メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

シベリウス「親愛なる声」

2006-11-13 22:47:26 | 音楽一般
グリーグ・ニールセン・シベリウスと、北欧の作曲家による室内楽を集め、エマーソン弦楽四重奏団が演奏したアルバム、今春(2006)リリースされたもの(DG)を聴く。
 
いずれも聴くのは初めてで、こうしてまとめられると聴くきっかけが出来るというのは本質的ではないが、けっこうなことだ。
 
最初のグリーグの弦楽四重奏曲(作品27)、グリーグはピアノ(協奏曲、独奏)と声楽くらいしかなじみがないが、これは心地よい、浸りやすい曲。エマーソンにも向いているようだ。
 
ニールセンの「若き芸術家の棺の傍らで」と題された3分半ほどの曲は、佳作であるが、このアルバムでは箸休めといったところだろうか。
 
さてシベリウスの弦楽四重奏曲(作品56)「親愛なる声」、この特に交響曲第4番以降に見られる誰とも似ていないシベリウスだけの孤高の音楽、こういう音楽を交響曲以外にも書くのだということをまず思った。もっとも第4番の静かで聴くものを容易に寄せつけず、その抵抗感から少しずつ感じ取っていくというつくりではなく、もう少し取り付やすさはある。後で作品番号を比較してみたら、交響曲第3番と第4番の間であった。なるほど。
 
冬から春にかけては毎年なぜかシベリウスが聴きたくなる。一つ楽しみがふえたようだ。
 
エマーソンの演奏だが、この団体特有の流れのよさがここでもある。がしかし、このシベリウスではもう少し音の像が、時間軸をしばし感じさせないで静止画のように一つの形で迫ってくるという形態が、結果として、欲しいのだが。
他の曲でもエマーソンはその傾向が強く、なかなかそうはいかないのかも知れない。

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PicNic (岩井俊二)

2006-11-12 17:24:40 | 映画
「PicNic」(1996、68分)
監督・脚本: 岩井俊二、撮影: 篠田昇、音楽: REMEDIOS
Chara、浅野忠信、橋爪浩一
 
始まってしばらくはなにか難しそう、暗そうで、自分勝手な映画かな、と思っていたら、その後は、うまい設定の中で、主人公達の動き、そしてカメラの見事な変化、そのテンポとリズム。 同年の「スワロウテイル」よりさらにこの岩井・篠田のコンビがいきいきと才能を発揮した感がある。
 
話はココ(Chara)が精神病院に入って来るところから始まり、知り合ったツムジ(浅野)、サトル(橋爪)と塀を伝って旅に出る。世界の終焉を見るという名目はあるらしいのだが、塀の上という位置を守るところがなんともうまい設定で、物語を性急に極端なところに追い込むことから救っている。
 
途中で遭遇する教会の神父と子供達の場面など印象的なシーンは多いが、よくこんなに多様な「塀の上」を探し出したもので、ロケハン能力というものは大変なものだ。
 
演技ではやはりCharaの天性が、そのキャラクターとともに、この映画を輝きあるものにしている。「スワロウテイル」よりこっちの方が力が抜けているようだ。
 
浅野忠信は後にはもっと強さが表に出てくる演技が多くなったが、ここではナイーブ。
 
そしてREMEDIOSの音楽が、映像と展開に寄り添って、場面の雰囲気を少し強調する加減がいい。
 
ある解説によれば、この映画は94年に製作されたが、日本版が出来て公開されるまでに、暴力シーンなど大幅にカットされたそうである。終盤の台詞から、それがどんなものだったか少しは想像出来るが、このあまりない長さの映画になってしまったとはいえ、それでよかったのではないだろうか。
 
この映画がきっかけでCharaと浅野は結婚し子供もいることは知っているが、なかなか興味深い出会いである。

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スワロウテイル

2006-11-05 12:38:46 | 映画

「スワロウテイル」(SWALLOWTAIL BUTTERFLY) (1996、149分)
監督・脚本: 岩井俊二、撮影: 篠田昇、音楽: 小林武史、助監督: 行定勲
三上博史、CHARA、伊藤歩、江口洋介、アンディ・ホイ、渡部篤郎、桃井かおり、山口智子、大塚寧々、ミッキー・カーチス
 
日本円が強かったある時期、円を稼ぐために外国人(多くは不法入国)が集まったある地区はイエン・タウンと呼ばれ、その人達もイエン・タウンと呼ばれた。という想定で、そこでクラブを持ち一旗あげようとするフェイホン(三上)、男相手の商売から歌手になったグリコ(CHARA)、偽札つくり、麻薬、やくざ、、、そういう要素を全部詰め込み、昔のどこかアジアの租界のようなところで話が展開する。 
 
いまさらと最初はちょっとなじめなかったが、クラブを作ることになるあたりから、これは岩井俊二が面白いと思うことをやりたい映画だということはわかってくる。
この変化の最初でCHARAが歌う「マイ・ウェイ」はすごい、特に繰り返しからのデフォルメが。
 
「マイ・ウェイ」のカセットに、偽札つくりに必要なデータが隠されているというとんでもない設定があるのは笑える。
 
全体に長いのだが、話と映像のテンポ、ここでも篠田のカメラで、だれた感じはない。
 
そして、グリコが拾った日本生まれという少女アゲハ(伊藤歩)が全体を引き締め、「聖なるもの」ともいうべき存在を示す。また彼女の視点は映画を見るものの視点でもある。伊藤歩の周囲を圧する静けさがいい。
最後の場面は、演出がちょっと甘いかなとは思うのだが。
 
