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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

月と六ペンス(サマセット・モーム)

2022-04-18 10:04:30 | 本と雑誌
月と六ペンス (THE MOON AND SIXPENCE )
サマセット・モーム著 金原瑞人 訳  新潮文庫
 
著者(1874-1965)が1919年に発表したもの。以前に読んでいたと感じていたが、調べたら2009年5月に新訳(岩波文庫)が出たから読んでみようと再読したことがわかった。三回;読むのはこういう長編では珍しい。
今回も新訳ということと最近新潮文庫の新訳、改版では文字が大きく読みやすいということがあった。
 
全体の印象は前回とそう変わらない。ゴーギャンの突然の変身とその後の生涯を題材にしているが、この画家をそう忠実になぞっているわけではない。それは書き方が「わたし」という作者を想像させる作家による体験というかたちであることと関係があるようだ。
 
この「一人称」ということは、前回のかなり後に「批評理論入門」を読んでからより意識して、今回受けとれた。
ゴーギャンとゆかりの人たちに取材して物語を書き上げるのであれば、「三人称」でも書けないことはない。
 
この作品では画家の名前以外にも、ゴーギャンとは違うところも多いが、それはまた書く側に引き付けて内容を積み上げていったのだろう。
 
つまり本作はゴーギャンのような芸術家、人生を見ている、想像している「わたし」(作者)について書いているという面も相当部分ある。芸術家の生き方をつきつめていくとこうなるのか、「わたし」はそれを感じ取り、理解し、しかしそうは生きられない「わたし」を認識しているようだ。
「批評理論入門」を読んでこういう読み方に至ったことはよかったと思う。
 


アガサ・クリスティー「ナイルに死す」

2022-02-26 14:18:13 | 本と雑誌
ナイルに死す( DEATH ON THE NILE )
アガサ・クリスティー   黒原敏行 訳  ハヤカワ文庫
ポアロシリーズの中でも有名で評価も高い数編の一つで、「オリエント急行殺人事件」と並ぶ中東旅行を舞台にしたもの、これは客船内で起こる事件を題材にしている。
 
親の膨大な財産を受け継いだ20歳の美貌の娘が結婚、新婚旅行にエジプトのナイル川クルーズに出かける。ポアロはこれに遭遇、同乗者にはヴァラエティーに富んだ人たちがいて、何人かはどうも全くの他人とは言えないらしい。
 
主人公の娘に恋人を紹介したら取られてしまった女性がしつこく追いかけてきて乗船していて、そこから騒ぎが起こっていくが、多くの登場人物が丁寧に描かれている。彼らの性格は、他の作品でも同様だが、私からすると嫌いなもので、犯罪を犯してしまうのもわかってしまえばなるほどという人たちである。後味からするとちょっとというところなのだが、これが作者の観察眼、人間観なのだろうか。
 
クリスティー作品の中でも一番の長編らしく、読み始めるときはどうかなと思ったのだが、それが杞憂であったのは今回の優れた新訳による。ミステリの翻訳でこれほどのものはないような気がする。新訳ということもありフォントが大きいのもありがたい。
 
これは1970年代に映画化され評価が高かったようだが、最近再度映画化されたようだ。オリエント急行殺人事件の再映画化と同様にケネス・プラナーがポアロらしく、私からするとちょっと心配。
 
しばらく前にTVドラマのシリーズで本作が取り上げられ、シリーズ後期の映画とほぼ同じ時間をかけた丁寧な作りで見たところだから、結末は知っていたのだが、今回はむしろそれまでの経緯を落ち着いて読むことができた。


海からの贈物 ( アン・モロウ・リンドバーグ)

2022-02-03 14:28:30 | 本と雑誌
海からの贈物( GIFT FROM THE SEA ) :アン・モロウ・リンドバーグ 著
                     吉田健一 訳  新潮文庫
 
