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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

エマニュエル・トッド「老人支配国家 日本の危機」

2021-12-08 14:54:59 | 本と雑誌
老人支配国家 日本の危機 : エマニュエル・トッド 著  2021年11月 文春新書
  
数年前からトッドが書くものを注目し、何冊か読んできた。幼児死亡率からソ連の崩壊を予言した人口学者として有名で、例の2015年「シャルリ・エブド」(パリ)の襲撃事件を受けてフランス各地に起きた動きに関する論説は他にないユニークなものであった。
 
本書はその後文藝春秋に何度か書かれたものを集めたものだが、こんなに書かれていたとは知らなかった。例えば、トランプが当選するまえ、当選を予言するところまではいっていないが、多くの支持を集めている背景を説得力ある形で説いている。すなわち日本にはあまり入ってこない白人中下層の意識であって、高学歴リベラルのインテリや新聞などの視点からは抜け落ちている層である。
 
結果としてそれは当たっており、トランプは次の選挙で敗れたが、問題は変わっていない。
そのほか、人口と家族構造から多くを説き起こしていて、仮設にとどまっているかと本人も行っているケースもあるけれども、まただからどうせよとすぐにはならないにしても、今日世界に起きている難題を落ち着いて理解する助けになる。
 
おりからアメリカ(民主党)が世界に民主主義、人権をアピールしているけれども、独裁主義とはいわないまでも「権威主義」(最近こういうことが多い)の支配国数の方が多い現代であり、中にはなんとか治まって人民が生きていけている国もあるということを、どう考え、国際政治のなかで動いていったらいいのか、しばらく見ていく必要はあるのだろう。
 
またこの中には、よく見ている「英雄たちの選択」(NHK BSP) の磯田道史との対談もあり、思考実験として面白い。
 
一つ一つの指摘についてどうかということは、ここでは置いておく。


須賀敦子「遠い朝の本たち」

2021-11-21 16:50:03 | 本と雑誌
遠い朝の本たち :須賀敦子 著  ちくま文庫
 
このところまた須賀敦子に関するものが続いている。この本は「須賀敦子の方へ」(松山巖)で知ったもので、1998年彼女が亡くなった年に刊行された。
遠いとは、幼少期から大学あたりまでを指すのだろう。
 
彼女より後の世代から見ると、あまり身の回りで見なかった、また今となっては手に入りにくいものも多い。ただそこは内容に関し最小限の紹介はされていて、そこで得た残ったものとその後のもものとのつながりがうまく書かれている。
 
そして、この人にしてはめずらしくセンチメンタルなふりかえりが感じられるのは、この小冊子の読みがいというものだろう。
 
その一方で、著者の存在と生き方に興味を持ち続けていたものとしては、読んでしまったけれどそうでなくてもよかったかなと、自分にたいして余計なおせっかいの念も起ってくる。
 
須賀が生まれたのは関西のかなりいい家ということは想像していたし、上記の松山の本からも知っていたけれど、本書を読むと相当裕福な環境だったな、と思われる。それがどうということはなく、書いたものがすべてなのだが。
 
もっともそうであってもこのような読書と学んだ環境から時代とその時の問題に対して真摯な思索がされたことは確かだ。前にも書いたと思うが、そうなると、恵まれた環境だけに逆に対宗教にしても対社会にしても、より極端になりがちだが、彼女はそこで一つ一つ立ち止まり考え直しで進んでいった。そこが著作から感じるいい疲労感で、アルベール・カミュ流にいえば「反抗」ということなのだろうか。
 
ところで、この文庫をはじめいくつかの著書のカバーには船越桂の作品が使われている。なぜかと思っていたが、本書の解説を書いている末森千枝子(編集者?)の弟が船越桂で、本を通じてのつながりのようだ。二人の父は船越保武(彫刻家)でカトリック、そこのつながりはわからないが、保武の彫刻は、それなりによく見ている私からすると、カトリックであっても近づきがたいものではない。須賀にも通じているだろうか。
 
「本たち」は幼い少女が夢中になるものからプルターク、鴎外、リンドバーグ、サン=テクジュベリ、、、ときて、最後が上田敏の訳詩集というのはおもしろい。


須賀敦子「地図のない道」

2021-10-31 16:34:35 | 本と雑誌
地図のない道 :須賀敦子 著  新潮文庫
先日の松山巖「須賀敦子の方へ」を読んでいて、後ろにあった文庫広告で本書を見つけた。
二つの短い連載をまとめたもので、刊行は亡くなった後である。
 
著者と縁が深いヴェネツィアを訪ね歩いた時のもので、その際頭の中にあったのは一つ目がユダヤ人のゲット(最後は伸ばさない表記になっている)、二つ目は病院というか収容施設である。
 
ゲットの方は、彼女の仕事、そして案内してくれた人とその素性およびそのふるまい方から、さまざまに感じ考えたもの。この問題のありかたは人それぞれに多様であって、そこに須賀の思いがあるとともに、そういう観察に感心させられるところがある。
 
もう一つは、病院らしい表記とある絵に描かれている「高級娼婦」らしきものから話がはじまる。高級娼婦といっても後の時代のイメージと少し違って、上流階級でそれなりの技芸教養もある女性たち、日本でいえば光源氏の周囲にいた女性たち、と想定される。そこからさまざまな観察、論述が進めらて行く。
 
