てきている、この前にあの「ドン・ジョヴァンニ」を書いているモーツアルトであるから。
歌手たちはみな達者で、6人のバランスもよかったが、デスピーナのデ・ニースが特に目立っていた。モーツァルトの作品ではこういう役回りがよくあるけれども、このオペラでは特にキー・パースンになっている。
指揮:ジェームズ・レヴァイン、演出:レスリー・ケーニヒ
スザンナ・フィリップス(フィオルディリージ)、イザベル・レナード(ドラベッラ)、マシュー・ポレンザーニ(フェルランド)、ロディオン・ポゴソフ(グリエルモ)、マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)、ダニエル・デ・ニース(デスピーナ)
2014年4月26日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2015年 3月WOWOW放送録画
ジェームズ・レヴァインが復帰したシーズン、「ファルスタッフ」とともに上演したものである。どっちも大人の男女のコメディで、こういう機会にふさわしいとはいえる。ただこの二つとも作品としては苦手で、この「コジ」も舞台でも映像でも何回か見てはいるのだが、それほど楽しんだという記憶はなかった。
でも今回は少しちがった感があった。楽しかったというほどではないにしても。
友人である男二人の恋人は姉妹で、いかに愛しあっているか、また相手のの貞節を信頼しているかを自慢しあっているところに、年配の知恵者(ドン・アルフォンゾ)がからかい半分で、姉妹の貞節ぶりに「賭けを」しかける。男二人が戦争に行ってしまうことにして、変装した二人を姉妹に近づけ、ちがう相手に言いより、結果どうなるかということである。そのしかけ、顛末では小間使デスピーナが大活躍をする。つまりスワッピングと不倫の賭けということで、ある程度人生経験を積んだレベルの話として(少なくとも日本では、そして私も)受け取られてきた。ところが、どうも原作の設定ではかなり若い世代の話らしく(こういうのは旧い文学作品ではよくある)、今回の演出では衣装、身振りなど含め、よりスピーディでコミカルになっている。もっとも衣装、装置は現代ではない。
それを支えているのはなんといってもレヴァインの指揮で、ためらわず振幅の大きい音楽を鳴らし、歌手たちに思い切った歌と動きを促がしている。
あらためて考えると、この賭けでは友人の恋人を落とせるかどうかだが、二人ともそうなってしまっては恋人もお金もそして友人も失うわけで、不自然なものなのだが、それでもどうなるかという好奇心、そして始まってみれば、これは姉妹も同様だが、欲望をすべて断ち切ることはできないといところのスリルを音楽もあわせてどう楽しむか、ということになる。
そう考えれば、フィナーレの大人の結末というところからの解釈だけではつまらなかった話もちがって見えてくる。そういう男女の性衝動に強い関心をもち、音楽の上にもそれは出てきている、この前にあの「ドン・ジョヴァンニ」を書いているモーツアルトであるから。
歌手たちはみな達者で、6人のバランスもよかったが、デスピーナのデ・ニースが特に目立っていた。モーツァルトの作品ではこういう役回りがよくあるけれども、このオペラでは特にキー・パースンになっている。