岩井俊二という人は、「リリイ・シュシュのすべて」でもそうだが、どこか女性、特に少女の視点、その扱いで、やりきれないストーリーにアクセントをつける、救いを求めるところがある。リリイでは蒼井優、それに加えて空を飛ぶ凧であろうか。
 
篠田昇はもうここで、汚い街をバックにしても、映画の娯楽性という点からは問題ない映像を作り上げるという手法をつかんだのであろう。
 
アワロウテイルは映画の中でも語られているように、その形状から(キ)アゲハのこと。


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高間筆子の絵

2006-11-04 12:06:25 | 美術
高間筆子館というとても小さい美術館が井の頭線明大前のKID AILACK ART HALLというビルの5階にある。
「気まぐれ美術館」(洲之内徹)を再読していて、最初に読んだときには気に留めていなかったが、ネットで調べてこの館を知り、行ってみた。
 
高間筆子(たかまふでこ)(1900-1922)が絵を描いたのは死の前2年間であるが、その翌年、関東大震災で全ての絵は消失してしまった。従って、この館で見られるものは、死後出版され「高間筆子誌画集」にある色刷りから作ったスライドの繰り返し上映と、詩歌、当時の新聞などの資料のみである。
 
描かれているのは、自画像、静物、都内の風景などで、鮮やかな色と大胆な筆使いは、確かに言われているようにフォーブ風であり、ドイツ表現派を思わせる。影響を受けたものの真似はあるかも知れないが、自分の描きたいという衝動に正直であろうことはわかる。
 
詩も、もう少し磨き上げる時間がほしいと思わせるが、どうしても出てきてしまうという人がこの世にはいるのだ、と思わざるを得ない。 
 
彼女は、最後の年、スペイン風邪にかかり、精神に異常を来たしたのか自宅の二階から飛び降りて死んだ、と伝えられる。
 
ところで、彼女がかくも語り継がれるているのは、まず詩画集が残っていること、そして詩人の草野新平が絶賛したこと、「気まぐれ美術館」に書かれたことである。
そして1979年6月17日、NHK教育TV「日曜美術館」において草野新平の解説で取り上げられた。この時のガリ版による放送台本もここに展示されている。
 
さらに最近では2004年4月24日、テレビ東京「美の巨人たち」で取り上げられた。ネット上で、その概要と絵のいくつかを見ることが出来る。
 
両方とも見ていないが、一度見てみたいものである。NHKの方は1981年以前だから、録画が残っているかどうかはわからない。
 
ところでこの「美の巨人たち」が放送される前、彼女の出身校である東京女学館はそのホームページでこれを卒業生・在校生に伝えたようだ。こうして記憶を残していくのは意味あることである。

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虹の女神 (Rainbow Song)

2006-11-03 13:01:31 | 映画
「虹の女神」(Rainbow Song)(2006、117分)
監督: 熊沢尚人、製作: 岩井俊二、脚本: 桜井亜美、撮影: 角田真一
市原隼人、上野樹里、蒼井優、酒井若菜、相田翔子、鈴木亜美、田島令子、尾上寛之、小日向文世、佐々木蔵之介
 
岩井俊二が初めて製作のみというが、全体に岩井ファミリーが多く、そういう雰囲気は残っている。
しかし熊沢のタッチはよりやわらかく、気持ちいい。その分岩井の何か引っかかる、あとから何だったんだあれ、というところは少ない。
 
このところの若者の世界を描いた映画によくある、直接の接触で理解しあうことが出来ない、しかしだからといって観念的に、悲劇的にいってしまうのではなく、思い出の中では解決されていく、といった流れだろうか。
主人公に近い世代であれば、細部にもっと感情移入できるだろう。もっとも最後の場面で市原が見る過去の手紙、これには引き込まれる。
 
大学時代に映画サークルでいっしょだった上野と市原、映画はアメリカへ映像修行に行った上野が飛行機事故で死んだという知らせで始まり、そして出会いにさかのぼり、また現在までを、題名つきのいくつかの章構成で描いていく。これは映画だということを強調したような形。
 
男は(一般にそうだが)優柔不断でぎこちない、だからその自信の無さが市原の、前のめりにとりあえず何かをしゃべってしまうという演技でうまく強調されている。
一方の上野はそれを一度受けてかわしてしまうから、そのあと正直に言えないという形で受ける。本当に彼女はいくつものスタイルを映画に応じて出せるんだなと感心する。
 
そして上野の妹、この目が不自由な子を蒼井優が演じる。脚本でもこの妹は要所要所で二人をつなぐキーになる役で、事故の後現地へ飛ぶときのわがままな振る舞いから見せていくが、最後の遺品を前にしたところは、さすがである。もっとも、このところの活躍からどうしても集中してみてしまうので、少し立派過ぎるかなとも感じてしまう。難しいものである。
 
最後に葬儀の日にもどり、大学のサークルで撮った映画のフィルムが見つかり、それがこの映画の中で画面いっぱい上映される。
生きているときには、思いは伝わらなかったが、この映画というものに、それは実っているとでもいうように。
 
これは、映画の、映画を作ることに対するオマージュでもあろう。
 
朝のワイドショーでこれが紹介されたとき、岩井俊二はインタビューにこたえ、この中で上野がフィルムにこだわり8mmカメラで撮った、という設定には、岩井がずっとコンビを組んだカメラマン故篠田昇のことが頭にあり、上野、市原、蒼井にそのことを話したと、語っていた。

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