こういうタイトルの本があるということは知っていた。著者(1906-2001)の夫は史上初の大西洋単独横断飛行に成功した飛行家で、自身飛行家でもある。
 
1955年に出版されたこの小冊子は一見変わった内容である。ある一夏、夫と子供たちからしばし離れ、小さな島の家ですごし、浜辺で手に入れたいくつかの貝殻を観察し、そこに自身の立ち位置、生き方をかさね、思索し、発見したことがらからなっている。
 
他人との一致、ちがい、しばし一人になることの重要性、つまり世間の、家庭の雑事にかこまれそれらを真摯にこなしていくことは大事であるが、それだけでいいかというところから始まっている。
 
今なら女性としての生活基盤についてはちがう見方、書き方もあるだろうが、当時もうかなり進んだアメリカにおいて、身の回りそして社会に対して、きわめて地に足がついた思索がここにはあって、それが読み応えあるものになっている。
 
言葉のつらなり、進め方は必ずしもわかりやすいとは言えないが、ロングセラーになっているのもなるほどである。
 
存在を知っているだけだった本書を読んでみようと思ったのは、このところ再びいくつか読んでいる須賀敦子が「遠い朝の本たち」で取り上げていたからである。ちょっと意外な感じがしたが。
 
そして訳がなんと吉田健一である。どういう経緯でこの人が訳することになったのか、不思議なのだが、考えてみると、著者はアメリカ人でそうラディカルではないにしろプロテスタントらしいが、頭の中で考えたことをすぐにストレートに主張するいう感じではない。
英国的かどうかわからないが、おそらく足が地についた経験主義的なトーンはあるようだ。文化や思想というより文明ということであれば、あいまいな言い方だが吉田健一のイメージに合いそうな気がする。
 
ついでにもうひとつ。リンドバーグ一家の子供の一人は誘拐殺害されるという悲劇に見舞われた。アガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」はこの事件が話の始まりになっており、このところ原作、二度にわたる映画化、TVドラマと続いたあとで、この人の一家だったかと感慨があった。
 


庄野潤三 「夕べの雲」

2022-01-21 14:40:28 | 本と雑誌
夕べの雲: 庄野潤三 著 講談社文芸文庫
初出は1964~65、日本経済新聞夕刊
 
庄野潤三(1921-2009)について、いくつかの作品名は知っていたが、読むのはこれがはじめてである。「夕べの雲」は作者がある程度実績を重ねてから発表したもので、評判もよく何か賞をとったと記憶している。
 
おそらく著者の身辺に近い世界を描いたものだろう。私小説といってよいのかどうかは置いておくが。
 
小田急線が多摩川をわたって川崎市に少し入っていったあたり生田の高台に家を建て、住むことになった中年の男、いつも家にいて自身何をしているのか書かれていないが、おそらく作者自身だろう。妻と中学生の女子、小学生とその前の男子が家族で、季節のうつろいのなかで子供たちの通学、家庭生活、周囲の自然とのつきあいが描かれていく。妻が「細君」とかかれているのはこの時代らしい。
 
おそらく書いている人の職業は作家であり、書いた作品が今読んでいる小説なのだろう。
多くは子供たちの動きと変化に関する発見で、読んでいるこちらもなるほどと思ったり、ほほえましく感じる。しかし、小説に勝手に求めるところからすると、新聞小説として毎日少し読む以上とは思えないのだが。
 
もっとも第三の新人の一人とされた作者、その世代からすると、戦中の、そして戦後しばらくの経験を経た人としては、貴重なもの、見え方だったのかもしれない。作者の子供世代にあたる私としてはそう考えるしかない。
 
この作品、たしか江藤淳が文芸時評(朝日)か「成熟と喪失」でだったか、高く評価して、人生の暗さへの洞察に支えられた明るさ(人生への肯定感)を指摘したと記憶している。
そう構えて読めば、そう読めないこともないかもしれない。
 
作者の著作をそれも「夕べの雲」を手にとったのはこのところいくつかまた読んでいる須賀敦子からである。意外にもこの「夕べの雲」は須賀がイタリア語に翻訳していて、そういうなりゆきからか、彼女は生田を訪れたこともあったようだ。
 
