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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

宮本直美「ミュージカルの歴史」

2022-08-19 10:06:53 | 本と雑誌
ミュージカルの歴史(なぜ突然歌いだすのか):宮本直美 著(中公新書)
 
ミュージカルというものはおそらくオペラから派生し、より大衆的な人気を得てきたものであろうとこれまで理解してきたが、それが間違いではないにしろ、その具体的な進展にはそれほど気をとめていなかった。
 
本書は19世紀後半からオペレッタ、ミュージックホール、レヴューなどを経て今ミュージカルと認識できる形態になってくるプロセスと、特に音楽に絞れば、ミュージカルに固有の歌というポジションばかりでなく、切り出して歌われ、またラジオや録音、レコードがない時代、楽譜ピースとして売られ、その売り上げがヒットの目安という時代など、音楽の形態、その後の劇場でのマイク、拡声技術の発達で、オペラ、オペレッタなどと違って歌い手の成り立ちも変わってきた、など納得することが多かった。
 
特に楽譜ピースの中心地としてのニューヨーク ティンパンアレーについては1950年代~60年代のポップスシーン、バート・バカラックやキャロル・キング、ポー・サイモンなど作り手に関連してよく出てくる名前だったから、その成り立ち、繁栄など、なるほどであった。
 
これまであまり意識してこなかったことでは、「ヘアー」、「ジーザス・クライスト・スーパースター」あたりから音楽もロックが多くなり、シンガーの成り立ちからマイク、PAが重視され、その技術も発達した、というのは確かにそうだろう。
 
実際に劇場で観たことはそんなにないのだが、その後の「キャッツ」、「ミス・サイゴン」なども歌手というよりは歌がうまい俳優が演じているようにいつのまにかなっていた。
 
副題については、オペラのレシタティーヴォなどからして、もともとそう違和感は持っていなかったから、その解明についてはあまり納得感はない。
 
ついでに言えば、台詞がまったくない「シェルブールの雨傘」(映画だけど)は違和感なく入っていってこのミシェル・ルグランの傑作を堪能したのだけれど。
 
最後に、本書は力作だが、もっと図にまとめた方がよかったのではないか。大ざっぱなものは17頁にあるが、ここで分析したいくつかの要素が入った大きく詳細なものがほしい。
 
それに同じようなことを繰り返し書いていることが多いというか多すぎる。読んでいるとくどくて疲れるが、逆に何度も出てくるから頭に残るという皮肉なところもある。
 
これは編集者の腕でどうにかなったともいえるだろう。どうも最近の出版界、編集、校閲のレバルが落ちてきているようで、残念である。

廣野由美子「小説読解入門」

2022-07-28 15:57:04 | 本と雑誌
小説読解入門 『ミドルマーチ』教養講義
廣野由美子 著  中公新書
 
しばらく前にこの著者の「批評理論入門」をたいへん興味深く読み、その題材となっている「フランケンシュタイン」(メアリー・シェリー)をよく理解し楽しむことができたように思う。
 
これは物語の人称、語り、手記、手紙などの構造から、作品のいろいろな面を解明していくといった手法で、なるほどと思わせるところがあり、その後他の物語を読むときにも多少意識するようになった。
 
本書はさらに小説の技法として語り手、会話、手紙から意識の流れ、ミステリー、サスペンスなどいろんな面について、また宗教、経済、社会、政治、犯罪、芸術などなど作品のなかにある、また作者が意識した要素についてみていくことについて、講じられている。
 
ここで題材として採用されたのはジョージ・エリオット(1819-80)の「ミドルマーチ」というかなりの長編である。作者名はペンネームで実は女性、ほぼ同時代のイギリスの地方都市(ミドルマーチという仮名)においてある女性を中心にさまざまな人々の人間模様が描かれている。
 
この講義の題材としては適当だったようだし、本国では評価も高いらしい。ただし、前著にくらべると話の中身と様々なカテゴリということだから、なるほどという以上にこの作品以外にも広がっていく視点として興味がわいてくるというほどではない。
 
「ミドルマーチ」は読んでいないが、こうして解説されてみて、先の「フランケンシュタイン」のように読むかというと、たぶんそうはならないだろう。イギリスで連続TVドラマが作られたそうで、それは観てみたい。
 
エリオットはあの1800年代初めのイギリスに輩出した優れた女性作家たち、ブロンテ姉妹、メアリー・シェリー、ジェイン・オースティンなどの作品と比べると、地味というか小説としての面白さを追求したという部分が少ないように思う(この本からの推察だが)。それは価値を減ずるものではないにしても。
 
そういうことを考えさせてくれたということで、本書を読んだ意味はあるかもしれない。


庄野潤三「プールサイド小景・静物」

2022-06-08 15:17:31 | 本と雑誌
プールサイド小景・静物: 庄野潤三 著 (新潮文庫)
昭和25年(1950)~35年(1960)の間に書かれた代表的な七つの中短編を収めたものである。
特に評価できないものについて書くのは気が進まないのだが、この作者の長編「夕べの雲」(1965~1,965)について書いた流れでこれを読んだので、一応記しておく。
 
勤め人の家庭を中心に描かれていて、特に「蟹」、「静物」では後の「夕べの雲」に通じるエピソードのいくつかが見られる。
読んでいて参ったのはまず「舞踏」、「プールサイド小景」で描かれる家庭、というよりその主人公の行動と内面の貧乏くささとでもいったらいいだろうか。こういうこと書かれても、でどうなの?、妻以外の女性との話もあるのだが、たいしたこととは読み取れない。死を暗示するラストもあるが、描ききっていないことが効果的な場合があるにしても、ここではそうでない。
 