彼女の経歴などから見るとユダヤ人とその境遇に関しては、そこに入っていったのは不思議でない。しかしもう一つのテーマはその内容のかなり具体的な書き方とともにこれまで私が読んできた中では聖ばかりでなく俗な方へも目くばりがされた感じがある。それはむしろいい印象だったし、最後の着地はさすがにうまいものだった。
 
ところでひさしぶりに彼女の文章を読んで感じたのは、読点が多いなといういこと。最近いくつか読んだ谷崎潤一郎はまた読点が極端に少なく、これが近代日本の散文で普通だとは思はないが、読む上で困ることはなくよく流れてさすがである。
 
それに対して須賀の文章はかなりちがう調子になる。勝手な想像だが、イタリア語と日本語の間で双方向に翻訳を長い間やっていて、正確さを求めている中でこうなったのか、翻訳とは関係なく一つ一つの描写、考え方を確認しながらで、こうなったのだろうか。
 
もっともこういう姿勢は、社会に対しても、宗教に対しても、どっちかへあるいはより深い方へ飛び込まなかったということであって、それが私からすると読み続ける気持ちになる、ということだろうか。



松山 巖「須賀敦子の方へ」

2021-10-09 14:30:35 | 本と雑誌
須賀敦子の方へ :松山巖 著  新潮文庫
こういう本が出ているのは知らなかった。
 
須賀敦子(1929-1998)の著作が世に出たのは1990年あたりからで、いずれも評判になり、文庫化も早かったから、主要ないくつかは読んでいる。
  
イタリアを中心としたヨーロッパが背景にあって、地に足がついた知識、教養と、よく練られた文章で、読み応えがあった。
その一方で、そうだからこそだろうか、多少の疲労感が残った記憶がある。本書を読んで、幾分それがわかった気がする。
 
本書の著者は毎日新聞の書評委員の同僚として須賀と付き合いがあり、その後も彼女が亡くなるまでやりとりがあったようだ。
この本は須賀敦子について、;様々な角度から調べ、関係者から話をきき、彼女の生涯と作品の全貌を描き出しているが、評伝という感じではなく、著者が気になったいくつかの点を掘り下げていったという形である。一種のファンレターでもある。
 
それでも、須賀敦子が戦前ある程度上流の家に生まれ、多少の困難もあったが関西芦屋を中心に育ち、戦後は聖心女子大学の第一期となり、慶應の大学院からフランス留学、そしてイタリアという経緯はこれまでよりよくわかってきた。
 
そして本書を読んで、須賀が戦中の思い、カトリック左派との親和性、親友がカルメル会修道院に入ったことの衝撃など(これはあのプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」の会派である)ありながら、社会の運動、宗教の世界にのめりこむことはなく、考え、書くことで生き続けたことが、少し理解できたように思う。
 
少しちがえば、彼女が憧れたシモーヌ・ヴェイユのようになっていたかもしれない。あの時代でいえば、どちらかというとカミュとの類似を勝手に思うのだが。それが上記、読後の多少の疲労感につながるのかもしれない。
これからゆっくり再読してみようと思っている。
 
なお本書で残念なのは、文庫化されたときにでももう少し良い校正が入っていればもっと読みやすかったのかもしれない。新潮文庫としては今一つのところがいくつかあった。





谷崎潤一郎 「少将滋幹の母」

2021-09-16 09:33:07 | 本と雑誌
少将滋幹の母: 谷崎潤一郎 著  新潮文庫
 
昭和24年に書き上げてから新聞連載された多少長めの中編小説で、藤原氏栄華の平安一時期が舞台である。
まずは平中(へいちゅう)という色好みの男が登場する。文書にもある実在の人物のようで、在原業平ほどではないが、和歌も残っている。この人が左大臣藤原時平と色恋の話をする中で、平中から大納言國経の北の方(正妻)の話が出る。北の方は噂の美人、70代の国経とは50も歳のひらきがある。
 
時平はなんとかしてものにしたい。平中は以前北の方に言い寄って何かあったらしいのだが、時平のために一計を案じて宴を設け、衆人が観ている中で時平は北の方をさらっていってしまう。大納言は騒ぎ立てず一見平然としていたが、妻への愛着はやみがたい。
 
国経はそれから数年生きるが、時平もそのすぐ後に亡くなってしまう。北の方は在原氏の流れで、物語は在原業平、菅原道真の少し後、時平はじめその近親は道真のたたりで没したといわれたようだ。
 
国経には北の方との間に滋幹という男子がいて、この子が母をあまりよく知らずに育ち国経の晩年の姿を見、長じて出家した母の庵を訪ねるまでが後段である。
 
小説の書き方としては、多くをいにしえの物語を題材とし、一部創作をいれて物語るという形、今回は三人称で書いている。
 
平中が動き回る前段は和歌を介した男女のやりとりがかなりあって、これは「伊勢物語」、「堤中納言物語」などに通じる。ただ、平中というキャラクターからか、業平よりは下品とは言わないまでもえげつないところがある。
 
小説のタイトル、そして母恋というふれこみからすると、それは終盤だけという感じ、肩透かしの感もある。
老いた国経の幼き妻に対する変質的な愛玩、失った後の妄執など、作者後年の「鍵」、「瘋癲老人日記」に通じていて、納得するものがあった。
業平」を書いた高樹のぶ子はもちろん本作を読んでいるであろうが、トーンはかなりちがう。
 
なお、連載時の挿絵は小倉遊亀、この本にもいくつか載っているが、この時代にふさわしく、またこの人の絵に特有のエロティシズムがあって、みごとなものだったと想像される。