イタリア人の生活のおそらく根底にある生の肯定感、それは表面的な現れ方は異なれど通じるところがあるのかもしれない。
勝手な想像だが。


チェーホフ短篇集

2021-12-31 09:50:49 | 本と雑誌
新訳 チェーホフ短篇集
アントン・チェーホフ 沼野光義 訳  集英社
何十年ぶりかのチェーホフである。最近読む長いものはミステリが多くなってきたが、短編もいいかそれも一度読んだものでもと、ヘミングウェイに行く前にチェーホフを思い出した。
 
手元に文庫本?と探してみたがいつの間にか処分したらしく、それではどこかで神西清訳でもと探したが、案外売ってなかった。ところが単行本でこの新訳があることを知り、それではというわけである。
所収の13篇の多くはこれまでに読んだか題名を知っているものだが、その題名もちょっと新しくなったものもある。
 
何より本として珍しいのは、一編ごとに詳細な解説がついていることで作者の細かい意図や、雑誌掲載と刊行本との大きい異動があるものなど、興味深い。ただこれは、今回の私のように再読ならいいが最初から読むとどうだろうか。それは訳者も指摘してはいる。
 
こうして読んでみると、チェーホフの作品、ロシアの市井、農村などの庶民への優しい視線とその底にある残酷、それらを一つ一つの作品としてまとめた腕、これらにはあらためて感ずるところが多かった。そして小説として、対社会として、訳者もいうようにかなりシュールで、それは以前読んだ時の「ふさぎの虫」の感覚を超えるものがある。
少し長めの中編「奥さんは子犬を連れて」(通常は「犬を連れた奥さん」)など、最後は読者にまかせているのだろうが、私の解釈ではかなりこわい。
 
さてここから少し個人的な話
「いたずら」(これまで「たわむれ」と訳されてきた)という作品、若い男女がそり滑りで遊んでいて、滑るたびに男が隣で「好きだよ」というのだが、女の子はそれが彼なのか風の音なのかわからない。何度やっても同じだった。この結末は雑誌掲載と刊行本とでまったく違っていて、本書では併記されている。
 
その結末はともかく、これを読んでいて他の短編とは違う記憶の感覚がした。そしてしばらくして思い出したのだが、実はこれ最初に読んだのはロシア語原文だった。
大学は理科系に進学したのだが、教養課程の第二外国語、ドイツ語が多かったが、理系ならロシア語やっておくと何かと役に立つのでは、となんとなく考えこれをとった。それなりの人数いたと思う。ソビエトは嫌いだったが、ロシアの文学、芸術は好きだったし。
 
当時の外国語授業は乱暴なもので、ロシア語もあの変わった文字と初級文法をさっとやったら、あとは文章、ほとんどの単語に対して辞書をひきながら読む。単位を取るためには必死である。
 
そのテキストがこの「いたずら」だった。ロシア語は専門課程に行ってから目にする機会はなくなり、このテキストのことも頭にうかぶことはなかった。そころが半世紀あまりを経てこういうかたちでよみがえったというのは不思議というよりなにかうれしい。
 
教わったのは池田健太郎先生(たしか助教授)で、雑談も面白く、理科系の生徒だからか、あまり勉強ばかりしないで遊びなさいとよく言っていた。何人かでお宅にうかがってごちそうしていただいたこともある。後に中央公論社「世界の文学」で翻訳を担当されたドストエフスキーの「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」を読ませていただいた。やはり新世代の訳だったと思う。
チェーホフについても師事していた神西清氏と一緒に優れた仕事をされたが、残念なことに未だ若くして急逝された。

それでは第一外国語の英語はというと、記憶にあるのが小田島雄志さん(助教授)で、後にシェイクスピアで有名になる前、演劇に熱心(これは池田さんもそうだった)で、使ったテキストがアイリス・マードックのたしか「切られた首」、ここで出会わなければ彼女の名前さえしらずに終わったかもしれない。かなり刺激的な授業だったと記憶している。
 
専門課程に行ってからまじめに勉強しなかったせいか、大学で教わったことはほとんど覚えていない。授業風景としては上記の二つくらいだが、思い返すと幸せな体験だった。