著者はいわゆる「第三の新人」の一人らしいが、たしかに江藤淳などが評価したように戦後派の何人かの有力作家たちの前のめりな作風とは違ったところが幾分ある。私もその前のめり感は嫌いである。
それでも、それならこの貧乏くさくもあれ、穏やかでもあれ、こういう感じで作品として読んで何か残るものがあるかというと、そうはならない。
 
それから、文章の細かいところに違和感があるところが少なからずあった。前後がわかりにくかったところのほか、表記として「居る」、「行く」など生き物の動きでない場合でも漢字を使うのであるが、あの時代そうなのか。
これら、編集・校正のレベルが低い出版社ではないはずだが。
 
「プールサイド小景」は昭和29年(1954)に芥川賞を受賞している。変な言い方だし、ずいぶん前のことでいろいろ経緯はあるだろうが、これでは太宰治が気の毒である。少なくとも太宰の文章は格段に上等であった。




山本周五郎「日本婦道記」

2022-05-27 10:07:15 | 本と雑誌
日本婦道記: 山本周五郎 著 (新潮文庫)
 
このタイトルだと手に取るのはためらわれる感じであるが、著者の作品の中でかなり重要な位置をしめるという指摘もあったような気がして、読んでみた。
昭和17年(1942) 6月から昭和21年(1946年) 1月まで「婦人倶楽部」を主要掲載誌として発表された。全31篇、そのうち11篇は著者遷で昭和33年に新調文庫に入ったが、平成30年に同文庫にすべてが所収だれた。一遍平均20頁、今回こうして読んでみると31篇かなりの量になる。
 
山本周五郎(1903-1967)の作品はかなり歳がいってから少しずつ読んでいて、古くはないが現在ではなかなか読む機会がないよき日本語がこころよい刺激になっている。
 
話の多くは武家の女性の話で、戦国時代、江戸時代それも平静な時期以外に、島原の乱つまり戦国以降最後の戦争、尊王攘夷の時期、そしてわずかに大戦中のものからなっている。
 
話の種になるものがどこまで実在するのかはわからないが、注を見ると実在する武家があることも多いようで、自然な背景になっているようだ。
 
タイトルにあるように日本の女性はこうであった、こうあるべきという一見して「婦道」の物語が多く、中編映画の題材になりそうなものもかなりある。
男性読者として複雑なところもあるのだが、注意して読んでいくと、各々の女性の考え、生き方は、そこに出てくる男性が理解するところまで描いていることが多く、その中には秀逸なものが少なくない。
まさに戦時中であり、もっと単純でも受け入れられたかもしれないが、一方的な書き方はしていない。

山本ほどの作者であれば、この大戦真っ只中に単に戦意高揚、銃後の心得に通じるものをただ書くのはこなすのは難しいことではなかっただろうが、それで納得できるわけではなかったにちがいない。
 
谷崎潤一郎の「細雪」のように、女性の主人公が実は男性の作者の化身になっていて、当局の批判を巧みにかわす、というところまではいかないが、描いている女性への理解は確かなものになっている。
 
31篇もあると、私が言うのは不遜だが出来のよくないものもある。ちょっとぐっと来たのは最初の方の「松の花」、「梅咲きぬ」。
また別の意味で好みなのは、時間が経って女と男が再びめぐりあう「墨丸」、「小指」。あの「伊勢物語」にちょっと通じるところもあって。
 

嵐が丘「映画」

2022-04-22 09:28:21 | 本と雑誌
嵐が丘
(Wuthering Hights、1939米、103分、モノクロ)
監督:ウィリアム・ワイラー、原作:エミリー・ブロンテ、音楽:アルフレッド・ニューマン
マール・オベロン(キャサリン)、ローレンス・オリヴィエ(ヒースクリフ)、デヴィッド・ニ―ヴン(エドガー)、ジェラルディン・フィッツジェラルド(イザベラ)、フローラ・ロブスン(エレン)
 
前にこの「嵐が丘」の原作について書いたように、私にとってこれは謎が多くわかりにくい物語である。そしてそれは見ていないかもしれないがこの映画が話題にされた時の部分的なイメージによるものもおそらく多い。
今回しっかり見てみて、これは初めてだとわかった。ずいぶん古い映画でモノクロ、そしてイメージしたとおり話は最初の世代で終わっていて、キャサリンにもイザベラにも子供はいない状態で終わってしまう。
 
これは当時の映画、2時間以内では難しかったのだろう。それでも一つの世代だからからか、男と女の驚くべき愛憎というか、ドラマが集約され、ワイラーの解釈とはいえ、少しは理解と、そうかもしれないというものが、残った。
 
相手に対する愛といっても、普通の好き嫌いというレベルでは満足せず、お互い相手を貶める、傷つける、そこまでいって、その結果、その後、そうなったことに対し、相手により思いをよせる、またそうなるようにしむけてしまう、そういう関係、世界なのだろうか。
 
作者としては、それは心の領域から魂の領域への飛躍というものなのだろうか。
ヒースクリフがオリヴィエというのはびっくりしたが、まだ若いころで不思議はない。ただ、もう少し怖いところを秘めていれば、とも感じた。
 
オベロンのイザベラ、こういう配役でいいのだろう。あまり演技巧者でも合わないし。
さて、原作全体を映画化するとどうなるのだろう。
 
ここで思い出したのは先にアップした「月と六ペンス」(サマセット・モーム)で、画家ゴーギャンをイメージさせる主人公がいう「女は自分を傷つけた男なら許せる。だが、自分のために犠牲を払った男は決して許せない」。
「嵐が丘」では女と男を逆転させても、どちらでもと暗示しているのだろうか。